瑠璃「何も知らない素人娘に突き出しからやらせるなんて、雀バアさんも守銭奴だよねぇ。」

 ◯中鈴屋の中庭。あまり手入れされていない草木がぼうぼうに生えた垣根の陰。
 〇煙管に赤い火をつけた瑠璃が、紫の煙を鼻から出してからペッと唾を床に吐いた。
 ◯花魁禿とはいえ瑠璃の中身はまだ幼い童で、行儀作法は勉強中だ。
 ◯雑魚寝部屋に居る下女や位の低い遊女たちが姐さんたちに気兼ねなく煙草を吸ったり遊郭の人間やお客の悪口を言うには、ここが最適だった。
 ◯お座敷のどんちゃん騒ぎが幻燈のように垣間見えて、夢うつつの狭間に居るような気分になる。
  
瑠璃「まぁ、水揚げなんかはわっちの時もやりたくないから飛ばしてほしいけどね。」

 ◯遊女の経験は無いとはいえ、つぐみはもう六年もの間遊郭で寝起きをしているので、水揚げも突き出しもどういう意味なのかは理解している。
 〇瑠璃の形の良い唇から吐き出される紫煙を眺めながら、つぐみは確認するようにぼやいた。

つぐみ「明日はお座敷で接客したお客様と、事前に教えは請わずに床入りしろということよね。」
瑠璃「つぐみは新造にしては薹が立っているからね。バアさんは早めに身請け先を見つけて貸付金の回収がしたいんだろうよ。」
つぐみ「貸付金…そうよね。」

 〇つぐみの生殺与奪の権利は中鈴屋が掌握しており、独自の規範により貸付金の契約書まで存在している。
 〇貸付金は、年季が明けるまで奉公するか身請け先が身請け金を払えば白紙になるが、病気や俘虜の事故で払えなくなれば親兄弟にまでそのツケが請求されるというタチの悪い代物だった。
 ◯瑠璃は年増女のように愚痴を吐きながら、つぐみにお歯黒の墨の付け方を教えてくれてた。

瑠璃「お歯黒筆の行き届かない場所には楊枝に墨を含ませて隙間なく黒く塗り上げるのがコツさ。」

 〇つぐみは真剣に塗るあまり唇の内側まで黒く塗ってしまい、瑠璃に嗤われる。

瑠璃「そうそう、明日バアさんがお前に付かせようとしている松崎さまは海運業の船成金。中鈴屋でも指折りの太客だ。
 突き出しをした遊女は十割方身請けをしてくれるよ。 
 アンタは閨の経験がないとはいえ、くれぐれも粗相のないようにね。」
つぐみ「閨…。」

 ◯閨と聞いて、鷹次郎の碧い目と共に濃厚な一夜を思い出したつぐみは急に悲しくなった。
 身体の関係は無いとはいえ、あの狂おしいほどの鷹次郎の求愛の言葉を浴びたつぐみの気持ちは、完全に鷹次郎のものだ。

つぐみ(床入りが済めば私は遊女。本当に阪本さまには会えなくなる。いっそ、逃げてしまいたい。)

 ◯思いつめた顔のつぐみに瑠璃が声をひそめて耳元で囁いた。

瑠璃「ただね、松崎さまが身請けした遊女はみんな発狂しているんだよ。」
つぐみ「発狂って…?」
瑠璃「台風の日に急に屋根に上がって飛び降りたり、大声で叫びながらに川に入って溺れたって噂だよ。」

 ◯つぐみが絶句していると、瑠璃が狡い顏をした。

瑠璃「まぁ、あくまで噂だから。あと、松崎様はお人形みたいな色男だからそれだけは救いだね。」



 ◯待機部屋に戻るためにつぐみが長い渡り廊下を歩いている。

つぐみ「あっ…。」

 ◯廊下の突き当たりで鷲男が土下座をしてひばりに告白をしている。
 中鈴屋では日常的によく見る光景なのだが、やはり目の前で繰り広げられるのはバツが悪い。

鷲男「や、やっぱりオイラじゃ駄目なのかな…顔が醜いから?
 それとも頭が悪いから?」

 ◯腕を組んだひばりは、目を細めて鷲男を見下ろした。

ひばり「鷲男さん…アンタ、いざという時にわっちを刀で切り捨てられるかい?」

 ◯鷲男は驚いてひばりを見上げた。

鷲男「そ、そんなこと出来る訳がない。」
ひばり「それじゃあ駄目だね。」

 ◯ひばりがため息を吐く。
 ◯鷲男は悲しげに問いただした。

鷲男「ど、どうして?」
ひばり「わっちを身請けするということは、それくらいの覚悟が無きゃ駄目なんだ。  
 真剣勝負が出来ない男のところには行かないよ。」

 ◯ひばりは着物の裾を翻して颯爽と鷲男の脇を歩き去った。

鷲男「三百六十回目の告白もフラれた…。」

 ◯落ち込む鷲男。
 ◯柱の陰に隠れていたつぐみが顔を出す。

鷲男「つ、つぐみちゃん!?」
つぐみ「鷲男さん、こんばんは!」

 ◯いつものように挨拶したつぐみを見て、鷲男は小さな目を丸くしたまま口に手を当てた。

鷲男「まるでべべ、別人みたいだ!」
つぐみ「変わったのは外側だけよ。中身はなあんにも変わらないわ。」

 ◯つぐみは寂しそうに笑った。

つぐみ「明日は遊女として店に出ることになったの。こんなことなら醜い肌のままが良かったわ。」
鷲男「つつ、つぐみちゃん元気をお出しよ。じゃなきゃ、オイラまで悲しくなるよ。」

 ◯鷲男は相変わらず優しい。
 〇嬉しくなったつぐみは、つい口を滑らせた。

つぐみ「鷲男さん、あのね。」

 ◯つぐみは鷲男の巨体に背伸びをしてそっと耳打ちした。

つぐみ「阪本さまならその肌を治してくれると思うわ。相談してみて!」

 〇鷲男は顏をしかめてつぐみを見た。

鷲男「さ、阪本って、あの医者の?」
つぐみ「そうよ。」
鷲男「そんなのオイラ、いいい、嫌だ!」

 〇そっぽを向いた鷲男の背中に、つぐみは驚いて問いかけた。

つぐみ「えぇ、どうして?」
鷲男「さささ、阪本って、ひばりちゃんを二度も袖にしたヤツだろ?
 もし肌が治るとしても、オイラ、死んでもソイツの世話にはならない‼」

 ◯つぐみは鷲男の反応に衝撃を受けた。

つぐみ(私のバカ。見た目が変われば鷲男さんも喜んでくれる思い込んでいたけど、ただの自己満足のお節介じゃない。)

 〇つぐみは俯いて鷲男に謝った。

 つぐみ「ごめんなさい!」

 〇鷲男は少しきまずそうに巨体を揺らすと、立ち去る前に明るい声でつぐみに言った。

鷲男「気にしないで。そ、それにさ、オイラはひばりちゃんにありのままの自分を好きになってほしいんだ!」

 〇つぐみは、ありのままの自分や鷲男を好きになる人間などこの世に居ないと思っていた。
 なのに、目の前の男は醜い自分を受け入れ、恥じる事なく誠実に生きているではないか。

つぐみ(私が変わったのは見た目だけ。自分自身が私という人間を愛せなければ、他人に愛されるはずがないわ。)

 ◯つぐみはしばらくの間、鷲男が去った廊下に立ち尽くしていた。


 ♢♢♢


 拝啓 阪本さま

 つぐみは遊女になりました

 客と遊女として以外にはもう二度とお会いすることはかないません

 阪本さまの気持ちはゆうびんやの女から聞いています

 一生の宝物です
 私のこころの奥底に大切に仕舞っておきます

 どうか、いつまでもお元気で

 追伸、 ひばり大夫のお座敷に来るという約束は守ってくださいね

                                つぐみ

 ♢♢♢

 ◯いつもの待機部屋に戻ったつぐみは、鷹次郎へ決別の手紙を書いていた。
 〇あれほどつぐみが熱望していた『見た目が普通』の女子になれたのに、本質は何も変わらない気がしたからだ。

 つぐみ(籠の中の鳥は扉が開いたところで、自由の意味を知らなければ籠から出ることを想像もできない。
  しかも私は中鈴屋に返すべき恩と借金がある女。歴史ある阪本病院の一員である鷹次郎さまには釣り合わない。)

 〇つぐみは遊女となって身の丈に合わない恋へのけじめをつけることにした。

つぐみ(この手紙を突き出しが終わった後に、阪本家に届けよう。)

 ◯手紙を書き終えたつぐみの顏にはいつもの怯えや迷いの表情はなく、決意を胸に秘めた顔つきになっていた。
 これはありのままの自分を好きになってくれた鷹次郎への、せめてもの懺悔の気持ちだった。

 ◯手紙を書き終えて袂に忍ばせる。
 その時、灯篭の蝋燭の炎が揺らいで急に背筋がうすら寒くなった。

 ◯つぐみはビクッと首を竦めて辺りをキョロキョロと見渡した。

つぐみ(今の、何かしら?)

 ◯そう思った瞬間、急に背後からひばりの声がした。

ひばり「何よその下手くそな絵。あんたが描いたの?」

 ◯半紙に墨で描かれた黒い犬の絵のことだと気がついたつぐみは、それを両手でクシャクシャに丸めるとくず入れに放り投げた。

つぐみ「コレはただの暇つぶしのらくがきよ!」

 ◯それは鷹次郎の式神、班丸の札だった。
 また物の怪に取り憑かれた時には呼び出しなさいと鷹次郎に持たせられた物だが、つぐみにその気はない。
 班丸を呼び出すこと自体が騒動の種になる気がするからだ。 

 〇いつもならつぐみの言葉に逆上して物を投げつけてくるのがひばりの鉄板の行動だが、今日のひばりは違った。

ひばり「阪本さまに皮膚を治してもらったんだって? 良かったじゃないか。わっちにもよく見せてよ。」

 ◯つぐみが顔を上げると、ひばりはつぐみの頬を両手で優しく挟んでニッコリと微笑んだ。

ひばり「良かったじゃないか! それより本当に明日の夜は、阪本さまがわっちのお座敷にいらっしゃるんだね?」
つぐみ「ええ。そう約束したわ。」
ひばり「ああ、楽しみだ。こんなに気分のいい日は久しぶりだよ。
 つぐみ、本当に今までありがとうね。」

 ◯こんなひばりは見たことが無い。つぐみは密かに自身の太腿をつねりあげた。

つぐみ(夢じゃないよね?)

ひばり「そういえば雀が言ってたけど。あんたは今日、初めて突き出しに出されるらしいね。」
つぐみ「ええ…。」

 つぐみ(どういう表情をしたら正解なのだろう。下手なことを言ったら、また殴られるかしら。)

 〇押し黙るつぐみの手に、ひばりは袖から出した物を握らせた。

ひばり「これでやっと雀への借金が返せるじゃないか。これはお祝いだよ。」

 ◯ひばりが差し出した三本の飴色に輝く簪を見たつぐみは、驚いて固まった。

つぐみ「こ、こんな高価なものを!?」

 ◯軽くて滑らかなべっ甲の簪は高級品だ。
 中鈴屋でも花魁の『おつる』しか身につけていないというのに。

 ◯ひばりはしおらしく顔をそむけて涙を拭う仕草をした。

ひばり「いいのよ。今まで辛く当たってきた償いさ。
 生まれや育ちはアンタのせいじゃないのに、辛く当たっちまって…悪かったね。堪忍しておくれし。」
つぐみ「お姉さま…。」
ひばり「恨んでくれて構わない。でも、この簪は受け取っておくれし。」
つぐみ「恨むだなんて! 私はずっと…この日を待っていたのよ…‼」

 ◯つぐみは声を押し殺して泣いた。
 ◯ひばりがそっとつぐみの肩を抱き寄せて頭を撫でる。

つぐみ(ひばりお姉さまが謝ってくれた! 嬉しい…こんな日が来るなんて!!)

 〇感涙にむせび泣くつぐみは知らなかった。ひばりが肩の上で邪悪にほくそ笑んでいることを。