「おれ、なめろうって料理が食ってみてえんだよなあ!」
 教室が静まりかえった。教卓で細胞分裂について熱心に解説していた教師の弁も止まる。クラス中の視線が、大声を発した少年のほうへ注がれる。少年はあろうことか、自分が教室中の三十数人を驚かせたなどとはつゆ知らず、坊主頭を机に突っ伏して居眠りをしていた。
「またお前か! 鍵田聖哉!」
 理科教師の権藤がつかつかと机のあいだをすり抜けて、聖哉が座っている窓際の一番後ろの席まで歩いていく。手に持っていた教科書で机を叩くと、「ふえっ!」と間の抜けた声を上げながら、聖哉が飛び起きた。
 教室のあちこちからひそやかな笑い声が起こる。
「授業が終わったら職員室に来い! まったくお前は……」
 ため息をつきながら教卓に戻っていく権藤がなぜ怒っているのか、クラスメイトたちがなぜ自分をみて笑っているのか、聖哉は直ちにはのみ込めなかった。
「おい、よだれ垂れてんぞ」
 前の席の小竹が小声で囁いてきて、聖哉は慌てて手の甲で口を拭った。それでようやく、自分が授業中に居眠りをしていたのだと理解した。
 机の上に広げていた教科書とノートは皺が寄っている。途中まで板書を写していた文字も、睡魔に襲われはじめたタイミングから、急に筆圧が弱くなり、目をすぼめたときに視界のなかに現れる埃みたいな物体に似たかたちの解読不能のなにかが、紙の上をのたくっていた。
 聖哉は目を瞬かせて、そのあとに欠伸をかみころした。その途端、終業のチャイムが鳴る。——ちぇっ、どうせなら、そのまま寝かせといてくれても良かったじゃねえか、と、聖哉は思った。

 授業が終わると、案の定聖哉はクラスメイトたちにからかわれた。
「いくら部活がきついからって、授業中に寝言を叫ぶなよなー」
「ほんと。お前が居眠りしてるのはもう慣れたけど、あんな大声で叫ばれちゃあ、俺らもビビるって」
「え、おれ、寝言言ってたのか?」
 何せ夢の世界に旅立っていたのだ。自分が周りに恥を晒していた自覚などはなく、聖哉はきょとんとしてこめかみをかいていた。
 聖哉が通う私立岸辺城島高校は、男子校だ。普通科、商業科、体育科と、三種類の学科があり、聖哉はそのうちの体育科に所属している。
 岸辺城島は、部活動にも力を入れており、体育科に所属している生徒たちは全寮制で、校舎に隣接している寮に住んでいる。山を切り開いて開発されたニュータウンの中にある岸辺城島は、「学校前」という駅が近くにあるほど、広大な規模の学校だった。
 聖哉はこの春、岸辺城島に入学してきた、ぴかぴかの一年生だ。小学生の頃から打ち込んできた野球の才能を買われ、推薦で入学した。ベンチ入りをしていた今年の夏の県予選では、決勝まで駒を進めたが、敗退し、甲子園に出場するという夢は潰えた。

 放課後になって、聖哉が教室でユニフォームに着替えていると、戸口に背の高い少年が顔を覗かせて、「おーい、聖哉!」と呼んだ。
「遙佳? なんだよ!」
 上はユニフォーム、下は学生ズボンという不格好な出で立ちのまま、聖哉は彼のもとに近づいた。
「なんか、香芝が、おまえと、晃司を呼んでこいって」
「マジかよ、おれ、部活あるんだけど」
「しらねえよ。俺だって一緒だ」
 練習に遅れると、先輩たちからどやされる。あーあ、面倒くせえなと思いながら、とりあえずズボンを履き替えて教室を出た。
 松島遙佳と潮晃司は、聖哉とは別の中学校から岸辺城島に進学した生徒だ。みんな体育科に所属しており、遙佳はバレー部、晃司は空手部でそれぞれの技を磨いている。三人の共通点は、学年と、校内で所属する学科が一緒だということ。——それに、あとは授業中の居眠り常習犯だというレッテルを、教師たちに貼られていることだ。
 晃司はトイレに行っていた。途中で合流して、三人で職員室へ向かう。
「あっ、オレ、しょんべんして手洗うの忘れたわ!」と、途中で晃司が叫んだが、二人は聞こえないふりをした。
 三人を呼び出した香芝は、教師をしながら体育科の寮監を勤めている。おまけに生徒指導も担当しているというから、聖哉たちにとっては目の上のたんこぶのような存在であった。
「しつれーしまーす……」
 そろそろと職員室の扉を開いて、三人は香芝の元へ行く。香芝は職員室のちょうど中央あたりの『島』で、なにやら書き物をしているところだった。
「遅い!」
 香芝の一喝に、聖哉はピンと背筋を伸ばした。反抗期の盛りは過ぎたが、まだまだ大人たちには楯突いていたいもの。だが、中には決して逆らってはならない大人がいるのも承知している。香芝はその、逆らってはいけない部類に入る人間だった。
「鍵田! なぜユニフォームに着替えている!」
「はっ、はい! すみません!」
 これから部活があんだから仕方ねえだろ。見てわかんねえのかよ。
あくまで心の中で悪態をつく。
「すみません、俺が聖哉を呼ぶのが遅れたんです!」
 遙佳が慌ててあいだに入ったためか、香芝はフンと鼻をならした。
「まあいい。お前たちを呼んだのは他でもない。他の先生がたから、お前たちの普段の行動についてちらほら、苦情が出ていてなあ。寮監として、放っておくことは出来んだろう」
文句があるなら、香芝を通さずに、おれたちに直接言えばいいじゃねえかと、聖哉は思った。
「朝早くから夜遅くまで部活をやって、その間に授業も受けて、おまけに課題も出される。大人顔負けの忙しい日常を送っているお前たちが、ふと気が緩んで眠くなる気持ちも分からんでもないが、そんなことを許してしまえば他の生徒たちにも示しがつかんだろう」
「はい」
 三人の声が重なった。
「それでだな、お前たちには罰則を与えることにした」
「えーーーーー!!!」
 また三人の声が重なった。声変わりの終わった少年たちが奏でる驚嘆のハーモニー。拒否権など与えられぬ悲しい性。
「腕立て百回とか、懸垂三十回とかっすか?」
 晃司が言った。半袖のワイシャツから覗く腕は、そんなものをこなすのは容易いと言いたげに引き締まっている。
「そんなもん、お前たちなら普段からそつなくこなしているだろう。罰則というものは、あえてお前らが苦手とするような内容を与えるんだ」
「嫌っすよ! おれ、これ以上勉強したくない!」
 体育会系の男子は、普段から大きな声を出しているせいか、地声も大きい。職員室中に響き渡った聖哉の言葉は、離れた場所にいる教頭の耳にも届き、それまで各々の業務に追われていた教師たち全員を苦笑させることとなった。
「人の話は最後まで聞かんか!」
「はいっ! すみません!」
「駅前に、『えにし』という居酒屋があるのを知っているか?」
 香芝の質問に、三人は一様に首を傾げた。
「先生、さすがのおれらでも、酒なんかまだ飲みませんよ」
「そりゃあそうだ、飲酒が発覚したらこんなもんじゃすまないだろうからな」
 香芝はそう言って、顎の無精ひげをじょりじょりと指で触った。 
「じつは、その居酒屋は、岸辺城島の卒業生が切り盛りしている店でな。毎週月曜日と金曜日の夕方五時から八時までは、こども食堂をやっている店なんだ。ただ、いまはバイトの女の子が怪我をしてしまったもんで、一ヶ月ほど休まなければならなくなったらしい。なんでも思っていたより反響が大きくて、店の大将ひとりじゃ手が足らないんだとよ。で、お前たちには、そのこども食堂の手伝いをやってもらう」
「それ、バイト代出るんすか?」
「馬鹿もん! あくまでこれは罰則だということを忘れるな。第一、こども食堂なんてものは、その店の厚意で、儲けそっちのけでやっているボランティアみたいなものなんだ。岸辺城島の先輩を助けると思って、励んできなさい」
「でもおれら、その時間帯には部活あるし」
「学生の本業は部活じゃなくて学業だ。居眠りをして、授業を真面目に受けないやつらが、部活に出る資格などない。お前たちの顧問の先生がたには話を通してある。わかったらさっさと行ってこい」
 香芝は聖哉の胸元に押しつけるように、『えにし』のチラシを渡してきた。地図が書いてあるから、それを見て行ってこいと言っているのだろう。

三人は色々と解せぬまま職員室をあとにした。まったく、大人って勝手だよな。これじゃあ、体のいい使いっ走りじゃねえか。卒業生ってヤツが誰だか知らねえけど、タダでこき使える駒が欲しくて、香芝に泣きついたんだろう。
「行くっきゃないよなあ」
 香芝と話しているとき、一番口数の少なかった遙佳が、真っ先に口を開いた。なんだか遠い目をしている。無理もない。三人の誰も、バイトをしたことも、料理なんてものに携わったこともないのだ。野球やバレーや空手の一環で、スポーツに関連したような罰を受けるのではない。
「やべっ、まじで居眠りしてた自分をぶん殴りてえわ」
「でも、睡魔には誰も勝てんよ。香芝たちもじつは職員室で寝てんじゃねえのか?」
「座るから駄目なんだよ。授業の内容も退屈だし。おれたちの頭脳とか、体のスペックとか、ガチャガチャみたいに選べたらいいのにな」
「すっげえ馬鹿で、すっげえ運動音痴なスペックを引いちまったらどうすんだよ。オレはやっぱ、強くなるために努力すればそれなりに返ってくるいまのシステムがいいけどな」
 三人とも、やっているスポーツや目指しているものが違えど、共通しているのは、昨日の自分よりも強く、うまくあるために努力しているということだ。顧問に許可を得ているとはいえ、週に二回も練習の機会を奪われて、そのあいだに周りのやつらからどんどん追い抜かれたらどうしようという気持ちは拭えない。一日単位でみれば大したことはなくとも、それが一ヶ月ともなれば差が出来てしまうだろう。
 自業自得だと言ってしまえばどうしようもない。実際そうなのだから、納得出来なくとも受け入れるしかない。三人に突如降りかかった試練は、これまで彼らが積み上げてきたどんな物事も通用しないような、困難な道程を示しているようだった。



『えにし』は、こじんまりとした佇まいの店構えだった。学校からは徒歩で十分ほど。駅前の通りから一本中に入った場所に建っている雑居ビルの一階に入居している。四階建てのそのビルは、二階にキックボクシングジムがあり、三階と四階は住居となっているようだった。
 聖哉は頭を上げて、ビルの全貌を見た。二階は電気がついていて、時折ドスドスと、サンドバックを打つ音が聞こえてくる。
「晃司、おまえ、道場破りでもしてこいよ」
「はあ!? なんでだよ。なんの因縁もねえのに、そんなめんどくせえことやるかっつーの。大体、道場破りなんていつの時代の話だよ。漫画の読み過ぎじゃねえの」
 聖哉がふざけて言ったことを、晃司は真に受けたようだ。
「晃司はそんな妄想とかしねえのか? ほら、コンビニに行ったら、ちょうど強盗に襲われている現場に遭遇して、自分がその強盗をとっちめる、みたいな」
「そんなん、男だったら、誰でも一回は思うだろ」
 晃司はそう言って笑った。
 視線をビルの一階に戻す。原稿用紙みたいなマス目が並んでいる格子状の引き戸からは、オレンジ色のほのかな灯りが漏れ出ている。引き戸の右側のコンクリート壁には、『酒と肴 えにし』と草書体で書かれた長方形の看板が掲げられているが、まだ準備中だからなのか、こちらには灯りが灯っていなかった。看板の下には、ここで子ども食堂をやっていることを報せる、ラミネートされたポスターが貼ってある。至るところでよく見るフリーイラストの絵柄で、食事を目の前にして満面の笑みを浮かべている子供たちの絵が載っていた。
 聖哉たちは、三人で顔を見合わせた。準備中と書かれた札がそよ風に揺れている扉を、誰が開けようものか、互いに様子をうかがっていた。
「こういうのはな、最初が肝心なんだぜ、最初が」
「じゃあ聖哉、オマエが開けろ」
「ひょっ!? おれ!? 別にいいけど……」
 こういうときは大体、言い出しっぺが役割を被ることになるのだ。晃司は聖哉の背中を押した。三人の中で、一番リーダーシップがあるのは聖哉だから適任だろう。
 聖哉はごくりと唾を飲み込んで、扉に手をかけた。得体の知れないなにかを経験する直前みたいに、心臓がドキドキして、緊張しているのが自分でも分かった。
 ガラガラガラ……と、予想していた通りの音が鳴って、扉が開く。敷居の向こうには黒の石畳が敷かれていて、向かって左にカウンターと厨房、右側に三つのテーブル席があった。
「こんにちは! 岸辺城島高校の香芝先生から、こちらに行くように言われて来ました! 鍵田です!」
「潮です!」
「松島です!」
 聖哉の挨拶に、他の二人も続く。その大きな声に反応して、厨房にいた男が顔を上げて三人を見た。板前を連想させる帽子と法被を身につけている。キリッと凜々しく整えられた眉の下の目は鋭い三白眼で、生真面目そうな雰囲気が彼の全身から漂っていた。
「ああ、君たちが店を手伝ってくれる問題児三人か。俺は千葉尚樹だ。よろしく」
 表情がほぐれると、千葉は途端に人の良さそうな印象に変わる。聖哉は『こえー人じゃなさそうでよかったー』と、内心ほっとした。
「も、問題児……っすか」
 晃司が苦笑する。
「居眠りばっかして、先生達に目を付けられてるんだろ? まあいいさ。俺にはそんなこと関係ないから、ここでは説教なんかしねえよ」
 それに俺も学生時代は似たようなもんだったなと、妙に懐かしむ素振りをみせながら千葉は笑った。
「香芝先生から簡単に聞いていると思うが、お前たちにやってもらいたいことは、こども食堂の手伝いだ」
 まあ座れよと、千葉に促された三人は、おもむろにカウンターの椅子を引いて並んで座った。千葉は話しながら、仕込みの続きをはじめた。
「うちには普段、バイトの女の子がいるんだけどな。その子が怪我でしばらく休むことになったんだ。居酒屋としての営業は、俺ひとりでもなんとか出来るんだが、たくさんのガキが来るこども食堂はそうもいかなくってな。何せあいつら、なにをしでかすか分からないから、目を離すわけにもいかんし、かといってずっと見張ってたらこっちの業務が詰まっちまう」
「それで、おれたちが呼ばれたってわけっすか」
 香芝に聞いた話で大方の事情は把握していたが、初めて聞いたふうを装って、聖哉は相槌を打った。
「子守り兼ホールの仕事をしてくれると助かるよ」
 千葉はそう言って頬を緩めた。
「ッス。だいたい分かりました!」
「おい聖哉、ホントに分かったのか?」
 明朗な聖哉の返事に、遙佳がすかさずツッコむ。運動能力に関しては、三人の中で一番秀でているが、勉強は苦手だ。時折聖哉は、そんなことも知らねえのかと他の二人が思うようなことを言うときがある。
 たとえばこのあいだなど、「なあ、仮分数と帯分数ってなんだよ」と、小学校で習ったはずの算数の内容が分からないと真顔で聞いてきた。
「仮分数は二分の三、みたいな、分子が分母以上になってる分数、帯分数は一と二分の一、みたいな仮分数を整数と真分数に分けたやつだよ」と遙佳が教えても、いまいちピンと来ていない様子だった。なんだったら、真分数という表現が出てきて、聖哉の頭の中は余計にこんがらがったみたいだった。数字を見ると頭が痛くなると聖哉が言い訳をしていたけれど、理数系でも文系でも、彼はきっと教科書を目の前にすればおなじ症状に陥るだろう。

「こども食堂で出すメニューは、居酒屋メニューじゃなくて、基本的には日替わりで一種類を出すと決めている。今日は、豚の生姜焼き定食だ」
 だからさっきからこの人はキャベツの千切りに勤しんでいるのか、と聖哉は思った。最近はなんでも機械や道具に頼って、千切り専用のスライサーなんてものがあると、家にいたときに親が言っていたけれど、千葉さんは包丁一本で切り刻んでいる。見たところ、おれたちよりちょっと年上の男って感じなのに、なんかすげえな。
「そうだな……。じゃあ早速、仕事着に着替えてくれるか?」
 千葉は仕込みの手を止めると、厨房から出てきて店の奥に消えていった。そしてしばらくすると、三人分の仕事着を抱えて戻ってくる。
 聖哉たちはひとりずつ、千葉からエプロンとシャツを受け取った。なんだか試合に出る選手が、ユニフォームを貰うときみたいだと、聖哉と遙佳は思った。普段から道着を着て鍛錬に励んでいる晃司には馴染みのないことだ。
 シャツを広げると、胸元には『えにし』と書かれていた。さっき看板で見た書体とおなじだ。
「奥に部屋があるから、そこで着替えてきて」
 千葉に指示されて、三人は店の奥まで歩いていき、服を着替えた。
 ホールに戻ると、店内の掃除を任された。時刻は午後四時四十分を過ぎたところ。こども食堂の開店までは、あと二十分を切ったことになる。
(ぶっつけ本番かよ……)
 アルバイトなど未経験の三人にとっては、曲がりなりにも『仕事をする』というのは、なんだか怖かった。でもそんなことは言い出せない。己のプライドと、遠慮と、わずかばかりの好奇心が心の中で綯い交ぜとなって、ぐるぐると渦巻いていたからだ。
「掃除……ってなにをすればいいんすか」
 それでも、方法が分からなくて突っ立っているだけだと、そのうちどやされるかもしれない。聖哉は他の二人と顔を見合わせたあと、千葉に言葉を投げた。
「ああ、そうかそうか。お前ら、初めてだもんな。ごめんな」
 いまようやく気付いたというふうに、千葉は照れ笑いを浮かべた。「岸辺城島の体育科は、バイト禁止だもんな」とぶつぶつ言いながら、厨房を出てくる。
「飲食店は清潔第一だ」
 千葉はそう切り出して、三人に掃除の仕方を教えてくれた。布巾でひとつひとつのテーブルを拭き、また別の雑巾で椅子を拭く。厨房はさすがにまだ入らせてはくれなかったけれど、千葉は「皿洗いも、もしかしたら今後頼むかもしれない」と言っていた。
「卓上の調味料とか、箸入れの中身が少なくなっていたら補充する。それらを置いているトレーの下も拭くのを怠るな」
「はいっ!」
 聖哉は大きく返事をした。他の二人は窓拭きと、床の掃き掃除を任されている。なんだか、いつも学校でやっていることとあまり変わらないのに、それが仕事の一環だって言われるのは、なんだか不思議な気分だった。



 開店時間になってすぐに入口の扉が開いて、三人組の小学生が入ってきた。正直客なんてくるのだろうかと舐めてかかっていた聖哉は、ガラガラと扉の開く音がしたときに、目を見張って驚いていた。
「いらっしゃい」
 厨房から顔を覗かせた千葉が、子供たちに挨拶をする。「ほら、お前ら、お客様がきたときは挨拶をしろ」と言われて、聖哉たちも慌てて「い、いらっしゃいませ」と、たどたどしく挨拶をした。
「おにいちゃーん、今日はなに?」
「生姜焼きだ」
「うぇーい! 肉じゃん肉! やったあ!」
 三人組ははしゃぎながら、店の一番奥のテーブルに座った。
「潮、グラスに水をついで、あいつらに出してやってくれ」
「うっ、あっ、はいっ!」
 千葉に水の入ったピッチャーを渡された晃司は、カウンターテーブルの端に積み上げているグラスを三つとって水を注ぎ、小学生たちのもとへ運んでいった。
「にいちゃん、バイトですか?」
 互いに初対面なこともあってか、小学生たちは千葉に話しかけたときよりも緊張したような面持ちで、晃司からグラスを受け取った。
「ああ、今日から少しのあいだ働かせてもらう。アイツらと一緒にな」
 晃司は顎でしゃくって、聖哉と遙佳と紹介した。
「えー! すっげえ! 三人も店員がいるなんて、ジンケンヒ大丈夫なのかよお!」
「おっ、おまえ、そんな難しい言葉よく知ってんのな」
「それくらい知ってるよ、当たり前じゃん!」
「勤勉勤勉。オレらとちがって、ちゃんとベンキョーに励めよ、少年!」
 晃司は空手をやっていることもあって、黙っていると凜とした印象を持つ場合が多く、人によっては「怖い」と思うことがあるが、口を開いてみると、気さくな一面が顔を覗かせる。
「えっ? 兄ちゃんたち、勉強してねえの? 駄目じゃん」
「オレたちはほら、頭より体を使って生きてるから」
 なにもない宙に拳を振り抜いた晃司は、小学生たちから「かっけー!」と憧れの眼差しを向けられていた。

 晃司が子供たちの相手をしている傍らで、聖哉と遙佳は、千葉に業務を習っていた。
「俺がおかずを調理しているあいだに、お前たちは配膳の準備をしてくれ。いまはカウンターがすいているから、広めの場所でやろうか」
 聖哉は千葉の言われたとおりにテーブルにトレーを並べ、冷蔵庫から副菜のきんぴらと冷や奴の小鉢をのせた。
「松島、お前はこっちだ」
「あっ、はい!」
 遙佳は厨房の中に来るように指示された。傍までいくと、千葉はコンロの前で生姜焼きを炒めていた。そのわきには、平皿が三皿セットされている。
「さっき俺がキャベツを切っていただろ。それが冷蔵庫に入っているから、皿に盛り付けてくれ」
「量はどれくらいですか?」
「そうだな。正直、俺はなにもかもが目分量なんだが、見ててやるから試しにひとつかみ、皿にのせてみてくれ」
「はい」
 遙佳は足元の冷蔵庫を開けて中を覗き込んだ。大きなプラスチックのボウルに入った千切りのキャベツがあった。それを取り出して、手袋をはめてからお皿に盛り付ける。
「こ、こんなもんっすか?」
 遙佳は、寮の食堂で出される食事にのっているキャベツとおなじくらいの量を想像して盛ってみた。
「おお、いいんじゃねえか。なかなか上手じゃん」
 千葉が微笑んで言った。肉が焼ける音としょうがの匂いが耳と鼻をくすぐる。それだけで白飯が食えそうだと、遙佳は思った。
 やがて料理が出来上がり、遙佳は平皿を、聖哉が用意していたトレーの上に運んでいった。
「白飯を入れてくれ。量は任せるが、あいつらが小学生だってことを忘れんなよ」
「ッス」
 厨房は真ん中に通路があって、それを挟んだ両側が作業台になっていた。壁側に炊飯器やトースターなどの調理家電が置いてあり、遙佳はそこから白飯を茶碗によそっていった。
 晃司と小学生たちの笑い声が店内に響く。聞こえてくる話の内容は、空手部がいかに楽しいかということを、晃司が力説していた。
「え? お兄さん、岸辺城島高校なんですか? 野球がめっちゃ強いところですよね!」
「オレは高校生であって、高校そのものじゃねえけどな」
 晃司のボケは小学生たちには通じなかったようだ。一瞬変な間が空いたが、誰もが聞かなかったことにして話を続けた。
「ぼく、野球やってるんです! 」
「おお、そうか! ほら、あそこにいる坊主頭のヤツ。アイツは野球部なんだぜ」
 晃司が聖哉を指差して言うと、野球少年は途端に目を輝かせはじめた。
「すっげえ! ホンモノの高校球児だ!」
 野球少年は大和武留という名前らしい。神話に登場する神様と同じ名前の響きなので、すぐに覚えられる反面、よくからかわれるそうだ。晃司が「オレもさあ、苗字はうしおなんだけど、しおとも読めるから、よく『塩麹』ってからかわれるなあ」とさりげなくフォローをしたことで、武留は安心したらしかった。
「おい晃司、いつまでくっちゃべってんだよ。こっち手伝ってくれ」
 聖哉が口を尖らせる。生姜焼き定食が三人分、出来上がったみたいだ。



 その日はこども食堂の営業時間のあいだに、立て続けに子供たちが店にやって来た。一時は店内が満席になるほどで、最初の武留たちのときに割り振った業務分担は、結果的に上手くいったようだ。晃司が子供たちを捌き、聖哉がトレーや水を準備する。遙佳は厨房に入り、付け合わせや白飯と味噌汁の盛り付けをする。料理が出来上がると、聖哉と晃司のふたりで子供たちのもとへ配膳する。
 千葉が頼んだのは最初だけだったが、三人はとくに話し合ったわけでもなく、いつしか自然と無言の連携をとるようになっていた。
「ふいー、終わったあ!」
 最後の小学生の姉妹を見送ったのは、八時を少し過ぎた頃だった。
「フタマ……二十時四分か。聖哉、表の札を準備中にひっくり返しておいてくれ!」
「了解っす!」
 開店前に綺麗にしたはずのテーブルは、ほんの数時間の営業でも頻繁に汚れてしまう。席が空くたびに拭いているが、それでも改めて確認すると、取りきれていない汚れが散見された。
 聖哉たちは三人で手分けして清掃をおこなった。自発的に、だ。千葉は感心する。今年二十九になる彼は、まだ社会的には若者と称される年代ではあるが、社会に出てみると、指示待ち人間が多いことに辟易していた。だから自分が指示しなくとも、こちらの思考を先回りして動いてくれる人材をみると、手放しで褒めたくなってしまうのだ。
「お前たち、お疲れさん。手伝ってくれたお礼に、飯をご馳走してやるからな」
 聖哉たちの働きぶりに、幾分か気分を良くして千葉は言った。三人がどんな働き方をしようが、せっかく手伝ってくれたのだから、最初から飯くらいは振る舞うつもりだったが、想定以上のはたらきをみせてくれた三人に、気分が高まったのだ。
「やった! まじっすか! おれ、めちゃめちゃ腹減ってて、倒れそうっす!」
「部活のときより腹減るなー」
 聖哉と遙佳が言い合う。三人がカウンターに座ると、千葉は生姜焼きを作り始めた。
「おれさあ、なにかを炒めてたり揚げたりするときの音、めっちゃ好きなんだよ。ASMRっていうの? なんかずっと聞いていたいよな」
「ずっと音が鳴ってたら焦げるじゃん」
「そりゃそうだろ! たとえ話だよ」
 聖哉は遙佳が真顔で言ってきたので、苦笑してそう言った。
「釜の中の飯、全部食ってってくれよ。余らしても困るからな。飯と水は、セルフサービス、お代わりし放題だ」
 千葉は炊飯器を持ち上げて、一升炊きの釜いっぱいに残っている白飯を差し出してきた。ほんとうは三人のために、食堂が終わる時刻を見計らって新たに炊いたものだ。
 やがて料理が出来上がって、三人の前に定食が並んだ。食えればなんでもいいと思っていたが、やはり出来たての料理を目にすると、いつもの何倍も食欲がわいた。
 寮の食堂で出される食事は、あらかじめ大人数の料理を作らなければいけないから、出来たてのものにありつけるとは限らない。白飯や味噌汁は保温されているが、おかずは冷めていることもある。
「いただきます!」
 三人は揃って合掌した。目の前に広がる生姜焼きは、まだ湯気がたっている。
白い皿に盛られた豚肉。生姜の鮮烈な香りが、甘辛い醤油と絡み合い、食欲をそそる。
聖哉は箸でつまんだ一片を口に運んだ。咀嚼すると、柔らかな肉の繊維がほろりとほどけ、肉の旨味と生姜の清涼な風味が溶け合って、舌の上で踊った。茶碗に盛られた大盛りの白飯をかっ食らう。肉一切れで、白飯の山は半壊した。
「千葉さん、うまいっす!」
「そうか。そうやって喜んで貰うと作った甲斐があったな」
 聖哉が感嘆の声を漏らすと、千葉は嬉しそうに微笑んだ。
 三人は休むことなく夢中で定食を食べた。育ち盛りの彼らは、食っても食っても腹が減る。皆、いつもより運動量が少ないはずなのに、腹の減りようはいつもと変わらなかった。
「俺、このタレが染みこんだキャベツ好き」
「そんなもん、全国民が好きだろ!」 
 まるで筆の毛先で皿に垂れているタレを拭いとるようにしてキャベツに付着させ、それだけを口に放り込む。ドレッシングもなにも要らない。何ならキャベツで飯が食えるくらいだ。
「あっ、そうだ!」
 聖哉が四杯目の白飯を茶碗に盛ったとき、千葉はそう言って、冷蔵庫を開けた。
「なあ、試作品があるんだが、ためしに食ってみてくれ」
「食えるもんなら、なんでもいいっす!」
 そう言った聖哉と、他の二人の前に出されたのは、なにやら練り物のようなものが盛り付けられた小鉢だった。
「これは?」
 初めて見る料理だ。見た目は豆腐ハンバーグみたいだが、魚の匂いがした。
「さんが焼きと言ってな。簡単に言うと、なめろうを焼いたやつなんだが、それを作ってみたんだ。ほら、俺の苗字を見ると酒呑みはなめろうを連想するんだよ」
「お前、今日食いたがってたじゃねえか」
 聖哉は、自分が叫んでいたらしい昼間の寝言を思い出して、顔が熱くなった。だが、あれは夢の中の出来事であって、実際になめろうが食べたかったわけではなかったが、なんだかタイムリーで不思議な縁のようなものを感じた。
「い、いただきます!」
 聖哉は箸で塊から一口分を切り離して、口に運んだ。さんが焼きの表面は軽く焦げ目がついていて、魚を焼いた香ばしい香りが鼻をくすぐった。噛むと、なめろう特有のねっとりとした食感が広がり、新鮮な魚の旨味と味噌のコクが混ざり合う。生姜やネギの風味がアクセントになって、どこか懐かしいような、でも初めて食べるような不思議な味わいだった。
「うまい! 魚ってこんなにうまいんすか!」
聖哉が目を丸くして言うと、千葉は満足そうに頷いた。
「だろ? なめろうをそのまま食べてもうまいが、こうやって焼くとまた違った味わいになるんだ。お前らがそう言うなら、試作品としては上出来だな」
遙佳と晃司も箸をすすめ、
「これ、絶対子供たちにもウケるっすよ」
「そうだな」と口を揃えた。
「たぶん、酒のアテにもなるっすね。オレ、酒飲んだことねえっすけど」
 晃司はそう言って、グラスの水をあおいだ。大人はどうしてか、むしゃくしゃする出来事があったりすると、アルコールを摂取して気分転換を図る人が多い。ビールだとか、日本酒だとか、好みはあるだろうが、飲めばそんなに気分が良くなるものなのだろうか。——オレは体を動かしてるほうが気分転換になるけどなあ……。
 いまはそう思っていても、実際大人になれば考え方も変わるのかもしれない。



「案外、なんとかなるもんだな。千葉さんもいい人だし。おっかねえやつだったらどうしようかと思ってたけど。そういう考えは杞憂だったな」
 初回の手伝いが終わってえにしを後にしたのは、夜の九時前だった。三人の一番前を歩いていた聖哉は、店が見えなくなったときにふうっと大きく安堵のため息をついた。
「いるよな。最近覚えたからって、嬉しがって難しい言葉を使おうとする奴」
「なっ……別にいいだろ! 取り越し苦労って言うより、杞憂って言ったほうが簡単じゃねえか。七文字と三文字だぜ。喋るにもエネルギーを使うからな。省エネ、省エネ」
「はいはい。……ん? 晃司、どうした?」
 遙佳が苦笑して同意を求めようと晃司のほうを向いたとき、彼はなんだか難しい顔をしていた。
「いや……あのさ」
 晃司はそう言って、言葉を切り、なにかを確かめるように後ろを振り返った。他の二人もつられてそちらに目をやったが、駅前の通りに人はいくらかいても、こちらに気を向けているような人は誰もいなかった。
「……あの千葉って人、自衛官だったのかな」
「なんでそう思った?」
 暗がりのなかで、聖哉の丸い目がきらりと光った。
「オマエら聞いてなかったか? あの人が時刻を言ったときさ、『フタマ』って言いかけただろ? あれ、たぶん、フタマルマルヨンって言いそうになったんじゃねえかな」
「なんだそれ。トントンツートントンみたいなやつか?」
「自衛隊で時刻を言うとき、聞き間違いをなくすために数字に独特の呼び方があるんだよ。ゼロから順番に、マル、ヒト、ニ、サン、ヨン、ゴー、ロク、ナナ、ハチ、キューってな。何時何分っていうんじゃなくて、時刻を四桁の数字で言うらしいぜ」
「フタマルゴーナナ!」
 聖哉が声を張り上げた。いまの時刻を口にしたのだ。前を歩いていた若い男性が、何事かと驚いたような素振りで三人を振り返る。聖哉はしまった! と思ったが、気付かないふりをした。
「バカ! オマエうっせえんだよ」
 晃司に背中を小突かれる。きっと本人は軽く叩いているつもりなのだろうが、元の力が強いので結構痛い。聖哉はムッとして口を閉じたが、反発はしなかった。

 晃司は五歳の頃から空手をやりはじめ、以来ずっと心身を鍛えてきた。将来は自衛官になりたいと思っている。小学生の頃に、両親に連れられて行った自衛隊駐屯地の祭りで、一糸乱れぬ隊員の行進を見て、心を惹かれた。自分よりずっと年上の隊員たちにずっと憧れてきた。小学生から中学生、中学生から高校生と、自分も当時の隊員たちの年齢に近づくにつれ、自分の夢が現実味を帯びてきている。あとは覚悟を決めるだけだ。
 寮に帰った三人は、すぐに風呂に入り、それぞれの寝床についた。
「なあ、聖哉、遙佳、もう寝たか?」
 岸辺城島高校の寮は、最大四人で一部屋を使うきまりになっているが、聖哉たちは三人でおなじ部屋で生活している。もし誰かが四人目の同居人として入ってきたら埋まるベッドには、いまはなにも乗っていない。自分たちの持て余した私物を置いていたら香芝から注意を受けたので、大慌てで各々の場所に戻した過去がある。
「んあ? 起きてるけど」
 暗がりのなかで、聖哉はぼうっと天井を見つめていた。遙佳からの返事はない。微かに寝息が聞こえてくるから、もう眠ってしまったのだろう。
「今日、どうだった?」
 晃司が聞いたのは、自分たちがえにしで働いてみて聖哉がなにを感じたか、だろう。
「最初はだりいと思ってたけど、やってみると意外と楽しかったぞ。晃司は楽しくなかったのか?」
「部活やらねえでこんなことやってていいのかとは思ったけど、やっぱ知らねえことを覚えるのは楽しいよな」
「香芝は罰則だって言ってたけど、あんまり罰則って感じがしねえよな。どういうつもりなんだろ」

「単に部活ばっかに気を取られてんじゃねえぞってことかもな」

「うおっ、遙佳、起きてたのかよ!」
 二段ベッドの下から突然遙佳の声がしたので、聖哉は驚いた。
「ふたりが喋ってるせいで目が覚めたんだよ。俺は繊細だからな」
「いちばん身長高いくせになに言ってんだよ」
「身長が高いのと、心が繊細なのとは関係ねえけどな」
 遙佳が半身を起こす気配がした。「俺たちは学生だ。部活をやるために学校にいるんじゃない。ちゃんと勉強もして、いまのうちに将来に備えておけってことかな。あえて部活から距離を置くことでなにかに気付けって言いたいんじゃないかって、俺は思った」
「そ、そんなこと遙佳に言われなくても分かってたけどな!」
 遙佳の上段で横になっていた聖哉は、ベッドの柵越しに、おなじ高さにいる晃司と目が合った。たまに遙佳はこうして、妙に達観したようなことを口にすることがある。自分とは違う一面を見せられると、聖哉はいつもなぜか少し焦ったような気持ちになるのだ。
 自分の言動が周りと比べて幼いと感じることがある。そのたびに、自分はこのままでいいのだろうかと思う。性格は個性なのかもしれない。だが、その個性のせいで、将来、社会に置いてけぼりにされたらどうしようと不安になったりする。もちろんこれは、自分の中だけに留めている思いだ。だから分からない。晃司も遙佳も、自分とおなじような気持ちになったことはあるのだろうか。
 大人になるとは、一体どういうことなのだろう。

「千葉さんが自衛官だったんなら、オレ、いろいろ話を聞いてみたいな」
 数秒間の沈黙のあと、晃司がぽつりと言った。「訓練はキツいのかとか、楽しいと思うことはあったのかとか、そもそもなんで自衛官になろうと思ったのかとか」
 あとはなんで、いまは自衛官を辞めて、飲食店を経営しているのか……とか。
 そこまで聞いたらまずいのかなと思ったので、晃司は口をつぐんだ。暗闇の中でぼうっとしていると、次第に意識が微睡んでくる。結局その夜は、そう時間もかからないうちに、三人とも眠りについたのだった。



「おまえ昨日部活来なかったけど、なんかあったのか?」
 朝練のとき、聖哉は同級生の野呂雄大から開口一番にそう問われた。
「あれ? みんなに話いってねえの?」
「監督とキャプテンから、鍵田は今日休みだって言われただけだぞ」
「まじか」
 たしかに、授業中に居眠りをしすぎたせいで罰則を食らっているなんて、監督たちにとっては、そんな奴が部員にいるとは大っぴらに言いたくなかったのかもしれない。
「次期エースが、一秒も時間を無駄にしてんなよな」
 野呂に言われた言葉が、グサリと聖哉の心に突き刺さる。三年生が引退して、部員の数がぐっと減った。夏まで四番バッターとしてチームを引っ張っていた瓜野先輩から、「鍵田、あとは頼んだぞ」と直々に言われたのだ。
 背中を叩かれて、それまで堪えていた涙が、一気に溢れてきたのを思い出した。あくまで控えの投手としてではあるが、一年でベンチ入りを果たしていたのは聖哉だけだったから、期待を込めてくれたのだろうか。憧れの先輩に存在を覚えていてもらえて、感激しすぎたせいか、そのときの聖哉の返事は、言葉にならなかった。
 だからこそだ。自分はみんなに期待されている。だからこそ、部活に支障が出るような罰則を受けるなんて、自分が不甲斐なかった。
 自分がいくらごねても、あるいは部活に行かせてくださいと泣きついても、きっとこの決定は覆らないだろう。週に二回、野球漬けの日々から少し抜け出すのが、こんなにも歯がゆくてやるせないものだとは思わなかった。
 練習が辛くてたまにはサボりたいと思ったこともあるが、「部活には参加せずに他のことをやれ」と言われても、嬉しくもなんともなかった。

「あいつ、ほんとうぜえんだよ。そりゃ、おれが授業中に寝てばっかなのは悪いかもしれねえけどさ、それで部活禁止だって、ひどくねえか?」
 聖哉は結局、野呂に部活を休んだ詳細を話した。監督やキャプテンがどういう考えをもって理由を言わなかったのかは分からないが、いつまでも隠し通せるとは思えなかったからだ。
「まあまあ、あんま文句言ってると、誰かに香芝にチクられてまた絞られるかもしれねえぞ」
 幼い子供のように、唇を尖らせて不満を隠そうともしない聖哉をみて、野呂は苦笑した。
「別に部活禁止ってわけじゃないだろ。週に二回抜けるだけで、お前のいまの立ち位置とか、実力とかが変わるわけないって」
「でもっ、でもっ……」
 おれは不安なんだ。部活の時間は限られている。その限定的な時間を、自分の失態で減らしてしまっている。
 来年の夏まで、目一杯練習した自分が百とすれば、練習時間の減ったいまの自分は九十……いや、八十……。そもそも目一杯練習したとして、百になれるのか……。
「しゃあねえなあ、自主練でもするか? 俺、手伝ってやるからさ。そんな不安そうな顔すんなって」
「……うぅ、ホントかあ? ユーダイ!」
「ったく、お前はエースになって、あの川上と投げ合わなきゃならねえんだぞ。いちいちこんなことで落ち込んでたら、マウンドに立てねえぞ!」
 野呂に叱咤されて、聖哉は気を取り直した。水を飲み、グラウンドに駆け出していく。
『えにし』に行くことで、練習の時間を奪われるのは癪だけれど、あそこで千葉の手伝いをするのは楽しかったから、聖哉は自分の気持ちがよく分からなかった。
 結論の出ないことを、いつまでもうじうじと考えるのは苦手だった。見えないことに悩んでいるより、いま自分に出来ることを精一杯やるほうが得意だ。



「ちわーっす! 千葉さん、今日もよろしくお願いします! うおっ、今日はカレーっすか?」
 入ってくるなり、賑やかな奴だと千葉は苦笑した。聖哉は人見知りをしないタイプのようで、会うのは二回目だというのに、すっかり千葉の懐に入ってきているようだ。
「ホントだ! 美味そう!」
 後に店に入ってきた遙佳が続けて言う。二人の後ろに晃司が歩いてきたが、「こんにちは!」と律儀な挨拶をしたあと、店中に漂っている香りに関しては、なにも触れなかった。

「あ……あの、千葉さん」
 そんな晃司が口を開いたのは、開店の十分前だった。それまで黙々と店内のテーブルを拭いていたから、唐突に呼ばれて千葉は少し面食らった。カレーを盛り付けるための皿を出していた聖哉と、炊き上がった米をしゃもじでほぐしていた遙佳も、その手を止めて晃司のほうを見た。
「どうした、潮」
 晃司は布巾を握りしめて、じっと千葉を見据えた。
「やっぱり千葉さんの作るカレーは、自衛隊のカレーなんですか?」
 三人の視線が一斉に千葉に集まる。『鳩が豆鉄砲を食ったよう』とは、いまの千葉さんみたいなときのことを言うんだよなと、聖哉は思った。
「潮、なんでそれを……?」
「このあいだ、千葉さんが時間を言いかけたとき、自衛隊式の言い方をしかけましたよね。癖になってて咄嗟に出たんだろうなとは思ったけど、もしかしたら千葉さんは元自衛官なのかなって思ってて……」
 オレ、自衛官になろうと思っています、と、晃司はまっすぐな眼差しで言った。
「晃司はすげえよな。なりたい、じゃなくて、なろう、だもんな。夢じゃなくて目標として、ちゃんと考えてるんだもんな」
 聖哉は、はあっとため息をついた。
「たしかに俺はかつて、自衛官として隊に所属していたよ」
 千葉はそう言って、カレーの入った寸胴鍋の蓋を開けた。「だが、今日俺が作ったのは、至って普通のカレーだ。市販のルーを溶いただけだよ。……期待させてしまったなら、すまないな」
 聖哉がすかさず鍋に近づいて、中を覗き込む。
「うわー、めっちゃ美味そう! 千葉さん、今日も飯食わしてくれるんすか?」
「おい聖哉、お前はここに飯を食いにきてるんじゃねえだろ!」
 遙佳がやれやれと肩をすくめた。そのやり取りに、千葉はくすくすと笑う。そんな千葉の姿を、晃司はずっと見ていた。
 なぜこの人は、自衛官を辞めたんだろう。見たところ、五体満足そうだし、体のどこかを怪我している様子もない。訓練についていけなかったのか? なにか辛いことがあって心が折れたのか? 家庭になにかが起こったのか? 聞いてみたかったが、それは今ではないと思った。
「じゃあ、おれ、暖簾かけてきまっす!」
 聖哉がふざけて敬礼をした。自衛隊の敬礼は手のひらを見せてはいけないとは知らないようだったが、やり方が間違っていると、千葉は指摘をしなかった。

 聖哉が扉を開けるなり、すでに子供たちが何人か待っていた。
「聖哉先輩! こんにちは!」
 その中に大和武留もいて、聖哉の姿を見るなり大きな声で挨拶をしてきた。
「おー、武留。元気か?」
 去年までは中三だったから、野球部の中では一番年上だったが、今年はまた一番下の代に戻った。『先輩』という響きも久しぶりだ。
「先輩って呼んでくれるのは嬉しいけど、武留が岸辺に入る頃には、おれは卒業していねえぞ」
「俺が聖哉先輩が繋いだ伝統を引き継ぎます!」
 随分としっかりした小学生だと、聖哉は感心した。いまの勢いに任せて言っているだけかもしれないが。
 店に入ってきた小学生たちも、漂うカレーの香りに興奮している。カレー、ハンバーグ、からあげ。大体の子供は茶色い料理が好きなのだ。
「千葉さん、ひとつ聞いてもいいですか?」
 子供たちを席に案内したあと、遙佳がピッチャーを片手に持ったまま問うた。
「なんだ?」
「こども食堂で出すメニューは日替わりで一種類だと仰っていましたよね」
「ああ」
「……もしそのメニューが苦手な子が来ちゃったら、どうするんですか?」
「こども食堂のメニューは、事前にSNSで告知しているから、それを見られる子供たちは、来る、来ないの選択が出来る。ただ、色々な事情があって、どうしても飯が食いたいけど、たまたま苦手なメニューだったときは、俺に言ってくれればいい。その時は、ある材料で何かしらを作ることにしているから」
 遙佳は頷いた。おおよそ自分みたいな高校生のガキが思いつくようなことは、大人ならすでに対策を打っているのだろう。
「おい、遙佳、カレーが嫌いなガキなんていねえよ」
「世の中、そんなに単純じゃねえよ」
 口を挟んできた聖哉に、遙佳は笑ってみせた。グラスに水を注いで、武留たちに持っていく。一見なにも困っていなさそうに見える武留たちが、開店を待ち侘びるように此処に来るということは、きっと彼らの見てくれだけでは判断がつかないような事情が潜んでいるのだろうなと、心の中でぐるぐると思念していた。

 入口が少し開いて、隙間から顔を覗かせる少女が現れたのは、こども食堂が開店してから三十分が過ぎた頃だった。その頃には武留たちのグループはカレーをすっかり食べ終えていて、がやがやと雑談をしていた。
「いらっしゃ……」
 少女は、聖哉が言い終える前にぴしゃりと扉を閉めた。
「あっ、おいっ!」
 扉に映った少女の影が、店を離れていく。聖哉はカウンターにトレーをほっぽり出して、少女の後を追った。
 店の外に出ると、少女は近くの電信柱のかげに隠れるようにして、こちらに背を向けていた。
「どうしたんだ? 飯食いたいのなら、入ってこいよ」
 少女の背中に語りかける。ピンク色の半袖のTシャツに、デニム生地の半ズボン。スニーカーは女の子向けの水色のものを履いていた。
 少女は聖哉に背中を向けたまま固まっていた。自分の鳩尾のあたりに少女の頭頂部があって、聖哉からはちょうど彼女のつむじが見えている。
「おーい、聞いてんのかー?」
 この距離でまさか声が聞こえないなんてことはないだろう。聖哉はぐるりと少女の正面にまわり、しゃがんで彼女の顔を覗き込んだ。
「なんか言ってくれよー、おーい」
 目が合ったが、すぐにそらされた。それでも、何か言いたそうに唇を震わせている。このまま放っておくわけにもいかないが、少女がしゃべり出すのを待っていたら今日の手伝いの時間が終わってしまうかもしれない。
(困ったな……声をかけなけりゃよかったか?)
 さっきまで明るかった空は、すっかり星が瞬いている。湿っぽい風が肌にまとわりつくが、この半月のあいだに、秋の気配が次第に顔を覗かせるようになった。
 少女がはじめて口を利いたのは、「なあ、用があるからえにしの扉を開けたんだろ? 来いよ」と、聖哉が手を引こうとしたときだった。
「嫌っ!」
 少女は身を捩って拒絶した。
「うおっ! ごめん!」
 聖哉は勢いに驚いて身をすくめる。少女はその隙に聖哉の脇を通り抜けて、駅の方向へ走り去っていってしまった。
 聖哉が走れば瞬時に追いつけただろうが、呆然と少女を見送るほかなかった。
(なんだよあいつ……)
 すこしばかりの不甲斐なさを感じながら、聖哉はえにしに戻る。
「なんだったんだ? 大丈夫か、聖哉」
「ああ。よくわからねえけど、あいつ、ここで飯を食いたかったんじゃないかな。でも何も言わずに行っちまったよ」
「よくわかんねえな」
 晃司は苦笑した。遙佳は、武留たちが食べ終わった食器を洗っている最中で、こちらに視線を向けたが、話には入ってこなかった。
「でもあいつ、こんなに美味そうなカレーを食いそびれて、どこかで腹を空かせていないといいけどな……」
 神妙な面持ちで聖哉が言った。少しでも関わってしまった以上、気にするなというのは無理なことだ。聖哉は面倒見の良い性格だから、その後も少女のことが気になってしょうがなかった。



「今日もおつかれ。ありがとうな」
「お疲れしたあ!!!」
 聖哉たちにとっては二回目のこども食堂の営業が終わった。少女のことでわだかまりは残ったが、トラブルもなく無事に終えられたと安堵する。
「じゃあ、お前たちもカレーを食っていってくれ。今日はあまりお客さんも来なかったから、思った以上に残っちまったな。……仕方ない。捨てるわけにもいかないし、俺も食うか」
 四人は手分けして、テーブルに寸胴鍋と炊飯器、それに福神漬けやサラダを運んで食卓についた。
 聖哉は張り切って四つの皿に白飯を山盛りについだ。
「千葉さんも、これくらい食えますよね」
 三合くらいの量の米が盛られているのではないだろうか。千葉は目を見張って、「あ、ああ……」と歯切れの悪い返事をした。
 千葉の躊躇いを気にすることなく、聖哉はレードルでルーをかけて、千葉の前に置いた。
「なんか山みてえ!」とひとりではしゃいでいる。
 三人が席についていただきますの合掌をすると、しばらくのあいだ店内には彼らの咀嚼音がこだましていた。

「千葉さん、自衛隊は毎週金曜日にカレーを食うってマジなんですか?」
 カレーを半分ほど食べて、水を飲んだあと、ふいに晃司が話し始めた。千葉の隣に座っている彼の姿勢は、ピンと伸びている。日頃の所作のあらわれだ。
「ああ、海上自衛隊では有名な話になっているな。俺は陸だったが、俺が所属していた駐屯地では、水曜日に食っていたな」
 長い海上勤務や航海が続くと、外洋の景色が変わらず、だからといって決まった曜日に勤務が休みとなるわけでないため、曜日感覚がなくなってしまう隊員もいて、それを防ぐために決まった曜日にカレーを食べるというのは有名だ。千葉が言うには、陸上自衛隊でも、駐屯地によって違うレシピのカレーが隊員に振る舞われているらしい。
「折角の経験を活かして、えにしでも自衛隊のカレーを出そうとは思わなかったんですか?」
「おい晃司、このカレーでも充分うめえだろ。おまえはあと三年後に嫌でも自衛隊カレーを食うんだから、我慢しろ」
 自分が憧れる仕事をやっていた男が隣にいる。色々と実情を聞き出せる貴重な機会だと、晃司は内心興奮していたが、あまりがっついて疎まれるのも嫌だと思った。
「千葉さんが首から提げているのは、ドッグタグですか?」
 千葉は昔からの名残りなのか、髪を短く刈り上げているから、首筋がよく見える。うなじに銀色のチェーンをかけているのが分かった。体のラインがくっきりと浮かび上がるようなシャツを着ているから、ちょうど胸のあたりに、晃司の言うドッグタグらしきシルエットが浮かび上がっていた。
「よく分かったな」
 ドッグタグは、日本語で認識票とよばれる金属製の札のことで、兵士の個人識別のための情報が刻まれている。具体的には名前、識別番号、血液型などが刻印されていて、バディ同士、二枚一組で支給されるものだ。
 晃司が興味深そうにしているので、千葉はスプーンを置いて、シャツの中から実際の札を取りだして見せてやった。晃司は身を乗り出して札をまじまじと見つめた。

『TOMA FUZIWARA』

(あれ?)
 てっきり千葉自身の名前が刻印されているものだとばかり思っていたから、晃司は驚いた。そして、それは触れてはいけないような気がして、晃司は「ありがとうございました」と頭を下げたあとは、一貫して自分の分のカレーに向き合った。

 寮に戻ったあとも、晃司の脳内には、先程のドッグタグの刻印が焼き付いていた。急に口数の少なくなった晃司を不審に思ったのか、遙佳が「体調でも悪いのか?」と聞いてきたが、「眠いだけだ」と呟いて、早々に布団に潜り込んだ。
「ただいまー! あー、あっちいなあ!! フロフロ、フンフンフフンフーン」
 えにしの手伝いが終わったあと、聖哉は自主練をすると意気込んで、野球部の練習場へと駆けていった。あらかじめ野呂と示し合わせていて、約一時間、一緒に汗を流したあと、上機嫌で変な鼻歌を歌いながら部屋に戻ってきたのだ。
「遙佳と晃司はもう風呂入ったのか?」
「ああ、とっくにな」
「ちぇっ、じゃあ、ユーダイと入ってくるか」
 体の火照りに耐えられなかったのか、聖哉はシャツを脱いで裸になり、鼻歌を続けながら部屋を出ていった。
「あいつ、香芝に見つかったらまた怒られるんじゃないのか……」
 遙佳が心配そうに言ったが、晃司は「ほっとけ、自業自得だ」と、枕に顔をうずめたまま言葉を零した。
「なあ晃司」
 呼ばれて、枕から顔を上げると、ちょうど視界の斜め下にいる遙佳がこちらを見ているのが分かった。「千葉さんのこと、そんなに気になるか?」
 晃司はぐっと言葉に詰まった。ほんとうに喉元から「ぐっ」と言いそうになったくらいだ。
「……オレ、そんなに分かりやすいか?」
「聖哉ほどじゃないけどな」
 遙佳は口角を上げて、読んでいた文庫本を閉じた。
「まあ、遙佳はオレたちの中で一番オトナだから、いちばん冷静にオレたちのことを見てくれてるよな」
「そんなんじゃないけど……」
 そんなんだよ、と、晃司は心の中でツッコんだ。自分たち三人は、それぞれがまったく違うタイプだと思う。
 聖哉は言わずもがなお調子者で、それでいて野球に関しては人一倍熱心に取り組んでいる。それ以外は人並み……勉強に関しては苦労しているようだが、なにかひとつ、他者より秀でた才能があるなら、それでいいじゃないかと羨ましくなるときがある。何せ、高校野球の強豪校に推薦で入学し、一年生ながらベンチ入りしているというのは、やっぱり相当凄いんじゃなかろうか。
 遙佳はあまり物事に動じることのない性格だと思う。常にやかましい聖哉とは正反対のタイプだ。バレー部というだけあって背が高いから、物理的にも周りを俯瞰して見ているような雰囲気も醸し出している。
 オレはどうだろう。周りからどんなヤツだと思われているのだろうか。千葉さんが元自衛官だと分かったとき、どうしても自分にとって益のある情報を聞き出したいと思って、気が急いた。浅ましいヤツだと、密かに囁かれていたらどうしよう。
 不安になる。
 晃司は日常の中で、むしゃくしゃするようなことがあれば武道場に行って瞑想する。そうすれば幾分か気分が鎮まった。だが、いまは時間的にそこに行くのは不可能だ。
「晃司、俺が思うに、気になることはちゃんと自分の中でケリをつけるといいぞ。もしかするとお前は、千葉さんに根掘り葉掘り聞くのは申し訳ないと引け目を感じているのかもしれないけど、自衛官だったことが聞かれたくないなら、うまくはぐらかすだろ。晃司が憧れている現場にいた人から色々話が聞けるチャンスだろ」
「そうじゃねえんだ」
 晃司は静かに言った。ベッドの上で体を起こし、天井を見上げる。
「……オレが一番気になっているのは、千葉さんがどうして自衛官を辞めたのか、ってことなんだ」
 晃司から見た千葉は、屈強な体軀の持ち主であり、少々の困難では挫けなさそうな印象だ。見た目だけではその人の内面なんて把握できないけれど、相応の覚悟を持って入隊したであろう人間が、なぜそこから離れなければならなかったのか。ひいてはそれが自分にもふりかかってくるような理由だとしたら、他人事ではないと考えたのだ。
 オレは人の不幸や挫折に興味があるわけじゃねえんだ……。仮に千葉さんが現役の自衛官だったとしたら、もっと前向きな思いを抱いて、あの人に関われたのだろうか。



「まいったまいった、着替えのシャツを持っていくの忘れてたわ!」
 聖哉が部屋に戻ってきたとき、また上の服を着ていなかったが、誰も聞かないうちに自分から弁明しはじめた。「ユーダイ以外には誰も見つからなかったけど、先輩と鉢合わせたら呼び出しを喰らってたかもしれねえな!」
 自分の衣装ケースの引き出しから、シャツを取り出して頭から被った。
「あと十五分で消灯時間だぞ」
「分かってるって、ったく、遙佳はオカンみたいだな!」
 聖哉は背中をぼりぼりと掻きながら、歯ブラシとコップを持って再び部屋を出ていった。
 聖哉が戻ってきたとき、晃司と遙佳はすでに横になっていた。
「おい、おまえら、ちゃんと歯磨いたのかよ」
「聖哉が自主練しているあいだに、ぜんぶ終わらせたぞ。宿題もな」
「げっ!!!」
 聖哉は絶句した。どうも勉強のこととなると、優先順位がぐーんと後ろに下がってしまうようだ。消灯まで十分を切っている。とても机に向かう暇はない。
「明日やるしかねえか……」
 きっと明日のおれは、今日のおれをぶん殴りたいくらいに恨むんだろうな。
 ベッドの梯子を上がって、寝床につく。
「電気消すぞー」
 遙佳がリモコンでシーリングライトを消した。消灯時間を過ぎても、電気がついていると、面倒なことになる。

 三人の中で一番に目覚めるのは、いつもなら晃司だが、宿題をやると言った手前、翌朝は聖哉が早く起きていた。しょぼしょぼと目をこすり、他のふたりを起こさないようにそっとベッドを降りる。なるべく音を立てないように教科書とノートを持って、部屋を出た。
 寮の中に自習室があって、そこは施錠されておらず、二十四時間開放されている。さすがに夜中に忍び込んでいたら寮監に怒られるだろうが、日の出と同時に使わせてもらうなら大丈夫だろう。
 扉を開けると、先客がいた。
「ユーダイおはよ! おまえも宿題やってなかったのか?」
「ああ。聖哉と一緒だ。昨日風呂から上がって、そのまま寝ちまったからな」
「おれのせいだ……なんかごめんな」
「気にすんな。聖哉の練習に付き合うのは、嫌いじゃないからな」
 野呂とは野球部の中で、一番仲が良い。聖哉はピッチャーで、野呂はこれまでセンターを守ってきた経験がある。岸辺城島の野球部は甲子園の常連校という箔がついているからか部員も多い。周りより秀でた才能がないとレギュラーはおろか、ベンチ入りすら難しいだろう。三年間の高校野球人生で、大会に出場するか、或いは観客席に立ち応援に勤しむか。限られた枠のポジション争いは、一年である今から、すでに始まっているといえる。
「ユーダイ、ノート写させてくれよお」
「駄目だ」
 上目遣いで頼み込んでくる聖哉の訴えを、野呂は一蹴した。「勉強もちゃんとやらなきゃいけねえだろ。また香芝に怒られるぞ」
「いけず!」
 泣き言を言いながらも、渋々ペンを取った。自習室にはしばしの静寂が訪れ、カリカリとノートにペンを走らせる音が聞こえる。聖哉は時折頭を抱えながら、「なんだよ、ビックリって……、なんで数字にビックリマークがついたら、それが数式になるんだよ……。『5ビックリ』……おれがびっくりだよ」とぼやいたりしていた。

 聖哉がこの世で一番苦手な数学の宿題が終わったのは、それから三十分後だった。部屋に戻ると晃司も遙佳も目覚めていて、朝練の準備をしているところだった。
「はよ……」
 聖哉が戻ってきたのをみて、遙佳は呟くように挨拶をした。
「おはよっ! 朝からベンキョーしてた。ま、宿題だけど。昨日のおれをぶん殴りたい気分だ!」
「朝からテンション高いな、おまえ」
「ヘヘッ、今日はちゃんと部活が出来るからな! さ、おまえら、おれは先に行くからな!」
 食堂から漂ってくる味噌汁の香りが廊下に充満していた。まずは腹ごしらえだとばかりに、聖哉は食堂の扉を勢いよく開く。
「おばちゃーん! おはよー!」
 食堂と厨房を繋ぐカウンターの向こうに、寮母の赤松景子の姿があった。割烹着を着た彼女は、五十代のベテラン調理師だった。岸辺城島高校の寮に住む食べ盛りの胃袋を支える役目を担っている女性だ。
「鍵田くんおはよう、朝から元気ねー」
「日の出と同時に起きたんすよ。おれ、偉いからベンキョーしてたんで。飯食って、これから朝練っす」
 カウンターからトレーを取って、朝食用のプレートに自分でおかずを盛っていく。今日はハムエッグとウインナー、トマトサラダだ。
 寮の食堂には寮母と栄養士とパートの調理師がいて、景子を中心に生徒たちの朝食と夕食、それに昼の弁当を作っている。寮一棟につき三十人前後の生徒たちが住んでいるし、食欲旺盛な生徒ばかりだから、毎日大量の料理を用意するのが大人たちの負担にならないように、生徒も出来ることは自分たちでやる。盛り付けと配膳、下膳は、セルフサービスだ。
「おはざっす! 相馬さん!」
 自分の分のおかずを盛り付け終わったとき、ちょうど保温用のジャーに釜をセットしにきた青年がいた。黒いシャツの上に白衣を羽織り、パリッとしたベージュのパンツを履いている彼は、相馬雄也という。この春、つまり聖哉たちが入学したのと同時期に栄養士として入職してきた若者だ。
「おはよう、鍵田くん。ごはん炊きたてだからいっぱい食べてね」
 物腰の柔らかな、優しそうな人だというのが、相馬に対する聖哉の第一印象だった。彼の姿を見るたびに、「おれたちが食う飯の献立は、この人が考えているんだよな」と思う。だからといってどうということはないが、じゃあこの人がいなくなったら、おれたちの飯はどうなるんだ。そうなったとしても、この食堂の業務は、一見滞りなく行われていくのだろうけど、きっと、それまでとはひとつくらい、なにかが違っているはずだ。
 人と人の関わり合いの中で、不変なことなどない。

 ほとんどかき込むようにして食事を済ませ、練習用のユニフォームに着替えた聖哉は、一目散にグラウンドに向かった。他の部員たちと一緒になって、校舎の外周を走る。体育館のそばを走っているとき、それぞれの競技の装いに身を包んだ晃司と遙佳の姿が見えた。
「ファイッオー、ファイオッー、オーッ!」
 部員たちの掛け声の中に、聖哉の声も溶け込んでいく。
「腹から声だせー!」
 前を走る先輩たちの指導が聞こえてくる。「はいっ!」と聖哉たちはさらに声を張り上げた。
 ランニングのあとはキャッチボールだ。ペアを組み、三十メートルの距離をあけて遠投を行う。聖哉はこのとき、夏の大会で同じくベンチ入りしていた二年生の捕手、濱中柊斗と組むことが多い。濱中については、先輩から「こいつ、シュートって名前だけど、サッカー部じゃねえから。でもきっと、キャッチャーとして、お前を支えてくれると思うぜ」と紹介された。もしも聖哉が濱中と同級生だったら、真っ先にネタにしていただろうが、さすがに先輩をいじる度胸はない。
「鍵田!」
 キャッチボールの終盤、聖哉は濱中に大きな声で呼ばれた。最後の一球を、思い切り投げてこいという合図だ。濱中が自分の足元に置いていたキャッチャーミットを手にはめ直し構えるのを確認して、聖哉は振りかぶった。
 マウンドからバッターボックスまでよりもずっと長い距離をボールが飛んでも、聖哉の球の球威は衰えることなく濱中のミットにおさまる。チームメイトからは、聖哉なら、外野からも、ホームベースまでノーバウンド返球が出来る肩の強さはあると評価されている。実際に紅白戦の練習試合などでは外野を守るように言われたこともあるが、外野に立つ聖哉は、プレイに手を抜くことはないものの、マウンドに立つときよりもずっと、楽しくなさそうにみえた。
 練習終わり、グラウンドの隅で制服に着替えていると、濱中に呼ばれた。
「鍵田、腐んなよ」
 えにしの手伝いで、必然的に練習時間が減っていることを、彼なりに心配してくれているのだ。
「すんません、迷惑かけて……」
「気にすんな。お前は強いピッチャーだ。この岸辺城島に相応しいエースになってくれると、俺は信じてるからな」
 部活のあいだ、聖哉の投球練習に付き合ってくれるのは濱中だった。近い将来、自分はこの人とバッテリーを組んで、甲子園のマウンドに立つのだという確信めいた野望がある。——今年は負けてしまったけど、来年や再来年の夏はこのおれが、栄光を勝ち取るんだ。

10

 日常茶飯事という言葉は、ありふれた平凡な日常や物事を指す言葉だが、茶飯とは、日頃の食事のことをいっているらしい。一人の人間に対して、そんな特別なことはしょっちゅう起こるものではない。この世界に生きる人の数の分だけの日常があるから、毎日どこかでなにかが起こっているのだ。
 千葉尚樹が現役の自衛官であった頃に自分の身に降りかかった出来事は、それまでの彼の生涯の中で一番衝撃的な出来事であり、またその後の人生を変えるきっかけとなった。
 岸辺城島高校の普通科の生徒だった千葉は、飲食店を営む両親に、学費の心配をさせたくないという理由で、大学への進学を諦めた。勿論、そんなことは両親には言っていない。
「あからさまに進学を諦めるのは、俺の本心がバレるような気がする」と言った千葉に、彼の友人は「じゃあ自衛隊にでも入れよ」と冗談交じりの口調で助言を行った。
「おい、『にでも』って、そんな軽い気持ちで行くような場所じゃないだろう」
「でも、お前は責任感があるし、頭良いし、理不尽なことに耐えられる精神力もあるし、オレは向いていると思うけどな」
 神原という高校時代の千葉の友人は、いわゆる『ミリオタ』と分類される嗜好の持ち主であったから、彼の助言には、些か偏向的な考えが含まれていたかもしれない。
 最初は躊躇していた千葉だったが、神原の言葉に感化されて、次第にその気になっていった。
 
高校卒業後、千葉は自衛隊に入隊した。陸上自衛隊だ。入隊したばかりの者は、自衛官候補生と呼ばれ、教育隊に配属される。教育隊とは、自衛隊に必要な知識や技能を教える部隊だ。
親元を離れて、同じ志をもった仲間たちと生活しながら訓練に勤しむのは、刺激的だった。日々の厳しい訓練や理不尽なしごきも、未来の自分の姿を想像すれば、なんとか耐えられた。心が折れそうになったことはないのかと問われれば、あると言わざるを得ないが、そんなときに千葉の精神を支えたのは、バディである藤原斗真の存在だった。
バディとは、仲間や相棒を指す言葉だ。集団行動やチームワークが重要視される自衛隊では、入隊したばかりの隊員に必要な知識や技能などを教える教育隊や少数精鋭による任務を行う部隊などでバディを組み、結束力や目標達成率の向上を図っている。基地や駐屯地内で生活する教育隊の隊員は、同室の隊員同士でバディを組んで衣食住をともにするのだ。
同い年の藤原は、当初、ふてぶてしく、第一印象は最悪だった。高校は途中で中退し、暇を持て余して日々喧嘩に明け暮れるような不良だった。将来を憂いた彼の家族に、自衛隊に入って性根を叩き直してもらってこいと、半ば強制的に入隊させられたという。
千葉は当初、「こいつはすぐに根を上げて辞めるだろうな」と密かに思っていた。口数の少ない男だったから、彼がなにを考えているのか、よく分からないときも多々あった。それでも千葉はバディとして、藤原と懸命にコミュニケーションを取ろうとした。
 藤原が無口なのは、人見知りをする性格の影響なのだと気付いたのは、入隊してひと月が経過した頃のことだった。
 ベッドのシーツを整えているときに、彼がふいに「いつもすまねえな」とぼそぼそ言ったのだ。周りの喧騒にかき消されてしまいそうな、小さな声だった。藤原はスポーツ刈りの頭に汗をかきながら、黙々と作業を続けていたが、耳たぶまで赤くなっていた。
「なんだよお前、しゃべれるじゃねえか」
 訓練中や上官との会話のときは大きな声を出していた。そうしないと、叱責を受けて、先に進めないということは、藤原も分かっていたのだろう。だが、同期とは必要最低限しか口を利かなかった。そんな藤原が、自発的に話しかけてきたのだ。千葉の喜びはひとしおだった。
 その一言同士のやりとりが、千葉と藤原の距離を縮めるきっかけとなった。第一印象が悪かったせいで、彼の悪いところばかりが目についていたが、千葉の視野がぐんと広がったかのように、色々な一面が見えるようになった。
 訓練終わり、隊舎の階段を二人で駆け上がっていたとき、千葉は足がもつれて段を踏み外してしまい、転落しそうになった。そのとき、藤原が身を挺して庇ってくれたのだ。結果的に千葉は無傷だったが、藤原は足首を捻挫して、肩を打撲した。
「いいか。これはオレが勝手にひとりで転落して怪我したんだ。オマエは関係ねえ」
 自分の気の緩みで他人を怪我させてしまったという状況に、心が押し潰されそうになっていた千葉に、藤原は静かにそう言った。有無を言わせない目つきだった。そして彼はそのまま、教官に報告を行った。
 あとになって、実は自分が原因で、藤原が怪我をしたのだと、千葉が報告すると、藤原諸共、こっぴどく叱責を受けた。
 仲間を庇う気持ちが強くなったが故に、虚偽の報告をしてしまったという気持ちは分かるが、それは正しいとは言えない。事実が歪曲して伝われば、取り返しのつかない事態に発展してしまう可能性がある。だから日頃から事実をありのままに報告する癖をつけよ、というようなことを言われた。
 罰則として、腕立てを一人三百回するように命じられたが、怪我をしている藤原の分も引き受けると、千葉は言った。元々は自分の不注意が招いた事態なのだ。いくら連帯責任で虚偽の報告を行ったのは藤原の独断だったとしても、自分の気が済まなかった。
 腕立て六百回。そのうち三百八十二回を終えたところで、千葉は力尽きた。残りを引き受けてくれたのは、千葉たちを叱責した教官だった。

 教育隊での訓練が終わりを迎える直前、余暇時間に千葉は藤原に呼び出された。
「なんだよ、改まって」
「ありがとな、千葉」
 藤原は開口一番にそう言った。その頃になると、互いの性格も、癖も、分かっていたから、彼が口下手な分、言葉をストレートにぶつけてくる奴だということも分かっていた。
「よせよ、照れくさくなるだろ」
「あっ、あのさ……」
 藤原は千葉の受け答えに被せるように、食い気味で話を続けた。「もうすぐ終わりなんだな、この生活も」
「そうだな……」
 藤原に言われなくとも、千葉も実感していた。三ヶ月という月日は、始まった頃は途方もなく長いと思っていたが、いざ駆け抜けてみると、あっという間だった。
「でも、俺たちはまだ候補生だ。これからも学ぶことはたくさんあるだろう」
 そうだ、あくまでも前期教育が修了するだけだ。これからは、各配属先での後期教育が始まる。
「オレたちはここを出たら、離ればなれになるけど、オレ、オマエのこと一生忘れねえからな」
 人見知りのオレに、辛抱強くしつこいくらいに関わってくれたのは、千葉、オマエが初めてだと、藤原ははにかみながら言った。
「しみったれたこと言うなよ。それに、しつこいは余計だ」
「千葉!」
 まただ。言葉を言い終わらないうちに藤原の声が割り込んできた。
「どうしたんだよ、さっきから。なにか言いたいなら、さっさと言え」
 少しのあいだ、藤原は躊躇していた。だが、意を決したように真剣な表情になると、ズボンのポケットをごそごそやって、その手を差し出してきた。
「キッ、キモイとか言うなよ! これ、千葉に持っていてほしいんだ」
「ドッグタグ?」
 藤原の手のひらにのっていたものは、駐屯地に配属された初日に、教官から支給品として渡されたものとは違っていた。そもそもあれは普段の訓練では身につけずに仕舞ってある。
「ああ。オレとオマエが、自衛隊人生最初のバディであった証だ。予算の都合で一組しか用意出来なかったけど、オレがオマエの分を持ってるから、オマエがオレの分を持っていてくれないか」
「お前って、結構そういうの気にするタイプだったんだな」
 じゃらりと鎖の音を立てながら、手のひらに乗せられたドッグタグには、藤原がここに存在している証が刻まれていた。打ち解けて、気兼ねなく背中を預けられる関係になって初めて分かることもある。
「ありがとな、藤原。俺もお前のことは忘れねえよ」
 破顔した藤原の顔は、これまでで一番嬉しそうだった。

 藤原と顔を突き合わせて食べた最後の食事は、カレーライスだった。それは藤原の大好物でもあった。彼はひとくちひとくちを噛みしめるように、神妙な面持ちでスプーンを口に運んでいた。
 藤原とは歳が同じだったが、千葉には同級生というよりは、目が離せない弟のように映っていた。だからだろうか。月日が経過するにつれて、彼の不器用な立ち振る舞いも、すこしだけ可愛らしくみえていたのは。
 自衛官候補生課程修了式が終わると、各々は休む間もなく配属先へと旅立っていった。千葉は藤原と握手をして別れた。互いの健闘を祈り、いつか共に誰かを助ける任務につけたらいいなと言い合った。

 千葉が藤原と再会したのは、それから五年後のことだった。藤原が配属されている駐屯地の管轄で、大型の台風による水害が起こり、千葉も現地に派遣されたのだ。
 再会を喜ぶいとまもなく、二人は被災者の救助に駆り出された。
 氾濫している川の中洲に、数人の人が取り残されている、という情報が舞い込んできた。この天候でその人たちはなぜそんなところにいるのだと、千葉は内心憤ったが、立場上、態度に出すわけにはいかなかった。
 自衛隊は、警察や消防と協力して、そこにいた被災者たちの救助にあたった。結果的に、一人の男性が流されて行方不明となった以外は全員生きて救出されたが、さらなる悲劇が直後に起こったのだ。
 千葉の耳に最初に聞こえたのは、藤原が必死の形相で自分の名を呼ぶ声だった。その声が千葉に届くか届かないかのうちに、体が突き飛ばされた。日頃の鍛錬で体幹は鍛えていると思っていたが、無様に地面に転がりながら、一瞬自分がどうして転倒したのか理解出来なかった。
「ぐっ……うぅ……」
 藤原のくぐもった声が、足元で聞こえた。同時に周囲が慌ただしくなる。何事かと思って顔を上げる。目の前に広がっている光景をみて、千葉は絶句した。
 少年が藤原に馬乗りになっていた。その手にはナイフが握られており、刃先は藤原の体に深く突き刺さっていた。
「おい! なにやってんだ!!!」
 千葉は叫んだが、体が動かなかった。
 少年は、周りにいた自衛隊員や警察官に、ただちに取り押さえられた。地面に叩きつけられ、四肢を拘束された少年は、なおも興奮冷めやらぬ状態で、「お前じゃねえ! くそっ、邪魔しやがって!!!」と喚いていた。そしてその憎しみのこもった眼差しは、千葉のことを見ていた。

「ふ、藤原っ! 藤原!!」
 我に返って、ようやく体が動いた千葉は、藤原のそばに這いずって近づいた。出血量が多い。迷彩柄の隊服が、みるみるうちに血に染まっていくのがわかった。
「ち……ば……無事……か」
「馬鹿! しゃべんな!」
 なにかを言おうとした藤原を遮って、千葉は彼の身を案じた。話はあとでいっぱい聞いてやるから、いまは体力を温存することだけに注力しろ。
自衛官はいついかなるときも、己の感情に振り回されるな。——そんな教えは、千葉の頭からごっそりと抜け落ちていた。間もなく他の隊員や消防隊員によって、千葉は藤原から引き離された。
 
藤原斗真が息を引き取ったのは、その夜のことだった。

 藤原を刺した少年は、千葉が救助した被災者のうちの一人であり、行方不明になっている男性の息子であった。中学生の彼は、目の前で父親が流されていったことによりパニックになり、早く救助に駆けつけてくれなかったと自衛隊員を逆恨みした。そしてその激情のままに、自身を助けてくれた千葉を、父親の道連れにしてやろうと、犯行に及んだのだという。少年は父親の無事を祈る前に、その命の灯火が消える気配を感じ取っていたのだ。
 標的が違っていたとはいえ、一人の隊員を殺害したという事実は、少年の人生に、深く刻み込まれていくことだろう。それが足枷となり、自分の思い通りのことが出来ないことが出てくるかもしれない。
 
藤原が死んだ。それも、自分を庇って。——その事実を、千葉はしばらく受け入れられないでいた。最後に言葉を交わしたとき、藤原は自分になにかを言いかけていた。それを遮ってしまった。
 こんなことになるなら、あのとき、あいつの言葉を聞いておけば良かっただろうか。そもそもなんで俺を庇った? 答えは明白だ。俺とあいつが、バディだからだ。
「だったら、俺も一緒にいけばよかったじゃねえか……」
 虚しく響いた独り言に、返事を返してくれる者はいない。
 心神耗弱状態に陥った千葉は、日々の訓練には参加せず、隊舎の中でしばらく療養するように命じられた。医療機関の受診を薦められたが、誰になにを言ったところでなにも解決しないと、千葉は頑なにそれを拒否した。
 本当は一日も早く復帰して、元の日常に戻れば、自分も周りも良いのだろう。そんなことは、誰に言われなくとも千葉が一番分かっていた。分かっていても、心がそれを認めなかった。
 硬いベッドに寝そべって、千葉は首に提げたドッグタグを握りしめていた。葬儀のときに、初めて会った藤原の両親に、遺品だといって返そうとした物だ。
「あなたは斗真のバディだったと聞いています。もし、あなたが嫌でなければ、そのまま持っていていただけませんか」
 そう言われてしまっては、断ることなど出来るはずがなかった。

 どれだけ涙を流そうとも、気持ちが落ち着くことはなかった。人生の中でたった三ヶ月のあいだに関わっただけの相手だろうと自分に言い聞かせても、余計に虚しくなるだけだった。
 それからしばらく経って、千葉は現場に復帰したが、彼の心身が完全に回復したわけではなかった。表面上はそつなく訓練をこなしていたが、自衛隊にいる限り、どうしても彼の感情を蝕んでいくものがあった。それは、週に一度、必ず食事のメニューに出される、カレーライスだった。
 藤原と一緒に食べた最後の晩餐。そして彼の大好物。——それが否応なしに、藤原の存在を、彼と過ごしたあの三ヶ月間を、そして最期の光景を、思い出させてくるのだ。
自衛官を辞める理由が、『カレーライスを見ると、過去のトラウマが呼び起こされる』だと、示しがつかないと考えた千葉は、あの事故がきっかけで、自衛官としてやっていく自身を喪失したと、上官には伝えた。そしてそれは、千葉と藤原のあいだで起こった紛れもない真実であったから、事情は考慮され、千葉は一般の社会人として生きていくことを許されたのだった。

千葉は、自衛官として勤め上げ、稼いだ金を資金にして、飲食店を開いた。それが居酒屋『えにし』だった。

11

「千葉さん! こんちはっす!!」
 予想外の来客に、千葉は目を丸くした。
「お前たち、今日は土曜日だぞ……」
「やだなあ、それぐらいわかってますって。大体おれたち昨日、手伝いに来たじゃないっすか」
 聖哉の馬鹿でかい声が、店内に響き渡る。彼は部活が終わって、その足でここに来たのだろうか。野球のユニフォーム姿のままだった。
「今日はどうしたんだ」
 岸辺城島の寮に住む生徒は、外出をするのに寮監に届け出を出さなければならなかったはずだ。千葉は体育科ではなかったから、寮には住んでいなかったが、当時の体育科の同級生が、いちいちめんどくせーとぼやいていたのを思い出した。
「遙佳は部活でしごかれてるから来れなかったけど、おれと晃司で、飯を食いに来たんすよ」
 聖哉の背後から、晃司がひょっこりと顔を出して会釈をした。千葉もつられて頭を下げる。晃司はシャツと短パンに着替えていたが、彼もまた、部活が終わったばかりなのだろう。
「六時までに寮に戻らなきゃいけないんすよ。おれたち、寮の飯も食うから」
 なっ! と晃司に同意を求めて、聖哉はニッと笑った。開店時間を過ぎたばかりで、まだ他の客はおらず、千葉はとりあえず二人をカウンターに座らせた。
「今日は好きな物、食えるんすよね。おれ、唐揚げ定食食わせてください!」
「えっ!? 居酒屋なのに定食があるのか?」
「晃司、おまえ何回ここに来てんだよ、ほら、あそこ、定食メニューが貼ってあるだろ!」
 晃司の反応を見て、こいつら、単に飯を食いにきたんじゃないなと、千葉は勘づいた。いや、飯を食いにきたのはそうだろうが、それはついでで、もっと他に用があったのだろう。
 千葉の予想通り、彼らが本題に入ったのは、晃司も聖哉とおなじ唐揚げ定食を注文してきたので、仕込んでいた鶏肉を揚げているときだった。
「千葉さん、オレ、どうしても千葉さんに聞きたいことがあって」
 カウンター越しに晃司と目が合う。少年の喉仏がこくりと動いて、唾を飲み込んだのが分かった。
「だから今日、聖哉と一緒に来たんです」
 聖哉が店内をきょろきょろと見渡しているその横で、晃司は話を進めた。
「どうした、改まって」
 何の話をされるのか。千葉は大体予想がついていた。
「千葉さん、オレがこんなこと聞くのは失礼かもしれないっすけど、ずっと気になって……」
「ほら晃司、ここまで来たんだから、さっさと言っちまえよ、なっ!」
 うう……と、晃司は口をつぐんで唸った。きっと彼は聖哉に背中を押されてここまでやって来たのだろうと推察する。ここで躊躇していても仕方がないと決めたのか、晃司は深呼吸をひとつして、口を開いた。
「どうして千葉さんは、自衛官を辞めたんですか?」

 その質問があまりにも予想通りすぎて、逆に千葉は安堵した。
「その……ドッグタグの名前の人と関係があるんですか?」
 フライヤーに目を落とすと、ピチピチと音を立てながら、唐揚げが浮かんできた。それをすくい網で取り上げて、油を切る。
「守秘義務だ」
 皿に千切りキャベツと、櫛形に切ったトマトを盛り付けながら、千葉は静かにそう言った。
「え?」
 晃司がきょとんとした顔になる。普段は三人の中の誰よりも芯の強そうな凜とした表情をしているくせに、ふいに現れる一面を見ると、まだまだこいつも子供なんだなと感じる。
「俺はたしかに、自衛官として働いていた時期がある。だが、そこで起こったこと、やったことに関しては、誰にも言わないようにしているんだ。このドッグタグに書かれている名前の男は、俺がはじめてバディを組んだやつなんだ」
 千葉はそれだけ言って、ほら食えと定食の乗った盆を二人の前に置いた。
「うまそー! いただきまーす!」
 聖哉は嬉しそうに目を輝かせて、手を合わせた。「ベジファースト、ベジファースト。意味あんのか知らねえけど」と言いながら、大きな口を開けてキャベツを貪っている。
「もうひとつだけ聞いてもいいですか?」
 座っているから自然とそうなるのだが、晃司は上目遣いで千葉をじっと見つめてきた。千葉は頷く。
「オレみたいなヤツでも、やっていけると思いますか?」
 そんなこと、誰にも分かるわけないだろう。一瞬、彼を突き放すような言葉が、千葉の脳裏に浮かんだ。だが、晃司はそんな答えを望んでいないだろう。
 千葉はカウンター越しに、晃司をじっと見据えた。
「やっていけるか、という不安定な思いを抱いているだけでは駄目だ。潮が自分の目標を叶えたいなら、なにがあっても、折れない心を持つことが大事だ。お前が進もうとしている道の先には、きっとお前が予想もしていない理不尽な状況や、苦難が多く在るだろう。自分自身や、周りの仲間たちになにが起こっても、常に平常心を保って、目的を完遂しなければならない。自衛隊の本質は、どんな状況においても国や国民を守ること。仮に自分の命が犠牲になる事態が起こったとしても、だ。その覚悟を持っている者が、お前の言う『やっていける』人物なのだと思うぞ」
 そして俺は、そうはなれなかった。
 晃司に説きながら、どの口がほざいていると、自責した。もしもあのとき、誰も犠牲にならなかったら、自分はいまでも自衛官として勤めていたのだろうか。たらればの妄想をしても、どうにもならない。過去に囚われて、余計に身動きがとれなくなっていくだけだ。
「燃えてきました」
 晃司はそれだけ言って、箸をとり、茶碗を持ち上げると、白飯をかきこんだ。がつがつと飯を食う晃司を見て、千葉はそっと微笑む。
「なにが燃えてんだよ」
 唐揚げを咀嚼しながら、聖哉は不思議そうに尋ねる。彼の分の定食は、晃司と千葉が話しているあいだに、もう半分が減っていた。
「やる気」
 晃司の食べっぷりは、まるで栗鼠のようだ。食べ物を詰め込みすぎて、両頬が膨らんでいる。
「おお、良かったじゃねえか!」
 聖哉はそう言って、ごきゅごきゅと喉を鳴らしながら冷水を飲み干した。もう一杯と言いながら、自分でピッチャーからお替わりを注いでいる。
「なあ晃司」
「ん? なんだよ」
 晃司が聖哉のほうを見ると、彼はニヤニヤと笑っていた。
「これ、ピッチャー。おれもピッチャー」
 目が点になるくらいのくだらないことを言う。それでも聖哉が場を和ませてくれようとしている意図に、晃司も気付いていた。
「オマエがずっと、大好きな野球に打ち込めるように、オレがこの国の平和を守ってやるからな」
 聖哉は、丸い目をさらに丸くして「おう、頼んだ!」と答えた。
 いつか、この唐揚げ定食を再び食べたときに、自分の将来に改めて覚悟を決めた今日のことを思い出す日がくるのだろうか。
 初心に返るという言葉がある。たとえば、どうしても心が折れそうになったとき、自分を奮い立たせるために験担ぎがてら、『えにし』の唐揚げ定食を食べに来る。そうすればまた、頑張れるような気がする。
 世の中にひとつくらいは、そんな料理があったっていい。
 晃司は箸をすすめながら、心の中でそんなことを思っていたのだった。

「なあ晃司、なんで千葉さんは『シュヒギム』なんて言ったんだろうな。あの人に何があったのか、いまはネットで調べりゃ分かるって、思わなかったのかな」
 えにしを出て、寮への帰り道を二人で歩いていると、聖哉がぽつりとそう言った。他意のない、純粋に疑問に思っているような声色だった。
「遙佳はこういうのキライそうだから、おれとおまえだけの秘密な」と言って、聖哉がスマートフォンの画面を見せてきたのは、彼らが千葉のドッグタグを見た日の翌日のことだった。
 そこに映っていたのは、匿名掲示板のサイトに、千葉と藤原が巻き込まれたあの事件のことが書かれているものだった。読んでいくと、どこから漏れたのだろうか、投稿者たちによって、千葉と藤原の名前が特定されていた。
「オマエ、わざわざそんな……」
「えー、だって気になるじゃん。他人の名前のドッグタグを大事そうに持ってるなんてよお。ぜってえ、なんかあっただろって思ってさ」
 それは単なる好奇心だった。聖哉には昔からこういう一面がある。
 そして今日、えにしに行ってみようぜと、部活終わりに寮の部屋でくつろいでいた晃司を捕まえて提案してきたのは、聖哉だった。
「え? でももうすぐ晩飯だぜ」
「どっちも食えるだろ」
「そりゃあそうだけど」
「決まり! だったらさっさと行こうぜ!」
 聖哉も部活が終わった直後のようだった。ユニフォーム姿のまま、晃司を部屋から引っ張り出し、香芝に外出届を突きつけると、その勢いのままに学校を出たのだった。

「触れられたくない過去だったとしたら、徹底的に隠すだろうし、もしかすると案外話を聞いてもらいたかったんじゃねえか、千葉さんも」
「オマエ、勉強は出来ねえくせに、そういうところは鋭いのな」
「なにをう! ベンキョーに関しては余計だ!」
 千葉の真意は分からない。だが、部外者でも少し調べれば分かるようなことを守秘義務だと言ってみなまで言わなかったのは、きっと晃司を慮ってのことだろう。なにも悲観的なことを話して、将来に希望を抱いている晃司の気を削ぐことはない。
 だとすれば、それは必要な嘘だった。——お前が目指す道は、ときにこんな悲劇を生むこともある。お前はそれに耐えられる気概はあるのか。
 分からない。千葉も、まさか自分たちがそんな目に遭うとは、事件が起こる直前までは思っていなかっただろう。だったら、未確定の不安に苛まれるだけ、時間の無駄だ。いま、この胸に抱いている情熱を、燃やし続けることに注力しよう。
「聖哉、寮まで競争だ」
「は? おいっ! 待てよ晃司!」
 突然駆け出した晃司のあとを、聖哉は必死で追う。これだけ走れば、寮の夕食の時間にはまた腹が減っているだろう。
「寮のメシも唐揚げだったらどうするー!?」
 後ろから聞こえてきた聖哉の大声に、晃司は思わず表情を綻ばせていた。