答えのない自問に苛まれて、心が雁字搦めになる。どれだけ球を放っても、バットを振るっても、ひたすらに走り込んでも、不確かなままの未来は見えない。足掻いているだけでは、望むものなど掴めやしない。

——あの日。
 自分たちが栄光を手にするのにあと一歩及ばなかった日。聖哉はベンチの中でやきもきしながら試合経過を見ていた。
 大林先輩はもう駄目だ。完全にあいつらに捕まった。あれだけボカスカ打たれて、心も折れているだろう。だからおれをマウンドに立たせろ。おれに任せろ。そうしたらこの流れを変えてやる。
 聖哉は心の中で、密かに闘志を燃やしていた。座っている膝の上で拳をぎゅっと握りしめて、自分の出番を渇望していた。

「鍵田」
 やがて名を呼ばれた。呼んだのは、自身も岸辺城島の選手として聖地へ行った経験があり、今や名高く『若き名将』と評価をものにしている、監督の須賀だった。
「はいっ!」
 ついに来たと、聖哉は確信した。
「交代だ」
——汚れ役。尻拭い。エース失墜の後始末を任された憐れな一年生投手。
 のちにそんな惹句を謳われて報じられた聖哉の公式戦初登板は、しかし、状況に左右されない安定したピッチングを見せつけ、チームの傷口をそれ以上拡げずに済ませることに成功した。決して派手に語られはしないが、あの状況の中において最も堅実な守備だった。

「自分がもうちょっと早く登板していたら、状況は変わったかもしれないとは、思わなかったのか?」
 それは試合後、応援に来てくれていた者たちから、異口同音に尋ねられた質問だった。聞かれるたびに、聖哉は笑いながら首を横に振った。チームとして一緒に闘った、先輩たちの立場を、大っぴらに踏みにじりたくなかったからだ。
 過ぎたことだ。今更監督の采配に異を唱えるつもりはない。だが、聖哉にも思うところはあった。あと少し監督の判断が早ければ。逆転される前に大林を降板させ、聖哉にバトンを渡していれば。いまとは違った試合結果を、手にしていたのではないか。
 いくら考えたところで、それは単なるたらればの仮定だ。ひいては監督の決断を早く導き出せなかった、聖哉自身の実力の問題だ。たとえば漫画の主人公のような圧倒的な才能があれば、岸辺城島という強豪校の中でも、早くに自分がエースとして君臨出来ていただろうから。

「お前さあ、ほんと、何やってんの? 目をつけられるほど居眠りをして、それで罰則? こんなこと、前代未聞なんだよ!! 分かってんのか鍵田ァ!!!」
 香芝に罰則を言い渡された次の日、部活に顔を出した聖哉は、いの一番に主将と監督に呼び出された。夏までは瓜野が務めていたその肩書きを継承したのは、魚住という二年の先輩だった。真面目で自分にも他人にも厳しい彼は、須賀が見ているにも関わらず、聖哉に向かって声を荒げた。
「はいっ! すみませんでした!」
 聖哉はひたすらに頭を垂れた。魚住の視線が全身を刺してくる心地がして、聖哉はぎゅっと目を瞑った。
「先輩方が引退して、新しい体制でチーム一丸となってやっていこうって気を引き締めた矢先なんだぞ。鍵田、とくにお前は来年に向けてエースとして育っていってもらわないといけない逸材だというのに……。一分一秒も無駄には出来ないんだ。お前の腑抜けた授業態度のせいで、ただでさえ限られた練習時間が減っていく。俺たちは別にいい。だけどな、鍵田、お前はそれでいいのか?」
 聖哉は顔を上げた。ぐっと後ずさりしてしまいそうなほどの魚住の視線に、心が貫かれる。
「俺はお前に期待しているんだ。と同時に、大切に思っている。だからきつく咎めることもある。それはお前に強くなってほしいからだ。……以上。練習に戻れ」
 ぺこりと頭を下げる。顔を上げて、もう一度目の前の二人を見据える。
「今回の件、皆さんにご迷惑をかけてすみませんでした! でもおれは絶対にいまのポジションを落としません。なにがなんでもしがみついて、来年はおれがエースとして、甲子園のマウンドに立ちます。そのためにもちゃんと反省して、罰則を受けてきます!」
 罰則を受けてくる……なんて、まるでそれを望んでいるみたいじゃないかと、聖哉は思った。だが、一度口に出してしまった言葉を、容易に訂正することは叶わない。

 寮監の香芝に呼び出しを喰らって、罰則の内容を言い渡され、初めてえにしに赴いたときから、もうすぐでひと月が経とうとしている。野球部員たちは、週二回の午後の練習に聖哉が不在となるのに慣れてきたようで、最初は憐れみの眼差しを向けていたが、最近では当日の朝練のときに「今日もちゃーんと行ってこいよ」とからかってくるようになった。
 えにしから帰ってくると、野呂が自主練に付き合ってくれる。申し訳ないと思いつつも、聖哉はその厚意に甘えている。仕送りで送られてくる小遣いをはたいて、飲み物を奢ってやることくらいしか、感謝の気持ちは伝えられないが、最近の聖哉は、練習終わりに二人で並んで飲み物を飲む時間が楽しみだった。
「ユーダイ! 今日もありがとうな!」
「相変わらず元気だな、お前は」
 聖哉から紙パックの牛乳を受け取って、野呂は笑った。
「そうか?」
 首にかけたタオルで、顔の汗を拭う。聖哉はオレンジジュースの封を開けて、ごくごくと喉に流し込んだ。
「なあ聖哉」
「んあ?」
 ふいに呼びかけられて、間抜けな声が出る。声を発した野呂のほうを見ると、まともに彼と目が合った。「もうすぐ終わりだよな、罰則」
「そのはずだ」
 そうでないと困る。いつかは終わることだから、なにも言わずに我慢してやってきたのだ。
「そっか。……またお前が野球に集中出来るようになったら、もっと差が出来ちまうんだろうな……」
「なに……言ってんだよ、ユーダイ。らしくねえぞ」
「ごめん聖哉。俺、めっちゃ卑怯な人間だわ」
 野呂は紙パックの側面についているストローを出し、飲み口に突き刺した。「お前が香芝に罰則を言い渡されて、なんかちょっと安心してた自分がいる」
「え? どういうことだよ」
「聖哉は入部したときから俺らの中では頭ひとつ抜けてたし、いまでもそうだろ。だから俺はお前に近づいたんだ。お前のそばにいれば、自分もでっかく見えるかもしれねえって。すげえやつの友達なんだぞって、他の奴らに言えるかもしれねえって思っていたんだ」
 親の七光りの、友達バージョンみたいなもんだよと、野呂は続けた。
「よくわかんねえけど、おれはそんなこと、気にしねえよ」
 野呂にとって最初はそのつもりだったとしても、彼はずっと自分と仲良くしてくれていた。そこに、いま彼が告白したような他意は感じられなかった。単に自分が鈍感なだけかもしれないが、野呂がどう思っていようと気にしないのは、本音だった。
「でも、おれが罰を受けて安心したって、どういうことだよ」
「お前も俺たちと同じような、等身大の高校生なんだなって思った。岸辺城島の野球部で、一年からベンチ入り出来るやつなんて、今年はお前だけだっただろ。だから俺たちとは違う、すげえ奴だって思ってた。でも、そんなお前も、俺たちみたいに、先生に目をつけられて怒られるんだなって思うと、なんかめちゃくちゃ可笑しくってな」
 くっくっと、声を潜めながら野呂は笑った。聖哉もつられて頬が緩む。普段、レギュラーメンバーの先輩たちに混じって練習をしているので、同じ部活だというのに、同級生との交流は少なくなる。仲が良い悪い以前に、そういう判断が出来るほど関わり合っていないのが実情だ。だから野呂のように、普段も親しくしてくれる友人は、聖哉にとっては貴重な存在だった。

 自主練を終えて、忙しなく風呂に入ったあと、野呂と別れた聖哉は、寮の部屋に戻った。
「おかえり、聖哉」
「おー、ただいま!」
 扉の一番近くの机で勉強をしていた怜央が、ニコニコと笑って迎えてくれた。遙佳も机に向かって読書をしていて、晃司はベッドに腰掛けてダンベルを上下に動かしていた。
 怜央は聖哉たちが想定したよりも早く打ち解けてきた。晃司と遙佳が『聖哉』と呼んでくるのに、怜央だけに『鍵田くん』と呼ばれるものだから、気分がむずむずしていたが、「そろそろ名前で呼んでくれよう!」とおどけてみせると、その直後から名前呼びを始めてくれた。もしかすると怜央は、きっかけを探していたのかもしれない。
「やっぱ凄いんやな、野球部は」
「んあ? どうしてだ?」
「毎日遅うまで練習しとるやろ。夏が終わったのに」
「言っとくけど、おれたちが出る大会は、甲子園だけじゃないぞ。秋季大会ってのがあって、勝ち進んだら十一月に東京でやる明治神宮大会に出場出来るかもしれねえんだ。三年生の先輩たちが引退したあと、おれたちは新しいチームでそれに挑むんだ」
「甲子園とちがって、あまり大々的に報道されないから、春と夏以外はなにもないって思われがちらしいぜ。オレも思ってた」
 晃司が足をぶらぶらさせながら話に入ってきた。水の入ったペットボトルを足根に挟んでいる。足トレのひとつのつもりだという。
「聖哉はその大会に出場するん?」
 元々甲子園球場がある県に住んでいた怜央は、電車一本で聖哉が行きたいと渇望している場所まで行けるらしい。単にその場所まで行くのと、そこで行われる大会に出場するのとでは、まったく意義も変わってくるが、聖哉はその話を聞いたとき、とても羨ましく思った。
「おれは……まだ先発じゃねえんだ」
 順当にいけば、夏までのエースだった大林に継ぐ投手として、背番号十を背負っていた聖哉は、新しいチームの要として受け入れられるはずだった。だが、今回の罰則を鑑みて須賀が選んだ采配は、聖哉の期待を大きく削ぐものだった。
「学生の本業は学業だ。今回の件は、部を纏める監督として、俺も重く受け止めている。先生方や、授業を真面目に受けている部員がいる手前、鍵田だけを特別扱いするわけにはいかないからな。けじめをつけるための処遇だ。きっちり反省して、いずれは岸辺城島というチームを背負う選手となってほしい」
 部において、監督の命令は絶対だった。しかも今回は完全に自分が悪いのだ。聖哉は素直に須賀の決定を受け入れた。
 それでもベンチから外されることはなかった。聖哉はその事実を知らないが、野呂を含む彼の同級生たちが、須賀や、魚住をはじめとする先輩たちに、それだけはやめてあげて欲しいと乞い願ったのだ。そこには普段聖哉と絡みの少ない部員もいた。同級生の華々しい活躍。そんな仰々しい表現で括られるだろう聖哉の躍進は、常に彼らの胸を高鳴らせた。——ただ純粋に応援していた。自分たちが力及ばずとも、目指しているものは同じのつもりだ。聖哉の才能に思いを託し、夢を手にするためにチーム一丸となって歩んでいく。そういうことを、彼らはごく当たり前のようにしていたかったのだ。
「でも、先発じゃなくてもベンチ入りはしとるんやろ? 僕、野球のことはよう分からへんけど、試合には出られるんとちゃうの」
 聖哉のユニフォームについている背番号は変わらない。裁縫が苦手だとごねた聖哉に代わって、晃司がつけてやった番号だ。
十番。聖哉にとってこの二桁の番号は、幼い頃からずっと付き合っているような、そんな因縁を感じられる数字だった。
高校野球では控えの投手がつけることの多い十番は、少年野球ではチームの主将を務める選手が、ポジションにかかわらず背負う番号だ。野球を始めた小学生のときから、持ち前の明朗さと選手としての堅実な素質を見込まれた聖哉の背中には、主将としての証が刻まれていた。
小学生のときはリトルシニアのチームに入っていたが、中学では学校の部活に入った。硬式と軟式のどちらも経験しておきたいと考えたからだ。本気で野球をやっていくつもりなら、シニアに在籍しているほうがいいと周りからは言われたが、聖哉はそう思わなかった。
「怜央ももっと早く転校してくれば、夏のコイツの活躍っぷりを観られたかもしれねえのに、勿体ないことしたな」
「えっ? 聖哉、そんなにすごかったん?」
 目を見張った怜央に、晃司がまるで自分のことのように得意げになって、聖哉の夏の武勇伝を話して聞かせた。自分が成し遂げたことを、誰かに嬉々として伝えられるのは、いつもちょっと恥ずかしい。聖哉は晃司の隣で彼の声を聞きながら、耳たぶまで真っ赤になっていた。



「千葉さん、こんちはっ! あれ? お姉さん、だ、誰っすか?」
 開店前のえにしのカウンター席に、一人の女性が座っていた。聖哉たちより少し年上だろうか。茶色のストレートヘアーを頭の後ろで束ねている。黒縁メガネをかけていて、鮮やかな青色のシャツにワイドなカーゴデニムを合わせていた。男子校に入学して、教師以外の女性とはほとんど接点のない三人は、彼女と目が合うなり、急にどぎまぎしはじめた。
「水口、こいつらが、さっき話したピンチヒッターの学生たちだ」
「へえ! みんな初めまして。私がいないあいだ、こども食堂を盛り上げてくれたんですって?」
 水口麻美です、と、その女性は軽い会釈をした。
「はじめまして! 鍵田聖哉です!」
「潮晃司です」「松島遙佳です」
 三人の少年たちは、横一列に並んでビシッとお辞儀を返す。
「店長の後輩なだけあって、流石体育会系って感じね」
「は、はい!」
 ぎくしゃくと水口の前を通り過ぎ、三人は店の奥に引っ込んで着替え始めた。その最中、三人は無言だった。思いがけないタイミングの水口の登場に、感情が追いついておらず、折角慣れてきたえにしの環境に、急に別の因子が紛れ込んできたようで、どうしていいか分からなかったのだ。後からきたのは自分たちで、それも一時的に入り込んでいるのはこっちのほうなのに、こんな気持ちになるのは、ここでの自分たちの役割を楽しんでいたからなのだろう。
 えにしのシャツを着た三人は、互いに顔を見合わせると、ぞろぞろとホールに戻った。
「なんか三人とも、動きがぎこちなくない? あっ、もしかして私のせい?」
「そういう年頃なんだ。おまけにこいつらの高校は男子校だからな。女子への免疫はゼロに近いんだろう」
「あー、なるほどね」
 大人たち二人は、当たり前だろうが、気心の知れた仲らしい。
「それより、怪我はどうなんだ。ここに来られるってことは、もうだいぶ良くなったのか?」
「今日病院に行って検査を受けてきた。見ての通りギプスは取れたから、もういつでも復帰出来るよ」
「怪我したって聞いてたっすけど、骨が折れてたんですか?」
「うん、左腕。自転車に乗ってて、歩行者とぶつかりそうになって咄嗟によけたはずみに、ね」
 それは災難すぎると、尋ねた聖哉は苦笑した。晃司と遙佳も、同情して顔を引き攣らせる。
「じゃあ、復帰はキリ良く来月からにするか」
「そうしてくれると助かる。いつでもって言っちゃったけど、まだ腕が変な感じなんだもん。ねえ、君たちも正式にここでバイトしちゃえばいいのに。あっ、岸辺城島ってバイトオッケーなんだったっけ?」
「俺のときだと、商業科と普通科は認められていたが、こいつらは体育科だからな。バイトは禁止だ」
「へえ、科によって違うんだ」
「おれたちは部活命! って感じのやつばかりなんで、オッケーだったとしてもバイトなんてしてるヒマはないっすよ」
「じゃあ今回の件は大変だったでしょう。ごめんね」
「いえ、オレたちの自業自得ですから」
 水口は、千葉からいくらか三人の事情を聞いているようだ。
「でも、居眠り常習犯の君たちが受ける罰則が、店長のこども食堂の手伝いってのも、随分と変わった内容だよね。あ、でも、体育科ってことは、みんな香芝先生の指導を受けてるってこと?」
 三人とも、それは考えても仕方のないことだと思っていたが、不思議だなとは感じていた。
「香芝先生は、うちの常連さんなんだ」
 水口の口から、香芝の名が出たことに目を丸くした三人を察して、千葉が言った。
「俺が学生だったときからいる先生で、当時は俺もいろいろと世話になったよ。お前たちが手伝いに来てくれる少し前にも先生が店に来てくれたんだが、そのときにたまたま、水口が怪我をして出られなくなったっていう話をしたんだ。普段はなんとかなるけど、こども食堂のときはどうしても手が回らなくなると愚痴ったのを、先生はちゃんと聞いてくれていたんだな。それから何日か経って、『うちの問題児三人の根性を叩き直してやってくれ』と連絡が来た。どういうことかと聞いたら、『部活のせいで授業中に居眠りばかりしている生徒を、一定期間課外活動というかたちで部活から距離を置かせようと思う。そこで、人手が足りないと言っていたこども食堂の手伝いをさせてほしい』という打診があった」
「学業に支障が出るほどイケナイことをしたら、回り回って大好きな部活も出来なくなるんだぞって、言いたかったんでしょうね」
「俺もちょうど人手が欲しかったし、香芝先生の提案に乗ったかたちになるな。それで、お前たちがここに来ることが決定したんだ」
 大人は色々と勝手だ。もっともらしい理由をつけて、おれたちをいいように振り回すんだから。……でも、大人たちにそういうことをさせてしまったおれたちが、結局悪いんだよな。マジメに授業を受けて……授業の内容が頭に入るかはともかくとして、話を聞いている素振りをみせていれば、こんなことにはならなかったはずなのだから。
「正直、部活の時間が減るのは悔しかったけど、おれ、千葉さんと知り会えたことは良かったと思ってるっす。おれだけじゃなくて、晃司も遙佳も」
 聖哉に、なあ、と同意を求められて、二人は頷いた。
「良い経験ができたと思っています。俺は聖哉ほど、部活には熱心に取り組んでいないので、正直支障は出ていませんし」
「いや、まだそんなこというタイミングじゃないだろ。今日の仕事もこれからなんだし」
「そーだそーだ! 急に辛気くさくなんなよっ!」
「お前、普段幼稚園児よりひどい語彙力してるのに、辛気くさいって言葉は知ってるんだな」
「うっ、うるせー! おら、遙佳、さっさとテーブル拭けよっ!」
 聖哉はそう言って、カウンターに置いてあった布巾を遙佳目がけて投げつけた。
「うわっ! こらっ! モノを投げんな!」
 三人のやりとりを、千葉と水口は微笑ましげに見ていた。時計を見ると、こども食堂の開店までは十分をきっている。水口も同時に時刻を確認していたようで、「じゃあ店長、また連絡するね」と言って、立ち上がった。
「鍵田くん、潮くん、松島くん」
 ふいに名を呼ばれた三人は、動きを止めて水口へ視線を移す。水口が発した衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。「私の代わりに店長を支えてくれて本当にありがとう。もうちょっとだけよろしくね」
 三人は、目も、開いた口も丸くして、互いに顔を見合わせる。そしてようやく水口の言葉を噛みしめて、「はいっ!」と返事をした。
「そうそう、これ、長く休みをいただいたお詫びです。店長と、少年たちみんなで食べてください」
 水口は、ハンドバッグと一緒にテーブルに置いていた紙袋を差し出した。仕込みをしている千葉の代わりに聖哉が受け取る。何だろうと思ってチラリと袋の中を覗くと、マカロンが入っていた。
「みんなお菓子は好き? 口に合うといいんだけど」
「はい! 好きっす!」
 そうは言ったものの、聖哉はマカロンなんて洒落たものを口にしたことがない。
「あっ、これ、『パスティシエ・アキト』のマカロンじゃないっすか!」
「そう。松島くん、知ってるの?」
「はい! 俺の大好きなケーキ屋なんです」
 遙佳はいつになく目を輝かせていた。聖哉と晃司が驚いたように見ているのに気付いて、ハッと表情を取り繕う。顔を赤くして、「有名な店だろ」と、なぜかぶっきらぼうにそう言った
「オレは知らねえや」
「おれも!」
「じゃあ今度一緒に行こうか」
「おっ、オマエからわざわざオレたちを誘うってことは、むしろオマエがよっぽど行きたいんじゃねえのか?」
「嫌ならいいけど。別に俺は一人でも行けるし」
「あーっ! おれは行くぞ! 今度の日曜、部活休みだから、遙佳クン、こんな無礼なマッチョメンなんか放っておいて、ふたりきりでデートしようぜ」
「おー、そうだな」
「悪かったって。オレも日曜は部活無いから、絶対着いていくからな」
 冗談を言い合いながら、三人は開店の準備を整えていく。その手際はやはり見事なもので、三人の様子を眺めていた水口の表情も、緩やかに綻んだのだった。

 今日は帰るねと言った水口を見送ったあと、晃司が暖簾を出して、看板の灯りを点けた。
「今日はナポリタンスパゲッティだ」と、千葉が玉ねぎを刻んでいるのを、聖哉はカウンター越しに見ていた。すでに細切りにした大量のピーマンと斜め切りのソーセージがボウルに入って台の上に置かれている。
「おれ、麺を茹でていきましょうか」
「ああ、頼むよ。茹で方は分かるか」
「うっす。ダイジョーブっす」
 当初の千葉の勝手なイメージだと、三人の中では遙佳が厨房の仕事も抵抗なく出来ると踏んでいたのだが、このところは聖哉に任せるようになった。
 聖哉は唇を固く結んだまま、寸胴鍋を持って水を汲んでいる。それをコンロの上に置いて、おそるおそるというふうに火を点けた。
「おれ、兄貴がいて、休みの昼なんかはよく二人でナポリタン、食ってました」
 湯が沸くのを待っているあいだの沈黙を破りたかったのか、出し抜けに聖哉が口を開いた。
「兄弟で仲良しだったのか」
「はい。うちは親がどっちも忙しいから、自分たちのことは自分たちでやらなきゃいけなくって、でもおれはずっと野球やってたから、その分、兄貴がおれのことめちゃくちゃ面倒を見てくれたんです」
 以前、知花たちにホットプレートで作る焼きそばを振る舞ったときにも、聖哉は兄のことを言っていた。あのときも今回も、こども食堂で提供されるのは麺料理だ。単なる偶然かもしれないが、そういえば兄貴が準備してくれたメシも、麺類が多かったなと思った。
「いいお兄さんなんだな」
「そうっす。自分のことより、おれのことを優先してやってくれるような兄貴で、めちゃくちゃ感謝してるっす。いまはおれが岸辺城島に入学して、面倒を見る必要もなくなったから、家を出てひとり暮らしをしてます」
 兄貴は大学生ですと、聖哉は付け加えた。鍋の側面に無数の小さな水泡が湧き上がってきて、やがて水面がぼこぼこと湯立ってきた。聖哉は乾麺の封を解いて、ばらばらと鍋に放り込んだ。
「鍵田、冷蔵庫から麺を取ってくれ」
 奇妙なことを言う、と、聖哉は目を丸くした。だっていま、目の前で麺を茹でているじゃないか。首を傾げながら、千葉に言われたままに冷蔵庫を覗く。
「あれ? こっちにも麺がある!」と、聖哉はあたかも小学生がなにかを発見したときのような声色で叫んだ。
「子供たちに提供するナポリタンの麺は、あらかじめ茹でて冷やしているんだ。いま、鍵田に茹でてもらっているのは、お前たちが最後に食う分だ」
 千葉曰く、ナポリタンにするときの麺は、茹でてからすぐ氷水で締めたあとに、サラダ油をまぶし、しばらく冷蔵庫で寝かせておくのがいいらしい。
「味付けはケチャップにウスターソースを混ぜるのが手軽だ。もっと本格的な店だと、野菜とケチャップを煮込んで、専用のソースを作るんだが、うちではそこまでコストはかけられないからな」
 そうしているうちに、今日はじめての客が顔を覗かせた。戸口に現れたのは、関川亮と土門奏心だった。表情が硬い奏心は、亮に先導されるようなかたちで店の中に入ってきた。
「いらっしゃい! おっ! 一匹狼のカナデくんじゃねえか!」
 ニッと悪戯っぽく笑って、奏心の登場を茶化したのは、晃司だった。亮が苦笑して、当の本人は不快そうに表情をゆがめた。
「ほら、奏心くん、潮さんに言いたいことがあるんだろ」
 亮に背中を押されて、促される。奏心は晃司の顔を見上げ、ぐっと唾を飲み込んだ。表情は険しいが、敵意はなさそうだと感じる。
「どうした?」
「……」
 奏心はじっと晃司を見つめている。なにかを言いたくて、言葉が喉元まで出かかっているけれど、己の感情がそれを邪魔している。瞳の中に、そんな心情の動きが見えるようだったが、やがて奏心が口を開いた。
「……このあいだは、突っかかってすみませんでした」
「潮さん、実はあれから奏心くんと二人で話し合いをしたんです。もしかしたら僕がしつこく関わろうとしちゃったから、奏心くんはどんどん逃げ場がなくなっていっちゃったのかなと思って……。そんなことはないと奏心くんは言ってくれましたが、僕もちゃんと相手のことを考えた行動をとれるようになりたいです」
「ヤベエなオマエ。まだ中学生なのに、オレらより考え方が大人じゃねえか」
「そんなことはないです。でも、久しぶりに僕たちがゆっくり話し合えたのは、潮さんのおかげです」
 普段おとなしいやつのほうが、案外こういうときはグイグイと相手をリードしていきがちだ。奏心はバツが悪そうにそっと亮の後ろに半身を隠した。
「まあ突っ立ってるのもなんだから、座れよ」
 晃司に促されて、二人は顔を見合わせたあと、テーブルに向かい合って腰を下ろした。
「ところでオマエ、『貧乏なガキ』が来るところは来たくないんじゃなかったのか?」
 晃司の追及に、奏心はううっと気まずそうに唸った。
「……あの、悪かったと思って、ます……」
 消え入るような声でそう言って、俯く。
「ハハッ、冗談だよ。オマエを見ていると、なんでか分からねえけど、チクチクとからかいたくなるんだよな」
 身にしみるような痛さの晃司の言葉を浴びて恐縮する奏心は、察していた通り、悪いヤツではなさそうだ。
「そういや、ちゃんと学校に行きはじめたのか?」
 以前の私服姿とは違って、奏心は亮と揃いの学生服を着ていた。衣替えをしたばかりであろうワイシャツの袖を、肘のところまで捲っている。
「……一応」
 ぼそりとそう言って、奏心は亮を見た。口下手なのが災いして、自分の想いを言葉に出来ずに友人に助けを求める。晃司には彼の動作がそんなふうに見えた。
「こいつがうるせえから」
「僕がしつこいのはずっとだったけど、きっかけは潮さんと知り合ったことなんですよ」
「おい、亮!」
 亮の言葉を遮るように、奏心は叫んだ。そして自分が大きな声を出したことに気付いて、さらに気まずそうに肩をすくめる。
 晃司がその続きを聞くことはかなわなかった。厨房のほうから、フライパンで具材を炒める音が聞こえてきて、皆、そちらの方に気を取られたからだ。
「うおー! うまそー! 千葉さん、あとでおれの分、三人前くらい作ってください!」
 千葉の隣にいる聖哉の声がはしゃいでいる。
フライパンにサラダ油を熱し、薄切りの玉ねぎを炒める。香りが立ってきたら、ピーマンとソーセージを加え、軽く塩コショウで味を調える。千葉は聖哉が冷蔵庫から取り出した麺をトングでいくらか掴み、空いているフライパンに投入した。
「麺と具材は別々に熱を入れる。麺は表面にうっすら焦げ目がつくくらいまで炒めるのがコツだ」
「おれがやります!」
 聖哉がそう言ったので、千葉は菜箸を彼に渡した。熱され、ほぐれてきた麺をかしゃかしゃとかき混ぜる。
「これは、何をしてるんすか」
「熱を入れて水分をとばすんだ。そうすることで、麺のもっちり感が強くなる」
千葉は、具材をフライパンの端に寄せて、空いたスペースにケチャップとウスターソースを入れた。強火で手早く炒める。ケチャップの色が濃くなってきたところで、聖哉が炒めていた麺を投入する。トマトの香りが一気に鼻腔を突き抜けて、具材と麺が一体になる様子を全身で感じた。仕上げにバターを落とし、熱々のまま皿に盛り付ける。
「ほら、鍵田、あいつらに運んでくれ」
 白い皿に盛られたナポリタンは、赤と緑がよく映え、湯気が香りを運んで食欲をかき立てた。聖哉はごくりと唾を飲み込んで、いますぐにがっつきたい衝動を堪えながら、ふたつの皿を客席に運んだ。
「ほーら、おまえら、美味そうなナポリタンだぞ! 今日もたっぷり食え!」
 千葉に指示を受けて、遙佳がインスタントのコンソメスープを作り、水と一緒に亮たちに配る。二人ともかしこまって、小さく会釈をして受け取った。
 奏心が右手でフォークを取った。柄をグーの手で握って、麺を掬うようにして口に運んでいる。
「おいおい土門、そんなんじゃ食いにくいだろ」
 見かねた晃司が奏心の隣に腰を下ろし、正しい持ち方を教える。反発をするかと思われたが、奏心は案外素直に聞き入れた。
「ずっとこれで食ってた。わりぃかよ」
「今直しておかねえと、この先恥ずかしいぞ」
「うぅ……わかったよ」
 奏心は眉間に皺を寄せて、ぎこちなくフォークを持っている。
「スパゲッティをフォークで食うときは、普通、麺をこうやって巻き付けて食うんだ。ずるずると啜るんじゃなくて、一気に口に入れる感じだ」
「晃司、なんだか土門のアニキみたいだな」
「そうか?」
 奏心は苦心しながらも、ぎこちなく麺を口に運んでいる。その幼気にも見える様子を見て、晃司はなんだか妙に可笑しくなって笑った。
「な、なに笑ってんだよ! 人のこと見て笑うなんて失礼だろ!」
「ハハッ、そうだな、ごめんごめん」
 晃司は立ち上がる。奏心は亮と視線を合わせて、すぐに逸らすと、晃司に習ったとおりのフォークの持ち方のまま、もくもくと食事を進めた。

 食事が終わっても、なかなか二人が席を立たないなと思っていたら、晃司にまだ話があるのだという。時間が経過するにつれて、えにし内は子供たちで賑わってきたため、三人は店番に勤しんでいたが、客足もまばらになってきた頃、「あ、あのっ」と亮が片手をあげて晃司を呼び止めた。
「ん? どうした、お代わりか?」
 そうは言っても、皿はとっくに下げてしまったし、流石にひとり一皿じゃなければ不公平だろうし、頷かれたらどうしようと、聞いた後に思った。
「違います。潮さんにもうひとつ話したいことがあって……」
 僕じゃなくて奏心くんが、と、亮が付け加えた。
「おう、なんだよ」
 奏心は、心なしか先程よりきゅっと縮こまっている。亮が先導するからには、二人で話を共有しているのだろうが、あくまで話題を切り出すのは、奏心に任せるつもりらしい。
「潮センパイは、なんか格闘技をやってるんですかっ」
思ったことを一息に解き放ったような口調だった。奏心は言ってから、上目遣いで晃司の返答を待っている。
「ああ、ガキの頃から空手をやってるよ」
 奏心は途端に目を輝かせた。生気のなかった少年に、一気にエネルギーが注がれて、活力が動き出したかのような感じだった。
「やっぱり……。だから俺のパンチ、ひとつも当たらなかったのか……」
「ほら、言っただろ。潮さんに君みたいな素人が勝てるわけなかったんだよ。奏心くん、勇気と無謀をはき違えちゃいけないよ」
「うっせえ!」
 亮には吐き捨てるようにそう言って、晃司に向き直った。相手が変わって、途端に忠犬のような態度になった。「潮センパイ! 俺に空手を教えてください!」
「おいおい随分唐突だな」
「トウトツじゃないっす。誰にも負けないように強くなりたいってずっと思ってて。潮センパイに一撃も当てられなかったとき、俺、この人みたいになりたいって思いました」
「だから急にオレたちに対して素直になったのか?」
 晃司の問いかけに、随分と間が空いて、視線を彷徨わせた後、やっと重い頭を下げるかのように奏心は頷いた。
「奏心くん、あの後、僕に言ってきたんです。憧れの人が出来た。だから俺もちゃんとしなきゃって。そんなこと奏心くんが言ったの初めてで、僕もびっくりしちゃいました」
「フフフ、晃司クン、モテモテじゃねえか。おまえは女の子だけじゃなくて、野郎もトリコにしちゃうのかよ」
「土門は晃司の強さに圧倒されて、一瞬で憧れた。ってことは、一目惚れみたいなものじゃないか」
「べ、べつにオレは女にもモテてねえよっ!」
 気の知れた仲間たちにからかわれて、今度は晃司が赤面する番だった。椅子から勢いよく立ち上がって、照れ隠しに努める。
「潮先輩、すげえっす!」
 店の奥で、いつもの小学生集団が宿題をしていると思ったら、ちゃっかりこちらの話は聞いていたらしい。武留が茶化すというよりは、本当に心から思っていそうな口調で、言葉を挟んできた。こういうとき、子供は正直だ。
「……悪いが、土門の期待には応えられない」
 奏心をはじめ、誰もが望んでいなかった返事だっただろう。気付いてはいたが、だれもツッコまないあいだは、そこには触れないように努めた。
「たしかにオレは空手をやっている。土門、オマエみたいに、自分が強くなりたいと思って始めたことだ。だけどな、そもそもオレには人を指導する資格も度量もない。だからすまないが諦めてくれ。……強くなるのが目的なら、別に空手じゃなくてもいいだろう。たとえばこの店の上にも、ジムはある。オレみたいなヤツに中途半端に習うくらいなら、ちゃんとしたところに行ったほうがいい」
 奏心は明らかに落胆していた。感情が顔に出てしまっているのに、彼はそれを周りに悟られないようにしようと、懸命に平静を装っている。
「晃司は真面目で頭が固いやつだから、融通が利かないんだ。勘弁してやってくれよ、な?」
「……はい」
 聖哉が助け船を出して、ようやく奏心は頷いた。これがきっかけで、奏心がまた非行の道に戻ってしまわないかと危惧する。
「たとえば土門がこれから学校へ真面目に通って勉強を頑張ったら、高校にも行けるだろう。もしかすると土門はオレの影響を受けて、いまは空手をやりたいと思っているのかもしれないが、それは衝動的な感情かもしれない。……だからこれからゆっくり考えるんだ。本当に自分がやりたいことが何なのかを」
 奏心は、晃司の言ったことをゆっくりと呑み込むかのように頷いた。空手を習うというきっての願望は叶わなかったが、晃司を尊敬する気持ちは変わらない。尊ぶ相手に言われた言葉なら、邪念に惑わされることなくすんなりと受け入れられた。
「……いまからでも大丈夫っすか?」
「それはオマエ次第だ。……でもオレは、たぶん大丈夫だと思うぞ」
 奏心にとっては、力強い励ましとなる佳言だった。「はいっ!」と大きく返事をして、口角を上げる。笑顔は伝播する。奏心の晴れやかな表情を見ていた亮もまた、にこにこと笑っていた。



「あーあ、おれも、モテモテになりたいなあ!」
 千葉が本当に麺三玉ぶんの量を作ってくれたようで、三人の前には平皿に山のように盛られたナポリタンが置かれている。フォークを突き刺して、山を崩し、大きな口を開けて、麺を頬張った。
 聖哉はソーセージをフォークに三つほど重ねて刺しながら、モテたいモテたいとぼやいていた。
「だからオレは誰にもモテてないってば。オマエも諦めろ。野郎しかいない環境で、どうやってモテるっていうんだ」
「野球部のエースってだけでちやほやされんじゃないのか? それで甲子園なんて出てみろ。きっと聖哉が思っている通りの展開になるだろうな」
「なんだ、鍵田はモテたいから野球をやってるのか」
「やだなあ、違いますよ、千葉さん! おれは野球が大好きだからやってるっす」
 聖哉はヘラヘラと笑いながら、しかし眼差しだけは真剣な面持ちでそう言った。
 自分の好きなことを、胸を張って好きだと言い切れるのは、案外難しいことなのだと、聖哉は知っているのだろうか。嫌いなもの、何かに対する不平や不満、誰かに対する妬み嫉み。或いは自分の実力不足。——そのようなものに邪魔されて、好きだという感情がくすんでいくことがある。
 聖哉とてこれまでに何度も、苦汁を舐めた経験があるだろう。それでも折れなかったのは、彼が純粋に野球を愛しているという、確かな証だ。
 千葉は、ナポリタンにがっついている聖哉の横顔を見つめた。最早フォークでは食うスピードに追いつかないのか、テーブルの箸立てから割り箸を取って、焼きそばの要領でずるずると勢いよくかき込んでいる。
「おい聖哉、口の周りベタベタだぞ」
 遙佳に窘められて、聖哉は慌てて手の甲で口許を拭った。勿論それだけでは綺麗にならず、手拭きで汚れた手の甲と口周りの両方をごしごしとこする羽目になっていた。
「ところで聖哉、聞き捨てならねえな。オレの何を見てモテてるって言ってんだよ」
 話を蒸し返したのは、晃司だった。行儀良くフォークに適量の麺を巻き付けて、口に運ぶ。麺の表面はカリッとしているのに、咀嚼することでほぐれたその中身は柔らかい。シャキシャキとした玉ねぎとピーマンの甘味と苦みがケチャップの酸味に合わさって、舌の上で手を取り合うように麺を包んでいる。
「え? なんとなく。晃司は黙ってたらこえーけど、筋肉あるし、空手黒帯だし、イケメンだし、優しいし、頼りがいがありそうだからな!」
「……そうかよ」
 晃司は深くツッコまないことにした。聖哉が口にする言葉は、大体が彼の本音だ。追及すればするほど自分が小っ恥ずかしくなるのは目に見えていた。
——誰も彼も、他人の魅力はすぐに見つけるくせに、自分の良さは見えないものなんだよな……。
 いくら聖哉に言われようとも、晃司には自分のことなど、ピンと来なかった。
 隣の芝生は青いということわざがある。他人のものは、なんでもよく見えることのたとえだ。——野球が上手くて、いつも快活で、凡人にはない才能に溢れていそうな聖哉も、オレみたいなヤツを見て、羨ましいと思うことなどあるのだろうか。
 三人が、実際の人数の三倍もあるナポリタンを食べ終わるまでに、半時間もかからなかった。聖哉はズズッと音を立ててスープを飲み干した。
「千葉さん! 今日もご馳走様でした! 美味かったっす! もう賄いが食えなくなるのは、なんだかすごく残念です」
 聖哉の言葉に、他の二人も頷く。来月に水口が復帰してくるとなれば、聖哉たちのこども食堂での出番は、次が最後になる。千葉としても、彼らがこれからも手伝いに来てくれるなら大歓迎だが、大人の都合で貴重な青春を邪魔するわけにもいかない。
「この『罰則』が終わっても、俺とお前たちの縁が切れるわけではない。部活が休みのときなんかに、飯を食いにくるといい。先輩後輩のよしみとして、いくらかおまけしてやるからな」
「絶対来ます!」と、聖哉は高らかに言った。なにかの約束をするとき、人は『絶対』という言葉を使いがちだ。しかし現実の物事において、絶対と言い切れないもののほうがごまんとあるもの。
 後日、部活中に怪我をした聖哉は、最後の『罰則』を全うすることが、叶わなかった。



 自分に不幸が降りかかったとき、日頃の行いが悪かったのかなとか、あのとき、結果とは違う別の行動をしていたら、それは防げたのかなとか、確かめようのないことばかりが頭の中をぐるぐると回り出すのが常だ。
「聖哉、調子はどうだ」
 返答はなかった。暗がりの中、ベッドで体を丸くして横になっている聖哉が、眠っている気配はない。遙佳は聖哉の背中が小刻みに震えているのを目にしたが、気の利いた言葉が浮かんでこなかった。
 聖哉は、練習中に行った紅白戦でデッドボールを喰らい、左手甲を骨折してしまったのだ。利き手ではなかったことが不幸中の幸いだといえるものの、ピッチャーとして、手の大怪我は精神的な負担も殊更大きかった。
 須賀に連れられて行った救急病院の帰りに、症状が治まるまで、しばらく部活を休むように命じられた。患部をギプスで完全固定して、日常を送っている。いや、野球から離れた日々は、聖哉にとっては、日常などではなかった。

 聖哉のベッドの枕元に、帽子が置かれている。彼が普段、野球をするときに被っているものだ。裏返ったつばの部分に、見覚えのある字が見える。

『三者凡退 完全試合!』

「晃司、遙佳、甲子園を目指すおれに向けて、なんか元気の出る言葉を書いてくれよ!」
 夏のはじまりの頃だった。そのときはまだ新品に近かった帽子を差し出してきて、聖哉は同じ部屋の二人にそう言ってきたのだ。
「こういうのって、同じ部活の仲間同士で書き合うものじゃないのか?」
「いや、誰でもいいんだって先輩が言ってた。もちろん野球部の仲間でもいいんだけど、おれが一番書いてほしいのは、普段から一緒にいるおまえらなんだよなあ!」
 ならしょうがねえなあと言って、遙佳と晃司は互いに顔を見合わせた。二人とも、友に頼られたことが嬉しくて、それを隠しきれない表情をしていた。
『頑張れ!』だとか『ファイト!』だとかは、あまりに安直すぎる。油性ペンを振りながらうーんと悩んだ結果が先の二つの言葉だった。
 遙佳が『三者凡退』、晃司が『完全試合!』とそれぞれ書いて聖哉に帽子を返した。
「おまえら、これ、ちゃんと意味が分かって書いてんのか?」
「馬鹿にすんな!」
 そうは言ったが、野球にあまり触れてこなかった二人にとっては、ぼんやりとしたイメージしかなかった。
「……でも、本気で甲子園を目指すなら、おれだってこれくらいやるって気持ちで挑まねえと、駄目だよな……。晃司! 遙佳! ありがとう! おれ、頑張るからな!」
 あとで二人してこっそり、スマホで言葉の意味を調べたときに、逆に聖哉の重圧にならなかったかと心配した。互いに顔を見合わせて、どちらからともなくクスクスと笑いがこみ上げてきたのを、遙佳は今でも覚えている。

「あ……遙佳……部活、終わったのか?」
 聖哉はもぞりと体を起こして、こちらを振り返ってきた。授業は真面目に受けているものの、このところ放課後になると塞ぎ込んで、ベッドで寝ていることが多くなった。白目が赤い。多分、布団の中で泣いていたのだろうと察する。
「部活じゃねえよ。今日は最後の千葉さんの手伝いの日だっただろ。……電気つけるぞ」
 暗くなって、目が慣れなければなにも見えなくなっていた部屋に、煌々と明かりが灯る。すんと聖哉が鼻をすすった音が、やけに大きく聞こえた。
「……あれ、そうだったっけ。行けなくてごめんな……」
「気にすんな。あとで晃司も戻ってくるよ。それよりお前、飯食ってねえだろ」
 聖哉は頷いた。今日が何曜日で、いまは何時何分なのか、そんなこともすっぽりと抜け落ちるくらい、聖哉の心はなおざりになっているようだ。
「ランニングとか、軽い筋トレとか、手に負担がかからない程度に部活、出来ないのか?」
「やる気が起こらねえんだ」
 掠れ声で即答された。聖哉は普段、上段のベッドを使っているが、怜央と場所を変わって、いまは下段で寝ている。立っている遙佳を見上げて、聖哉は弱々しく口角を上げてみせた。
「自分でも、分かってんだ。こんなことでしょげてちゃ駄目だって。分かってんのに、何もやる気が起きない。おれ、こんなこと、初めてだ……」
 心の動きが、聖哉の表情だけで手に取るように分かる。良くも悪くも、これまでは彼の才能が、挫折を経験させなかった。初めて襲いかかってきた大きな壁にぶち当たって、聖哉は立ち止まってしまったのだ。
 この度の怪我は、元々練習時間が減って焦っていた聖哉に、追い打ちをかけるかたちとなった。考えないようにしているつもりだったが、そもそもえにしに行くことが、精神的な負担になっていたのだ。知らず知らずのうちに、それが練習にも影響が出ていたのかもしれない。だから怪我をしてしまった。気持ちが散漫になれば、指先ひとつ動かすことすらもままならなくなる。
「聖哉」
 ぐらぐらと不安定に揺れ動いている彼の心をそっと支えるように、遙佳は力を込めて目の前の少年の名を呼んだ。「こういうとき、普通だと、いまは踏ん張りどきだって言うのかもしれないけどさ、俺は力を抜いて休むときだって思うんだ。いまはなにを言われても、気休めにもならないだろうけど、突っ走ってきた今までのお前を労って、また走り出せるように力を蓄えるんだ」
 聖哉は友達だ。友達が困っている。不安や焦りに、押し潰されそうになっている。だから何とかしてやりたい。代われるものなら代わってやりたい。でもなにも出来ない。してやれない。そうであっても、せめて痛みを分かち合うことくらいは出来るんじゃないだろうか。——本当にそうなのか? 聖哉が感じていることは、聖哉にしか分からない。どんな言葉を選べば、俺の想いが聖哉に伝わるのだろう。
「ありがとな、遙佳」
 礼なんて言うなよ、と言いかけたとき、部屋の扉が開いて、晃司と怜央が戻ってきた。怜央は教科書とノートを、晃司はなにかが入った袋を、手に持っている。
「聖哉、起きとるね。良かった。邪魔したら悪いかなと思って、僕、ギリギリまで自習室におってん」
「聖哉、ただいま! どうせオマエは全身にカビが生えそうな勢いで不貞腐れて寝てたんだろ? ったく、ガラにもねえことしてんじゃねえよ。どうせメシも食ってねえんだろ。そう思って、土産を持ってきたぜ。ほらよ」
 晃司は聖哉の膝の上に、持っていた袋を置いた。
「なんだこれ」
 底がほのかに温かい。丼鉢のようなかたちだ。
「今日のこども食堂のメニューだ。千葉さんがオマエにって。あったかいうちに、食えよ。箸も入ってるから。それと……」
 晃司は言葉を切って、怜央をチラリと見た。
「香芝先生から、聖哉宛ての郵便を預かっとんねん。はい、これ」
 怜央が教科書とノートのあいだに挟んでいたのは、一通の便箋だった。野球場のデザインが施された封筒の差出人の欄には『鍵田聖樹』と書いてあった。
「……兄ちゃん?」
 聖哉は目を見張った。皆の前で封を開けるのが気恥ずかしいのか、便箋を枕元に置いて、彼はそっと、袋の封を解いた。次の瞬間、袋の中に閉じ込められていた卵の香りが、ぶわっと聖哉の鼻孔をくすぐった。透明の蓋の向こうに見えるのは、きつね色に揚がったカツと、てらてらと黄金色に輝いてみえる半熟の卵。器のぎりぎりまで詰められた米の重みを、手のひらに感じる。蓋には緑色の付箋が付いていて、『鍵田へ 負けんなよ! 千葉尚樹』とボールペンでメッセージが書かれていた。
 聖哉は、すんと鼻をすすった。同時に腹の虫がぐうっと鳴る。これで食欲がないと言えれば、気の沈みように説得力が増すのだろうが、どんなときでも空腹には抗えない自分が可笑しかった。
 蓋を開ける。カツの上には、つややかな醤油ベースの出汁がたっぷりとかかり、ほのかに甘い香りが漂ってきた。出汁には薄くスライスされた玉ねぎと卵が溶け合っている。丼の底から突き上げるように、ふっくらと炊き上げられた白米が敷き詰められ、出汁を吸ってしっとりと輝く一粒一粒が、カツとの絶妙な調和を約束しているようだ。丼から立ち上る湯気から漂ってくる香りが、食べる前からすでに心を満たしてくれる。
「……いただきます」
 箸を割り、カツをサクッとつかむ。一切れを一気に口に放り込み、少し咀嚼したあとに米をかき込む。もうどうしようもないくらい、美味かった。
「……おれ、こんなもんで元気になると思われてんのか?」
 聖哉はバツが悪くなって、卑屈な物言いを選んだ。本当は皆の気遣いが嬉しかった。いつも自分が食べている馴染みのものを口にするだけなのに、妙にホッとした。そう、いつもどおりでいいのだ。なにもケーキだとかステーキだとか、そんな大仰なものをもってこられたほうが、逆に戸惑ってしまう。
いつもどおりの飯を食う。それだけで、安心するときもある。
「千葉さんからの伝言。『部活をやりたかっただろうに、今までこども食堂の手伝いをありがとう。鍵田も、転校生のイマカイくんも、気が向いたらえにしに来てくれたら嬉しい。寮のめしや学食とは一味違うものを、いつでも食わせてやるからな』だってさ」
 聖哉は十分もしないうちにカツ丼を食べ終えた。ごちそうさまでしたと呟き、空いた容器を袋の中に入れて、立ち上がる。部屋を出て、食堂の前に置いてある大きなゴミ箱に、それを捨てにいった。

「聖哉!」
「あ、ユーダイ……」
 しばらく部活を休んだだけなのに、野呂との距離を感じた。
「シケた顔してんじゃねえよ聖哉。ほら、しゃんとしろ。そんなんじゃ治るものも治んねえぞ」
「……ごめんな、ユーダイ。おれ……」
「もう、うっせえよ。俺が励ますのじゃ足りねえのか? 瓜野さん呼んでこようか?」
 聖哉は苦笑して、ふるふると首を横に振った。いまの自分の姿は、瓜野には見られたくない。なんとなくそう思った。
「元気がねえお前を見てんのも、なんか新鮮だけど、やっぱ締まんねえわ。さっさと心も怪我も治して、部活に戻ってこいよ」
 ほら、夜食に食えと言って、野呂は手に持っていたコンビニの袋からメロンパンを取り出して、聖哉の手に押しつけるようにして渡してきた。
「うぅ……ありがとう、ユーダイ!」
「山田がすげえ落ち込んでたぞ。今のお前と同じくらい」
「おれはべつに恨んでねえって、伝えてくれよ」
「それは流石に自分で伝えろ」
 野呂の言った山田とは、紅白戦で聖哉のチームと相対したピッチャーで、つまりは聖哉にデッドボールを喰らわせた張本人だ。控えめでおとなしい性格の彼は、あのとき、怪我をした聖哉の方が心配になるくらい青ざめていた。諸々の錯雑もあって、きちんと話が出来ていない。今回のことがきっかけで、軋轢を生まないようにしなければならないと、聖哉は考えた。

 部屋に戻って、再びベッドに入る。枕元に、兄からの便箋が置きっ放しだったことを思い出す。聖哉は、まるで大事な文書を扱うかのような手つきで、封筒を開けた。

聖哉へ

元気か。香芝先生から、直接俺のところに連絡があって、聖哉が怪我をしたと聞いた。電話やアプリで連絡をしたほうがいいのかもしれないけど、こういうときは手紙を書いたほうが伝わりやすいと思って、ペンをとっている。
決勝戦、残念だったな。直接観に行けなくてごめんな。でも、テレビに映る聖哉は、俺がいままでに見たことがないくらいカッコよくて、周りのやつらに「あれは俺の弟だ」って、自慢しちゃったよ。
夏が終わって、野球部は新しいチームで動き出しているのか? そのチームできっと聖哉はエースになるんだろうな。

『あなたがたの会った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさらず、むしろ、耐えられるように、試練とともに、のがれる道も備えていてくださいます。』

 突然、なにを言っているんだと思ったか? 困惑する聖哉の顔が見えるよ。これは聖書の一節で、つまりは『神は人に耐えられない試練を与えない』ということだ。
 俺はべつに神様がいるなんて信じていないけど、そんな俺でも感銘を受けるくらいだから、偉大な教えなのだろうな、これは。
 たぶん聖哉はいま、怪我をして、すごく落ち込んでいるんだろう。分かるよ。だって俺は聖哉の兄ちゃんだからな。きっと周りの友達は、普段見ることのない聖哉の落ち込みように戸惑っているんだろうな。
 聖哉、落ち込むなとは言わない。でも、とことん落ち込んだら、ちゃんと這い上がってこい。それが出来たらお前は、怪我をする前の自分を越えられるだろう。
 負けないことや折れないこと、それが出来れば申し分ないが、そんな超人はいない。だからこそ、負けも挫折も、必要な経験だと思うぞ。色々なことが重なって、当事者である聖哉は、どうしようもないくらい辛いだろうが、その気持ちもいずれすべて、お前の糧となる。
 聖哉が再び立ち上がって、夢を叶えられるようにって、俺は応援してるからな。
 来年の夏は、甲子園のスタンドで、聖哉の勇姿を見られることを願っているよ。

 がんばれ、聖哉!

 追伸:父さんと母さんも心配していたから、たまには連絡してやれよ。

 聖樹より

 便箋に、ぽとりと涙が落ちて、聖哉は慌てて目頭を拭った。——兄ちゃん……。
 ここに本人がいないのに、便箋の紙を通じて、聖樹の優しさが染み渡ってくるようだった。
「晃司、遙佳、怜央」
 ベッドから顔を覗かせて、聖哉はルームメイトの三人の名を呼んだ。
「いままで迷惑をかけてごめん、おれ、明日からちゃんとする。部活も出来ることからやり始めてみる」
「おう、頑張れよ」「右に同じ」「僕も微力ながら応援しとるからね」
 聖哉の目の前には、いつも通りの三人がいたのに、その光景が少し懐かしく見えた。それは、たった数日、されど数日、聖哉が目を背けていた景色だった。



「最後は鍵田が怪我で参加出来なかったが、この約一ヶ月間、お前たちには罰則という形で、課外活動を命じた。振り返ってみて、なにか感じたことはあったか?」
 聖哉、晃司、遙佳の三人は、寮監室に呼び出された。香芝の前に並んで立っている。少しばかりの緊張感と、この話が終われば、いよいよ自分たちは罰則から解放されるのだという伸び伸びとした予感が、三人のあいだをぐるぐると回っていた。
「……最初は部活の時間を取り上げられて、こんにゃろうって思ったけど、千葉さんもいい人だったし、普段は出来ないような経験をいっぱいさせてもらって、結果的に良かったと思います」
「オレと遙佳は聖哉ほど、部活に真剣に取り組んでたわけじゃないけど、今まで当たり前のようにやっていたことを取り上げられたみたいで、なんだか癪に障ったというか、理不尽だなって思ったけど、オレも聖哉と同じで、千葉さんの店でいろんな経験が出来て良かったです。きっと先生は日頃の行いをちゃんとしていないと、痛い目を見るぞと伝えたかったんだろうなと思いました」
「……俺も同じです」
 こういうとき、発言の機会があとになればなるほど、自分の言おうとしていたことを先に言われてしまうものだ。遙佳もその例に漏れず、まるでなにも考えていない奴のようになってしまった。
「でも先生、ひとつだけいいですか」
「ああ、言ってみろ」
「大人は子供が間違いをおかすと、すぐに軌道修正をしようとする。でも大人だって、間違って、失敗しまくることもありますよね。知恵がある分、それを隠すのが上手いだけだ。俺たちはたしかに居眠りをしすぎて、先生に目をつけられるようなことをしたけど、千葉さんの店のピンチに、俺たちが利用されただけのような気がするんです。そこのところは、どうなんですか」
 香芝が少し、表情を引き攣らせたような気がした。遙佳はじっとその顔を見つめる。大人を見ると、自分とは違う種類の生き物に見えるように、大人も俺たちをみると、異星人かなにかだと思ったりするのだろうか。香芝の表情は、遙佳を得体の知れないなにかを見るような目つきをしていると感じた。
 言い終えて、聖哉と晃司も驚いたようにこちらを見ているのに気付く。なんだよ、お前らも多かれ少なかれ、同じようなことを思っていたんじゃないのかよ。
「そんなことをいちいち考えるもんじゃない」
 香芝はそれだけ言って、三人を解放した。きっと、遙佳の言ったことが彼にとって図星で、そこを深く追及されたくなかったのだろうなと、誰も口には出さなかったけれど、各々が思っていた。

 グラウンドから掛け声が聞こえる。キャッチボールの音。シートノックの音。スパイクの底が土を削る足音。耳元で風がなびく感触。突き抜けるように青い空と、そこに浮かぶ太陽。日差しが肌を灼く痛み。頬を伝った汗が口の中に入ったときに舌を刺激する、しょっぱい味。——おれも、全部知っている。
「鍵田、ここでなにをしているんだ」
「ひっ! 魚住キャプテン!」
 油断していたときに突然背後から声をかけられて、聖哉は文字通り跳び上がった。
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだが……」
「いえっ、大丈夫です。すみません、部活、休み貰ってしまって」
「怪我をしているんだから仕方ないだろう。……ところでちょうど良かった。いま少しいいか」
 顎でくいっと促される。聖哉は頷いて、魚住の背中を追った。
 グラウンドを横切って、部室に向かう。途中、「鍵田だ!」だとか「聖哉!」などと呼びかけられて、怪我をしていない方の手を上げて挨拶をしたり、頭をぺこりと下げて反応を示した。
「山田!」
 魚住の声が、グラウンドの上空を突き抜けて、本人に届く。ブルペンに立っていた山田はこちらに背を向けていて、名を呼ばれると「はいっ!」と甲高い声で返事をして、慌てた様子でこちらに向かって走ってきた。
「聖哉くん……」
 普通の声量が届く範囲に辿り着いたとき、山田は少し震えた声で聖哉の名を呼んだ。
「自分が投げたボールのせいで、鍵田に怪我を負わせてしまったと、山田はあれからずっと悔やんでいる」
 山田はバツが悪そうに、ずっと俯いている。左の胸元に、直筆で書いている彼の苗字に皺が入っていて、なんだかとても頼りなさげに見えた。
「山田、なんて顔してんだよ」
 聖哉はつとめて明るい声を出した。怪我のことなどまるで気にしていないふうを演じる。「あれはわざとじゃねえんだ。おれだって、デッドボールを投げちまう可能性だって充分にあるし、おれのはたまたま打ちどころが悪かっただけだ。おれはこれっぽっちも恨んでねえから、元気出してくれよ」
 半分本当で、半分は、どちらかというと嘘だった。山田のことを恨んでいるわけじゃない。だが、あのとき彼のコントロールがぶれずに、投球が自分の手に当たらなかったら、今頃問題なく部活に参加出来ていた——そう考えてしまう自分が、心のどこかにいる。ちょっと顔を別の方向に向ければ、邪な感情ばかりが浮かんできてしまいそうだ。だから見ないようにしている。山田を許したい自分と、なんでだよと卑屈になる自分。どちらも同じ自分であることには変わりない。そんなとき、一体自分はどちらを向いていればいいんだろうかと思う。そして結局、大方の人が選ぶであろう方向に歩いていく道を選び、選ばなかったほうの自分は存在しなかったも同然になる。
 魚住はみなまで言わなかったが、この場に山田を呼びつけたということは、聖哉から直接、彼を許せと促したかったのだろう。仲間として、潔く気持ちを切り替えるのは、当然のことだと。
異論は無い。だからこそ、聖哉は山田の前で、笑顔を作ることが出来たのだ。

「鍵田」
 山田がブルペンに戻っていったあと、グラウンドを眺めながら、魚住が再び聖哉の名を呼んだ。
「はい」
「分かっているとは思うが、秋はベンチから外れてもらうからな」
「……はい」
 ぎゅっと奥歯を噛みしめた。目を瞑る。たしかに、魚住の言うとおり分かっていた。だが、実際にそれを通告されるのは、自分が思っていたより心にくるものがあった。
「そろそろ練習には出られるのか」
「ランニングとか、ノックのときのボール渡しとか、下半身のトレーニングなら出来ると思います。……参加させてください!」
 最後はほぼ、懇願するような物言いとなった。これ以上みんなに置いてけぼりにされたくなかった。
 これから先、おれはまた、マウンドに立てるのだろうか。
答えのない自問に苛まれて、心が雁字搦めになる。どれだけ球を放っても、バットを振るっても、ひたすらに走り込んでも、不確かなままの未来は見えない。足掻いているだけでは、望むものなど掴めやしない。——なんだ、怪我をしてようがしてまいが、おれの悩みは、変わらねえじゃねえか。
そう考えると、なんだか可笑しくなってきた。こんな状況なのに、ふつふつと笑いがこみ上げてきそうになって、聖哉は慌てて唇をぎゅっと噛みしめた。
「監督に相談しておく。また伝えにいくから、今日は寮に戻ってろ。それと」
 魚住は言葉を切って、正面から聖哉を見据えた。「背番号は、まだちゃんと背負っておけよ」
片方の拳だけをぎゅっと握りしめて、聖哉は魚住に「はいっ!」と一礼してみせた。



「晃司、遙佳、怜央!」
 廊下から、どたどたと騒がしい足音が聞こえたと思ったら、扉が勢いよく開いて、聖哉が部屋に飛び込んできた。
 晃司たちはちょうど部活が終わって部屋に戻ってきたところで、部屋にいるはずだと思っていた聖哉がいないことに気を回していた最中だった。
「おっ! みんなお揃いだな! 部活終わったのか? なあなあなあなあ、えにしに行こうぜ! なんか無性に千葉さんのメシ食いたくなってさ、なあなあ、おれに付き合ってくれよう!」
 三人は顔を見合わせた。通常運転の聖哉が戻ってきたことへの安堵と、それがあまりにも急だったことによる戸惑いが綯い交ぜとなっていた。
「ったく、オマエは急に落ち込んで、急に元に戻りやがって。ちょっとは予告くらいしろよ」
「晃司、それは流石にムチャとちゃうかな……」
「みんな、いろいろ心配かけてごめん! おれ、もう復活したから、ダイジョーブ! さっき野球部に顔出して、練習に参加させてもらえるように頼んできた」
「良かったな。お前が引きこもりになって、一時期はどうなることかと思ったけど、俺たちの心配をよそに勝手に復活するんだから、お前らしいっつうか、なんというか」
「ごめんな、遙佳。心配かけたな」
 聖哉はテンションの落差が激しいと、結論付けられることとなった。一同は身支度を整えたあと、寮監室に外出届を出した。
「千葉さんのところで晩メシ食ってきます」と、聖哉が高らかに言うと、香芝は「気をつけて行ってこいよ」と、いつもより優しい口調で見送ってくれた。

「いらっしゃい! あら?」
 偶然にも今日は、こども食堂の日だった。扉を開けると、お盆を持った水口が、四人を迎え入れてくれた。
「千葉さん、こんちはっ! このあいだは手伝いに来られなくてすみませんでした!」
「おう、鍵田。怪我……は、まだ治っていないみたいだな」
 厨房から顔を覗かせて、千葉は聖哉の手のギブスを見た。
「デッドボールで骨、折れちまったんです。ったく、災難ばっか続いてうんざりっす」
「ばっかってことは、他にも『災難』があるのか?」
 失言をしたと思い、引き攣った表情になった聖哉を見て、千葉がケラケラと笑う。
「冗談だ。よく来てくれたな」
 テーブル席がいっぱいだったので、四人はカウンターに案内された。席につくと、水口がお冷やの入ったコップを四人の前に置いた。
「聖哉先輩!」
 武留の声がした。振り返ると、すぐ側のテーブルに彼が座っていた。まだ食事中のようだったが、憧れの先輩に一言、声をかけられずにはいられなかったのだろう。利明と英康、それに知花も同じテーブルについていて、聖哉たちにぺこりと頭を下げてみせた。
「先輩、怪我、大丈夫ですか……?」
 まるで自分のことのように不安げな面持ちで、武留が尋ねてきた。自身も野球をやっているから、投手が手を怪我するということの深刻さが分かっているのだろう。
「心配してくれてありがとな! 見た目ほど大したことないから、ダイジョーブだぞ!」
 本当はこの怪我が原因で、何日も塞ぎ込んでいたんだと言ったら、武留たちはびっくりするだろうか。鍵田聖哉という存在を、武留が憧憬の的として見てくれているなら、彼の想いを壊してしまわないように振る舞わないといけないと、聖哉は思った。
「千葉さん、今日のメニュー、唐揚げ定食なんですか?」
 知花の前に置かれている皿を見ると、まだおかずが残っていた。
「あれは竜田揚げとちゃうかな」
 聖哉の隣に座った怜央がぼそぼそと言った。
「おや、もしかして君が噂のイマカイくん?」
 千葉が怜央の言葉のイントネーションに反応した。
「え? ……僕、ここで噂になっとったんですか?」
「鍵田たちが、前に転校生が来たと教えてくれたんだ。関西から来たんだろ」
「はい。僕が一番合戰怜央です。僕もこの店のことは、聖哉たちから聞いていて、行ってみたいと思とったので、今日来れて良かったです」
 ここで聖哉くんたちは働いとったんですね……と、怜央はぐるりと店内を見渡した。
「千葉さん! ごはん特盛りにしてください!」
 無性に腹が減っている。気力がなかったことを除けば、落ち込んでいたときもいまも、食欲だけは同じくらいある。病気になったり、気分が沈んだときに食が細くなる人がいるが、聖哉はその例には当てはまらないタイプだった。
「特盛りな。了解」
 半透明のタッパーに、下味のついた鶏もも肉がぎゅうぎゅうに入っている。醤油やみりんのほかに、すりおろしたにんにくとしょうがと、それに卵も入れて揉み込むのが千葉のこだわりだった。タッパーから取り出した肉を、バットに広げた片栗粉の上に転がして、全体に衣をつけたあと、油の中に投入する。聖哉たちの元まで、鶏肉が揚がる音がじゅわじゅわと聞こえてきた。同時にぴちぴちと鍋の表面を油が跳ねる。
「竜田揚げと唐揚げの違いってなんですか?」
 水口が皿に千切りキャベツとトマトを添えて調理台に置いたあと、洗い場に溜まっていた食器を洗っていく。それを眺めながら、聖哉は千葉に尋ねた。
「唐揚げは本来、下味をつけずに、軽く小麦粉や片栗粉をつけて揚げたもののことで、竜田揚げは肉や魚に下味をつけて、片栗粉で揚げたもののことだ」
「でも最近は唐揚げって呼んでるものでも下味を付けたり、竜田揚げでも小麦粉を使ったりするから、段々区別が曖昧になってきてるのよ。きゃっ!」
 水口が話に入り込んできたが、手を滑らせてシンクの中で食器を取り落としたらしい。ガシャガシャと派手な音と、短い悲鳴が同時に一同の鼓膜を震わせた。
「おいおい気をつけろよ。割れてないか?」
「ごめんなさーい。食器は大丈夫です」
 そんなこんなで、四人の分の唐揚げ定食もとい、鶏の竜田揚げ定食が完成した。付け合わせの味噌汁の具は、じゃがいもと玉ねぎ、小鉢はブロッコリーの白ごま和えだった。聖哉のリクエスト通り、白飯が山を描いている。
 揚げたての竜田揚げは、まだ衣の表面がしゅわしゅわと鳴っている。耳をすますと、油が肉に染み渡る音が聞こえてくるようだ。
「いただきまーす!」
 ギブスで固めた左手は添えるだけ。聖哉は器用に箸だけを使って食事を摂りはじめた。
「いただきます」
 晃司たちの声も重なる。ベジファーストにこだわっている聖哉以外は皆、竜田揚げにかぶりついた。直後、満足そうに口角を上げて、白飯を頬張った。シンクロしたような三人の動作。提供する側の千葉は、自分が作った料理を美味そうに食べてくれる客の姿を見るだけで、なんだか幸せな気分になる。食べ盛りの少年たちがこうして、腹を満たしてくれる。——せめて食卓にいるときくらいは、貧富の差も、各々が抱えている事情も、悩みも、そういう日常を煩わせる事象など見ないで済むように、目の前の食事に集中してほしい。そして『えにし』と名付けたこの場所が、子供たちの笑顔溢れる場所になってほしいと、千葉は思っている。

「聖哉、元気出たか?」
 やはり片手しか使えないというのは、幾分不便なようだ。聖哉は竜田揚げに箸を突き刺してかぶりついているが、今は見なかったことにする。晃司は「ほら、オレの、ひとつやるよ」と言って、鶏肉をひとつ分けてやった。
「メシを食うって、結構大事なことだなって実感してるところだ。あっ、千葉さん、このあいだ、カツ丼ありがとうございました! めちゃくちゃ美味かったっす!」
「オマエ、泣きそうになってたもんな、あのとき」
「うっ、うっせえ! そんなっ、おい、千葉さんの前でそんなこと言うなよっ!」
 聖哉は本気で狼狽えていた。一瞬にして顔が真っ赤になる。羞恥を誤魔化すように、口いっぱいに白飯を詰め込んだ。
 咀嚼して、ごくりと飲み下す。
「千葉さんのメシは美味えもんな。いいんじゃないか。メシを食ってるときくらいは、素直になっても」
「やめろよ、晃司。そうやっておれの心を揺らすようなこと、言うなよ」
 聖哉はカチャリと箸を置いて、水に手を伸ばした。
「おれは今回の怪我で、だいぶみんなに置いてかれちまった。秋にマウンドに上がるのは無理だから、そのあいだに手を治して、そっからみんなに追いつかなきゃいけないんだ。だからこれまで以上に、野球に集中しないといけない。……それは千葉さんの飯を食いたくなっても、これからは気安く来られるような場所じゃなくなっちゃうってことだろ? それを覚悟して、おれはここに来るのは今回で最後だって気持ちでいるのに!」
 晃司は返事に迷った。自分と聖哉では、部活にかける覚悟が違う。だから下手なことはいえない。空いた時間にいつでも来られるじゃねえかと、思っていてもそれを口にするのは憚られた。
「それはちょっと違うぞ、鍵田」
「え?」
「頑張ることと、自分を追い詰めることは違う。鍵田が普段どういう気持ちで、部活に励んでいるのかは、俺には分からない。だけどな、今のお前を見ていると、なんだか危なっかしい感じしかしないんだ。……夢があって、それに向かって邁進するのは大いに結構だ。素晴らしいことだ。でも、それだけじゃ駄目なんだ」
 本当にいい選手になりたかったら、野球をやっているだけでは駄目だと、千葉は続けて言った。
「でもおれは……おれはっ!」
 聖哉も引き下がらなかった。頑ななのは、聖哉がそれだけ真剣に、野球に取り組んでいる証なのだ。
「鍵田、いま、お前は楽しんで野球をやっているか?」
「あ、当たり前じゃないっすか!」
「楽しんでやれているうちはいい。危ないのは、その楽しみが苦しみに変わってしまうときだ」
 そんなこと、ありえねえだろ。聖哉は思った。
「お前たちがこども食堂の手伝いに来はじめた頃、潮は俺に聞いてきたな。『オレは自衛官としてやっていけると思うか』と」
 晃司が頷く。
「自分の目標を叶えたいなら、なにがあっても、折れない心を持つことが大事だと、千葉さんは言ってくれました」
「そうだ。だが、人生の中で、一度も心が折れない人間なんて、いないと思わないか?」
 四人は顔を見合わせた。この人は、自分が言ったことをこうして簡単に撤回する人だったのか? 晃司の心に、そんな疑念が浮かぶ。
「この世界の物事に絶対はない。自分は大丈夫だと思っていても、ある日好きだったものが嫌いになってしまって、何もかもが嫌になって挫けそうになるかもしれない。ならば、挫けそうになったときにどうすれば再び立ち上がれるのか。それを普段から考えておくんだ」
「聖哉」
 遙佳だ。少し俯いて、千葉の言ったことを自分なりに解釈しようとしたとき、怜央の向こうから、名を呼んできた。
「安心しろ。俺たちがいるじゃないか。お前が倒れそうになったときは、俺たちが必死で、支えてやるよ」
「そうだ。オレもいるぞ、聖哉。オレたちはオマエと同じ夢を持って生きているわけじゃない。そんなオレたちだからこそ、オマエがドツボにハマりそうになったとき、正気に戻してやるくらいは出来ると思うぞ」
「僕はまだまだ新参者やから、晃司や遙佳みたいなようには出来ひんかもしれへんけど、聖哉のこと、応援させてくれたら嬉しいな」
 聖哉は、『おまえの気持ちが分かるよ』という言葉が嫌いだった。なんでそんなもんが分かるんだよ。おまえはおれじゃねえのに。じゃあおれが抱いている感情の一言一句を、いますぐ間違えずに言ってみろよと、反唇したくなる質だった。
 三人は違った。聖哉と各々の立場は違うことをちゃんと分かっていて、その場所から、背中を押そうとしてくれている。
「みんな……ありがとう……」
 照れくさくなって、坊主頭をポリポリと掻いた。「もう大丈夫。腐ったりしねえ。おれはおれに降りかかってくる全部を受け止めて、前に進んでやる」
 とくんと、胸が鳴った。聖哉はハッとして、その鼓動を受け止めた。——おれには夢がある。だけどきっとそれは、自分ひとりじゃ叶えられない夢だ。最終的にゴールに辿り着くのは自分だけど、きっとおれは誰かの……周りのみんなの力を借りながら道を辿らないと、またどこかで躓いてしまうかもしれない。でもおれには、こんなおれを支えてくれる仲間がいる。晃司も、遙佳も、怜央も。ユーダイも、魚住キャプテンも、野球部のみんなも。それに千葉さんも……。
今まで会ったこともなかった他人同士が、同じチームになったからというだけで仲間になる。そこから縁が生まれる。絆が育まれる。人間の適応力ってすげえと思わないか?
涙を流しきったあとの気持ちに似ていた。今はまだ何も掴んでいないのに、視界がぱあっと拓けたかのように、爽快な気分になる。
瞼に映るのは、聖地のマウンドに立つ自分だった。いまは背番号十番。いつかゼロをとって、エースナンバーを背負うのだ。

 後日、野球部のミーティングが開かれた。監督から部員たちに報されたのは、聖哉が徐々に練習に復帰すること。手の怪我が治るまでは、患部に負担がかからないよう、下半身の強化トレーニングを中心としたメニューをこなしていくように命じられた。
 ミーティングの後半に、部員全員に色紙が配られた。夏が終わって、新しいチームで始動していく自分たちだが、各々で目標や覚悟を文字に刻めと言われた。
 色紙とにらめっこをしながら悩む部員が多い中、聖哉はすぐに油性ペンを手に取って、サラサラと色紙の上に走らせた。

『三者凡退 完全試合!』

 油性ペンの太芯で書かれた力強い文字の色紙は、いまは寮の部屋の壁に掛けられていて、晃司と遙佳の心をむず痒くさせるのに、一役買っている。