潮晃司は、子供の頃からヒーローに憧れていた。とはいえ、おおよその子供が抱くであろうヒーロー像から、それは若干外れていた。
誰かのピンチに颯爽と現れ、瞬く間に敵を倒していく強い正義の味方。——ではなく、晃司が憧れたのは、最初は平凡だけれど、努力をして段々と強くなっていくような、どちらかといえば地味なヒーローだった。拳を使い、己の身体ひとつで闘うタイプなら、尚更良かった。時に自分を極限まで追い込んで、修行をする。どんな理不尽な状況においても折れない心を持って挑む。そんな男になりたいと、晃司は考えていた。

「潮、お疲れ。ちゃんと水分補給しろよ」
「押忍!」
 道場内に、晃司の返事が響いた。空手部の部員たちと連続組み手を行った直後だったが、晃司にはまだ動ける余力があった。水を飲み、隣で休憩している元主将の諸岡傑の前に立った。三年生の諸岡は、夏の大会後に部活を引退したが、こうして週に何度か、部に顔を出して晃司たちと共に稽古に励んでいる。
「主将! もう一本、お願いします!」
「も、もうちょっと休憩させてくれ……」
「押忍! 申し訳ありません!」
 苦笑する諸岡の横で、着衣の乱れた道着を直す。滾る心を鎮めるために、晃司はふうっと息を吐き、道場の隅っこに駆け足で向かい、天井から垂れている綱を登りはじめた。

 空手部の活動時間は、どんなに遅くとも十八時半までと決められている。いまの主将が時間厳守をモットーにしているのか、部の伝統なのかは分からないが、それより延長して活動をすることは認められていない。もっと自分を鍛えたければ、各々で自重トレーニングやランニングなどを行うしかないが、ただでさえ相手とぶつかり合う激しいスポーツであるから、オーバーワークをしないように配慮されているのだろうと、晃司は思っている。だから、活動時間内は目一杯鍛錬に打ち込みたいというのが本音だった。
 練習終わりには部員が輪になって瞑想を行う。静寂の中に、窓の外から聞こえてくる他の部活の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音が流れ込んでくる。ああ、今日もまた一日が終わろうとしていると、晃司は目を閉じたまま考える。毎日同じことの繰り返しではあるが、自分は確実に一歩ずつ未来へ向かって歩いているのだと思ったりする。
「最近はちょっとだけ暗くなるのが早くなったな」
 諸岡がやけにしみじみと言ったので、晃司はそうですねと頷いた。
「明日は例の件で、部活は休みだったよな」
「押忍、迷惑かけてすみません」
「居眠りくらいで罰則なんて、香芝先生も思い切ったことをするよな。まさかお前、もっとやべえことやってんじゃねえだろうな。……って、冗談だよ。お前に限ってそんなわけねえってちゃんと分かってっから、怖い顔すんなって」
「押忍……」
 聖哉と遙佳と晃司、三人の中で、今回の罰則に納得がいっていないのは、実は晃司だった。諸岡の言うとおり、居眠り程度で部活を部分的に禁じるなど、いくらなんでも重すぎやしないか、という気持ちは拭えなかった。
 たしかに自分の常習的な行動は、軽率だった。だが、授業中に居眠りをしている生徒なんて、どの学年にも一定数はいるだろう。なぜ自分たちだけが吊るし上げられなければならなかったのか。——たとえば、三人が寮の同じ部屋で生活を共にしているから、それが問題視されているのか、ちゃんと納得できる理由が知りたかった。
 その一方で、この程度の仕打ちに耐えられないでどうするのだと、自分を戒めていて、いまはどちらかというと、こちらの気持ちの方が強かった。
 晃司の目指す自衛官は、どんな理不尽な状況においても、国と国民を守るために動かなければならない。そこに私情を挟み込んではならない。それになにより、訓練中の仲間のミスは連帯責任となる。だから納得がいかずとも、自分に降りかかるすべてのことを受け入れる気概を持ち合わせていなければならないのだ。
 いまはそのための練習期間だと、晃司は考えた。自分の行動は、すべて未来に繋がっている。だから本当は、居眠りなんてしてはいけない。今の状況は、自業自得なのだ。

「もう……だめだ……ぐへっ!」
 突然対抗意識が芽生えたのか、並んでプランクを始めた聖哉が、先にへばってべたりと地面に崩れ落ちた。晃司が涼しい顔をしたまま、「なんだ、だらしないな」と茶化すと、彼は子供のようにあからさまにブスッとした顔をしてみせた。一セット三十秒を四セットしたあとに、先にへばったほうがジュースを奢ると言い出したのは、聖哉本人だったせいか、余計に悔しいらしい。
「こんにゃろ、おれが背中に乗ってやる!」と、聖哉の体重が加わった晃司は、しばらくその姿勢を保ち続けていたが、二分半経って、腹筋が引き攣りそうになったため、ギブアップした。
「自衛隊に入ったら、二時間くらいぶっ続けで筋トレやるんだろ? こんなんじゃ務まらねえぞ」
 聖哉が得意げに胸を張る。どんなかたちであれ、晃司を打ち負かしたと思っているらしい。
「そうだな。もっと精進するよ」
 これ以上イジるのも面倒なので、自分の実力不足を素直に認めているふりをしてみせた。
「ちぇっ、面白くねえの。晃司、なにが飲みたいんだよ」
「んー、イチゴオレでいいや」
 普段は水やお茶を飲む頻度が多いが、たまに甘いものを飲みたくなる。今がまさにそうだった。
「了解! 疲れてんのか? マッサージでもしてやろうか?」
 きっと甘いものを所望したことを珍しがっているのだろう。聖哉はそう言いながら部屋を出ていった。

 聖哉と入れ違いに、遙佳が部屋に戻ってきた。バレー部の練習着のままだ。時計をみると、十九時をすこし過ぎたところだった。
「おかえり」
「ああ、お疲れ」
 遙佳は晃司を一瞥して、自分の机の上に荷物をどかりと置いた。
「さっき聖哉と会ったんだけど、なんか飲み物奢ってくれるってよ」
「オレとのプランク対決に、アイツが負けたんだ。そのおこぼれだよ」
「晃司に挑むなんて、聖哉も無謀だな」
 遙佳はそう言って微笑んだ。「飯、まだだよな。聖哉が帰ってきたら、食堂に行こうぜ」
「ああ」
 明日のこども食堂の手伝いのためにも、ちゃんと栄養を蓄えておかないと。そこまで大袈裟に思ってしまうのは自分だけだろうかと思いながら、晃司は頷いた。

「潮!」
 食堂に入った途端、部屋の中央あたりから自分を呼ぶ大声が聞こえてきて飛び上がった。諸岡の声だと気づいて、食事を受け取るまえに彼の元へ近寄る。
「お疲れ様です!」
 敬礼でもしそうな勢いで挨拶をする。諸岡はお疲れと呟いて、「友達と一緒に食うのか? ここが空いてるから、座れよ」と、自分の周りの空席を指差した。
「ありがとうございます! アイツらに言ってきます」
 聖哉はともかく、遙佳は、そんなに親しくもない先輩の前で飯を食うなんて嫌がらないだろうかと思ったが、二人とも嫌な顔ひとつせず、晃司と一緒に諸岡のいるテーブルに座った。
「すみません、失礼します」
「お邪魔しますっ!!」
 ああ、と頷いた諸岡が、ふと聖哉の顔を見た。
「君は野球部の……。決勝の途中から投げてなかったか?」
「はい! 試合観に来てくれたんですね! 勝てなくてすみませんでした!」
 そういえばあの日、諸岡も球場に足を運んだんだったなと、晃司はその会話を聞きながら思い返していた。自分は遙佳と一緒に試合を観ていた。
「べつに来てもいいし、応援してくれるのは嬉しいけど、おれ、最初から最後までベンチを温めているだけかもしれねえぞ」
 試合を観に行くと言ったとき、聖哉は照れてはにかんでいたが、結果的にはマウンドに立って、崩れてしまったチームを立て直した功労者となったのだ。あのときの聖哉の姿を見て、ああ、アイツは本当にピッチャーとしての才能をかわれてベンチ入りをしたんだなと実感した。
「いただきまーす!」
 聖哉の食前の挨拶が軽やかに響く。晃司と遙佳も、彼のあとにしたがって手を合わせた。
 トマトソースがかかったハンバーグと野菜サラダ、えのきの味噌汁にジャーマンポテトというおかずの組み合わせだ。
「うまっ! 晃司、遙佳、今日のハンバーグ、めちゃくちゃうめえぞ!」
「ああ、美味いな」
 晃司も一切れ、箸で切って、口に含んでみた。粗めの挽肉と玉ねぎが楕円形にまとめられている。トマトソースには、ガーリックの風味が混ざっていて、ガツンと米が欲しくなる刺激が味覚を襲ってきた。身体を大きくしろと、丼三杯の白飯を食うように言われている聖哉も、さぞかし箸が進むことだろう。
「お前たちはいい年に入学してきたな」
「どういうことっすか?」
 唐突に諸岡が話し出した言葉を、聖哉が拾った。
「去年までのここで出るメシは、正直当たり外れが多くてな。質より量って感じの飯が多かったんだ。それが今年になって、急に変わった。俺は正直、去年までのメシなら、別に食っても食わなくてもどっちでもいいと思っていたんだが、最後の一年になってメシの質が上がると、どうも惜しい気持ちになる」
 とくに三年の先輩たちが、諸岡とおなじようなことを言っていた。晃司は食えればなんでもいいと思っているほうだから、いまは選り好みをしているつもりはないが、この気持ちも、年齢が上がるにつれて変わっていくのだろうかと思った。
 美味い美味いと連呼しながら食事を進めている聖哉のとなりで、彼の様子を見ながら、それを微笑ましく思っていた。時折彼には、同い年なのに、まるで弟をみているような、そんな感覚を抱くことがある。晃司は一人っ子だったから、その感情はあくまでも彼の想像でしかないが、他の同級生たちには決して抱くことのない気持ちだ。

「お前たちは潮と同じ部屋だったよな?」
 諸岡の問いに、聖哉と遙佳が同時に頷いた。
「うちの潮はどうだ? 迷惑かけてないか?」
「はい! ずっと筋トレしてます!」
「き、筋トレ……?」
 聖哉は自信満々に言ったが、おそらく諸岡の求めていた回答とはズレていたのだろう。少しだけ眉を怪訝そうに潜めながら、彼は苦笑した。
「晃司はいいやつっすよ。自慢の友達です!」
 聖哉は、まっすぐな眼差しでそう言った。対象となった本人が本気で照れるくらい、彼の言葉は純粋に皆の胸を打った。
 食後、トレーをカウンターに返しているとき、聖哉は諸岡に手招きをされた。
「なんすか?」
 野球部の先輩ならともかく、別の部活の先輩に呼び止められるのは珍しかった。まさか、諸岡の気に障るようなことでも仕出かしてしまったかと肝が冷えたが、どうもそんな様子は感じられなかった。
「ちょっとだけいいか」
「あ、はい!」
 聖哉は、ごくりと唾を飲み込んで、諸岡の背後に立った。あまり親しくない目上の者と話すときは、聖哉であっても緊張する。
「潮のことなんだが、最近あいつ、なにか変わったことはないか?」
 諸岡がそんなことをわざわざ聖哉に聞いてくるということは、彼は晃司になにか違和感を抱いているのだろう。
「んー。おれはとくになにも思わないっすけど……。諸岡センパイはあいつになにか思うことでもあるんすか」
「ああ、実はな……」
 食堂が閉まるまでにはまだ時間がある。聖哉は諸岡に促されて、再び空いているテーブルの席についた。
「あいつ、最近自分を追い込みすぎている節があるような気がするんだ。さっきも君は、ずっと筋トレをしていると言っただろう」
「あ、いやでも、ずっとってわけじゃ……」
 さっきのは言葉の綾だと、今になって言い訳をしたくなる。諸岡は聖哉が口を開きかけたのには気が付かず、先を続けた。
「部屋にいるときはちゃんと寝てますし、ベンキョーもしてるっすよ」
 それは果たして、フォローになっただろうか。聖哉は一人でそっと胸を撫で下ろし、諸岡の顔をじっと見つめた。こいつでは話にならないと思われていないことを願うばかりだ。
「あいつは自衛隊に入りたいと言っているだろう」
「はい。ミミタコっす」
 即答した聖哉の言葉を聞いて、諸岡はフッと笑みをこぼした。
「だからなのか、元々の性格なのかは分からないけど、潮は自分が立てた目標に到達するためには、手段を厭わない傾向があるように思えるんだ。 ……居眠りだかなんだかで、香芝先生に罰則を言い渡されたあとから、その傾向がより顕著になってきているように感じられる。あまり好ましい状況ではないのは、火を見るよりも明らかだ」
 なんだか小難しい言い回しをする人だな……と、聖哉は思った。イトワナイとか、ケンチョだとか、普段耳にしない言葉を、なんとなくの雰囲気で解釈してみる。諸岡が晃司のことを心配していることくらいは、ちゃんと伝わってきた。
「えにしに行っていて、部活に出られないぶん、他で補おうとしているってことっすか」
「その可能性がある」
 ずんとした重い雰囲気を放って、諸岡はそう言った。聖哉はごくりと唾を飲み込んだ。
 おれだって、同じ事をしているぞ、と思ったのだ。
 えにしの手伝いが終わると、野呂に付き合ってもらって自主練をしている。そうでもしないと、自分の気が済まないからだ。きっと晃司も自分と同じように、練習量が減ることによって焦りを感じているのだろう。——だとしたらおれも、諸岡センパイみたいな人が野球部にいたら、心配させてしまうのだろうか。
 自主練を増やして、疲労が残ったり、翌日以降、体に不調が出たりはしていない。晃司にもそんな様子はない。だったら大丈夫じゃないのか?
 心配してくれるのは有り難いけれど、なんだかお節介に感じてしまう。少しだけ芽生えた反発心がむくむくと膨らんでこないうちに、「おれからもあまりムチャはすんなって言っておきますよ」と、聖哉はその場をやり過ごしたのだった。



 転校生が来るという話題が、寮中を席巻した。普段はあまり人に興味を示さない遙佳ですら、浮き足立ったかのようにそわそわとしていた。聖哉などは、普段そんなことはしないのに、寮監室に入り浸って香芝から情報を聞き出そうと躍起になっていた。
「鍵田、授業のときより真剣じゃないか」
「いや、そんなことはないっす。おれ、最近授業もマジメに受けてます」
 たしかに、他の教師からこのところ耳にする話によれば、聖哉も晃司も、そして遙佳も、授業中は居眠りをしなくなったと聞いている。罰則の期間はまだ続いているからかもしれないが、今回の措置がよほど懲りたのだろう。
「お前ら問題児の部屋、たしかまだ三人だったよな」
 香芝の視線が寮監室のホワイトボードに移った。この寮内で生活している生徒たちの札が並んでいて、そこを見れば、部屋割りと在籍状況が分かる仕組みになっている。長期休暇のときに自宅に戻るなどした生徒の札を裏返せば、表面が赤くなって、寮にはいないことを表しているのだ。
【鍵田聖哉】【潮晃司】【松島遙佳】と札が並んでいる横が、ちょうどひとつぶん空いている。
 香芝につられて移した視線を元に戻すと、机の上に、見慣れない名前の札がひとつ、コロンと置かれているのが目に入った。
【一番合戰怜央】
(いちばん……がっせん?)
 聖哉が不思議そうな表情になったので、その札を見たことが香芝にも伝わったのだろう。彼は札を手に取って、聖哉の前に差し出してきた。
「珍しい苗字だろう。これで『いまかい』と読むらしい」
 晃司といい、この『一番合戰怜央』といい、初見では読みづらい苗字のやつが集まりすぎだと、聖哉は思った。
「そのイマカイってやつが、おれたちの部屋に来るんすか」
「そうなるだろうな。お前たちもそろそろ落ち着いただろうし、ちょうどいいだろ。喧嘩するなよ」
 寮に入るからには一番合戰も体育科なのだろう。岸辺城島の体育科は一学年に二クラスあって、晃司と遥佳は自分とは違うクラスだから、バランス的に、一番合戰は同じクラスになってほしいと、聖哉は思った。

「転校生か。小学生のときは学期ごとに転校してきたり、していったりっていうのが多かったけど、オレが転校生と絡むのは、それ以来だな」
 晃司は部屋の扉の上枠にぶら下がって懸垂をしている。諸岡との一件以来、聖哉は彼がトレーニングをしているところを見ると、なんだか落ち着かなくなる。晃司が部活でどんな指導を受けているのかは知らないが、きっと諸岡のことだ。肉体を追い込みすぎるなと、口を酸っぱくして言っているであろうことは容易に想像が出来た。
 だからといって、「おまえ、あまりやりすぎんなよ」と、聖哉が口を出すのもお門違いのような気がする。例えばトレーニング中に晃司が怪我をしたら、「そら見たことか」と言えるかもしれないが、そんな展開は求めていない。
 晃司の足の下にぽたぽたと汗の染みが増えていくのを見ながら、聖哉は話を続けた。
「そいつ、珍しい苗字なんだ。晃司よりもな」
「オレの苗字は聖哉みたいに読み違えるヤツがたまにいるだけで、別に珍しくないだろ」
「自虐ネタにするくらい、面白がってるじゃねえか」
 鋭い刃のような口調で、遙佳が突っ込んできた。ちょうど本を読み終わったらしい。読書中は会話には入ってこなかったが、聖哉と晃司の話を聞いていたのだ。
「客観的に見てみろよ。塩麹だぜ、オレの名前!」
 晃司はそう言ってぐぐっと腕を曲げたあと、床に降り立った。
「筋トレは終わりか?」
「ああ。今日は満足した」
 そう言った晃司の表情が、彼の心情を物語っていた。
「四人目の同級生かー。イビキがうるさくないといいな!」
 いつも寝言がうるせえのはお前だよと、晃司と遙佳は思った。きっと睡眠中も、聖哉は野球に対する情熱を燃やし続けているのだろう。

 週が明けて、その転校生がついにやって来た。聖哉のクラスに、担任の猪田に連れられて登場したのだ。
「おーい、みんな、ホームルームの前に転校生を紹介するぞ!」
 体育科だから、体育教師が担任なのかと、入学した当初に思ったのは、聖哉のクラスの生徒たちだけで、晃司と遙佳のいる隣のクラスは権藤が担任だから、必ずしもそうではないようだ。今年二十五歳になる猪田は、聖哉のクラスを受け持つのが、担任として初めての経験らしい。自分と同じタイプの生徒たちが多いであろうと考慮されての人事だろうと、猪田本人が笑っていたことがある。
 猪田の一声に、教室が鎮まった。カラカラと扉が開いて、まず足元の上履きが見えたとき、聖哉も含めて生徒たちの視線は一斉にそこに集まった。
 転校生が来ること自体は数日前から知っていたものの、やはりその瞬間になるとわくわくする。聖哉はごくりと唾を飲み込んだ。
 教室に入ってきた男子生徒を見て、聖哉はなんだか体育科には似つかわしくない、大人しそうなやつだという印象を抱いた。その一方で、背筋がぴんと伸びていて、晃司のような、凜とした雰囲気も感じる。整髪料の類をなにもつけていない黒い髪は、額がちゃんと見えるほどに短く整えられていた。
 猪田が彼の名前を黒板に書くと、教室がざわついた。
「先生、『いくさ』の字のツの部分は、口が横並びにふたつ……です、すみません……」
「おお、そうだった! すまない」
 猪田はそう言って、『戦』と書いた文字を『戰』に直した。
「一番合戰怜央です。関西から来ました。あの、なかなか訛りが抜けへんかもしれへんけど、気にせんといてください」
 そう言ってぺこりとお辞儀をしてみせた怜央の頭頂部を見ながら、色々とインパクトの強いやつだと、聖哉は思った。
 猪田の采配で席が決められた怜央は、聖哉からは離れた場所に腰を下ろした。クラス中の注目の的になりながら、縮こまるようにしていた彼と話せたのは、ホームルームが終わったあとだった。
「いーまーかーい! おれと話すのは、今かい!?」
 聖哉が、成熟しすぎてくだらない洒落を言うのは、今に始まったことではない。クラスメイトたちは呆れたように、またか……と思っていたが、怜央は目を丸くして、聖哉の顔を凝視していた。
「あっ……よく言われてました、その言葉遊び」
「でへへっ、そうだったのか。おれ、鍵田聖哉。寮ではおれと同じ部屋になるんだ。よろしくな!」
「……あっ、はい、よろしくお願いします」
「なあ、体育科ってことは、なんかスポーツやってんだろ? 部活とか、何やってるんだ?」
「けっ、剣道を……」
 聖哉の周りに群がっていたクラスメイトたちが、おおっとどよめいた。今のところ、怜央の姿勢が良いこと以外は、彼から武道の匂いはしない。次はなにを聞いてくるんだろうと、びくびくしている様子が伝わってくる。
「おっ、じゃあ、晃司と話が合うかもしれないな。あとで紹介してやるよ。同じ体育科で、隣のクラスだからな」
 怜央は、その後も色々根掘り葉掘り聞かれていた。『一番合戰』という苗字は、九州と近畿地方に数軒程度しか存在しない、とても珍しいもので、その中でも『いまかい』と読むのは怜央の家系ぐらいかもしれないと言っていた。
 怜央は関西から来たと言っていたが、蛸や鯛などの海産物が美味い町に住んでいたらしい。
「親の転勤で、こっちに来ることになったんです」
 親と一緒に引っ越してきたというのに、寮生活を選んだのは、これ以上振り回されたくないという反発心が芽生えたからだという。
「そんなん、親には一言もゆってないけど……」と、怜央ははにかみながら、敬語でがちがちに固めていた口調を崩してみせた。
 そこでチャイムが鳴る。バタバタと自席に戻る生徒たちの群れに混ざりながら、聖哉は怜央に、遙佳と初めて会ったときのような感触を抱いていた。



「一番合戰! メシ食いにいこうぜ!」
 同じ部屋の四人の顔合わせが、早くもその日の昼休みに実現した。
「あっ……うん」
 怜央はあたふたと、机の横に提げていたリュックから財布を取り出して、聖哉の後ろにくっついて教室を出た。トイレの前で待ち合わせをしていた晃司や遙佳と合流して、一同は学食へ向かう。
「晃司、ションベンして、ちゃんと手は洗っただろうな」
 きちんとしているように見えて、その辺りはだらしない晃司のズボンのポケットの辺りが湿っているように見える。濡れた手をそこでこすったのだろう。
「ダイジョーブ! メシの前だし、ちゃーんと洗ったぞ」
「メシの前だけじゃなくて、いつもちゃんと洗えよな……」
「へいへい」
 遙佳の痛い視線を軽く捌き、晃司はちらりと聖哉の背後にいる怜央を見やった。視線がかち合って、怜央はぺこりと頭を下げる。聖哉より少しだけ身長の高い彼は、聖哉の頭頂部に遮られずに目元がよく見えた。なんだか困ったような顔をしたヤツだなと、晃司は思った。緊張しているのかもしれないが、控えめな性格なのだろうと察した。
「オマエが噂の転校生か?」
「おい晃司、おまえなんて言ってビビらせてんじゃねえ。一番合戰はおれたちと同じ部屋の仲間になるんだぞ」
 もう情が移ったのか。噂に聞いていたから名前は知っていたが、じゃあ『イマカイくん』と呼べば良かったのかよ。
「一番合戰、この怖いマッチョメンは、晃司。『シオ』晃司な」
「シオ……くん。一番合戰怜央です。よろしくお願いします」
 晃司は、盛大ににやにやしている聖哉の肩を軽く小突いた。
「潮風の潮と書いて、うしお。オレはシオコウジじゃなくて、うしおこうじだからな」
「ひっ! すすす、すみませんっ!」
「別にいいよ。だいたい悪いのはコイツだからな」
 誰からともなく歩き出す。早く学食に行かないと、寮の食堂とは違って全学科から生徒が集まってくるから、すぐに混雑に巻き込まれてしまう。
「俺は松島遙佳。よろしくね」
 道中、遙佳が自分から怜央に名乗ったのは、聖哉も晃司もびっくりした。「見ての通り、ノッポだからバレー部。君は?」と、質問までしている。
「僕は剣道をやっていたので、ここでも続けるつもりです」
「あれ? 一番合戰くん、もしかして関西人?」
「あっ、はい! イントネーションが関西のそれやし、方言もなかなか直らんと思いますけど、ご容赦ください」
 敬語とタメ口が混じるのが可笑しかった。それはきっと互いに馴れ合っていない今だけの口調だろう。
「晃司は空手部。おれは野球部!」
「鍵田くんは野球部って感じの見た目やもんね」
「ヘヘッ、そうか?」
 聖哉はポリポリと頭を掻いた。『野球部っぽい』と言われたのが嬉しそうだ。
「野球とバレー、空手と剣道。見事に球技と武道で分かれたな」
「おい遙佳、そんなこと言って、派閥なんて作んなよ」
「そんなくだらないことするわけないだろ」
「……僕もそういうのは苦手です」
「心配すんな、一番合戰。四人で仲良くやろうぜ!」
 学食は予想通り、腹を空かせた獣のような男子たちでごった返していた。四人は券売機の前でしばらく悩んだあと、思い思いのメニューを選んだ。
「ほら、この食券をカウンターのおばちゃんに渡すんだ。おーい! おばちゃーん!」
「鍵田くん、そんな大声で呼ばなくとも分かってるよ」
 聖哉の呼び声に苦笑しながら、食堂の店員は四人の食券を受け取った。聖哉は焼き肉定食、遙佳はかき揚げ蕎麦、晃司は野菜炒め定食、怜央はラーメンを注文していた。
「ほんまはうどんが良かってんけど、黒いでしょう?」
 怜央がぼそりと呟いたことは、遙佳が受け取った蕎麦をみて意味が分かった。
「あ、やっぱり黒い」と、蕎麦の出汁を見て、怜央が目を丸くしたからだ。
「やっぱ西と東じゃあ、出汁も全然違うんだな」
 割り箸を割って、かき揚げを汁に浸しながら遙佳が言った。
「素材の味を活かすのか、しっかりと味付けをするのかの違いだと、聞いたことがあります」
 聖哉と晃司がお盆を持って席に戻ってきた。二人とも、茶碗に白飯を大盛りに入れてもらっている。
「あれ、一番合戰、待っててくれたのか? ラーメン、伸びちまうだろうから先に食ってりゃ良かったのに」
 自分と同時に箸を割った怜央を見て、聖哉は笑って言った。
「今まではみんなが揃ってから食べるようにしてたから……」
「まあいいや。いただきまーす!」
 聖哉の注文した焼き肉定食は、その名の通り、牛肉の切り落としともやしや玉ねぎをたれで炒めている。千切りキャベツが皿の半分に盛られており、きゅうりの漬物と切り干し大根の和え物が小鉢についていた。味噌汁の具はわかめと豆腐だ。
 聖哉はまず水をごくごくと飲み、口いっぱいにキャベツを頬張った。間髪を入れずに箸で掬うように肉と野菜をとった。
「一番合戰も今度コレ食ってみろよ。美味いから。おれ、学食では焼き肉定食が一番好き」
「ええ匂いやね」
 怜央が食べているラーメンは、オーソドックスな醤油ラーメンだった。チャーシューが三枚ともやし、そしてわかめがスープに浸されて鎮座している。怜央はテーブルに置いてあった胡椒を振りかけて、まずはスープを一口啜った。
「一番合戰の荷物は、もう寮に届いてるのか? あれだったら、運ぶの手伝うぜ」
 晃司は日常生活の動作でも、筋トレになりそうなことがあれば勧んでやるのが好きだった。
「僕が授業を受けているあいだに、寮監の先生が部屋に運んでくれるみたいです」
「なるほど。じゃあ、放課後はゆっくり荷ほどきが出来るな! あ、でも剣道部にも顔を出すのか?」
 晃司が矢継ぎ早に尋ねてくるので、怜央は慌ててずずっと麺を吸った。咀嚼しながら、こくりと頷く。「潮くん、空手部ってことは、剣道場と近いやんな。放課後、一緒に行ってくれますか?」
「あー……」
 四人、というよりは、三人のあいだに気まずい雰囲気が流れる。互いに顔を見合わせて、苦笑する。「オレたち、ちょっと事情があって、今日は部活……休みなんだ」
「そうそう、ちょっと……なっ!」
 言葉を濁す聖哉の顔を、怜央は不思議そうに見つめた。「あれ? 今日は一斉に部活が休みとか……ですか?」
「違う違う。おい聖哉、晃司。どうせ分かることなんだからさっさと言っておこうよ。実は俺たち、いま絶賛罰則を受けてるんだ」
「ばっ!?」
 怜央は驚いてむせてしまったようで、しばらくゲホゲホと咳をしていた。
「三人とも、なにかやらかしたん?」
「居眠り」
 三人の声が重なった。息の合った仲間にしか出せない間のように、怜央には感じられた。
「その罰則の内容がちょっと変わっててな。岸辺城島の卒業生が、駅前でやってる居酒屋の、こども食堂の手伝いをすることなんだ」
「月曜日と金曜日に部活を休んで、えにしに行くんだぜ」
 遙佳に続いて、聖哉が言った。『えにし』とは、その店の名前だろうと、怜央は推察する。もやしと麺を箸に絡ませて、食事をすすめた。
「だから今日は学校が終わったらすぐに店に行かなきゃいけねえんだ。ごめんな」
 晃司は、放課後、怜央と一緒に武道場に行けないことを詫びているのだ。
「そうだったんですか。……大変やろうけど、頑張ってください」
「おう、頑張ってくるぜ!」
 聖哉がピースサインを送ってきたから、怜央は下がり眉をさらに下げて、口角を上げる。
まだ緊張が抜けていないせいか、結局四人の中で食べ終わるのが最後になってしまったが、聖哉たちがずっと待っていてくれたことに、なぜだか妙に安心したのだった。



「千葉さん、聞いてくださいよ。今日、おれのクラスに転校生が来たんすよ。寮の部屋もおれたちと同じで、なんか大人しそうなやつなんすけど、苗字がめちゃくちゃ珍しいんです。今度連れてきてもいいっすか?」
 聖哉は床を掃いていた作業を中断させて、箒の柄をマイクのように持ちながら、カウンター越しに千葉へ話題を振った。
「珍しい苗字か」
 聖哉はレジ台に置いてあるペンとメモ用紙をとり、白紙に『一番合戰』と書いて千葉に差し出した。「これで『イマカイ』って言うんすよ。西の方に何十人かしかいない苗字らしくって、だからあいつ、関西弁で喋るんです」
「なんだか聞いている限りだと、鍵田と同じくらい、元気そうなイメージだな」
「それが違うんすよ。緊張してんのかもしれねえけど、ちょっとおどおどしてて、ほら、こないだ此処に来た、リョウみたいな感じっす」
 それは三人と毛色の違う同級生が一緒になったもんだと、千葉は思った。いや、そもそもこの三人も、それぞれ個性が在る。学生寮の同じ部屋で生活しているという情報があるから、どうしても一括りで見てしまうが、個々をちゃんと見てみると、性格も考えていることも、所作もまったく違う。大人になっていくにつれて、組織の中で個性は殺されていくけれど、学校とはまるで、十人十色の個性を押し込んでごちゃ混ぜにしたような場所だと、そこを通過し終わった千葉は、今になってそう思う。
「あっ! 今日のメニューはラーメンとチャーハンだ! ……なんでも作れるんすね、千葉さん。すげえなあ!」
 カウンター越しに厨房の調理台を覗き込んだ聖哉は、高らかにそう言った。コンロには寸胴鍋と、中華鍋がセッティングしてあって、その横には細切れにしたハムやネギなどのチャーハンの具材と、昼に学食で見たようなラーメンの具材が並んでいる。
「一番合戰くんが来てたら、昼も夜もラーメンを食う羽目になってたな」
 背の高い遙佳は、天井近くの棚から、ラーメンを盛り付ける鉢を取り出していた。
「オマエも似たようなもんだろ。蕎麦食ってたし」
「いや、ラーメンと蕎麦は全くの別物だろ。空手と柔道みたいなもんだ」
「野球とサッカー!」
 聖哉が割り込んでくる。自己主張の激しい少年だというのは分かっていたが、それをあしらうようにスルーした晃司と遙佳を見て、千葉は笑いそうになった。

 その日のこども食堂は、聖哉たちが手伝いに来て以来、最も忙しくなった。今日のメニューの人気に火が点いたのか、はたまた、たまたまだったのかは分からなかったが、元々そんなに広くはないえにしの店内で相席が出るほどに、客足は絶えなかった。
 遙佳は洗い場にはりついて、下げられてきた食器を洗っていく。聖哉はホールで客を捌き、晃司は出来上がった料理の配膳や、客が食べ終わった食器の下膳を担っていた。
「お前たち、大丈夫か」
 自然と口数が少なくなっている三人に、千葉は調理場から声をかけた。
「はいっ!」
「あっ、はい!」
「ダイジョーブです!」
 三者三様の答えが返ってくる。てんやわんやしている中で、自分の声が聞こえているなら平気かと千葉は思った。

 ハプニングが起こったのは、開店から一時間半ほどが経過して、客足が落ち着いてきた頃だった。
 最初に聞こえたのは、「あっ!」という晃司の声。千葉が何事かとホールを覗くと、彼が驚いた表情を浮かべたまま、体のバランスを崩している様子が丁度見えた。
「晃司!」
 近くにいた聖哉が、手に持っていた布巾を放り出して、転びかけた晃司を受け止める。晃司は聖哉の腕に抱きとめられたものの、彼が持っていたトレーが宙を舞い、直後、床に叩きつけられた鉢と皿が割れる音が、店中に響いた。
「潮! 大丈夫か!?」
 千葉はすぐさま厨房を飛び出して、晃司のもとに駆け寄った。席についている子供たちは皆しんとしたまま、驚いた様子で事の成り行きを見守っていた。
「おまえら、動くんじゃねえぞ! びっくりさせて悪かったな。すぐに片付けるからな!」
 それ以上、騒ぎにならないようにとの配慮だろう。咄嗟に聖哉がぐるりと店内を見渡して声高に叫ぶ。遙佳は洗い物を中断して、箒とちりとりを持ってきて、割れてしまった食器を掃き集めた。
「す、すみません……千葉さん。大丈夫です」
 揺れ惑っていた瞳に、ふっと芯がこもり、晃司は自分の足で立った。
「遙佳、ごめん。オレがやるよ」
「もう終わるからいいよ。疲れてるのかもしれないからさ、ちょっとゆっくりしてろよ」
 屈んでいた遙佳が腰を上げる。ちりとりに乗った食器の破片がカチャカチャと音を立てて、端に流れ留まった。
「ちょっと躓いただけだから、なんともねえよ」
「おい晃司」
 聖哉がそう言って、晃司の前に立ちはだかった。「おまえみたいな丈夫そうなやつが、なんでもないところで躓いたんだ。なんともないことはないだろ」
「……うるせえ。自分のコンディションくらい、ちゃんと把握してる」
 ムッとしたのか、晃司は射抜くような目つきで聖哉を睨みつけた。
「なっ、なにキレてんだよ。おれはただ、心配してるだけだろ」
「別にキレてねえよ。悪かったな、びっくりさせて」
 晃司は吐き捨てるようにそう言ったあと、千葉に向き直った。
「千葉さん、すみませんでした。食器も割ってしまって。……弁償します」
「食器のことは気にしなくていい。怪我はなかったか?」
「はい、すみません……」
 晃司は幾分か落ち込んでいるようだった。彼が頑なに大丈夫だと言い張るので、千葉はそのまま作業を続けさせたが、躓く前と後では、明らかに立ち振る舞いが精彩に欠けていた。

 最後の子供たちを見送って、聖哉が扉を閉めると、今日のこども食堂は幕を閉じた。
「今日は忙しかったなー。武留たちとあんまり喋る暇もなかったぜ」
「喋りにきてるんじゃないだろ」
「そうだけどさー」
 聖哉は口を尖らせて遙佳に言ったが、意識は半分、晃司の方に向いていた。自分に余裕がないとき、人は苛立ちやすくなる。聖哉はそれをよく心得ている。あれ以来、晃司の表情がずっと険しい。自分の不甲斐なさを恥じて、機嫌が悪くなっているのだろうと察した。
「ほら晃司、座れよ」
 椅子を引いてやる。晃司は無言のまま、その椅子に座った。聖哉とは目を合わせずに仏頂面を決め込んでいる。その様子を見た聖哉はさっと身を引いて、厨房にいた遙佳に「おい、久々にやべえぞ」と耳打ちをした。無言で遙佳も頷く。その視線は、晃司の背中を見ていた。
「千葉さん、おれたち、今日はもう帰ります!」
「なんだ、食っていかないのか?」
 千葉は、まさに今から三人のために料理を振る舞おうと、準備をしていたところだった。
「は、はい、それどころじゃないような気がして……」
 そう言って、聖哉はそっと晃司を指差した。晃司の背中に目がついていない限り、そうしているところがばれることはないだろうが、三人のあいだに気まずい空気が漂っているのは確実だった。
 そうして三人はすぐに、そそくさとえにしを立ち去った。機嫌の悪い友人を目の前にして、とても食事を摂るような気にはなれなかったのだ。



「おいおまえ、まじでいい加減にしろよ」
 聖哉の堪忍袋の緒が切れたのは、その日の夜だった。時間をおいても、晃司の機嫌は直らず、しまいにはうんともすんとも言わなくなったのだ。
「あ? なにがだよ」
 相手は空手をやっている。取っ組み合いの喧嘩に発展したら敵わないことは承知していたから、聖哉は晃司の鋭い眼差しにたじろいで、ごくりと唾を飲み込んだ。
「おまえが落ち込むのは勝手だけど、あんなしょぼいことで、おれたちの気まで悪くさせるなっつってんだよ」
 しかし、聖哉も負けてはいなかった。そこに丁度、空の段ボールを捨てに行っていた怜央が戻ってきて、知らないあいだに部屋の空気が険悪になっていたので、彼らを触発しないように自分のベッドにそろそろと歩いていった。
「あ、あの、なにがあったん?」
 怜央はぼそりと遙佳に尋ねた。遙佳は簡潔に、えにしで起こったことを彼に話して聞かせた。
「別にオレがどんな気分でいようと、オマエらには関係ねえだろ」
「じゃあその態度、やめろよ。あっ、もしかして、おれたちに慰めてほしくて、わざと構ってちゃんムードを出してんのか?」
「なんだと!!」
 ガッと晃司が立ち上がった。聖哉の胸倉を掴んで、壁に押しつける。「テメエ、もっかい言ってみろ!!」
「あ……あの、止めた方がええんじゃ……?」
 二人の様子を見て、慌てる怜央に、遙佳は「放っておけ」と言った。
「そ、そうやって逆上するってことは図星だったんだろ? じゃあおれが慰めてやるよ。晃司クン、失敗して千葉さんに迷惑かけて大変でしたね〜」
「馬鹿にしてんじゃねえ!!」
 ぐごっと、聖哉の口から呻き声が漏れて、彼は壁をずるずると滑り落ちるようにしゃがみ込んだ。がら空きの腹に、晃司の膝蹴りが炸裂したのだ。これには流石の遙佳もベッドから飛び出て、「おい、やりすぎだ! いい加減にしろ、バカ!」と晃司を背後から羽交い絞めにして止める羽目になった。
 晃司は抵抗の意思を見せなかった。目の前に崩れ落ちて蹲る聖哉の姿を見て、ハッと我に返ったような表情を浮かべている。遙佳の拘束が緩んでも、晃司が追撃を加えることはなかった。
「晃司……さすが、空手部……おまえの蹴りは一味違う……な」
 ぜえぜえひいひいと、必死で通常の呼吸を取り戻そうとしながら、聖哉はたどたどしい口調で言った。
「せ、聖哉っ、ごめん、オレっ!」
 聖哉を蹴り上げた張本人の晃司が、いちばん焦っていた。「あっ、オレ……またやっちまった……」と、狼狽えている。
「……また?」
 怜央が誰にともなく聞き返すと、遙佳が「前にもこんなことがあったんだ」と苦笑して言った。

 晃司は自分の失敗が許せない性格だった。他人の失敗に関しては寛容な一面を持つものの、自分の行動によって誰かに迷惑をかけるなどということがあれば、周りが見えなくなるくらいに自責してしまうのだ。
 自分の不注意で食器を割ってしまった今回の件は、殊更晃司の心を追い詰める充分な材料となった。
 晃司が聖哉とぶつかったのは、今回が初めてではない。入学当初、彼らは一度、同じようなことが原因でやり合っている。
 入学したばかりの頃、聖哉たちの部屋は、ベッドが全部埋まっていた。——つまり怜央以外に、かつて四人目の生徒が住んでいたということだ。
 その生徒は、体調不良で入学式には参加できず、次の日に入寮した。てっきり自分たちの部屋は三人で過ごすものだと思っていた聖哉たちだったから、授業が終わって寮に戻って驚いた。
 彼は大野翼という名の生徒だったが、結果的に一週間程度しか、聖哉たちと一緒に生活をしなかった。
 大野が自分の机の上に飾っていた写真立てを、晃司の不注意で落として壊してしまったのが、事の発端だった。その写真立ては、大野の弟が彼のために、授業で作ってくれたものだった。つまりは一点もので、一度壊れれば代えの利かない代物だったという。
 晃司はすぐに詫びた。大野も、晃司が故意に壊したわけではないことを汲み取って、笑って許そうとした。だが、晃司が周りの想定以上に事を重大に捉えてしまい、二日ほど、ずっと落ち込んでいた。
「なあ晃司、いつまでへこんでんだよ。翼ももういいって言ってたじゃん」
 状況を見かねた聖哉が、励ましのつもりで言った言葉が、逆効果だった。そのときも晃司は、「オマエになにが分かる」と、逆上してしまったのだ。
「ああ? おれはおまえのためを思って、言ってやってんだろっ!」
 聖哉は過敏に反応してしまった。落ち込んでいた仲間に対して、自分なりに考えてかけた言葉を頭ごなしに否定されて、苛立ったのだ。互いに少し冷静さを保っていれば、些細な諍いだと片付けられるような言い合いだったが、このとき二人の心は沸騰していた。口論が次第に掴み合いになり、部屋の外まで怒鳴り合う声が響き、やがては乱闘になった。二人は、遥佳や大野だけでは足らず、他の部屋の生徒や、香芝たちによって取り押さえられた。
騒ぎがおさまり、平常心を取り戻した二人がそれ以上軋轢を深めることはなかったが、大野は香芝に部屋替えをしてほしいと直訴した。入学直後ということもあって、これ以上騒ぎを大きくしたくはないと考えた香芝は、大野の言い分を受け入れた。翌日、大野は荷物をまとめて、建物の違う隣の寮へと移動していったのだった。あの時、大野がなにを思って部屋を出ていったのか分からない。気安く尋ねられるほど仲を深めていたわけではないから、その理由はいまも聞けずじまいだ。

「おまえのパンチや蹴りは凶器になるんだ。おれは丈夫だから耐えられたけど、あんまり他のやつにやるなよ」
 いててと呟きながら、聖哉は立ち上がった。「おれも、ごめんな。けしかけること言っちゃって。でも、おれは何度だって言うぞ」
 晃司の前に立つ。体の前で腕を組んで、なんだか得意げな表情を浮かべた。
「失敗しない人間のほうがこえーよ。おまえも知ってる通り、おれは毎日失敗ばかり。でも、ちゃんと生活出来てるだろ。……ちゃんと出来てるのかな?」
「なんでそこで不安になるんだよ」
 自信満々に言ったくせに、直後には心配そうに視線を向けてきた聖哉に、遙佳は苦笑した。
「失敗しても、ちゃんとやり直せばいいんだ。晃司の失敗で、誰かに迷惑がかかったとしても、その後おまえが誠意を持って謝れば、みんな許してくれるよ。だって、その失敗は、わざとじゃねえもん」
「千葉さんだって、ちゃんと許してくれたじゃないか。晃司は自分に厳しいから、誰になにを言われようと、自分のことが許せないのかもしれないけど、お前は俺たちには優しいだろ。だから、その優しさを、自分にも分けてやれよ」
 いくら自分たちがそう言ったところで、晃司の考えがすぐに変わるわけではないと、聖哉も遙佳も心得ている。これまで生きてきて、自分たちなりに見出してきた考え方は、各々に存在する。誰に何を言われようと、そこには譲れないものもある。だから今は、自分たちの言葉を聞き入れてくれなくとも、この先いつか、晃司が過去を振り返ったときに、「そういえばアイツら、あんなこと言ってたよな」と思い出してくれる存在になっていられればそれでいいと思った。
「今回は、香芝にバレなくて済んだな」
 口論が長引けば、部屋の外に聞こえる大きな騒ぎになっていたかもしれない。
「一番合戰も、転校初日に、なんかごめんな」
「大丈夫や。やっぱみんな、仲ええんやなって思っただけ。ほら、喧嘩するほど仲がええってゆうやろ」
「晃司と喧嘩するときは、命がけだ」と、聖哉は腹をさすりながら笑った。

 翌朝、聖哉が晃司と並んで歯みがきをしていたとき、洗面所に入ってきた野呂が顔を見るなり話しかけてきた。
「なあ、お前ら、昨日の晩、喧嘩してなかったか?」
 口の中の泡を全部飲み込んでしまいそうになりながら、聖哉は流し場にそれを全部吐き出した。
「はっ? はあ? そんなわけねえだろ!」
「なんか結構大きな物音がした気がしたんだけど……」
「喧嘩なんかするわけねえだろ。おれたちを何歳だと思ってんだよ、ユーダイ!」
「べつに何歳だろうと、喧嘩をするときはするだろ」
 疑りの眼差しを向けてくる野呂に対して、聖哉はあたふたと誤魔化した。
「プロレスごっこをしていただけだ」
 二人の会話のあいだを突くように、突然晃司が言った。
「え?」
 野呂が怪訝そうに眉をひそめながら聞き返したが、晃司はそれ以上はなにも言わず、口の中をゆすいで洗面所を出ていった。
「そういうことだ。ユーダイ! あいつは空手だけじゃなくてプロレスでもつえーから、あんまり逆らわないほうがいいぞ」
 二人にそう言い切られれば、なにも確証がない野呂は、黙り込むしかなかった。
 
「あーあ、やっぱ、昨日のラーメンとチャーハン、食いたかったなあ。なあ、遙佳。あーあ、千葉さんが作ったラーメンとチャーハン、きっと美味かっただろうなあ。どんな味だったんだろうなあ。なあ、遙佳」
「そうそう。店に来た子供たちも、みんな美味そうに食ってたもんな」
「悪かったって、まじで。オレ、反省して一晩中眠れなかったんだからな!」
「食べ物の恨みは怖いな……」
 朝食の席で、聖哉たち四人は同じテーブルに座って、そんなことを言い合っていた。たしかに晃司は眠そうにしていて、このままだと授業中にまた居眠りをしてしまいそうな雰囲気だった。
「自分のミスは許さねえ! って普段から思ってるくせに、授業中に居眠りはするんだよな」
「くそっ、うるせえよ。オレは今日、夜まで寝ないからな!」
「あっ、諸岡センパイだ! おれ、昨日のこと言いつけちゃおうかなあ」
「マジでそれだけは勘弁してくれ」
 晃司は諸岡には頭が上がらないようだ。きっと聖哉を蹴ったとバレたら、彼にとって面倒なことになるのだろう。
「そういや、このあいだコンビニに、鯛焼きオレとかいう飲み物が売ってたんだよ。どんな味なのか気になるけど、自分の金で買うの嫌だから、晃司、奢ってくれよ」
「分かった。しばらくオマエには頭が上がらねえからな」
「え? おれより背が高いのになんでだよ」
 それは本気で言っているのか、冗談で言っているのか、晃司には判断がつかなかった。
 朝食が終わって、各々の部活に朝練に行く。嬉しそうに駆けていった聖哉の後ろ姿を見送りながら、晃司は怜央と一緒に武道場を目指した。
 武道場は学食の真上にあって、体育館と隣接している。同じ階に空手、剣道、柔道とそれぞれの部屋が並んでいて、活動中はそれぞれの部屋からの打撃音などが絶えない。
「一番合戰はなんで剣道をやろうと思ったんだ?」
 道中の世間話がてら、晃司は怜央に尋ねた。
「高校に入学したのと同時に始めたんやけど、きっかけは友達に誘われたからやねん。僕はほら、鍵田くんみたいに、あんまり明るい性格やないから、高校で初めて出来た友達に誘われたことが嬉しくて。あっ、でもきっかけは大した理由やないけど、剣道は好きやから、学校が変わってもずっと続けようとは思っとった」
 さらに聞くと、中学生のときは、水泳部だったらしい。
「高校でも水泳を続けようとは思わなかったのか?」
「僕が入った高校に水泳部がなかってん。せやから、どうせやるんやったら、今までやったことがないもんに挑戦してみよと思ってん」
 今までやってきたことを継続するのも、新しいことに挑戦するのも、どちらも凄いと晃司は思う。控えめに笑っている怜央の横顔を見て触発されたのか、オレももっと頑張ろうと思った。



「千葉さん、この間は申し訳ありませんでした」
 晃司はえにしに入った瞬間、厨房に立っていた千葉の元に駆け寄り、前回の不手際を詫びた。
「まだ気にしていたのか。潮は責任感が強いんだな」
「……オレの失態なので」
 頭を下げたまま、晃司は呟いた。
「そうなんすよ、千葉さん! こいつ、おれたちの中で一番真面目なんです! 責任感が強すぎて、おれも困ってます!」
「……せ、聖哉……」
 晃司が珍しく慌てたように聖哉を制した。
「いいか潮、今はまだ学生だから、実感がないかもしれないけれど、あんなちっぽけなことでいちいち気に病んでいたら、社会に出たら身がもたないぞ。簡単にはいかないかもしれないが、もうちょっと楽になれよ。な?」
「……はい」
 なぜ人間は失敗するのだろう。完璧に物事をこなせないのだろう。人に迷惑をかけることに、なぜこんなにも鬱々とした気持ちを抱くのだろう。
「お前たち、ハインリッヒの法則って知ってるか?」
 気を塞ぎかけた晃司は、千葉の問いかけにハッと意識を戻した。唐突に聞き慣れない言葉が聞こえてきたので、一同はぽかんとして千葉を見た。
「……フレミングの右手の法則なら知ってますよ。チェケラ!」
 聖哉が三本の指を使ってポーズを取り、おどけて言った。
「それもまた、えらく懐かしい響きだな。……俺が言ったこととそれとは、何の関連性もないんだがな。簡単に言えば、『一件の重大事故が起きる前には、二十九件の軽微な事故と、三百件の傷害のない事故がある』という考え方のことだ。潮が食器を割ってしまったのを一件の軽い事故だとすると、将来取り返しのつかない事故を誘発しないように、その事故の背景になにがあったのかを精査していく必要がある。たとえば床が濡れていなかったか、あの日、潮はちゃんと業務に集中出来ていたか、出来ていなかったのなら、それは何故なのか。……そんなふうに、失敗したことを責めるんじゃなくて、それを活かして今後俺たちはどうしたらいいのかを考えることが大事なんだ」
「そうだぞ晃司。だからいつまでも引きずってんじゃねえ。もやもやと考えてたら、また滑って転んで出来たての料理をぶちまけちまうかもしれねえぞ」
「極端かもしれないけどさ、失敗してナンボって思ってたらいいんだよ。晃司の失敗は俺たちがカバーするし、俺たちの失敗は、きっと晃司が助けてくれるだろ? これまでもこれからも、晃司がどんなところに行ったとしても、きっとそこにいる仲間たちが助けてくれるもんだって、俺は思うぞ」
「まあ、あんまりミスってたら、なんだよこいつって嫌われるかもしれねえけどな!」
 晃司ははにかんだ。聖哉も遙佳も千葉も、自分を励ましてくれているのだと分かった。自分がやらかしてしまったことは、まだわだかまりとなって心の中に残っているけれど、周りの皆がそう言ってくれているのだ。そう考えると、幾分か気分がすっきりして、軽くなった気がした。
「さあ、今日は月に一度のスペシャルデーだ。お前たち、カウンターに料理を並べてくれ。あ、くれぐれも落としてこぼさないでくれよ」
 悪戯っぽく笑って、千葉がそう言った。調理台には、小料理屋のように鉢に盛られたいくつかの料理が並んでいた。——唐揚げ、卵焼き、煮物、魚の煮付け、ハンバーグ——子供たちが好きそうなメニューからそうでないものまで、よりどりみどりの料理だ。
「うまそー! スペシャルデーってなんすか?」
「こども食堂のメニューはいつも一種類だけだろう。だが、スペシャルデーでは、あらかじめ何種類かの料理を用意して、ビュッフェスタイルでみんなに食べてもらうんだ」
「いつも以上に楽しめる感じっすね」
「おかげさまで毎回好評だから、今日は普段よりお客さんがたくさん来るかもしれない。お前たち、よろしく頼むぞ」
「うっす!」
 千葉の予想通り、その日は、開店から客足が絶えなかった。いつもは一人で来店した客が座るカウンターには、聖哉たちが運んだ料理と、炊飯ジャーや味噌汁やスープの入った寸胴鍋もセットされている。
「お前ら、取り合って喧嘩すんなよー! 晃司パイセンにぶっ飛ばされるからなー!」
 各々が食べたいものを自由に取るという形式なので、やはり子供たちは興奮してガヤガヤと騒がしくなる。トラブルが起きないように、聖哉はにやにやと笑いながら子供たちを脅すようにからかった。
「列が出来てきたな……」
 遙佳がぽつりと呟いた。視線は扉の方を向いている。たしかに店の外で、何人かが待っている人影がそこに見えた。
 千葉は補充するための料理をひたすら作っていたので、遙佳は扉を開けてどれくらい待ちがいるのかを確かめた。
「もうちょっと待っててね」
 外に並んでいた子供たちは、いずれも遙佳が初めて見る顔ばかりだった。それは向こうも同じだったようで、見慣れない者を警戒するような視線をいくつか感じた。
「千葉さん、外で待ってるのは十一人です」
「了解、ありがとう」
「武留、今日は満員御礼! すまねえけど、食ったら席を空けてくれよ」
「聖哉先輩、俺たちはここの常連だから、知ってるっすよ」
 子供たちもその辺りのことは心得ていて、スペシャルデーは回転率も早い。ゆっくりと交流が出来ないのは惜しい気もするが、好きなものを選んで好きなだけ食べられるというのは、何物にも代えがたい特別感で満ちているようだった。

 事が起こったのは、武留たちが「あー、食った食った」と満足げに店を出ていった直後だった。
 急に慌ただしい足音がして、勢いよく扉が開き、武留が戻ってきたのだ。
「だ、誰かっ……」
 つい数分前には、自分がそんな表情を浮かべる羽目になるなど、武留は思っていなかっただろう。泣きそうな顔で慌てたように店内に駆け込んできた。
「あっ……あっ……潮先輩! 助けてください!」
 最初は誰かと言いつつ、武留は瞳を揺らしながら晃司を名指しした。晃司は目を見張って、一瞬考えたのち、どうしたんだ? と武留に問うた。
「あ、あの、中学生の人が……潮先輩、た、助けっ……」
 武留はパニックになっているようで、説明が要領を得なかった。晃司はえにしのエプロンを外し、「案内しろ」と短く言うと、武留の腕を引いて店を飛び出した。
 晃司がそばにいたことで、武留は幾分か冷静さを取り戻したのか、走りながら晃司を案内した。
 そこはえにしの前の道を、駅の方向とは逆に歩いていった先にある路地裏で、道を曲がったその奥から、誰かの怒号が聞こえた。曲がり角の手前で、人気のない空きビルの壁に張り付くようにして身を潜め、恐怖に顔を引き攣らせているのは利明と英康、そして知花だった。
「オマエたち、ここで何をしている?」
 普通の声量で喋ったはずなのに、知花が人差し指を口にあてて、静かにしろとジェスチャーを送ってきた。ほぼ同時に武留がごくりと唾を飲み込む。
 晃司が彼らに倣って建物の陰に身を潜め、曲がり角の向こうを覗き見た。道路の突き当たりにあるのは、築年数がだいぶ経過していそうな古い二階建てのアパート。そこだけ時代に取り残されたような雰囲気が漂っている。そのアパートの入口に、少年が立っていて、誰かを逃がさないように立ち塞がっている。その誰かが、自分もよく知っている関川亮であると気付いたとき、晃司は前に踏み出した。
「あっ」と、武留が声を漏らした。
「何やってんだ?」
 たぶん、雰囲気的には有り得ないが、亮と少年が普通の関係だという可能性も考慮して、穏便な声かけを意識した。だが、晃司の配慮は無に帰した。
「あ? なんだお前?」
 怯えている様子の亮と目が合う。ザッと靴音がして、少年がこちらを向いた。
「オレはそこの中学生の知り合いだ」
 言いながら、晃司は少年を観察した。彼は亮と同年代といったところだろうか。カツアゲかと思ったが、それにしてはどうも空気が重い。
「部外者が首をツッコんできてんじゃねえよ」
 聖哉のような坊主頭の少年が舌打ちをして言った。やんちゃそうに見えた。白いタンクトップの上に薄い黒シャツを羽織っている。耳たぶに緑色のピアスが見える。
「おい、いくぞ」
 坊主頭が亮の襟首を掴んで無理矢理連れていこうとした。
「やめろ! 亮は嫌がってるだろう」
 晃司は両手を広げて、彼らの行く手を阻んだ。
「だから部外者は引っ込んでろっつってんだよ!」
 オラアッ! と、怒号が湧いた。坊主頭が晃司に一発かまそうと向かってきたが、相手の動きを見切ってかわした。一瞬、坊主頭の表情に驚きの色が混じったが、すぐに怒りがそれを塗り替えた。
「調子に、乗ってんじゃねえ!」
 ステップを踏み込んで、坊主頭はパンチを繰り出してきた。晃司は半身の姿勢をとって、それを受け流す。坊主頭は喧嘩慣れをしているのかもしれないが、晃司から見れば素人同然。彼の攻撃など、当たるわけがなかった。
「っ! ……てめえっ!」
 だが晃司も、迂闊に相手に手を出すわけにはいかなかった。鍛錬を積んできた拳は、こんなところで低俗に振るうものではないと考えていた。
 求められていたのは、坊主頭をこてんぱんに倒すこと……だったかもしれないが、晃司がその気でないのだから、ただ相手が疲弊するまで攻撃を受け流し、防御に徹するという地味な光景が繰り広げられているだけだった。……そして。
 晃司は隙をついて亮の腕を引っ張り、その場から逃げ出した。
「オマエら! ついてこい!」
 走りながら、路地裏を覗き込むようにして事の成り行きを観察していた武留たちに向かって叫ぶ。虚を突かれた坊主頭の反応が遅れた。そのあいだに晃司たちは全速力で走り、そして、えにしに駆け込んだ。

 突然扉が開いて、ドカドカと人がなだれ込んできたのだから、店内にいる一同はぎょっと驚いた。晃司は息を切らしていないが、それ以外の子供たちはゼエゼエと呼吸を荒立てている。
「競争でもしてたのか?」
 聖哉が様子をうかがうように言ったが、亮がガクガクと震えているのを見て、すぐに口をつぐんだ。晃司は取り合わず、亮を手近にあった椅子に座らせた。
「なにがあったんだ。話せ」
 有無を言わせない口調だった。亮は俯いたまま、ぎゅっと握った拳を膝の上に置いて、ぽたぽたと涙を流していた。
「……巻き込んでしまって、ごめんなさい」
 消え入るような声で「僕の問題です」と、亮は続けた。
「だからそれを話せと言っている。アイツとオマエは、どんな関係なんだ」
「どっ、同級生、ですっ。土門くんは学校には行っていなくて、昼間はあんなふうに、街をぶらついて時間を潰しているんです。……でも、彼がいまはどう思っているかは分からないですけど、友達なんです!」
「……それは意外だな」
 晃司はてっきり、ガラの悪い不良に絡まれて苛められているものだと考えていた。だから余計に自分が手を出さなくて良かったと思った。
「中学に入って、グレて、今みたいな感じになっちゃって……。でも僕はちゃんと話したい。土門くん、ほんとはいい奴なんです。小学生のときに両親が離婚して、いまはさっきの場所でお父さんと一緒に暮らしているはずなんですけど、家ではほとんど自分独りしかいないって言っていました。だんだん学校に来なくなってきたから心配になって、定期的に家を訪ねているんですけど、それが土門くんにはうざいみたいで、段々と僕へのアタリがきつくなってきました。さっきも潮先輩が来てくれなかったら、殴られてたかもしれません」
「オレが気付いたんじゃない。コイツらが」と言って、晃司は武留たちを示した。「オマエのことを見かけて、オレを呼んだんだ」
 多分、コイツらは亮が不良に絡まれていると思ったから、オレが空手をやっていることを思い出して、名指しで呼んだんだろうな。
なにも知らないくせに、誰かと誰かの関係に首を突っ込んで引っかき回したような気分になった。
「リョウ! メシ、まだだろ。折角来たんだし、食っていけよ!」
 湿っぽくなった心情を察して、それを阻止するかのようなタイミングで、聖哉の声が聞こえてきた。亮はいつものように戸惑って、それでも押しに負けて皿を受け取っている。
「ほら、これも、これも、これも食え!」
 一度手渡した皿をひったくり、聖哉は亮の好みも聞かずに料理を盛っている。晃司は立ち上がり、亮の背中を見つめていた。
 なにも知らなければ、オレはコイツをなんだか気弱そうで物静かなヤツだとしか思わなかった。だけど亮は、両手には抱き留められないほどの大きな優しさを持って、友達を救おうとしている。その過程で自分が傷つくことがあっても、厭わないだろう。
 衝動に駆られた。
 考えなしに行動してしまうのは、自分の悪い癖だと、晃司は心得ている。だがどうしても、たとえ後になって周りからお節介だと窘められたとしても、目の前で壊れかかっているものがあるのに、それを放っておくわけにはいかないと思った。
「千葉さん! すみません!」
 晃司はそれだけ言って、千葉の返事も待たずに店を飛び出した。アイツが——土門が——、それほど遠くには行っていない可能性に賭けて走る。
 幸いなことに、彼はすぐに見つかった。えにしの行き帰りにいつも前を通るコンビニの前の縁石に腰掛けていた。
「おい」
 下を向いていた土門に声をかける。彼は晃司に気付くと、途端に目尻を吊り上げた。
「またお前かよ。今度は何の用だ」
「ちょっとツラ貸せよ」
 土門と同じ土俵に立つわけではないが、はなから舐められるわけにはいかない。そう思って、晃司は敢えて強い言葉を選んだ。土門は相変わらず晃司を睨みつけていたが、やがてなにも言わずに晃司のあとをついてきた。
「言っとくけど、後ろからオレを攻撃しようとしても、無駄だからな」
「なっ……、そんなことしねえよ」
 土門はそう言って、晃司に殴りかかろうとしていた手を慌てて引っ込めた。晃司が振り返る。
「なんだよ」
「オマエ、結構喧嘩慣れしてそうだよな。なんかやってんのか?」
「おめえには関係ねえだろ!」
 悪態をつきつつも、問いかけには反応を示している。それがなんだか妙に微笑ましく感じて、晃司の頬が緩んだ。
「なに笑ってんだよ!」
「……いや、オマエを見てたら、昔の自分を思い出しただけさ」
 晃司はそう言って、丁度到着したえにしの扉を開き、土門に中へ入るよう促した。
「ここって……貧乏なガキが集まるところじゃねえか!」
「オマエだって充分ガキだろうが」
「うるせえ!」
 自分がここにいる皆を敵に回しかねないことを口走ったという自覚はないようだ。だが店内に亮がいることに気付いた彼は、ハッとしたような表情になり、気まずそうに口をつぐんだ。店内にいる全員が、自分を見つめているのに気付いた土門は、瞳を揺らしながら晃司を、聖哉を、遙佳を、そして千葉を見た。
「いらっしゃい。ここに来るのは、初めてかな?」
 千葉が厨房から出てきて、前掛けで手を拭きながら土門に問いかけた。ぐっと言葉に詰まった土門は、無言のままこくりと頷いた。
「土門くん……」
 亮が遠慮がちに声をかける。大勢の前で名を呼ばれたのが恥ずかしかったのか、土門の頬が一気に紅潮した。
「ここは俺の店で、普段は居酒屋をやっているんだが、月曜日と金曜日は、こども食堂を開いている。色々な理由でご飯を食べるのに困っている人たちが集まる場所だ。ここにいるあいだはとりあえず店の外のいろんなことを忘れて、幸せなひとときを過ごしてほしいと、俺は思っているよ」
 良かったら君も食べていかないかと、千葉は土門に微笑みかけた。土門はどうしたらいいか分からないようだ。晃司に突然連れてこられ、不慣れな場所に放り込まれた彼は、全身で気まずさを味わっていることだろう。
「座れよ」
 背中を押してやる。ほら、モタモタすんなともう一押しすると、土門は渋々、亮の前の椅子に座った。
「お客様、ご着弾! 今日はスペシャルデーだから、いーっぱい、食えよ!」
 雰囲気に気圧されて、目を白黒させている土門を差し置いて、聖哉が声を張り上げた。亮のときと同じように料理を盛りつけた皿を、土門の前に置いた。
「いいかオマエら。話し合いたいことがあるときは、ちゃんと腰を据えて話せ。そうしたほうが、伝えたいことがちゃんと伝わる。ゆっくりメシを食いながら、顔を突き合わせて話せ。同じテーブルでメシを食う。それだけで楽になることもあると、オレは思うぞ」
「俺は別にっ……」
「そうだぞ! なんかよくわかんねえけど、とりあえず食え!」
 そっぽを向きかけた土門の心が、ここではないどこかへ行ってしまわないようにと配慮したようなタイミングで、聖哉が口を挟んだ。
 亮と土門のあいだに、これまでなにがあって、どうして二人の関係がこじれてしまったのか、彼ら以外は知らない。知らないからこそ、こうして無責任に激励をすることも出来るのだ。
 遙佳が水を汲んだグラスをコトリと土門の前に置く。
「俺も事情はまったく知らないけど、君の身なりも普段の行動も、きっとそうしなきゃいけない理由があるんだろう。だけど君の友達は、それを良しと思っていないみたいだ。なにも知らない俺たちが、君についてとやかく言う筋合いはないし、言うつもりもないけれど、君の存在を知ってしまった以上、このお兄さんは君を放っておけなかったんだよ」
 土門は机の上に視線を落とした。亮が遠慮がちに、しかししっかりとした視線で自分を見ている。あろうことかそのとき、本人にはまったく不本意なタイミングで、腹の虫が鳴いた。
 土門の顔が茹で蛸のように真っ赤になった。
奏心(かなで)くん……」
 亮が土門を名で呼んだ。「僕はいまでも奏心くんのことを友達だと思ってる。だから、奏心くんが僕のことをうざいって思ってたとしても、諦めないから」
「……うるせえよ。これ以上俺に恥をかかせんな」
 土門は憎まれ口を叩いたが、その口調に牙が生えている気配は感じられなかった。
「ねえ、折角だから食べようよ。ここの料理は、全部美味しいからさ」
 亮はそう言って箸をとった。唐揚げを口に放り込んで咀嚼する。それを一瞥した土門は、そっと目の前の皿に視線を移し、亮に倣うように無言のまま箸をとった。




「晃司ってやっぱ、誰かを助けてるときが一番おまえらしいよな! おれも助けてくれよう!」
「うるせえ。ガキ共に呼ばれたから行ったら、いざこざに巻き込まれただけだ」
「武留たちもナイスだったな。関川がガラの悪い奴に絡まれていると思って、晃司に助けを求めたんだろ」
「そうそう、ヤンキーとの喧嘩なんて、おれ、出来ねえからな! 自分で言うのもなんだけど、野球以外はクソザコ!」
「なんだオマエ、やけにしおらしいじゃねえか」
「たまにはおまえにも華をもたせてやらねえとな。おれたちの中で一番地味な晃司クンに!」
「ったく、オマエはいちいち一言多いんだよ!」
 晃司は咎めるように声を張ったが、そのときすでに聖哉の意識は、別のものに注がれていた。
「あ、おれコンビニ寄りたい! 晃司、鯛焼きオレ!」
「ったくアイツは脊髄反射みたいに会話をするんだから」
「今に始まったことじゃないだろ」
 何もかもを置いてけぼりにする勢いでコンビニに突撃していく聖哉を追いながら、晃司と遙佳は顔を見合わせて苦笑した。入店すると、聖哉がすでに飲み物の紙パックを三つ腕に抱えて待っていた。
「なんだ? 三つも飲むのか?」
「ちげえよ。こういうのは、全員で飲んだほうがいいだろ?」
「えっ!? 俺も?」
 遙佳は露骨に嫌そうな顔をした。「そうだ、一番合戰にも買ってやろう」と、ここにはいない、新しい友人を贄に差し出す始末だった。
「じゃあ四人で飲むか!」
「遙佳、自分だけ抜け駆けしようったって、そうはいかねえからなっ!」
 遙佳が止める間もなく、聖哉と晃司はレジに行ってしまった。

「それにしても、あの土門ってガキ、根っからのワルじゃなさそうだったな」
「精一杯背伸びして、粋がってるうちがいいんだよ。もう取り返しのつかないところまで染まる前になんとかしてやれば、きっとアイツらの関係はあれ以上こじれねえだろう」
「なんだなんだ、知ったふうな口を利いて。……ん? 晃司、まさかおまえ……」
 聖哉は普段あっけらかんとしているくせに、こちらがびっくりするくらい鋭く、真髄を突いてくるときがある。
そんなとき、野球のピッチングでぶれることのないコントロールを披露するのと同じように、彼の言葉は的を射ている。
「中学のときに、色々あってな……」
 晃司はそれだけ言って、歩きはじめた。聖哉も遙佳も、それ以上は聞かなかった。言いたくないことは言わなくてもいいし、だったら晃司が話したくなったときに、それこそ腰を据えて聞いてやれば、それでいいと思ったのだ。

 寮に戻ると、怜央が部屋で出迎えてくれた。几帳面な性格なのか、剣道着をぴっしりと皺なく畳んでいる最中だったらしい。
「お疲れさん」
「おー一番合戰、お土産を買ってきたぞ!」
「みやげ?」
 聖哉は床に座り込んで、持っていた袋から鯛焼きオレを取り出し、床の上に並べた。
「あっ! これ、こっちにも売っとるんや」
 怜央はすでにその飲み物の存在を知っているようだった。「これ、美味しいねんで。もしかして鍵田くんたちも好きなん?」
 聖哉たち三人は顔を見合わせた。なんだ面白くねえと、それぞれの顔に書いてあるかのような表情のまま、紙パックの封を解き、ストローをさしこむ。
「せーので飲むぞ! ……せーの!」
 直後、怜央以外の少年たちが放った阿鼻叫喚の悲鳴が、部屋中に響き渡った。それは廊下にも漏れ出ていたようで、何があったんだと驚いて駆けつけた他の部屋の寮生たちの対応に、四人はしばらく追われたのだった。