◯虚を突かれたつぐみが答えられずに押し黙っていると、鷹次郎が話を続けた。

鷹次郎「先月、中鈴屋に行ったあとのことです。
 家に毎日のように届く熱心な恋文を読んで心を動かされた私は、恥ずかしながら手紙の主に恋をしてしまったのです。」
つぐみ「えっ…。」

つぐみ(あの恋文でお姉さま…いや、私に恋をしたですって?)

鷹次郎「幼き頃から物の怪退治に明け暮れる呪われた自分に、恋など不要と思っていました。
 しかし殺伐とした砂漠のような毎日に一滴の潤いを感じたその日から、私の感情は堰を切ったようにあふれ出して止まらなくなってしまった。」

 ◯つぐみは思いがけない展開に度肝を抜かれて、ただ耳を傾けていた。

鷹次郎「外面と内面の違いに惹かれたと言いますか、とにかくひばり太夫が面白い方だと思ったのです。
 しかし、二度目に会いに行った夜のひばり太夫は最初にお逢いした印象のままのつまらない方でした。
 あの恋文の内容に触れても、ピンと来ていないようだった。
 つまり、この情熱的で情緒のある恋文の主とは全くの別人格だと推理したのです。」

つぐみ(どうしよう…鷹次郎さまはこの手紙が代筆だと気づいているのだわ!)

 ◯自分だと名乗り出る勇気のないつぐみは、強張る顏を無理に動かして作り笑いをした。

つぐみ「そ、そのようなことを私は存じ上げません。
 でも、ひばり太夫から阪本さまにはぜひまたお座敷に来ていただきたいと請われ、この恋文を託されてここに参じました。
 なので今宵は阪本さまから良いお返事をいただくまでは帰れないのです。」
鷹次郎「それは困りましたね。」

 ◯鷹次郎はあごに手を当てて、何か物思いに耽るような顏をした。
 つぐみはじれったい気持ちが歯がゆくて、つい、大きな手振りを交えて声を荒げた。

鷹次郎「何がそんなに気に入らないのですか?
 ひばり太夫は帝都でも一、二を争う美女なんですよ?
 しかも太夫や花魁は一晩にひとりの客しか相手にしないのです。
 そんな方から求愛をされて困る殿方が居るなんて…おかしいです。」

 ◯鷹次郎はフッと失笑すると、目にかかった前髪を後ろにかきあげた。
 光線の加減か、鷹次郎の目が碧く光ったような気がした。

鷹次郎「あいや、困るというのはあなたのことです。」
つぐみ「私が?」

 ◯首を傾げるつぐみに、鷹次郎が心配そうな顔をした。

鷹次郎「もしや、私が中鈴屋に行くと言わないとひばり太夫に折檻でもされるのでしょうか?」

 ◯図星を喰らったつぐみは震えながら聞いた。 

つぐみ「なぜそんなことを?」
鷹次郎「さきほどから、おまへさんの歩き方が気になっていた。」
つぐみ「え?」
鷹次郎「不自然に左の腹をかばっている。それに、破れた着物の袖からチラリと見える青赤色のあざは打ち身の痕でしょう。
 班丸が袖を引っ張っただけではそうはならない。」

 ◯不意につぐみに近づいた鷹次郎は強引につぐみの腕を引き寄せて、破れた小袖の残りの着物を肩まで捲り上げた。

つぐみ「な、なにをなさいます!」

 ◯捲り上げたその白い腕には、ひばりの足と同じ大きさの紫色の瘢痕がくっきりと残っている。
 ◯鷹次郎は目を細めて不機嫌な顔をした。

鷹次郎「すぐに冷やした方が良い。可哀想に。」

つぐみ(私のことが、可哀想ですって?)

 ◯鷹次郎の言葉に苛立ちを覚えたつぐみは、無理やり身をひねって鷹次郎の腕から逃れようとした。

つぐみ(受けたことのない同情をされるなら、蔑まれる方がマシよ!) 

つぐみ「あの、もう失礼します。ごめんくださいませ!」
鷹次郎「帰れるんですか? 私が返事をするまでは帰れないと仰ったのはおまへさんですよ。」

 ◯困惑したつぐみの腕を抱き寄せた鷹次郎はどんなにつぐみが抵抗しても微動だにしない。

つぐみ「困ります。」
鷹次郎「大丈夫、私は医者です。簡単な治療をするだけですし、心配なさらずともお代はいただきませんよ。」
つぐみ「それも困ります。」

 ◯頑なに首を縦に振らないつぐみに、鷹次郎は呆れるようにため息を吐いた。

鷹次郎「おまへさんは相当な石頭ですね。ここで言い争ってもしょうがないので、診療所で話しましょう。」
つぐみ「でも…!」
鷹次郎「分からず屋はこうしますよ。」
つぐみ「ヒッ!?」

 ◯鷹次郎はつぐみを肩に担ぎ上げると、門から家の玄関までの通路の飛び石の上を歩き出した。

つぐみ「お、降ろしてください!」
鷹次郎「怪我以外にも、おまへさんの体には気になることがあるんです。とにかく中へ…。」
つぐみ「人さらいと叫びますよ!」
鷹次郎「誰が信じるんですか?
 いい加減にしないと、斑丸の晩御飯にしちゃいますよ。」

 ◯鷹次郎のひと言で班丸に唸り声を上げられたつぐみは、余計に肩の上でわめいた。

つぐみ「降ろして! 降ろして‼」
鷹次郎「というのは冗談ですが、静かにしてください。本当に手が滑っておまへさんを池に放り投げてしまうかもしれませんから。」

 ◯脱力したつぐみはようやく鷹次郎の肩に身を任せた。 

 ♢

 ◯二階建ての木造洋風建築の診療所は背の高いポプラ並木が建物に影を落としており、夜間のガス灯が消えて人の姿が無い光景は、薄ら寒いような雰囲気を醸し出している。
 ◯つぐみを従えた鷹次郎が白い木枠の引き戸の鍵を開けて玄関の石油ランプをつけると、白い壁に高い鉄版が使われた天井が見える。
 ◯それから先に進むと、よく磨かれて艶光する二十畳ほどの板の間の廊下が現れた。

鷹次郎「こちらへどうぞ。」

 ◯受付を過ぎて薬局の隣がカーテンで仕切られた診察室になっていて、廊下を先導していた鷹次郎はそこにつぐみを招き入れた。

つぐみ「アッ!」

 ◯等身大のガイコツを目の前にしてつぐみは鷹次郎に飛び付いた。
 
鷹次郎「偽物です。」
つぐみ「わ、分かってます!」

 ◯包帯の上から感じる鷹次郎の体温にドキリとしたつぐみは、乱れた後れ毛を直すフリをしながら鷹次郎から離れた。
 ◯気持ちを落ち着かせてよく部屋の中を見渡すと、洋風のテーブルや棚の上には見たこともない形状の道具や茶色い薬瓶があり、ツンとした消毒薬の匂いが鼻につく。
 ◯鷹次郎は背もたれのある黒い椅子に腰かけると、つぐみに手前の丸椅子に座るように勧めた。

鷹次郎「怪我の状態を見たい。上衣を脱いで包帯を外してください。」
つぐみ「…ッ!」

 ◯襟もとの合わせを押さえて非難じみた目線を送るつぐみに、鷹次郎は澄まし顏で答えた。

鷹次郎「私は医学生ですよ。老若男女の裸は見慣れています。」
つぐみ「そうではなくて…。」

 ◯鷹次郎に空気を読めと暗に念じても叶わぬことを悟ったつぐみは、思い切って自分の気持ちを吐露した。

つぐみ「私の肌は見る人が目を逸らすほどに汚いのです。初めてお会いする殿方に醜い姿をお見せしたくありません!」
鷹次郎「そんなことか。」
つぐみ「そんな言い方、酷いわ。」

つぐみ(阪本さまがこんな薄情な方だったなんて! 百年の恋も冷めるというもの。)

 ◯つぐみが憤慨していると、鷹次郎が椅子から身を浮かしてつぐみを真正面から見据えた。

鷹次郎「勘違いしないでほしい。
 美醜など、医療には関係ない。
 かの有名な野口英世は過去を変えることはできないし変えようとも思わないと言っている。
 私もおまへさんの悩みを変えようとしてはいない。ただ、寄り添いたいだけなのです。」

 ◯鷹次郎の言葉は難しくて理解は出来ない。
 が、自分を心配してくれているのは確かに伝わった。

つぐみ「分かりました。」

 ◯つぐみの腫れ物を目視した鷹次郎が、一言呻いて絶句した。

「これは…。」

つぐみ(ほら、やっぱり醜いとかバケモノだって思ったんだわ…。)

 ◯つぐみは両手で隠した乳房の奥がズキンと痛む気がして悲しくなった。

 つぐみ(分かっていたことなのに、期待してしまった自分が情けない。)

 ◯しかし、次に紡がれた鷹次郎の言葉はつぐみが経験したことがないものだった。
 
鷹次郎「おまへさんは物の怪アレルギィだね。」
つぐみ「アレルギィ?」
鷹次郎「私の知り合いによく似た症状の人が居た。」

 ◯鷹次郎はめん棒と銀の匙を両手に持った。

鷹次郎「少し水泡と口腔の粘膜を採取してみよう。
 口を大きく開いて…はい、もういいよ。上衣を着なさい。」

 ◯つぐみは慌てて前襟を合わせた。
 ◯帯を直している間に、鷹次郎が水疱が破れた皮膚の断片と口腔の粘膜をピンセットで摘んで薄い透明な硝子板に乗せた。

 ◯そしてその硝子板を小さな望遠焼に二つの万力のようなものが合体した形の道具に挟み込む。
 ◯鷹次郎はレンズを覗きながらつぐみに訊ねた。

鷹次郎「髪を染めているのだろう?」
つぐみ「はい。」

 ◯自分だけの秘密を言い当てられたつぐみは、ドキリとして小さく頷く。

鷹次郎「染め粉の色素成分には微量の毒が含まれているんだ。おまへさんの場合は、八割は色素中毒だがあとの二割は物の怪のアレルギィだよ。」
つぐみ「物の怪…って?」

 ◯つぐみは鷹次郎が冗談を言ったのかと思った。

鷹次郎「妖怪と言えば分かりますか?鬼とか。」 
つぐみ「どちらでも言葉の意味は理解できます…もしかして私をバカにしていらっしゃるのですか?」
鷹次郎「とんでもない。では陰陽師という職業を聞いたことがありますか?」
つぐみ「ええ、昔ばなしでなら。」
鷹次郎「それは昔ばなしではありません。なぜなら阪本家は中国から伝導された平安時代から陰陽道を受け継いできた家系でして、この明治の代においても陰用五行説を駆使して国政に携わっているのです。」

 ◯つぐみがポカンと口を開けたのを見て、鷹次郎は紺色の着物の袖をまくり上げた。
 ◯鷹次郎は気痩せするようで、見た目よりも前腕部に筋肉が付いている。

鷹次郎「ハハ、直ぐに信じろと言う方が難しいか。
 百聞は一見にしかず。さっそく陰陽師の診療を始めよう。」

 ◯鷹次郎は立ち上がるとつぐみの肩に両手を置いてつぐみの目を真正面から覗き込んだ。
 ◯また鷹次郎の目が妖しく碧く光り、つぐみはハッと慄いた。

つぐみ「阪本様、目の色が…。」
鷹次郎「静かに。」
 
つぐみ(今度は見間違いではないわ。鷹次郎さまはいったい何者なの?)

鷹次郎「ははん、やはり体内に物の怪を溜め込む穢れのない体質なのか。だから先ほども悪鬼に利用されたのだね。
 ひぃ、ふぅ、みぃ…三匹だと?
 これほどの膨大な魔力を溜めていれば、身体にも物理的な影響があるでしょうね。」

 ◯硬直したつぐみを前にベラベラと独り言ちた鷹次郎は机の上にあった小さな半紙にサラサラと十字を書きこんだ。

鷹次郎「手術をしましょう。」
つぐみ「手術?」

 ◯鷹次郎がおもむろにつぐみの額に半紙を当てる。
 ◯するととつぐみの肌がボコボコと沸騰し、焼けるように熱くなった。

つぐみ「アツい⁉」
鷹次郎「出でよ、物の怪!」

 ◯鷹次郎が印を結んだ指先で静かにつぐみの右肩を叩いて足踏みをすると、焼け付くような痛みとともに白い煙がつぐみの包帯の下から立ち昇った。

物の怪『阪本ぉ!』

 ◯煙はあっという間に狐、牛、鶏の姿をした物の怪に変化して鷹次郎の首に巻き付いて締め上げる。
 頭が痛くなるほどの笑い声が診察室全体に響き、鷹次郎は宙に浮いた。 
 
鷹次郎「これほどまでに強力な物の怪がこの娘の中に…⁉ 油断…した…。」

 ◯ギリギリと煙は鷹次郎の体を締め付けて、皮膚は赤くうっ血し始めた。
 ◯鷹次郎は印を結びながら、苦しそうに呻いて宙で足をバタつかせる。
 ◯鷹次郎の足に当たった診察室にある秤や薬瓶が鷹次郎の足や腕に当たって弾け飛び、つぐみの足元に散らばった。
 ◯鷹次郎が白目をむいて気を失う。

つぐみ 「や…。」

 ◯血相を変えたつぐみはガラスの破片を踏み鳴らし、椅子から立ちあがった。

つぐみ「やめてーッ‼」

 ◯縦横無尽に暴れまわる物の怪の煙をかき乱すように滅茶苦茶に両手を振る。
 と、一瞬、物の怪の煙の一部がつぐみの口に吸い込まれ、物の怪が苦痛に呻いた。

つぐみ(エッ、なに!?)
 
 ◯驚いたつぐみが手を止めると、物の怪たちは驚きと怒りの形相を形成して吠えた。

物の怪『ただの容れ物のくせに小癪な…小娘がぁッッ!』 

 ◯通常であれば、動けなくなるかその場から逃げ出す場面。
 ところが、今日のつぐみはいつもの気弱な少女ではなかった。

つぐみ「阪本さま、しっかりしてください‼」

 ◯決死の覚悟で気を失った鷹次郎の体に纏わりつく煙を千切っては投げ捨てる。
 標的をつぐみに切り替えた物の怪の煙が、つぐみを取り囲んだ。

つぐみ「カハッ…!」

 ◯煙なのに太い男性の腕に首を絞められているような力強さ。
 ◯つぐみは死を予感した。

物の怪『阪本の前に、お前から始末してやる。』
つぐみ「ッ‼」

 ◯煙から解放された鷹次郎が雷に打たれたようにビクンと跳ねて、正気を取り戻す。
 碧い目が燃え上がるようにきらめいて、髪が炎のように逆立った。

鷹次郎「班丸…喰え!」

 ◯鷹次郎は半紙に星印を書きこむと煙に向かって鋭く一直線に投げつけた。
 すると半紙は空中で折り紙の犬のような形状になり、一瞬で黒い大きな犬の牙となって煙の怪異を丸飲みした。

物の怪『ギャアア‼』

 ◯断末魔の悲鳴を上げた物の怪が班丸に噛みちぎられ散り散りになると、鷹次郎が結んでいた印をようやく解いてホッとした顏をした。
 それと同時に班丸も半紙に戻り、ヒラヒラと宙を舞って鷹次郎の手の中に吸い込まれた。

鷹次郎「ふぅ。おまへさんのおかげで命拾いしたよ。」

 ◯つぐみが床へと崩れ落ちそうになり、鷹次郎に抱きとめられた。

つぐみ「今のは…犬の班丸は…紙だったのですか?」
鷹次郎「班丸は私が使役する式神です。鬼神ですが普段は犬の姿をさせています。」

 ◯つぐみを支えている鷹次郎は至近距離でつぐみを見つめた。

鷹次郎「それより、物の怪に物理的な攻撃ができたおまへさんの方が興味深い。物の怪に取り憑かれても自我を保っていられたりする人間はなかなか居ないんです。どうやら内に特殊な力を秘めているようだね。
 これまで、物の怪に関わることは無かったのですか?」

 ◯つぐみは首を振った。

つぐみ「記憶にはありません。」
鷹次郎「そうですか。何か思い出したら教えてください。
 あと、これで治療は済みましたが、今の気分はどうですか?」

つぐみ(今のが治療ですって?)

 ◯しかし、そう言われてみると凝っていた肩が軽くなり頭はスッキリしている。
 目の前がパッと明るくなって視界が開けたようだ。 

つぐみ「頭と肩が楽になりました。」
鷹次郎「そこの鏡を覗いてごらんなさい。」

 ◯鷹次郎に背中を押され、診察室の入り口近くの壁に取り付けられていた全身鏡を恐る恐る覗いたつぐみは、自分を映して息を飲んだ。

つぐみ「え…こんなことって!」

 ◯あんなに醜く腫れて膿んでいた皮膚が、綺麗に治っている。
 ◯怪談のお岩さんのような垂れ下がっていた瞼は完全に元の位置に収まっていて、つぐみは生まれたての赤子のようなスベスベした真珠色の肌に似合う、目鼻立ちのスッキリした赤毛の少女になっていた。

つぐみ「ああ…信じられない…! 治った! 肌が治ったわ!!」

鷹次郎「おまへさんの元から持っていた肌を物の怪から取り戻したのです。」
つぐみ「す、すごいわ! 魔法みたい‼」
鷹次郎「魔法ではなく呪術ですがね。
 ちなみに染めていた髪も肌荒れの原因なので、元に戻しておきました。」
つぐみ「これがもとの私…?」

 ◯ペタペタと鏡の前で顏を触っているつぐみ。

鷹次郎「おまへさんには、お歯黒みたいな黒髪よりも、自然な茜色の空のような髪がお似合いです。」

 ◯つぐみの鼻を香ばしい匂いがくすぐった。
 ◯鷹次郎がいつのまにか用意した珈琲を淹れてお茶の用意をしていたのだ。
 ◯先ほどの死闘がウソのような涼しい顏で、鷹次郎が足を組んで診察台の横にある猫脚のテーブルセットに座った。