1
「松島って、なに考えてるか分からねえよな」
悪気なく、単なる思いを口にしただけなのだろう。だが、言われた方はいつまでも、呪縛のようにその言葉を覚えているものだ。もしかすると自分が気にしすぎなのかもしれない。しかし言葉はときに鋭い刃となり、発した本人が思うよりも強く、相手の心に突き刺さるものだ。遥佳はそれを、身に染みて知っている。
「おーい、遥佳ぁ!」
バレー部は体育館での練習が主だが、基礎体力を鍛えるランニングでは、外を走ることが多い。そんなとき、おなじく練習中の野球部の部員たちと鉢合わせすると、決まって声をかけてくるのが、鍵田聖哉だった。
聖哉はとても嬉しそうに、こちらに向かって手をぶんぶんと振っている。先輩たちの手前、他の部活のやつと話をするのは憚られたが、無視をするわけにもいかない。
「おう、聖哉、真面目に練習しないと、先輩方に怒られちゃうんじゃないか?」
さりげなく走る速度を緩めて、お調子者の友人を嗜めるように言った。
「おれ、野球だけは真面目にやってっからダイジョーブ! さっきも筋トレで腹筋追い込んだ。バキバキだぜ、見るか?」
「馬鹿、俺が怒られるだろ! じゃあ、またあとでな」
聖哉は着ているアンダーシャツをめくろうとしたが、それには取り合わず、遥佳は足にぐっと力を込めて、ランニングの集団に戻っていった。
「鍵田はいつもお前に絡んでくるよな」
「ああ」
集団の後方を走っていた、同級生の奥村玲が隣に並んで囁いてきた。遥佳は苦笑する。寮では同じ部屋の仲間である聖哉は、遥佳のそれまでの人生において、絡んだことのないタイプの人間だったから、最初は接し方に戸惑ったのを、今でもよく覚えている。
自身の性的指向が少数派であることを遙佳が自認したのは、中学二年生のときだった。周りの男子たちが面白おかしく、あるいは時に真剣に、自分は誰々が好みだの、アイドルグループや女優のあの子が良いだの、そういう話をしているのを聞きながら、自分は彼らと同じ感情を他人に抱けない違和感に気付いた。女を好きになれないのなら、自分と同じ男が好きなのか。仲の良い友人たちに抱く『好き』の種類は、いわゆる恋愛の『好き』なのだろうかと考えるようになって、人に好意を抱くのが怖くなった。皆、当たり前のように男女で睦み合って、それ以外の人たちは、堂々としている場合もあれば、日陰に隠れるようにして素性をひた隠そうと努力を重ねている者もいる。
誰々が付き合い始めただの、別れただの、お前たち、それしか話題がないのかよとツッコミたくなるほどに、同級生たちは互いの恋愛話に飢えていた。
一方で、遙佳は、どれにも当てはまらなかった。
女を好きになるわけでもなければ、男を好きになるわけでもない。ではそのどちらにも属さない人を好むのかと問われれば、それも違う。——アセクシャル。自分のような指向を持つ人に対して、そのような名称があると知ったとき、遙佳はこの世界のあらゆる物事を網羅している語彙の多さに、逆に戸惑ったものだ。それと同時に、安心もした。自分は周りの級友たちとは違う異常者だと考えていたから、持っている考え方に名前がついているという事実を目の当たりにして、胸のつかえがとれたような感覚がしたのだ。
岸辺城島高校へ進学したのは、男子校なら、男女が絡むそういういざこざした話題に辟易しなくて済むと考えたのも理由のひとつであった。ただ、遙佳の実家からは電車で二時間と遠い学校であり、家から通うのは大変だったから、寮で生活できる体育科を選んだ。将来はスポーツ選手になりたいだとか、スポーツコーチやインストラクターになりたいだという夢はない。バレー部に入ったのも、中学から続けているから、惰性で続けているだけだ。
聖哉も晃司も、それぞれ目標をもって日々頑張っている。違うのは自分だけだ。だからなのか、二人と自分を比べると、疎外感を抱いてしまう。そういう気持ちを抱いてはいけないと分かっているのに、いつもしゅわしゅわと心に現れる感情を無視することは困難だった。
「松島、おまえ、背がたけーな! バスケかバレー部か? あっ、おれは鍵田聖哉。見ての通り野球部だ!」
聖哉と初の顔合わせのとき、彼は遥佳を見上げて坊主頭をさすっていた。初対面なのに苗字を呼び捨てにして、何ならおまえ呼ばわりか……慣れなれしい奴だ……、とあまり良い印象を抱かなかった。
「松島遥佳。よろしく」
当たり障りのない挨拶を心がけた。
「おれたちの部屋にはあと一人入るらしいけど、まだ来てねえみたいだな」
寮の部屋に入る。宅配便ですでに届いていた荷物は、部屋の真ん中に搬入されていた。三人分のダンボールが無造作に積み上げられている。
「しお……こうじ?」
荷物に貼られている伝票の宛名を、聖哉は怪訝そうに読み上げた。遙佳にもその声は聞こえていたが、(なにを言ってるんだ?)と疑問に思ったものの、追及はしなかった。自分宛ての荷物の梱包を解いて、片付けをする。そのあいだも聖哉は一方的にベラベラと喋っていたので、遙佳は適当に相槌を打っていた。聖哉がなにを話していたのかは覚えていない。自身の中学でのこととか、これまでの生い立ちなんかを言っていたような気がするが、どれも聞き流していた。
聖哉だけに限らず、新入生たちは、これから始まる新生活に対して、希望に胸を膨らませていたが、遙佳は彼らを一歩引いてみていた。我ながら、嫌味な奴だと思ったが、心のベクトルを周りに合わせるのは大変だった。
三人目のルームメイトは、『しおこうじ』ではなく『うしおこうじ』という名前だと判明したのは、入寮日の夕方だった。その日は晃司が乗ってくる電車に遅延が発生していて、到着が遅れたのだ。
「おー! やっと来た! えっと……し、し……」
キリッとした精悍な雰囲気の少年が部屋の扉を開けたとき、聖哉は手入れをしていたグラブを机の上に置いて、全力で彼を迎えた。
「潮晃司っす。よろしく」
晃司の所作から、武道に精通している気配がした。彼が持っていたボストンバッグの中から空手の道着が出てきたとき、遙佳は妙に納得した。
「うおっ! おまえ格闘技やってんのか!」
聖哉が一段と興奮したような口調で身を乗り出してきた。晃司は床に正座をして荷物の整理をしていたが、気を良くしたようで、そのとき初めて表情を和らげた。
「ガキの頃から空手をやってる。フルコンの部活があるのが、オレの通える範囲では岸辺城島だけだったから、ここに入学した」
「フルコン?」
「ああ。空手には大きく分けて、型を極める伝統空手と、直接相手を攻撃するフルコンタクト空手ってのがあるんだ。伝統型をやる部活は割とあるんだけど、実戦型があるのはレアなんだよな」
「うおー! じゃあさ、じゃあさ、瓦とか、木の板とか割れんのか!?」
「機会があれば、やってやるよ」
ニッと笑って言った晃司を見て、聖哉は「すっげええ!」と彼を讃えていた。
「松島くんは、バレー部か」
「ああ、そうだ」
「おれ、野球部!」
「鍵田くんは見た目からして、そんな気がするな」
「まあなんだ、一番遅れてやって来たオレが言うのもなんだけど、仲良くしような」
晃司はそう言って拳を突き出した。中段突きでもしているのかと思ったが、聖哉が「おう! よろしく!」と答えたので、遙佳もようやく彼らと拳面を突き合わせたのだった。
2
「はーるか! お疲れ!」
部活が終わって体育館を出ると、聖哉と出くわした。夏が終わって、夜風に秋の気配が漂ってきているが、聖哉の上着は練習着のアンダーシャツのみを着用したままで、そこだけ季節が巡っていないような装いだった。
「お疲れ、なんだ、俺のこと待ってたのか?」
「通りがかったら体育館から『あっしたー!』って聞こえてきたから、そろそろ遙佳も練習終わるかなって思ってな!」
聖哉の腕は、付け根まで日焼けしている。真夏の炎天下の中、毎日のように猛練習をしていたからだろう。
「さっさとメシ、食いに行こうぜ!」
その日焼けした腕で、聖哉は遙佳の手を引っ張った。
聖哉のあとをついていきながら、遥佳は考えていた。聖哉も晃司も、同じ寮の部屋のルームメイトだから自分と仲良くしてくれているのであって、接点のない間柄だったら、互いに見向きもせず、存在も知らないまま過ごしていっていたのだろうか。現に同じ寮に住んでいても、他の部屋のやつらとはそんなに絡みがない。体育科でバレー部の生徒は数人いるが、遥佳とは住んでいる建物が違うから、部活以外で顔を合わせる機会は少なかった。
寮の部屋に戻ると、晃司が床でプランクをしていた。
「晃司、ただいま!」
「おかえり、遥佳も」
「ああ、ただいま」
鞄を下ろすとき、肩紐が襟足に触れて、そろそろ髪を切らないとなと思う。ふうっと晃司が息を吐いて、ぴょんと立ち上がったのが横目に見えた。
「荷物、遥佳宛に届いてたぜ」
晃司に言われて自分の机を見ると、小包が置かれていた。通販サイトで注文した文庫本が届いたのだろう。
「ありがとう、受け取ってくれたのか?」
「香芝がついでに持っていってくれってな」
そのとき、聖哉の腹が盛大に鳴ったので、三人は食堂に行くことにした。部活の練習着からシャツに着替えて、部屋を出た。
他の部屋の寮生たちも、各々食堂に集まっている。今は一日で最も賑わう時間帯だった。
「おまえはもっと体を大きくしろ! 米を丼三杯は食えよって言われてんだよなあ、おれ」
トレーを持ちながら、聖哉が言った。遙佳がリアクションを取ろうとすると、次の瞬間には「ユーダイ!」と、野球部の同級生を見つけて話しかけている。晃司と顔を見合わせて苦笑する。聖哉は本当に、騒がしいやつだ。
空いているテーブルに三人で陣取ると、隣のテーブルから「松島、お疲れ」と声をかけられた。
「お疲れ様です!」
バレー部の先輩、相川守が、同級生たちと食卓を囲んでいた。相川は二年生でポジションはリベロ。『岸辺城島の守護神』と、チームからは持て囃されている。気の良い男だ。
「おざっす!!」
野球部では、先輩であればどの部活に限らずとも、かしこまって挨拶をしろと教えられているのか、聖哉が遙佳の横で、ピンと背筋を伸ばして会釈をした。
「オマエ、いっぺんに丼三つも持ってきたのかよ」
「だってどうせ食うし、米がなくなって食えなかったら先輩に怒られるかもしれねえだろ」
トレーのスペース一杯に、丼が鎮座している光景は圧巻だ。決して少なくはないおかずが小さく見える。夕食のメニューは、メンチカツだ。拳骨くらいの大きさのものがひとり三つ。他にはサラダや豆腐とそぼろのあんかけ、納豆になめこの味噌汁。席に着いた聖哉は、「いただきまーす!」と声を張って、キャベツを頬張った。
相川をはじめとした先輩たちが、「栄養士があの相馬って人に変わってから、献立が豪華になった気がする」と口を揃えて言っているのを聞いたことがある。聖哉たちが入学する前の食事メニューがどんなものだったかは知らないが、ずっとここで食事を摂っていた彼らが皆言うのだから、なにか変革が起きたのは確かなのだろう。相馬栄養士の考える食事のメニューは、生徒たちからは概ね好評のようだった。
「え? 君、メンチになにもつけないのか?」
相川が、わざわざテーブルから身を乗り出して尋ねてきた。
遙佳たちはもう慣れているが、普段聖哉と絡みのない者からすれば、物珍しいのだろう。揚げ物やサラダには、ソースやドレッシングなどの調味料をかけて食べる場合が多いが、聖哉は素のままで食べている。
「そうっす。おれ、ソースはかけない派っす」
そうっすとソースはかけてるけどな、と、同級生相手にならふざけてみせる場面だっただろうが、さすがに先輩相手にはやらなかった。
「……美味いの?」
「そりゃあ皆さんからしたら、ソースをかけた方が美味いんでしょうけど、おれ、味が濃すぎるのはあんま好きじゃないんで、これで充分美味いっすよ」
遙佳も晃司も、最初は聖哉の好みには驚いたが、すぐに気にならなくなった。そもそも本人がそれで美味いと言っているのだから、他人がとやかく言うことではないだろう。
「なあなあなあなあ、遙佳! バレーって、おれよりチビでも活躍出来んのか?」
「おい聖哉!」
耳元で聖哉がとんでもないことを囁いてきた。遙佳は、晃司以外の周りに聞こえていないかと、心臓が飛び跳ねる勢いで驚いて、窘める声を荒げてしまった。チラリと晃司を見ると、味噌汁を噴き出しそうになって咳き込んでいた。
幸い他の誰にも聞こえていなかったようだったが、遙佳に注意されて、聖哉は幾分しょんぼりしているようだった。
「相川先輩はリベロなんだ。リベロっていうのは守備専門のポジションで、身長が低い方がレシーブは有利だから、他のメンバーと比べたら小柄な選手がリベロをやることが多い」
「体育でバレーやったときは、そんなポジションなかったぜ」
「まあ、それは授業だからな。リベロは色々プレーに制限があるから、わざわざ授業でやることでもないし」
「じゃあさ、じゃあさ、おれもやろうと思えば、出来るんだよな!?」
聖哉はすでに二杯目の丼めしを食べ終えていた。米と一緒に、メンチカツを囓る。口の中いっぱいに肉の脂の旨みと玉ねぎの甘みが広がって、飲み込むのが惜しいくらい美味かった。
「そうだなあ、聖哉なら、運動神経良いから出来るかもな」
小学校から、体育だけはずっと最高評価だったのだろうなと、遙佳は聖哉のことを思う。聖哉をおだてるためにそうは言ったが、相川先輩のようなプレーを目指しているのだとしたら、お門違いだろう。プレーが『出来る』のと、それが試合で『通用する』のは、どのスポーツにおいてもまったくの別物だ。
遙佳も、マウンドに立って、バッターボックスに向かって球を投げられるだろうが、試合となると、投球はボカスカと打球に変わってしまうだろう。
百九十センチ近い遙佳は、その身長を武器にしてミドルブロッカーに抜擢されている。聖哉が『おれよりチビ』と評した相川とは、三十センチ近い身長差があるから、初めて二人を見た者の多くが、相川が童顔なことも相まって、遙佳のほうが先輩だろうと判断してしまうかもしれない。現にそういうことは、これまでに何度かあった。相川に対して遙佳が敬語を使っている様子をみて、目を丸くして見つめられたことは、片手の指では数えられないくらい経験した出来事だ。
身長が低いことが武器になるのがリベロなら、ミドルブロッカーは、その逆、身長が高いほうが断然良いに決まっている。遙佳は一年生だから、まだ伸びしろがあるだろうと期待されている。あとどれだけ自分の身長が伸びるのかまでは流石に分からないが、たくさん飯を食って体重を増やすのも、自分が活躍できるようになるための方法だ。
「いくら先輩に言われたからといって、そんなに食えるのは、もはや聖哉の才能だな」
聖哉が食べているものの量は、遙佳の胃袋の許容量をとうに超えている。遙佳が苦笑混じりに言うと、聖哉は褒められたと思ったのか、照れくさそうに微笑んだ。
3
「千葉さーん、ちわーっす!」
聖哉はすっかり千葉に馴れたようだ。店を訪れるたびに、挨拶の言葉が砕けていっている。遙佳と晃司は、聖哉のあとから店に入ってきて、「お疲れ様です」と付け加えるのが恒例となっていた。
「今日のこども食堂のメニューはなんですか?」
「焼きそばにしようと思っている」
「うおーっ!」
聖哉が興奮して雄叫びをあげた。どうやら好物らしい。
「おれ、焼きそば一皿で米、どんぶり五杯くらい食えるぞ」
「は? 炭水化物で炭水化物を食うのかよ」
晃司が声を張った。なにかまずいのかと言いたげに、聖哉は彼を見た。
「だってオマエ……」
「おいおい、そんなくだらないことでケンカすんなよ」
たとえば寮の部屋でなら、いくらでも口論を続けてもいいが、ここはえにしだ。千葉の手前、それももうすぐ店が開店するというのに、どうでもいい雑談をするわけにはいかないと、遙佳は思った。
聖哉たちは口をつぐんで、店の奥に行き、仕事着に着替えた。
「今日はいつもと違う方法で、料理を提供する」
ホールに戻ってきた三人に、千葉はそう言った。各テーブルには、普段はないホットプレートが置かれている。
「参加型ってやつっすね!」
千葉は頷いた。
「たまにはこういうのも、子供たちに喜んでもらえるかと思ってな」
「任せてください! おれ、ホットプレート料理は得意っす!」
聖哉が腕に力こぶを作って張り切っている。テンションが上がったのか、フンフンと鼻歌を歌いながら、テーブル拭きをはじめた。
ホットプレート料理が得意だと言った理由は、聖哉の家庭環境にあった。医師である父と、出版社に勤務する母という共働きの両親が家を開けることが多く、彼の面倒は専ら四つ年上の兄である聖樹が見ていたという。学校から帰ると、聖樹がリビングのテーブルにホットプレートを置いて、夕食を作ってくれる頻度が多かった。手軽で、片付けも楽で、聖哉が腹一杯満足して食べられるような献立を作りやすかったからだ。
「兄貴は自分がやりたいことを後回しにして、おれが野球に集中出来るように、色々世話を焼いてくれたんだ」と、三人で家族の話題になったときに、聖哉は言っていた。
生活自体は裕福な方だった。親とのコミュニケーションが少ない以外は、とくに不自由なく暮らせていた。
聖哉が野球の才能をかわれて、岸辺城島のスカウトから声をかけられたとき、なによりも寮に入って学校生活を送るシステムに惹かれた。親元から離れて暮らせるのなら、家庭に面倒をかける必要もないし、両親も兄も、自分に縛られないで生きていけるだろうと考えたのだ。
聖哉が岸辺城島高校への進学の話をしようと思った日、家には珍しく家族全員が揃っていた。まるで示し合わせてセッティングしたかのようなタイミングだった。
「おれ、やっぱ岸辺城島に行きたい。 ……いいかな」
聖樹は高校時代、地元の公立校に通っていた。公立と私立では学費も大きく異なることくらいは聖哉も知っていたから、兄を差し置いて出費の嵩張る進路を選ぶ自分に引け目を感じていた。
「甲子園の常連校が聖哉をスカウトに来るなんて、こんなすげえこと、反故にするわけにはいかねえだろ」
後押しをしてくれたのは聖樹だった。「父さんも母さんも、甲子園のマウンドに立つ自分の息子が見たくないのかよ」
随分と変わった説得の仕方だと、聖哉は思った。なんだか恥ずかしくなって、顔を赤くしてもじもじしていた。
両親は、気難しそうな表情で学校のパンフレットを眺めていたが、聖哉が岸辺城島高校に進学することに対して、なにも反対しているわけではなかった。自分の息子が、野球の才能を開花させて、よもやそんなことになっていようなど、露ほども考えていなかったから、驚いていただけだ。そして聖樹は、聖哉の凄さに気づかないほど、子育てをおろそかにしていたのかよと、暗に両親に対して嫌味を込めてそう言ったのだった。
「聖哉、良かったな」
岸辺城島高校への進学を許されたそのとき、隣に座っていた聖樹は、まるで自分のことのように喜んでくれた。
聖哉の進学を機に、聖樹は家を出た。元々大学に通っていたが、キャンパスの近くで一人暮らしをしてみたかったのである。それが、彼の数少ない自発的な望みだった。
兄が家を出て、自分も学校の寮に住んでいる。両親も、職場に泊まることの多い生活を送っている。あの家は、何日も誰ひとり帰らないときがあるんだよなと、聖哉はたまに思ったりする。住む場所があるのに、そこから離れて別の生活をするのは、なんだか不思議な感覚だった。
店内には、味噌汁の香りが漂っていた。焼きそばの付け合わせに出すのだ。ほうれん草やキャベツ、きのこなどを入れた具だくさんの味噌汁だ。焼きそばの具材を切ったときに余った切れ端なんかも入っている。
開店準備が整ったとき、出入口の扉が開いた。
「おーい、まだ、開店前……」
聖哉がいつもの武留たちだろうと勘ぐって言いかけて、口をつぐんだ。言葉の止まった聖哉に気付いて、他の三人も戸口の方を見る。そこにいたのは、以前、店に入らずに逃げていった少女だった。
「おっ! いらっしゃい、今日こそ食ってい……」
そして再び、聖哉が言い終わらないうちに、少女は扉を閉めようとした。が、その行動を読んでいたのか、聖哉はそうはさせなかった。俊敏な動きで戸口に近づいて、閉まりかけた扉に手をかけた。
「なあ、腹減ってんだろ? いまは誰もいねえからさ、入れよ。今日は焼きそばなんだ。おれと一緒に作って食おうぜ」
聖哉はしゃがんで少女の手をそっと握った。強張った少女の顔を覗き込んで、「な?」と促してみる。以前のように抵抗して逃げられることはなく、彼女はそろりと店内に入ってきた。
「いらっしゃい。ここに来るのは初めてかな?」
千葉が厨房から出てきて、少女を一番奥のテーブルに促した。遙佳がお冷やの入ったコップを、少女の前に置くのと、彼女がこくりと頷くのは同時だった。
「……こども食堂……やってるって聞いて……。ここに来たら、ご飯を食べさせてもらえるって……」
たどたどしい口調で、少女は言葉を零した。それを拾い上げるのは自分の役目だとばかりに、聖哉は少女の隣に座る。
「そうだぞー。おれたち、わけあってしばらくの間、手伝いに来てんだよ。……なあ、名前はなんて言うんだ? おれは鍵田聖哉。よろしくなっ!」
「……谷津知花」
少女はきゅっと肩を縮こませながら、シャツの裾を握りしめた。最初に会った日から日数が経っているからかもしれないが、服装が前回と同じだった。
「チカか! おれのことはセイヤって呼んでくれていいからな! アイツらはおれの友達で、背が高いほうがハルカ、ムキムキのほうがコウジってんだ。怖くないから安心しろよ!」
知花は、遙佳と晃司にちらりと目配せをして、ぺこりと頭を下げた。二人もつられて頭を下げる。聖哉のように初対面の相手に向かって、親昵に話しかける度胸はなかった。
知花はなかなか緊張がほぐれないようだった。
「知花ちゃん、リラックス、リラックス。ここにいるあいだは、誰も君のことを詮索したりしないから。ありのままでいてくれていいんだよ」
聖哉たちが今までに聞いたことのないような優しい声色で、千葉が言った。元自衛官なだけあって、流石に声の通りは良い。知花は、カウンター越しに千葉と視線を交わして、「はい」と小さく頷いた。
「……店員さん、でも、私……、お金、持ってないんです……」
そのとき、聖哉が表情を強張らせた。『あ』の形に口が開いている。なにかを言いかけて、そのまま声だけを引っ込めたようだ。
「お金のことは気にしなくていい」
「えっ!? そうなの?」
知花の代わりに、聖哉が驚いたようにカウンターに振り返った。なんでお前が驚いているんだよと言いたげに、遙佳と晃司が聖哉を呆れたように見る。
「でも、武留たちは三百円ずつ払ってたっすよね。それでもだいぶ安いけど、え? タダ?」
「こども食堂のポスターには、値段が書かれていないだろう」
「ああ、そういえば!」
聖哉はとたとたと足音を鳴らして、入口に貼ってあるポスターを再確認しに行った。
こども食堂の運営自体は、えにしの店主である千葉が行っているが、食材はフードバンクや近所の人たちの寄付で賄われている。調味料や光熱費はえにしの負担となるが、千葉は値段設定を行っていない。
「こども食堂で提供する食事は、基本的には無料だ。だが、親御さんによっては、お金を払うために子供たちにお金を持たせて来店させることもある。募金のような解釈に近いだろうか。だから、もしもお金を持っていない子供たちが来ても、ここではちゃんと飯が食える」
「すっげえ! 千葉さん、神様みたいっすね!」
「それは大袈裟過ぎる。俺は俺なりに、地域に貢献できることをしているだけさ」
かっけえ! と聖哉の感嘆の声が響いた。それで知花の緊張が少しほぐれたのか、彼女は少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、おれと一緒にメシを作ろうな。おれ、こう見えても焼きそば作るの得意なんだぜ」
ホットプレートの電源を入れる。遙佳が厨房から持ってきた材料がテーブルに並べられ、たしかに聖哉は慣れた手つきで豚肉を焼いていく。
「ほら、知花もやってみろよ」
聖哉はシャツの袖を肩までたくし上げ、流れるような動作で知花に菜箸を渡した。
「うん……」
知花は、ぎこちなく菜箸をかき回した。その間に、聖哉が野菜を投入する。鉄板の上の食材を焼く音が、一層大きくなった。
肉と野菜に火が通って、一旦鉄板から取り出して、次は麺を入れる。スーパーに売っていそうな袋麺を鉄板に乗せて、水を少しだけ入れてほぐしていく。
「いつも思うんだけど、麺が入ってる袋って、やたら破りやすいよな」
「えっ!? そうなのか? オレ、あんま料理したことねえから、分かんねえな」
聖哉に突然話を振られて、晃司は首を傾げた。
「晃司はなんでも正拳突きでぶっ壊して開けそうだもんな!」
聖哉はそう言って笑ったあと、「ほら、最後の仕上げだ!」と、知花を促した。
ボウルに入れていた具材を、鉄板の上に戻す。遙佳からヘラを受け取った知花は、真剣な表情で全体を大きく混ぜた。
店内にはソースの香ばしい香りが漂っていた。食欲を一層かき立てられる。麺と具材が絡み、しなやかに出来上がった焼きそばが、鉄板から平皿に盛られていく。
「さあ食え! 出来たてだし、自分で作った飯はうめえぞ!」
椅子に座った知花に、聖哉は箸立てから取った割り箸を渡した。
「……うん、ありがとう」
箸を受け取り、知花は目の前の焼きそばを一瞥すると、ごくりと唾を飲み込んだ。いただきますと小さく言って、控えめな動作で一口啜る。
「……美味しい」
知花はフッと笑みを零して、そう言った。そうだろそうだろと、聖哉が囃し立てる。
本当に美味しいものを食べるとき、人は口数が少なくなる。知花は二口、三口と、夢中で続きを食べはじめた。
「あー、谷津じゃん!」
唐突に扉が開いて、武留が入ってきた。知花と武留は顔見知りのようで、彼はドタドタと店内に入ってきて、知花の元に駆け寄った。
「大和くん……」
「武留、今日はひとりなのか?」
「うっす! 潮先輩! お疲れ様っす!」
武留はピシッと姿勢を正して、直角のお辞儀をした。晃司は礼節に厳しいと思っているのかもしれない。
「あいつらは今日、家に親がいるから、来ないっす」
すこしうつむき加減のまま、武留は言った。そのまま知花の正面に座って、気を取り直したように「今日は焼きそば? 美味そう!」と知花に話しかけた。
「おまえら知り合いなのか?」
「聖哉先輩!」
なにもいま聖哉に気付いたわけではないだろうが、武留は大仰に聖哉の名を呼んだ。岸辺城島高校野球部のエース候補が目の前にいるのだ。野球少年の武留にとって聖哉は憧れの存在そのものだったから、そればかりを意識してしまうと、話しかけられれば途端に緊張してしまうのだった。
「俺たち、同級生で、おんなじ小学校なんです。利明と英康も」
後に出てきた二人は、今日は来ていない武留の友人たちの名前だ。えにしのある学校前駅周辺の小学校区に在るのは、鳩綾小学校という名の学校が一校のみ。おそらく武留たちはそこに通っているのだろうと、聖哉たちは推察した。
「じゃあ武留も食うか。焼きそば。おれと一緒に作ろうぜ」
聖哉はヘラを持つと、意外とさまになっている。祭りの屋台で、鉄板を前にして、焼きそばやら、お好み焼きやらを売っていてもおかしくなさそうだ。武留は憧れの先輩直々に料理を振る舞ってもらえるということで、始終、感激して、いつもよりテンションが上がっていた。
4
その日最後の客が遠慮がちに扉を開けたのは、閉店の三十分前だった。えにしのこども食堂に来る客は、どうしてみんなこぞって、後ろめたそうな態度で店に入ってくるのだろうと、遙佳は思っていた。
「いらっしゃいませ」
戸口に現れたのは、大学生くらいの青年と、中学の襟詰めの制服を着た少年の二人組だった。青年に至っては、もう大人と分類されるであろう風貌で、これまでの客層からすると不釣り合いに思えた。
「いらっしゃい。ここに来るのは初めてですか?」
遙佳の隣に千葉が出てきて、前掛けで手を拭きながら彼らに問うた。
「はい」
青年が答えた。武留と知花はすでに食事を終え、奥のテーブルで武留の宿題を二人でしている。聖哉たち三人は、ちょうど手持ち無沙汰になっていたので、相手に気を遣わせないように気をつけながら、ちらちらと二人の様子を見ていた。
「僕はいいんです。この子に、なにか食べさせてやってくれませんか?」
青年は伏し目になって少年の肩にそっと手をやった。
「どうぞこちらに」
一番手近にいた遙佳は、二人を席に案内した。ぺこりと頭を下げて、二人はテーブル席に座った。
「お兄さんは食わねえんすか?」
「ええ。僕は」
聖哉は、うーんと心の中で唸った。ぼそぼそと喋る、はっきりしないヤツだ。
二人を見比べると、よく似通った顔つきをしていた。兄弟かもしれないと推察する。
「大人は五百円。それだけ払ってもらえれば、一緒に料理を提供しますよ」
千葉がトレーに焼きそばの材料を二人分乗せて持ってきた。青年はふと顔を上げて、千葉を見る。
「本当ですか?」
「はい。うちはこども食堂と銘打っていますが、子供たちだけでなく、大人の皆さんの利用も可能です。たとえばお金に困っているとか、高齢者が自分で料理をするのが困難なときとか、子育て中の親が、その子供と一緒に利用してもらうとか。今はまだ大人の利用者は少ないですが、いずれは子供も大人も気兼ねなく、利用していただけるような場所に出来たら……と思っています」
「では……お言葉に甘えて、僕もいただいてもよろしいでしょうか」
千葉はにっこりと頷いて、二人の前に焼きそばの材料をそっと置いた。
「今日はたまたま、お客さんに自分で料理を作って召し上がっていただくメニューです」
「に、兄ちゃん、じゃあ、俺が作るよ」
そのとき、はじめて少年が口を開いた。弟が兄を呼んだにしては、互いにどこか遠慮しているような接し方で、なにか訳有りの関係なのではないかと、聖哉たちは思った。
遙佳と晃司の二人は、閉店に向けての作業をこっそりと始めていた。営業時間中に使用した鉄板や、その他の調理器具を洗い場で洗っていく。
「千葉さん、オレたちがやりますから、ちょっと休んでて大丈夫ですよ」と、千葉への気遣いも忘れない。千葉はさすがに休みはしなかったが、二人が洗い物をしているあいだに、冷蔵庫や冷凍庫などを覗いて、発注作業をしていた。
「あのー、お二人はこの辺に住んでるんすか?」
少年が炒めた焼きそばが出来上がった頃、それを待っていたかのように聖哉が尋ねた。ちゃっかり一緒のテーブルに座っている。
聖哉の問いに、少年は不安げに瞳を揺らして青年を見た。二人は一瞬視線を通わせて、「え、ええ。二人で住んでいます」と青年のほうが答えた。
それだけ言って、フッと視線を逸らされてしまった。聖哉でも感じ取れる、『これ以上は聞いてくれるな』という雰囲気が、そこには漂っていた。
「なんか変な人たちだったな!」
聖哉がそれっきり閉ざしていた口を開いたのは、閉店後、三人でテーブルを囲んでいたときだった。まるでノルマのように配られたのは、一人三玉分もある量の焼きそばの材料だった。
「今日は想定していたより客足が少なかったから、お前たちの取り分がいっぱいあるぞ」と、先ほど千葉が言っていた。
「変な人というか……兄弟っぽかったけど、なんだろうな。うまく言えないけど、俺たちが踏み込んじゃいけない何かを抱えているような、そんな感じにみえた」
「なにを考えているのかわからない感じだったよな。二人とも!」
——松島って、なに考えてるか分からねえよな……
遙佳の脳裏によぎったのは、出会ったばかりの頃の聖哉に言われた、その言葉だった。当の本人はきっと、覚えてすらいないだろう。本当に何気ないときに言われたから、遙佳も、自分がそのとき何をしていたかまでは忘れている。
「あまり詮索するのも良くないと思うぜ、オレは。そんなことより、まだかよ聖哉、オレ、腹減ったんだけど」
思案の森に迷いかけた遙佳は、晃司の声に、ふっと現実に呼び戻された。なあ聖哉、あのときのアレは、どういう意味だったんだよ。
そんなことを尋ねても、自分が期待通りの返事は返ってこないだろう。——なにを考えてるか分からないのは、誰だってそうだろうが。なにも俺が特別なわけじゃないぞ。
聖哉のように、思ったことが口をついてすぐ出てくるような性格をしていたら、もっと楽に生きられるのだろうか。もしもいま、突然話を蒸し返しても、聖哉は「なにを言っているんだ?」と、きょとんとするだけだ。
自分の頭の回転があまり良くないからかもしれないが、いつもあとになってじわじわと、言われたことに対する感情が込み上がってくるのだ。それを相手に伝える前に、会話は終わっている。感情の不完全燃焼。そういうものが積もっていけば、いつか訳の分からないタイミングで情緒が爆発してしまうのかもしれない。
「ん。遙佳のぶん。出来たぞ」
「えっ? あっ、ああ、サンキュー」
頭の斜め上から聖哉の声が降ってきて、それと同時にコトリと、テーブルの上に焼きそばが入った皿が置かれた。茶色く染まった麺の上を、湯気がゆらゆらと揺れている。
「なんだボーッとして。考え事でもしてたのか?」
「ああ、ちょっとな……」
尋ねてきた晃司は、すでに聖哉から焼きそばを受け取っていて、ずるずると麺を啜っていた。
「いただきまーす!」
そういえば聖哉は、いつどんなときでもちゃんと、いただきますとごちそうさまを言っている。いつだったか、食堂で一人で飯を食っていたことがあったが、そのときもちゃんと手を合わせてから食い始めていたなと、彼の所作をふいに思い出した。一見ガサツなように見えても、そういうところはちゃんとしているから、見習わなければならないと思った。
「なあお前たち、米も食うか?」
「いやったー! 千葉さん、その言葉、待ってました!」
聖哉が叫んだ大悦の声に、晃司も同意したように頷いた。さっきは「炭水化物で炭水化物を食うのかよ」と辟易していたようだったが、腹も減って気が変わったのだろうか。
「じゃあ、俺、持ってきてやるよ」
「遙佳、おまえは食わねえのか?」
「……俺はいいや」
白飯が盛られた茶碗を受け取った聖哉は、それを渡してきた遙佳をまじまじと見つめた。目が合う。だが、聖哉はなにも言わなかった。
遙佳の様子がなんとなくおかしいのは、聖哉も晃司も気付いていた。でもそのなんとなくが何なのか分からない限りは、踏み込んではいけないと思っていた。
5
「ふいー、食った食った。もう動けねえ」
「動いてるじゃねえか。食後の運動だ! さっさと帰るぞ」
えにしを後にして、歩きながら言い合っている聖哉と晃司を眺めながら、遙佳は一歩後をついていった。
人間が三人いれば、そのうちの二人の話の輪に、あとの一人は入れないことがある。
駅前のコンビニには、夜を知らない若者たちが飲み物の缶をアスファルトに置いて他愛のない会話を繰り広げている。どれも、遙佳たちではまだ飲めないものばかりだ。
遙佳は彼らの前を通りながら、様子をちらりと伺ってみた。六人。自分たちのちょうど倍の人数のグループだが、まるで全員が同じように調子を合わせているかのような騒ぎようだった。一人として、遙佳のように輪の中にいるようではみ出ている者はいない。
「おーい! 遙佳なにやってんだよう!」
いつのまにか不自然なほどの距離が、聖哉たちと自分のあいだに出来ていた。遙佳は「おお、悪い」と言葉を絞り出して、その声が置き去りになりそうな勢いで、二人に追いつこうと駆け出した。
友達なのに。
時に歩幅を合わせるのが難しくなる。たったいま目の当たりにした彼らとの距離は、自分との心の距離を表しているように思ってしまった。
寮に戻って、三人で風呂に入った。
「労働のあとの湯舟はサイコーだなっ!」
手拭いを頭頂部にのせて、聖哉は足を目一杯伸ばしている。
「聖哉」
晃司はまだ洗い場で、背中をごしごしこすっている。皮膚についた垢を根こそぎ剥ぎ取ろうとしているかのような勢いで、彼はいつも丁寧に洗身をしている。
遙佳は聖哉の隣で湯に浸って、ぼそりと相手の名を呼んだ。「んあ?」と、聖哉は目を開いた。
「……いや、いい」
言いたいことがあるならはっきり言えよ。逆の立場なら、遙佳はそう言っていただろう。だから聖哉が煮え切らない自分をみてどう感じたかは分かった。
そのとき。勢いのあるお湯が、遙佳の頬にかかった。
「うわっ!」
見ると、聖哉が自分の手のひらを重ね合わせ、その隙間から水鉄砲の要領でお湯をかけてきたことが分かった。
「なっ、なにすんだよ!」
狼狽える遙佳を見て、聖哉はにひひと笑った。
「遙佳は頭の中でいろんなことをごちゃごちゃ考えすぎて、自分の世界に入ったまま出てこないことがあるよな!」
「そんな、なんかのポエムみたいな上等なもんじゃねえよ」
「ポエム? なんだそれ」
「……いや、なんでもない。お前、ちょっとは国語の勉強した方がいいぞ。……ん? いや、この場合は英語か?」
「うるせえうるせえ! 遙佳までベンキョーベンキョーって言うなよ!」
まるで駄々をこねる子供のような口調だ。聖哉が困っている様子を見て、もう少しからかってやりたくなる。さっきの仕返しだとばかりに、遙佳も手のひらを合わせて、お湯を聖哉の顔面にぶっかけてやった。
「さっきからなにやってんだよオマエら」
聖哉が「ぶわっ!」と叫ぶのと、晃司が湯舟に入ってきたのは同時だった。高校生の男でも十人以上はゆうに入れそうな浴槽の中に、律儀に三人並んで座る形となる。
同じ物を食っているはずなのに、晃司の肉体は、体脂肪を極限まで削ぎ落としたような、しなやかな筋肉がついている。岩肌のように盛り上がった背中の表面の筋を、彼の髪から滴り落ちた雫が滑り落ちて、湯の中に同化していった。
自分にないものを他人が持っている。——才能、特技、性格、知識……。その対象となるものを羅列していくときりがないし、ないものねだりをしている自分を俯瞰してみると、次第に嫌気がさしてくる。誰かと自分を比べると、たとえば仮に自分が他人より特筆したなにかを持っていたとしても、それが霞んでしまう。
聖哉には投手として秀でた能力という、目に見えて分かりやすい才能があるし、晃司は空手で心身を鍛え、努力を積み重ねられる忍耐力がある。なのに俺は、どこにでもいるような有象無象のひとりでしかない。将来の夢だとか、計画なんてのも持っていないから、日々を食い潰して生きているだけの、浅ましい人間だ。
こみ上げてきた邪な想いを、心の隅に追いやって、遙佳はごしごしと、びしょ濡れの手で顔を拭った。
「お前ら、ホント、いい奴だよな」
時間が一瞬止まったかのような沈黙が流れた。聖哉も晃司も、動きを止めて遙佳を見ていたし、遙佳も、自分の口から漏れた言葉に驚いていた。
そしてすぐに調子を取り戻した聖哉が、でれでれと破顔して「なんだよもう、いきなりそんなこと言っちゃってさあ」とまんざらでもない様子で照れはじめた。
「えっ? 俺なんか言ったか?」
晃司は聞こえなかったふりをしているのか、湯舟の中で腕を曲げたり伸ばしたりして、ボディーチェックに勤しんでいる。遙佳の声に反応していたから、絶対なにを言ったか聞こえたはずだ。
「照れんなって! ふふふ、遙佳がそう思ってくれてたなんてな!」
聖哉は身を寄せて、遙佳の肩に腕を回してきた。
——いい奴らだとは思うけど、それ止まりなんだよな……。
不意に気持ちに付け加わったその言葉は、二人には言わないほうがいいと思って、遙佳は口をつぐんだ。きっと二人には、遙佳が照れてなにも言えなくなったように見えたことだろう。
「自主練に付き合えよ。センパイ命令な」と、相川に誘われたのは、それから三日後のことだった。
「お前も、週に二回も部活から離脱しなきゃいけなくなって、なまってるだろ?」
「……そうっすね」
体の調子に変化はないが、とりあえず話を合わせておく。部活のあいだは、練習だけに集中していればいいから楽だった。
「じゃあ相川、松島、施錠よろしく」
「うっす」
「はい!」
主将の小滝が体育館の鍵を相川に渡す。小滝は商業科の生徒だから、寮生活ではなく自宅から通っている。相川が自主練の申し出をしたとき、快く許可をしてくれた。
相川と遙佳しかいない体育館は、静かで、とても広く感じた。
「ブロックフォローの練習がしたいんだ。俺が少しでも上達したら、お前がヘマしてもカバー出来るしな!」
今でもチームは充分助かっていると思ったが、相川はストイックに自分の技術の向上を目指しているのだ。
おおよそ一時間近く、遙佳は相川の練習に付き合った。そして彼の目的が、単なる練習だけではなかったのだと気付いたのは、「そろそろ終わるか」と、相川が片付けを始めたときだった。
「松島、入部して半年が経つけど、どうだ、楽しくやれてるか?」
「えっ、はい」
唐突にどうしてそんなことを尋ねてくるのだと、ネットを畳んでいた手が止まる。
「ほら、松島は一年だけどレギュラーだろ。そういうのにプレッシャーとか感じて、悩んでいないか?」
「あまり考えないようにしています」
相川はハハッと軽く笑った。「流石だな」
中学の頃は、身長が高いからという理由だけで重宝されていた。高校に入学してすぐにレギュラー入りしたのは、その延長線上の出来事だと思っていた。だが、入部してすぐにその考えは間違いだったと気付かされた。
「松島はチームの誰よりも冷静で、色々なことをちゃんと見ているな。ミドルブロッカ―は、前衛の真ん中に陣取って、全ての攻撃に立ち向かわなければならない。相手のセッターに翻弄されることなく、冷静に自分の力を出し切れるのは、松島、お前がチームで一番だと思っている」
監督や主将からそんなふうに評価を貰ったとき、遥佳は素直に嬉しいと思った。口数が少ないからか、自分の評価を大っぴらにしてもらう機会があまりない。だからたまに褒められれば、自分のことをちゃんと見てくれている人がいるのだと実感できるからだ。レギュラーになれた理由が、決して身長だけではないと分かって安堵した。
「松島はちゃんと、負けず嫌いだもんな」
「ちゃんと?」
不思議な物言いに、遙佳は目を丸くした。
「ああ、そうだよ」
お前は目標を達成するために——つまりはチームが勝てるように——、努力を惜しまず、困難に立ち向かえる力を持っていると、相川は言った。
「あまり表に出さないけど、結構熱い性格してるだろ、松島は」
肯定も否定も出来なかった。思い当たる節があって、それと同時に自分の性格を誰かに指摘されるのは照れくさかったのだ。
「俺、結構めんどくさいやつっすよ」
「そうか? でも、誰でもめんどくさい一面は持ってるだろ。俺だって、たとえばお前の才能を認めていても、自分の身長がもっと高かったらな、ああ、羨ましいなあって、どうしようもないことでお前に向かって嫉妬したりするからな」
苦笑する相川の横顔を見る。自分の存在が、相手に影響を与えているのかと思うと、なんだか奇妙な感覚をおぼえた。
「でも、ないものねだりをしていても、自分は成長できないだろう。だからそんな感情なんか持たないほうがいいんだ。他人と自分を比べるだけ、時間と労力の無駄だってな」
「そうですね」
相川に諭されなくとも、そんなことはとうに分かっている。いや、先輩は俺に言ってるんじゃない。じゃあさっきのは、自分自身に言ってるのか?
遙佳は戸惑った。会話をしている最中に、いちいち『自分がこう言ったら、相手にどう思われるか』なんて考えてしまうから、当たり障りのない返事しかできない。他人を見ていると、もっと楽に話をしているように見える。聖哉なんていい例だ。脳天気に、思ったことをとりあえず喋っているようなやつなのだから。
「まあ、松島が悩んでないなら、俺は安心だ。なんかあったら、ちゃんと相談してくれよ。さ、寮に戻って飯でも食おうぜ!」
言葉の裏を想像してしまう。自分が他人を信用していない証拠だ。相川が小滝から「松島の様子を探ってこい。俺が行ったらあからさまだからな」とかなんとか言われたから、仕方なく自主練に誘ってきただけかもしれない。
自己嫌悪に陥る。
体育館の施錠をして、「行くぞ」と促してきた相川の後ろを歩きながら、遙佳はずっと、面倒くさい内面しかない自分と闘っていた。
6
「遙佳、それ食わねえのか?」
「あまり好きじゃないんだ」
「じゃあくれよ」
遙佳が頷くのと同時に、聖哉は遙佳の分のトレーに乗っていた小鉢をかっさらっていった。マカロニサラダだ。初めて食べたときから、どうも好きになれない。似たような味のポテトサラダは好きなのだが、マカロニのふにゃふにゃした食感が苦手だった。
「トンカツ一切れ食うか? お返し。あっ、でも、端っこだけな」
「いや、聖哉の大好物だろ。ちゃんとお前が食えよ」
「やったー! もし、くれって言われたら泣くところだったぜ」
聖哉はそう言って、なにもついていないトンカツを嬉しそうに頬張った。
遙佳は聖哉と一緒に学食で昼食を摂っていた。晃司は空手部の友人と話があるといって、今は別の場所にいる。だからなのか、聖哉は堂々と晃司の名前を出して、話し始めた。
「晃司が気にしてたぜ。遙佳、最近元気ないんじゃねえのって。おれもそう思う。なあ、実はえにしのボランティアが負担になってるんじゃねえの?」
「……そう……なのかな」
また返事が遅れた。自分では不調に気付かないというか、モヤモヤしているのが慢性化しているような気もするし、大した悩みはないような気もする。自分で自分が分からない。
「遙佳はおれとちがって繊細だもんな。新しい環境に慣れるのも大変だろ。最初はおれたちともあんま喋ってくれなかったよな」
「俺、人見知りするんだってば」
「ああ、あのときもそう言ってたな」
そういえば——遙佳の脳裏に、ひとつの記憶がよぎる。
おれ、遙佳が喋ってくれなかったらどうしようって不安だったんだぜ。聖哉がそう言ってきたのは、岸辺城島に入学してひと月が過ぎた頃のことだった。
その頃の遙佳は、自認している通り、聖哉や晃司にすら人見知りを発動していたので、他の二人に比べて、極端に口数が少なかった。話しかけられても、「ああ」とか「そうだな」とか、そこで会話が終わってしまうような返事しか出来なかった。寮の部屋で、聖哉、あるいは晃司と二人きりになってしまえば、無言の空間が出来上がっていたものだ。
「松島って、なに考えてるか分からねえよな」
例の言葉を、聖哉から言われたのは、彼と二人きりでいるときだった。聖哉と晃司は、もう下の名前で互いを呼び合っていたのに、自分だけは苗字で呼ばれていた。それだけで、なんだか取り返しのつかないようなことになっているのではないかと思ってしまった。
「ごめん」
口をついて出たのは、なぜか謝罪の言葉だった。空気を読めなくてごめん。場を繋げなくてごめん。変な気を遣わせてごめん。時間が経過していくたびに、脳内には聖哉に対してかけたい言葉が溢れだしてくる。だが、そのどれもが聖哉に届くことはなかった。
「なあ、松島。お前、バレー部でレギュラーになるんだって?」
なんで謝ってくるんだよと、聖哉は言いたそうだったが、衝動を引っ込めたのか、彼は話題を変えた。
「なんで知ってるんだ?」
「ヘヘッ。おれのクラスにバレー部の小野沢たちがいるだろ。あいつらに聞いたんだ」
「そうなんだ……」
そのとき初めて、聖哉とまともに会話が出来た気がした。だから、終わらせてはいけないと思った。俺はなにを考えているのか分からないやつなんかじゃない。これから三年間、ずっと一緒に生活をしていく間柄なのだ。せめて同室のやつらとは、良い関係を築いていかなきゃならない。
「俺、背が高いから、たぶんそれで評価されたんじゃないかな」
「え? そうなのか? おれ、バレーのことはよく分かんねえけど、背が高いだけでレギュラーにはなれねえと思うけどな」
聖哉は椅子に座ってくるくると回っている。遙佳がそちらを見ると、体の向きが遙佳と向き合ったときだけ、目も合った。
「そう……なのかな」
「おれは野球部だから、野球でしか例えられねえけど、同じポジション希望のやつらって、その中でやっぱり飛び抜けていないと、一年からレギュラーになんて上げてもらえねえからな。あ、ちなみにおれ、ピッチャーで、背番号もらったんだぜ。すげえだろ」
岸辺城島の野球部は、甲子園出場の常連校として有名だ。部員も多いと聞く。
「鍵田……くんのほうが凄いんじゃないのか?」
「三年に八人、二年に六人、一年はおれを入れて四人。岸辺城島野球部のピッチャー志望。ピッチャーだけで二チーム出来ちまうんだよ。その中で、おれは背番号十! やっぱおれってすげえのかな?」
「俺は、凄いと思う」
「サンキュー! でも松島がそう思ってくれるなら、おまえもそれと同じくらいすげえってことじゃん。きっと、背が高いってだけで選ばれたんじゃないと思うぞ、おれは」
「そう……なのかな」
「もっと自分に自信持てよ。なっ?」
聖哉はそう言って笑った。
互いにすげえすげえと言い合って、その時、聖哉との距離が少しだけ縮まった気がしたが、自分がなにを考えているのか分からないという評価は、聖哉だけでなく、他のみんなにも思われているのかもしれないという気付きだけはいつまでも拭えなかった。
「おれは人見知りなんてしねえからよくわかんないけど、やっぱすげえエネルギー使うんだろ? えにしに行くの、嫌になってないか?」
「やること自体は楽しいから、大丈夫だ」
「ほんとかあ?」
聖哉がまじまじとこちらを見てくる視線を感じた。ほんとだよと返して、「そんなことより、宿題は終わったのか? あんまり喋ってると、見てやらねえぞ」と、逆に聖哉に発破をかけた。
昼休み、昼食を摂ったあとに、その日の午前中の授業で出た宿題を見てやるのが、このところの遙佳の役割となっていた。聖哉の隣の椅子には、英語のノートと教科書が乗せられている。
「やべっ!」
聖哉は慌てて残りの飯をかき込んで、トレーをわきに追いやると、「遙佳、頼むよお」と猫なで声で言いながら、ノートと教科書をテーブルの上に広げたのだった。
7
「なあ、あれ、このあいだの兄弟の弟じゃねえか?」
えにしに行く途中だった。三人で学校を出て、しばらく歩いていると、駅前のファストフード店の前で、見知った顔の少年がぽつんと立っていたのだ。
「よう!」
とたとたと足音を立てて、すかさず聖哉が少年に近づくと、彼は俯いていた顔を上げて、三人を見つめた。いまは互いに学校の制服だからか、少年は聖哉たちのことが分からないようであった。
「このあいだはえにしに来てくれてありがとうな」と、聖哉が言うと、そこでようやく目の前の三人は、あのとき店内にいたやつらだと、少年の記憶も合致したようだった。
「……ありがとうございました。焼きそば、美味しかったです」
少年はか細い声でそう言った。色白で、幽霊みたいなやつだと聖哉は思った。スポーツ刈りの頭が、その大人しそうな雰囲気とは合っていない。
「こんなところでなにしてるんだ? 暑いだろ」
夏の盛りは過ぎたとはいえ、まだまだ気温は高い。少年は通学鞄を肩にかけていたが、肩紐の辺りの制服が汗ばんでいた。
「兄を待っています。家に鍵を忘れてしまって、入れないんです」
「待っているって……ずっとここで?」
晃司の問いかけに、少年はこくりと頷いた。
「だったらさ、えにしに来いよ」
自分の店でもないのに、千葉の許可無くなんてことを言うんだと、遙佳は聖哉の肩を小突いたが、その意図は伝わらなかった。
「でも……」
「きっと千葉さんもいいって言ってくれるって。こんなところにいたら、熱中症でぶっ倒れるぜ!」
半ば強引な聖哉の押しに負けて、少年は戸惑いながらも、三人のあとに黙ってついてきた。
「なあ、おまえ、名前は?」
「関川……亮といいます」
「じゃあ、リョウって呼ぶな! 中学生だろ? 何年?」
「あ……三年……です」
「じゃあ受験生じゃん。志望校とかもう決まってんの? てか、決まってないとヤバいか」
「岸辺城島高校に行きたいと……思っています。でも……あっ、いや、なんでもないです」
亮との会話は、聖哉に任せておけば場は繋げるだろう。遙佳と晃司はそう思って、二人のやりとりを聞いていた。緊張しているのか、歯切れの悪い亮の様子に、遙佳は自分を重ね合わせる。本当は思っていることをみなまで喋ってしまいたいけれど、必死で言葉を選んで、当たり障りのない会話を心がけているのが分かった。
「なんだよ〜、勿体ぶって。気になるじゃん」
聖哉のように、ぐいぐいとパーソナルスペースに踏み込んでくるようなやつは、場合によっては助かることもある。それで、相手は自分に興味を持ってくれているのだと分かるから、会話のハードルがぐっと低くなる。
「あ……いや、その……。が……」
「が?」
聖哉がちょっと焦れったそうにしている。
「が……学費がっ……。お、お金のことを考えると、公立校にしておくべきだって、思ってます」
話しているうちにえにしの前に到着したので、会話はそこで途切れることとなった。
「千葉さーん、こんちはー!」
「ちわっ!」「ちわっ! お疲れ様です!」
えにしの入口の扉を開くと、煮物の出汁の匂いが漂ってきた。千葉が厨房のコンロの前に立っていて、菜箸で鍋の中をかき回している。三人が入ってきたことに気付くと「おう」と言い、一番後ろに四人目の来訪者がいるのに気付いた。
「千葉さん、こいつ、こないだ最後に来た弟の方。なんか、家に鍵を忘れて兄ちゃんが帰ってくるまで入れないみたいなんで、ここにいてもいいっすよね」
「……すみません」
亮が消え入るような声で詫びた。
「ああ。勿論いいぞ。ゆっくりしていってくれ」
聖哉に促されて、亮はカウンターの一番端の席に座った。
「学校の宿題とか、あるんだったらしててもいいぞ」
「はい、ありがとうございます」
二人の会話を聞きながら、三人は店の奥で作業着に着替える。荷物を置いて店のホールに再び出てきたとき、亮は机の上にノートを広げて、黙々と問題集を解いていた。
「うへえ……、おれ、なんも覚えてねえや」
後ろから問題集を覗き込んだ聖哉が苦笑した。数学だ。図形の相似の証明問題を解いている。
「聖哉が一般入試で岸辺城島を受けたら、かすりもしなかったんじゃねえか?」
「そうかもなー。推薦サマサマだ」
居眠りが多いという問題点を除けば、遙佳の成績は学年の中でも上位のほうだ。彼の人生において赤点とは無縁だった。
「リョウ、分からなかったら、この、松島先輩に聞けよ。おれたちの中で一番頭良いから」
他人事だと思って、好きに言ってくれる、と遙佳は苦笑したが、悪い気はしなかった。
「千葉さん、今日のメニューは何ですか?」
二人を差し置いて、晃司がカウンター越しに千葉に尋ねた。千葉の過去を知ってから、晃司は彼に懐いているようにみえる。
「きょうは和食だ。鯖の塩焼きと里芋の煮っ転がし。それとほうれん草のお浸しだな」
では、先程から店内に充満している香りは、煮っ転がしのものか。
「リョウ、サバ、だってよ!」
「え……? ぼ、僕は……」
「なに言ってんだよ、折角来たんだから、晩飯、ちゃんと食ってけよ!」
「あ……ありがとうございます。兄に連絡しておきます」
亮はそう言って鞄の中からスマートフォンを取り出して、メッセージアプリを開いていた。
「あの……みなさん、岸辺城島高校の生徒さんなんですか」
「おー、そうだぞ。おれたちみんなで寮に住んでるんだぜ」
「りょう……」
亮は決して自分の名前を呟いたわけではない。「あ、あの……寮の生活って、楽しいですか?」
「楽しいぞ。なんだ、興味あんのか?」
聖哉の言葉を聞いて、亮の目には羨望の色が浮かんだ。
「……興味、ですか。そうですね、兄に迷惑をかけないためにも、僕は早いうちに家を出たほうがいいのかもしれません」
「家族なのに、迷惑をかけるとか、かけないとか、そういうのっていちいち考えないと駄目なのか?」
亮と聖哉の二人が同時にこちらを見てきて、遙佳は少したじろいだ。下手なことを口走ってしまったかと焦る。なんだか視線が痛かった。深く考えないで言ってしまったが、そうだ、亮の家庭環境は、もしかすると訳有りなのかもしれないのだったと思い出す。
「悪い、なんでもない」
逃げるようにそう言って、遙佳は店内のテーブルを拭きはじめた。
「潮、今日は厨房を手伝ってくれるか?」
「あっ、はい!」
注文が入ると、生の鯖の切り身を、網で焼くという。炒め物と違って、じわじわと火を通さないといけないから、そのぶん時間もかかる。盛り付けなどの調理補助と洗い物を任せられた。
開店して少しすると、いつものメンバーがやってきた。今日は武留ひとりだけでなく、利明と英康も一緒だった。さらに印象的だったのは、彼らの輪の中に知花も入っていたことだ。
聖哉は知花と目が合うと、その様子が微笑ましくて、頬が緩んだ。良かったな、知花。——自分に弟や妹がいたら、定期的にこんな気持ちになるんだろうか。親心……じゃないよな。こういう気持ちって、なんて言うんだろう。
「あっ! 先客がいる!」
武留のほぼ絶叫に近い声に、亮がびくりと肩を震わせた。黙々と動かしていたペンを止めて、彼は小学生たちに向かって、ぺこりと会釈をしていた。
「いらっしゃい! 今日は鯖だからな!」
「聖哉先輩! お疲れ様です! あっ、おれがやります」
聖哉が運んできたお冷やを、武留はすかさず受け取って、各々の前に置いていった。
「今日は魚かあ……」
「お? なんだ、文句あんなら食わなくていいぞ」
「ひっ! 潮先輩こえーっす」
「せっかく千葉さんがお前たちのために用意してくれるんだ。ちゃんと食え」
「は、はいっ!」
バツが悪そうに、武留はシュンとした。
網に乗せていた鯖が焼き上がってきたのか、ジュージューパチパチと、網の上で切り身が躍る音が聞こえてくる。晃司は焼き上がる直前に、小鉢に副菜を盛り付けて、炊飯器から白飯をよそった。今日の味噌汁は、豚汁だった。肉と魚。どちらもある。
「だんだん手慣れてきたな」
菜箸で鯖の身を軽くつつきながら、千葉は晃司の働きぶりを見ていた。
「そうっすか! ありがとうございます!」
晃司の頬が緩んだ。千葉に褒められると、まるで上官に直々に讃えられたような心地になる。まだ自衛官への道を歩み出してはいないけれど、気持ちだけは未来を先走っているようだった。
子供たちがそれぞれ食事をしているあいだも、立て続けに客がやってきた。いつもの面子から、初めてやってきた人々まで、驚いたのは、今日は大人の利用者も多かったことだ。子供とは対照的な年輩の客だった。
「じいさんばあさんも食いに来るんですね」
「ああ。今日は和食だということもあってか、久々に見る顔もいるよ」
「年寄りでもSNSを見てくる人もいるんですか?」
「中にはそういう人もいるだろうが、この辺りには地域の見回りボランティアというものがあってな。独り暮らしのお年寄りが増えているから、たまには外に出て、美味いもんでも食べてきたらどうですかって、挨拶がてら声かけをしてくれるんだ。それに触発された人は、ここに来てくれることも多い」
合点した。ほら、運んでくれと、千葉に出来たての定食を渡される。遙佳はそろそろとテーブルのあいだをぬって、カウンター席に座っているひとりの老婆にそれを差し出した。
「どうぞ。今日は鯖の塩焼きです」
「ありがとう。お兄ちゃんは、新しいバイトさんかい?」
「い、いえ、僕たちは臨時で来ているだけで……」
遙佳の慌てたような口調に、老婆はフフッと笑みをこぼした。「学生さんね。おおかた、ナオちゃんの後輩さんといったところかしら」
「そ、そうですね」
ここに来るまでは千葉のことも、えにしの存在も知らなかったから、後輩というには、自分たちの立場は中途半端な気がしたが、それ以外に例えようがなかった。
「良かったわねえ、ナオちゃん。素敵なお弟子さんが三人もいて。でも、麻美ちゃんは残念だったねえ」
「トミさん、水口は辞めたわけじゃないんですよ」
「ありゃ、そうだったかい? てっきり姿を見ないから、ナオちゃんに愛想をつかして辞めたのかと思っちゃったよ」
千葉に『トミさん』と呼ばれたこの老婆は、やりとりから察するに、えにしの常連らしかった。その割には自分たちが働きはじめてからは初めて見る人だと、遙佳は思った。
「松島、この人は木谷登美子さんといって、俺が小さい頃からの知り合いでな。近くの団地に住んでいるんだが、この店を始めた頃から、こども食堂に関係なく、居酒屋の営業中にも足繁く通ってくれているんだ」
遙佳が抱いた疑問を、千葉が一瞬にして解いてくれた。
「千葉さん! 『アシシゲク』ってなんすか!」
ちょっと小難しい言い回しを聞いたら、すぐこれだ。聖哉のほうを見て、遙佳は苦笑した。千葉は「帰ったら自分で辞書で調べてみろ」と言ったが、寮に戻ったころには忘れているにちがいない。
香芝に罰則を命じられたとき、『バイトの女の子が怪我をしてしまった』と言っていた。そうすると、水口麻美という者が、そのバイトなのだろう。自分たちが三人でやっている千葉の補助を、その人が一人で担っていたということか。
自分たちが関わるようになったこの場所に、自分たちの知らない世界が同時に流れているのだと考えると、不思議な感覚だった。
登美子は「ありがたいありがたい」と連呼しながら、鯖を美味そうに食っていた。食後に熱いほうじ茶を千葉が出すと、それもゆっくりと飲んだ。
「どうせ利益度外視で、慈善事業みたいなことをやっているんだろう。……ほら、ナオちゃん、ババアからの小遣いだと思って、とっておきなさい」
そう言って、登美子が巾着袋から取り出したのは、一万円札だった。折りたたんだまま、押しつけるようにして千葉の手に握らせた。
「いつもありがとうな、トミさん」
「いいのいいの。また来るからねー」
ひらひらと手を振りながら、登美子は店を出ていった。
「ありがとうございました!」
三人は、声を張って登美子の後ろ姿を見送る。
「トミさん、いつも勘定よりも多い金をくれるんだよ。最初はいいって断ってたんだけど、毎度毎度のことだから、好意として受け取るようにしたんだ。『こんな年寄りが、金を貯め込んだってしょうがないんだ。好きなように使っとくれ』ってな」
「へえ! もしもあの人がおれのばあちゃんだったら、いっぱい小遣いくれたかな、いいなあ!」
「おい聖哉……」
欲望丸出しの表情で呆けている聖哉を咎めたのは晃司だった。冗談だよと、まんざら冗談でもなさそうな口調だったが、聖哉は必死で弁解していた。
登美子の姿を三人が見たのは、その日の一瞬のあいだだったが、おそらく彼らは彼女の存在を、一生忘れないだろう。
木谷登美子が自宅の浴槽で孤独死していたと聞いたのは、次に聖哉たちがえにしに出向いたときだった。
8
その日、店は臨時休業だと入口に貼り紙がしてあった。なにも報されていなかった三人は、放課後にえにしを訪れたが、千葉の手書きの文字で書かれたその貼り紙を見て、すこし考えたあと、とりあえず店の中に入ることにした。
「……こんちはー……」
店内を漂う沈んだ空気を感じ取ったのか、聖哉はいつもより数段、声のトーンを落としてそろそろと足を踏み入れた。
「……あ」
聖哉と目が合って、千葉が声を漏らした。彼の様子がいつもと違うことにはすぐに気がついた。
「どうかしたんですか?」
遙佳は暗がりに佇む千葉に尋ねた。
店の電気が点いていない。いつもならオレンジ色の暖かい明かりが灯っているが、今日は店内に陰が落ちていた。それだけで一気に活気を失くしたように感じられた。
「すまない……。連絡を入れるのを忘れていたな」
精気が抜け落ちたかのような声。それが涙声だと、三人は気付いた。
「あの……なにかあったんですか?」
そう言った聖哉の頭の中に、様々な想像が繰り広げられる。——彼女にフラれた。誰かとケンカをした。借金取りが店まで押しかけてきて、売上金を根こそぎ奪われていった——。そのどれも口に出さなくて良かったと、心の底から聖哉が思ったのは、直後に千葉が話しはじめたことを聞いたときだった。
「このあいだ、お前たちが来てくれたときに飯を食いに来た、トミさん。覚えてるか?」
三人は頷いた。
「あの人が死んでいるのが見つかったんだ」
吐きかけていた呼吸も、驚嘆の言葉も、喉の奥に引っ込んで、さすがの聖哉も、これが『息を呑む』ということかと分かった。絶句したままの三人と立ったまま向かい合って、千葉は話を続けた。
「風呂で溺死していたそうだ。トミさんは独り暮らしだったから、発見が遅れたんだ。見回りボランティアの人が今日、トミさんの家を訪ねたときに、応答がなかったことを不審に思って、団地の管理人と一緒に部屋に入ると、浴槽に沈んでいるトミさんが見つかったらしい」
千葉の口から語られる登美子を襲った現実は、まるで呑み込めないままに聖哉たちの頭の上をふわふわと浮かんでいるかのようだった。誰かが鼻から息を吸った音がやけに大きく聞こえて、音を立てた本人も、他の者も、誰が呼吸をしたのか分からなくなっていた。
「すぐに警察と消防が駆けつけて、現場検証をしてくれた。それによると、トミさんは最後にこども食堂に来たあの日、帰宅した数十分後にはもう、浴槽の中に沈んでしまっていたのではないか、ということだ」
言葉を落とす千葉の目をよく見ると、真っ赤になっていた。
「そんな……」
ようやく声を出したのは、遙佳だった。人の死を間近に経験したことのない三人には、にわかには信じられない出来事だ。頭の中の整理が追いつかない。伝えられた内容はそんなに複雑なものではないのに、受け入れようとすればするほど、感情と現実が雁字搦めになって、気持ちと言葉のあいだがどんどん離れていくようだった。
「申し訳ない。お前たちには馴染みの薄い人のことで、戸惑わせてしまったな」
何故だか他人事だとは思えなかった。一時間にも満たないほんのひとときの関わりだったのに、あのときのことが記憶に鮮明に焼き付いている。——あの人の最期の食事を運んだのは、俺だ……と、遙佳はそのとき気付いた。
あのとき、誰が予想しただろうか。残された未来が、遙佳たちより随分と少なかったとしても、食事を終えたその直後に、人生が閉ざされるなど。
「遙佳! おいっ!」
聖哉の切羽詰まった声がぼんやりと耳朶をかすめたとき、遙佳は自分の足腰の力が抜けていることに気付いた。視界が揺らぐ。倒れる……と思った瞬間、なにか、とても強固なものに体を支えられた。
「大丈夫か! 遙佳!?」
傾ぎかけた上肢を、聖哉と晃司が支えてくれていた。遙佳はハッと短く息を吐いて、それからしっかりと足を床に踏みしめた。
「ごめん、ふたりとも……俺……」
それから先は、言葉にならなかった。ふいに、目から涙がこぼれ出てきたのだ。なんで泣いているのか、その理由は分かっているのに、激情にかられている自分のことが分からなかった。——なんでだ? ……だって、あの婆さんとは、たった数十分、関わり合っただけだぞ。えにしの常連客なだけで、俺にはなんの関係もないはずだ。なのになんで、悲しいと思っているんだ?
登美子の接客をしたのが聖哉や晃司だったら、自分はここまでの感情を抱いていただろうか。
「遙佳、と、とりあえず座れよっ」
聖哉はガタガタとカウンターの椅子を引っ張って、遙佳をそこに座らせた。素直に腰を下ろした遙佳は、背中を丸めるようにして俯いたまま、感情の波がおさまるのを待った。
「落ち着くまで、大丈夫だから、おれ、ちゃんとここにいるから」
いつもは冷静で、あまり感情の起伏がない遙佳が、悲傷に惑っているのをみて、聖哉は狼狽えた。年長者である頼みの綱の千葉も、人のことを慮れる状態ではない。初めて目の当たりにした友の激情に、自分がなんとかこの場を乗り切らないといけないという想いが芽生えていた。
「ありがとうな、松島。故人を悼んでくれて。きっとトミさんも、新しい知り合いが出来たことを喜んでくれているはずだ」
すでに身近な者の死を経験している千葉だったが、やはり誰かがこの世からいなくなるというのは、その度にずしりと、事実だけが心にのしかかってくると分かっていた。残された者は、ただ嘆いているだけでは駄目だということも知っていた。だから、遙佳にとってこれがトラウマとならないようにと、ただ願うことしかできない自分がもどかしかった。
「ごめんな、ふたりとも」
自分の足で歩いているが、遙佳の声は消沈していた。三人で並んで帰路についている。聖哉は時折、遙佳の様子を確かめるように、ちらちらと彼のほうを見ていた。
「オマエでも、泣いたりすることあるんだな」
人間には喜怒哀楽の感情がある。人によってその表現方法は様々だが、人前で涙を見せることが苦手そうな遙佳のあけすけな感情を目の当たりにして、晃司も驚いていたのだ。
「俺だってロボットじゃないんだから……」
瞳に陰は落ちたままだったが、遙佳はそう言ってすこしだけ笑ってみせた。
寮に戻ると、三人の早い帰還に香芝が驚いた顔をみせた。
「どうした? 千葉の店に行ったんじゃないのか」
「せんせー、理由があるんです」
聖哉がぐいと一歩前に進み出て、帰ってきた理由を説明した。
「そんなことがあったんだな。お疲れさん。食堂に言って、夕飯を用意してもらうから、お前ら食堂に行ってこい」
それは大変だったなとか、大丈夫だったかとか、大人なら、もっとかけてくれる言葉はあるのではないかと思ったが、香芝はそれだけしか言わなかった。きっと大人といえど、こういう不測の事態が起こると、他人を思いやるという思考がごっそりとそぎ落とされてしまうのかもしれないと、晃司は思った。
「今日の晩飯、麻婆豆腐らしいぜ! でも、あんなことがなかったら、えにしではなにを食わせてもらえたんだろうな」
「オマエはほんとに、食うか寝るか野球かしかねえのかよ」
「晃司はひでえな。おれだって、いろんなこと、考えてるんだぜ、一応」
三人はそのまま食堂に向かった。夕食のメニューは、聖哉の言ったとおり、麻婆豆腐だった。付け合わせの小鉢は、搾菜とポテトサラダ、それにあさりと青梗菜の炒め物。汁物は、かき玉汁だ。
夕食の時間のピークは過ぎていたが、部活で遅くなった生徒たちがまばらに席について食事をしていた。
「聖哉! おまえ今日ははえーな」
野呂の声がした。食堂の入口に近いテーブルに、野呂と濱中と、そして瓜野が座っていた。
「あっ! 瓜野さん!」
元主将の姿を久しぶりに見て、聖哉の顔がぱあっと輝いた。
「ほら、行ってこいよ」
晃司に言われて、聖哉は嬉しそうにそのテーブルに駆けていった。
「お疲れっす! 瓜野さん。あっ、濱中さんとユーダイも」
「……俺らはついでかよ」
濱中は苦笑した。
「聖哉は瓜野さん瓜野さんって、ずっとうっせえんすよ」
野呂も続く。
「鍵田、俺はもう引退したんだぞ。お前が俺のことを慕ってくれているのは嬉しいが、いつまでも俺の残り香を引き摺ってんじゃないぞ」
「はいっ! すみません!」
「それにしてもお前、なんか罰則喰らってんだってな。たるんでるんじゃねえのか?」
「いえっ、あっ、はい! 部のみんなには迷惑をかけて申し訳ないと思っています!」
「別に迷惑はかけられてねえよな。なあ、野呂」
「はい」
濱中と野呂が頷き合う。
「まあ、過ぎたことはしょうがないさ。鍵田なら大丈夫だろうと思うが、野球に支障が出ないようにな」
さっさと食えよと促されて、聖哉は茶碗を手に取った。みんなおなじことを言う。過ぎたことはしょうがない。おまえなら大丈夫。でも、はたしてそうなのだろうかと思う。尊敬している瓜野がそう言うなら、やっぱりみんなの言うことは正しいのかとも思う。
なにが正しいのかは分からないけれど、ひとつだけ明確なことがある。いまの自分の状況は、自分の行いが招いた結果だということだ。
三人の中の誰かひとりでも、教師に目をつけられるようなやつじゃなければ、罰則など与えられなかったのかもしれない。もしそれが自分だったとしたら、ちゃんと部活に集中出来る日々を、いまも過ごせていたのかもしれない。
スプーンで麻婆豆腐を掬って口に放り込む。豆腐は木綿を使っているのかと気付く。これまでも何度か、同じメニューが出たことがあったが、そのときはいずれも絹ごし豆腐が使われていた。おれは木綿のほうが好みだなと、心の中で思う。
ガツガツと飯を食いながら、聖哉は食堂の端のほうでこちらに背中を向けている晃司と遙佳を見ていた。
結局おれたちは、なにをしていても腹が減るんだな。だったらどうせ食うなら、今みたいに美味い飯のほうがいい。辛いことや悲しいことなんて、自分にも友人たちにも、極力降りかからないで欲しいと思った。そしてそれはきっと、自分でどうにか出来ることのほうが多いんじゃないだろうか。
9
「遙佳」
暗がりの中で、聖哉が自分を呼ぶ声がして、遙佳は頭を起こした。ずっと目は開いていた。ベッドの上で仰向けになり、ぼうっと天井を見つめていたのだ。
「なんだ、聖哉」
「おまえ、眠れねえんだろ。あのばあちゃんのこと、ずーっと考えちまって。今日はずっと上の空だったもんな」
「上の空……か」
そうだ。ふとした瞬間に、考えてしまう。自分がおかしいのかとも思う。
「遙佳の思ってることは、おれ、お見通しだからな! おまえは分かりやすいやつだからなー」
「は?」
今度は上肢を起こした。晃司の寝息が聞こえる。暗がりの中で、聖哉と目が合った気がした。——聖哉、いまなんて言った? お前は、俺がなにを考えているか、わからねえんじゃないのかよ。
「あんま、引きずんじゃねえぞ」
聖哉はそれだけ言って、再び寝転んだ。「って、おれ、さっきメシのとき、瓜野さんに言われたんだ」
「瓜野さん……って聖哉が大好きな先輩か?」
野球部の夏の大会中、聖哉がずっと瓜野さんはすげえんだぜと騒いでいたことを覚えている。
「えへへ、瓜野さんは、おれが一番尊敬する選手だからな」
暗くても、聖哉が嬉しそうににやけている様子が見える気がする。瓜野と聖哉はポジションが違うと記憶しているが、そこまで惹かれる魅力が瓜野にあるということだろうか。
「まあ、それはともかくだな、遙佳。おれ、正直ビビってんだ。おまえに」
「なんでだよ」
「あっ、ビビってるって、遙佳のことが怖いって意味じゃねえからな。驚いてるって意味」
「だからなんでだよ」
慌てて弁明してくる聖哉がすこし可笑しかった。
「ほら、遙佳がみんなの前で泣いちゃっただろ。おれ、誰かが泣いてるのとか見るの、ほんと苦手でさ。とくに遙佳みたいなクールキャラがあんなことになって、めちゃくちゃビビったんだ。だからあのとき、みっともなくおろおろしてただろ」
「なんだ、なんか励ましてくれるのかと思ったら、弁明かよ」
「でもおれは安心してる」
「え?」
「おれ、昔おまえに『なに考えてるのかわからねえ』って言っただろ。……後になってずっと、なんであんなこと言っちまったんだろうって思っててさ。知り合ったばかりで、お互いのことなんかなにもわからねえのは当たり前なのにな」
「覚えてたのか?」
時にデリカシーがないと評される聖哉のことだから、もうてっきり忘れているのかと思っていた。俺がいつまでもネチネチと根に持っているだけで、それこそがおかしいのかもしれないと。——人の上辺だけを見て、相手を理解していないのは、俺の方だったのかよ。
「遙佳!」
聖哉が声を張った。晃司が目覚めてしまうんじゃないかと思うほどの声量だったが、ごそごそと動く物音がしただけで、彼はぐっすり眠っているようだった。
「あのときはごめんな! 遙佳はおれの大事な友達だって、いまははっきりと言える。だからおまえが悲しんでいるときも、喜んでいるときも、きっとおれは、おなじ気持ちになる。だからさ、元気出してくれよ。な?」
岸辺城島高校硬式野球部が、甲子園の出場をかけて挑んだ、今年の夏の大会の決勝戦を観に行った。稜仰高校というどこかの公立校とあたったその試合の最終回、相手に三連続のホームランを打たれ、崩れたエースの代わりに、聖哉はマウンドに立った。遙佳はそれを、スタンド席から見守っていた。
きっと相当なプレッシャーだっただろう。一時はリードしていた点が逆転され、これ以上相手に突き放されるわけにはいかないそのタイミングでの登板だ。だが聖哉は、そんな重圧を感じさせないピッチングを見せてくれた。彼の手から放たれた投球は、小気味よい快音を球場に響かせて、キャッチャーミットに吸い込まれていった。そのときから既に、エースとしての片鱗を漂わせる直球だった。
聖哉が遙佳に言った言葉は、それと同じだった。見栄も偽りもない、真正面からのド直球。——おれの大事な友達。
部屋が真っ暗で良かったと思った。流石にこんな恥ずかしい顔を、一日に二回も見せられない。
他人には興味がないと、ずっと思っていた。自分は異常で、人として持っているべき感情のいくつかを持ち合わせていないのだと。だが、誰かのことで一喜一憂出来る自分は、ちゃんと存在していたのだ。それはもしかすると、昔に心の何処かに置き忘れてきただけで、元々ちゃんと持っていた気持ちなのかもしれない。そうじゃないと、説明がつかない。——だって、いま心を満たしている感情の種類が何なのかを、俺は知っているから。
翌日、眩しい朝日が窓から射し込んできて、遙佳は三人の中で一番に目が覚めた。週末は天気の急な崩れに注意してくださいと、天気予報で言っていた気がするが、雨の気配など感じさせない、見事な晴天だった。
「おい、聖哉! 起きろ、お前朝から部活だろ!」
聖哉はうーんと唸りながら寝返りを打つ。聖哉のベッドの枕元には、硬球が置いてある。くだんの決勝戦で、彼が崇拝する瓜野が打ったホームランボールを、どんな手を使ったのか、貰ったのだと言っていた。
「コイツ、自分で起こしてくれって言ってたのに、起きねえのかよ。腹に突きでも喰らわせてやろうか」
呆れたような晃司の声がした瞬間、聖哉は目をぱっちり開けて、慌てて飛び起きた。
通り雨が辺りを濡らしていく。天気予報が当たったんだなあと考えながら、遙佳は体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下の途中で、地面を打ちつける雨脚をじっと眺めていた。
つい数分前までは晴れていた空が、みるみるうちに灰色になり、ぽつりと落ちてきた雫を合図に、どっと大粒の雨が降り出したのだ。
グラウンドからは、突然の大雨に驚くような叫び声が聞こえてくる。あの中に、聖哉もいるのだろうか。
遠くで雷鳴が轟いた。腹の底から脳天に突き抜けるような重低音が、大地を揺らす。大砲の弾が撃たれたときの音みたいだと、実際に聞いたこともない音を連想する。自分の心の広さがどれほどのものかは分からないが、一番遠くに置いてきたつもりの感情が呼び起こされる音に似ていた。



