つぐみ「あの…これでおかしくはないでしょうか?」

 ◯細く診察室のドアが開き、鷹次郎が用意した着物に着替えたつぐみが診察室を覗き見ている。
 ◯鷹次郎はそんなつぐみを見ると、書いていた診療録から万年筆を離してクスクスと笑う。
 
鷹次郎「それでは見えませんねぇ。」
つぐみ「すみません。」

 ◯赤い顔をしたつぐみがドアを全開にして姿を現す。
 ◯薄紫色のぼかし地に大胆な菊の花が咲いている訪問着に金銀色が織り込まれた袋帯を締めたつぐみは、もはや遊郭の下女には見えなかった。

 ◯鷹次郎は眼光を和らげた。

鷹次郎「似合っていますよ。」

 ◯パッとつぐみの顔が明るくなり、自然に笑顔がこぼれる。

鷹次郎「私の祖母の物だが、袖丈が合わず母が着られなくて放置していた着物なんです。
 おまへさんが着てくれて、あの世の祖母も今ごろ喜んでいることでしょう。」
つぐみ「なんとお礼を言ったらいいのかわかりませんが、本当にありがとうございます。
 この御恩は一生忘れません。」
鷹次郎「お礼を言うのはまだ早い。」

 ◯鷹次郎は洋風の白いカップから唇を離し、少し眉根を寄せた。

鷹次郎「物の怪は必ずしも闇に紛れているわけではありません。人間の心の弱いところにはいとも簡単に入り込むことができますからね。
 すぐに元に戻る可能性もある。」
つぐみ「それじゃ私、どうしたら良いのでしょう⁉」
鷹次郎「アレルギィの治療にはアレルゲンから離れるのが鉄則ですが、そもそもおまへさんが物の怪を引き寄せる体質なのでね。
 まずはそこを変える必要がありそうです。」
つぐみ「体質…では、仕方ないですね。」
鷹次郎「あきらめないで。
 大事なのは自分の現状を理解して前に進むことです。ここに通院してもらえれば、完治するまで私も協力しますよ。」

 ◯つぐみは唇をきつく結んだ。

つぐみ「でも私…治療費を払えません。」
鷹次郎「仕事をしているのではないのですか?」
つぐみ「給金はもらっていません。」
鷹次郎「まさか。」
つぐみ「私は役立たずの能無しなので、屋根のある場所でご飯を頂けるだけでも有難いんです。」

 ◯腰に手を当てて考える風だった鷹次郎が、不意に目を輝かせてつぐみを見た。

鷹次郎「それなら私と取引をしませんか?」
つぐみ「取引?」
鷹次郎「あの恋文の本物の差出人の名を教えてください。おまへさんなら知っているんでしょう?」
つぐみ「それは…。」

 ◯つぐみが躊躇うと、鷹次郎はなおも懇願した。

鷹次郎「それが叶うなら、あなたの治療とひばり太夫に会いに行くという条件も付け足しても良い。
 私はどうしてもこの手紙の主に想いを告げたいのです。」

つぐみ(そこまで私のことを…。)

 ◯鷹次郎の情熱にほだされたつぐみは、ようやく重い口を開いた。

つぐみ「…つぐみです。」
鷹次郎「遊女なんですか?」
つぐみ「いいえ。私と同じ、下働きの下女に過ぎません。」

 ◯他人事を装うつぐみに、鷹次郎は嬉々として引き出しから取り出した手帳に『鶫』という文字を書き入れた。
 ◯それを見たつぐみが、すぐに指摘する。

つぐみ「あ、ひらがなのつぐみです。」

 ◯鷹次郎がニヤリと微笑んで手帳の空欄を指さした。

鷹次郎「ここに書いてくれないか?」

 ◯鷹次郎の手の温もりが残る万年筆で手帳に文字を書いたつぐみは、鷹次郎の視線を間近に感じてドキドキした。

 つぐみ(鷹次郎さまへの想いはお姉さまの代筆。それなのに、どうしてこんなにも私の心臓は早鐘を打つのだろう?)

つぐみ「それでは、私はこれで。」

 ◯頭を下げて診察室を出ようとしたつぐみを鷹次郎が呼び止めた。

鷹次郎「確か遊郭は夜九つから明け六つまで大門が閉まるのではなかったか?」
つぐみ「そうですが…。」
鷹次郎「夜中に出歩くのは物騒だ。朝までここで過ごすといい。」
つぐみ「そういうわけには…私は宿代も払えない女です。」
鷹次郎「では、宿代の代わりにおまへさんの一夜を私に下さい。」

 ♢

 ◯その日は帝都の遊郭の老舗の一つである中鈴屋が、今年一番騒然とした日だった。
 早朝、中鈴屋の楼主・雀朝の部屋に裏玄関が騒がしいとの報告が入った。

 ◯妓楼ではよくある話だが、事が大きくなる前に楼主が顏を出す必要がある。

雀(大方、朝帰りをする客と遊女の間でひと悶着あったのだろう。やれやれ、面倒なことだねぇ。)

 ◯雀は開かない瞼を無理やりこじ開けると紫地に銀の刺繍をあしらった派手な打ち掛けを羽織り、床板をギシギシと踏み鳴らして裏玄関へと急いだ。

 雀「何事だい!?」
 下女「それが、つぐみが朝帰りをして…。」

 ◯騒ぎの元凶は先ほど帰って来た下女のつぐみのようだった。

雀「身の程知らずが、何やってんだい⁉」

 ◯一瞬で雀の頭に血が昇る。
 ◯感情に任せてつぐみを怒鳴ってやろうと身構えた雀は、その姿を目にした途端、あんぐりと口を開けた。

雀「ア、アアア、アンタがつぐみだってーーー?」
つぐみ「雀さん、朝帰りをしてごめんなさい!」

 ◯平手打ちを覚悟したつぐみは身を竦めて縮こまったが、一向に手が飛んでこなくて薄目を開ける。
 ◯つぐみのボロボロの浅葱色の木綿の小袖が正絹の光沢が光る訪問着になっていて、醜くて赤黒かった肌が剝きたての卵のように艶光りをしているのを見た雀は、呆然としていた。

雀「その新しい着物…いや、その肌は…。
 アンタがつぐみだなんて、いったい何がどうしたんだい…!?」
つぐみ「昨夜、ひばり太夫のお使いで阪本さまにお会いしてきました。」
雀「医学生の阪本かい?」
つぐみ「そうです。その時の事故で着物の小袖が破れてしまい、ご厚意で着物を新調していただいた上に肌も治して頂いたんです。
 あと、大門が閉まって帰れないことにも同情していただき、診察室に泊めていただきました。」
雀「ハァ~あの金持ちのボンズが…いいや、ちょいと待ちな!」

 ◯初老の眉間に深く刻まれた鬼皺をグッと深くして、雀は用心深くつぐみを睨みつけた。

雀「それってさぁ、あとから阪本に高額の着物代と治療費をぶんどられる算段なんじゃないのかい?」
つぐみ「いえ、お代は要らないとのことでした。」
雀「まさか、阪本のボンズと寝たのかい?」
つぐみ「いえっ…!」

 ◯つぐみは昨夜の情景を思い出して顏を赤く染めた。
 ◯鷹次郎に強制的に診察室のベットを借りさせられたが、それ以上のことは何もない。

つぐみ「阪本さまは診療所の簡易寝具を私に貸し出してくれただけです。本当にやましいことは何も…!」

 ◯阪本家の秘密・陰陽師のことは話せない。
 つぐみは勘の良い雀につじつまが合わないことを追及されやしないかとヒヤヒヤしたが、その説明で彼女は納得したようだ。

雀「むしろ手を出してくれれば逆に請求でき…いや、とりあえずアンタの話を信じるしかないか。」

 ◯雀は急に眉尻を下げると高い裏声を出した。

雀「しかし、あたしゃたまげたよ! 蛙が蝶になるなんて…‼
 フフ、遊郭の神さまも捨てたモンじゃあないね。」
 
 ◯つぐみが今まで見たことのない明るい雀の様子に戸惑っていると、雀は皺だらけの顏に邪悪な笑みを浮かべた。

雀「いいかい、つぐみ。明日からアンタはお座敷に上がるんだよ!」
つぐみ「わ、私が⁉」

 ◯仰天したつぐみは目を大きく見開いて固まった。

雀「そうと決まれば忙しいよ。ええと、明日の予約台帳はと…。」

 ◯右手にたっぷりと唾をつけて玄関脇の分厚い予約台帳をめくり始めた雀の腕に、つぐみは愕然としてすがりついた。

つぐみ「そんなの無茶苦茶です!」
雀「無茶で悪いかい? 何も出来ないアンタを引き取ってから今日までずっと生きてこれたのは誰のおかげだい?」
つぐみ「でも、私なんかに接客は務まりません! 芸事だって習ったことがないのに。」
雀「芸は必要ない。その美貌があれば客の横に座って微笑むだけでおひねりが貰えるよ!」

 ◯つぐみを適当にあしらった雀は呼び鈴を鳴らしながら、廊下の奥の部屋に向かって声を張りあげた。

雀「ちょっと、瑠璃は居ないのかい⁉」

 ◯雀の雷のような呼びかけに、廊下を急ぎ足で走る小さな足音が響いた。
 玄関に現れたのはつぐみよりずっと年下の花魁付きの遊女見習いである瑠璃だった。
 小さな愛らしい顏に白塗りを施し、花魁と同じ派手で豪華な衣装に身を包んでいる。
 ◯瑠璃はつぐみと目が合うと、まん丸い目を大きく見開いた。
 
瑠璃「ただいま参りました。あら、新入りのお姐さんですか?」
雀「あはは…傑作だ。アンタにもこの女子が誰か分からないのかい?」
瑠璃「ハァ、綺麗な方ね。」
 
 ◯いても経ってもいられなくなったつぐみは赤くなった顏を両手で覆った。

つぐみ「瑠璃姐さん、私…つぐみよ。」
瑠璃「まさか…え、本当に? あのバケモノのつぐみなの⁉」

 ◯瑠璃はキンキンの声を張りあげて叫ぶ。
 ◯お座敷の襖が引かれて、部屋から廊下を見た遊女たちがつぐみを見つける。

遊女「あれがつぐみ⁉」
遊女「嘘よ、信じられない‼」

 ◯遊女たちは客をそっちのけにして、廊下に出てきて騒ぎ出す。
 ◯その中にはひばりも居て、冷静さを装ってはいたものの驚きを隠せないようだった。

雀「瑠璃、今からオマエはつぐみに付いて着替えから髪結いから化粧から何から何まで教えてやってくれ。
 明日のお座敷で新造出しをするよ。」

 ◯瑠璃は驚いて雀に唾を飛ばして答えた。

瑠璃「無茶だよ。つぐみに見習いの禿をすっ飛ばして水揚げをさせるというの?」
雀「違うよ。」

 ◯雀は邪悪にニィッと口の端を吊り上げた。

雀「つぐみに水揚げはさせない。留袖新造として、突き出しから始めるんだ。」