鷲男「ひ、ひばりちゃん、お袋が呼んでるよ!」
ひばり「…チッ。」

 ◯つぐみを折檻していたひばりが舌打ちをしてピタリと動きを止めた。
 声をかけた襖の向こうの主は部屋には入っては来ず、ジッと戸の向こうで控えている。

ひばり「今行くわ。」

 ◯ひばりは手早く乱れた着物の裾を直すと、再点火した煙管から紫色の煙を吐き出した。
 それを、横向きに倒れているつぐみの顏に思い切り吹きかける。

つぐみ「ケホッ…!」

 ◯煙を吸い込んでに苦しむつぐみの顏を満足げに見下ろすと、ひばりは嫣然と笑った。

ひばり「それぢゃ、行ってらっしゃいまし、ゆうびんさん。必ずや鷹次郎さまから色よい返事を貰ってくるんだよ。」

 ◯ひばりが足を踏み鳴らして荒々しく出て行った後、襖が静かに引かれて廊下の灯りが部屋に漏れた。

鷲男「つ、つぐみちゃん…中に入っても良い?」

 ◯伏せていたつぐみが痛む腹を庇いながら目を凝らすと、巨体の男がのっそりと襖と壁の隙間からこちらの様子を伺っている。
 つぐみは出来るだけ優しい声音で男に返事をした。

つぐみ「大丈夫よ鷲男さん。入って。」

 ◯紙製の氷囊を手にしてビクビクしながら現れたのは雀の息子の鷲男だった。
 ◯鷲男は見上げるほどの大男。紫の頭巾から垣間見えるその顔面は赤ら顔で、醜い。
 それはつぐみの見た目とそっくりだった。

鷲男「こ、これで冷やしな。」

 ◯鷲男は手に持っていた氷嚢をつぐみに差し出した。
 〇氷嚢を受け取ったつぐみは、ゆっくり身を起こして横座りすると鷲男に微笑んだ。

つぐみ「私なんかのために高い氷をわざわざ…ありがとう。」

 ◯母親に似ず鷲男は心根の優しい男で、いつも陰でつぐみを助けてくれる。
 ◯つぐみは苦笑いをした。

鷲男「ひ、ひばりちゃんはね、本当の本当は素直な良い子なんだ。」

 〇言い訳をする子供のようにひばりの弁護を始める鷲男。

鷲男「で・で・で! オイラが一人前になってひばりちゃんの亭主になったら、あのぼんぼり通りを二人で歩いて大門から堂々と遊郭から出ていくのが夢なんだ‼」
つぐみ「ぼんぼり通りを二人で…。」

 ◯つぐみもその光景を見たことがある。青とも黒とも言えないような薄墨色の東の空が徐々に開けていく時間帯に、身請けされた遊女と男が肩を寄せ合って歩いていく光景。
 ◯大通りの両脇を優しく照らす提灯は、二人の前途を祝福する星々のようにも見えた。
 ◯つぐみはやんわりと微笑んだ。 

つぐみ「素敵な夢、だね。」
鷲男「夢じゃないぜ。ぜぜぜ、絶対に叶えるから、ね!」

 ◯鼻息荒く未来を語る鷲男の眼は澄んでいて濁りがない。
 
つぐみ「それじゃあ、鷹男さんが私のお義兄さんになるということよね。よろしくどうぞ、お義理兄さま!」
鷲男「おにいさま? ウ~ン、その呼び方はちょっとなぁ。」

 ◯二人の間に悪戯な笑みがこぼれ、殺伐としていた部屋の空気が少し和やかになる。

 その刹那――。

雀「鷲男ー‼ この役立たずのウスラトンカチ‼ どこで油ァ売ってるんだい!」

 ◯雀の雷が中鈴屋を揺るがす。
 鷲男は重い巨体をビクッと震わせて、文字通り飛び上がった。

鷲男「お、お袋ゴメン! オイラ、行かなきゃ‼」
つぐみ「雀さんに私のせいだと言ってね!」
鷲男「だ、大丈夫。慣れてるから。」

 ◯慌ただしく鷲男が去る。
 ◯再び静かになった畳部屋で、つぐみは鷲男が思い描く未来を描いてみた。それは不毛な妄想で、つぐみの胸を締め付ける。

つぐみ「私も鷲男さんも、バケモノじゃなかったら良かったのにね…。」

 ◯つぐみは目尻の湿り気を袖で拭いた。

(つぐみ・モノローグ)

 つぐみ(変えられない運命に何を愚痴ろうと、ただの自虐よ。
 受け入れるしかない。何も考えず、愚鈍に。ひたすら愚鈍に。)

 ◯つぐみは立ち上がり、床に放置していた色褪せた羽織を手に取った。


 ♢

 ◯日暮れ時。遊郭の端にある大門の前。
 ◯遊郭の賑やかなぼんぼり通りを抜けて引手茶屋に通行証を提示してから大門を出ると、日が暮れた街並みはつぐみの心の底のように暗く沈んで見えた。
 ◯すれ違う男たちが、もの珍しげに振り返ってつぐみを見送る。こんな時間に遊郭の大門の外に居るのは、立ちんぼの娼婦くらいだからだ。
 ◯この近辺を若い娘が一人で出歩くのは、オオカミの群れの中央に肉を放り投げるに等しい。

つぐみ(夜に歩くのは初めてだわ。暗くて怖い。)

 ◯浅葱色の頭巾を目深に被ったつぐみは仄かに光る提灯を握り直した。

つぐみ(それでも…行くしかないよね。)

 ◯昼間の記憶を辿って人気のない暗い道を二十五町ほど歩いたところで、後ろから調子の良い声がかかった。

若い男「あらあら、こんな夜更けに若い娘がひとりで…危ないねぇ。」

 ◯振り返ると街灯の下で書生風の若い男がニヤニヤと笑っているのが見えた。
 ◯つぐみは黙って先を急いだ。

若い男「どこに行くの?」

 ◯若い男はすぐにつぐみの後ろに追いついた。

つぐみ「言えません。」
若い男「情ないなぁ。親切で言ってやってるのに。」
つぐみ「結構です。」

 ◯若い男の全身から甘い柑橘の香りが漂う。中鈴屋の遊女たちもお座敷の後は同じ匂いがした。

つぐみ(たちの悪い酔っぱらいね!)

 ◯つぐみに迷惑がられているにも関わらず、若い男はなおも千鳥足で付きまとう。

若い男「イヤヨイヤヨもスキのウチ〜なんてね♪」

 ◯若い男がつぐみの尻の辺りに触れると、つぐみはカッとなって大きな声を張りあげた。

つぐみ「ついて来ないでと言っています!」
若い男「お高くとまるなよ…どうせ売女なんだろう?」

 ◯男の猫撫で声が急激に無色に変化する。

若い男「遊郭の大門から出てきたくせに。」

つぐみ(それでは大門から目をつけられていたの? 嫌だ!)

 ◯走りだそうとしたつぐみの頭巾に男が後ろから手をかけた。

若い男「勿体ぶらずに顏を見せてよ…!」
つぐみ「アッ!」

 ◯強引に頭巾を奪い取られたつぐみが振り返ると、ほろ酔いかげんで赤かった男の顔が一気に青ざめた。

若い男「バ、バケモノ!!」
つぐみ「すみません、これは生まれつきの…。」
 
 ◯若い男がおもむろに屈んで石を投げてきた。

 ドガッ!

若い男「ブスが、期待させやがって!」
つぐみ「ッ‼」

 ◯至近距離で投げつけられた石はつぐみの額を強打し、包帯の布に血が滲んだ。

若い男「この野郎! 酔が醒めちまったじゃねぇか!!」
つぐみ「…ごめん…なさい。」

 ◯つぐみは投げつけられた石の痛みよりも、例えようのない胸の息苦しさに慄いた。

つぐみ(憎い。男への怒りよりも、(つぐみ)という存在が不条理なこの世に生を受けたことが千倍も憎い。)

 〇つぐみは破裂しそうにバクバクする心臓に鞭を打って、阪本家への道程を急いだ。

 ♢

 ◯洋風の白木で造られた阪本病院。昼間は老若男女問わず人々が出入りしている。
 ◯地元の人間なら知らないものなどいない稀代の名家。裏手には豪奢な日本家屋が併設されている。
 ◯つぐみは、日本家屋の門の横に生えている柳の木の下までたどり着いた。

つぐみ(あとは阪本さまに会うだけね。)

 ◯深呼吸をしてから呼び鈴のある門に近づいたつぐみは、一瞬にして希望を失った。

つぐみ「なぜ…?」

 ◯昼に訪れた時、阪本家の門を守る大きな黒い犬は門の外側に繋がれていたのだが、なぜか今日は門の内側の柱に繋がれていた。
 ◯あいにく家の呼び鈴は犬の真後ろの柱に設置されている。
 ◯案の定、つぐみの足音を聞きつけた黒い犬が、ムクリと起き上がってこちらに聞き耳を立てている。
 ◯太い金属の鎖につながれているとはいえ、その圧倒的な守りの姿勢はつぐみを脅かすには十分だった。

つぐみ(今帰れば閉門の時間に間に合うわ。このまま帰ろう。)

 ◯そう思って後ずさりしたつぐみは、真後ろに立っていた白髪の老婆に気づかずにぶつかった。

つぐみ「キャッ! あ、ゴメンなさい…。」

 ◯つぐみが驚いて跳ね上がると、紋付の黒留袖姿の老婆は充血した目を細めた。
 ◯老婆は足を引きずりながら、ゆっくりとつぐみに近づく。

つぐみ「お怪我はありませんか?」
老婆「この家にさぁ…。」

 ◯つぐみの言葉を無視した老婆は、皺だらけの骨ばった指をスッと上げて阪本家を指さした。

老婆「入りたい、入りたいんだよぉ…。」

 ◯魚眼レンズで覗いたように、飛び出た左右の眼球が斜視になっている特異な容姿。
 ◯地の底から低く唸るような老婆の声に恐れを抱きながらも、つぐみは平常心で対応することを心掛けた。

つぐみ(見た目で判断するのはよくないこと。親切にしなきゃ!)
 
つぐみ「私もこちらに用があるのですが、あの犬は怖いですよね。
 日を改めて来てみたらどうでしょうか?」

 ◯老婆はつぐみの姿を捉えると、目を見開いた。

老婆「アンタ…能力持ちだねぇ? 」
つぐみ「え?」

 ◯すると老婆は信じられないほど素早くつぐみの真正面に立ち、いきなり肩を力強く鷲掴みにして揺り動かした。

老婆「何とかしてくれおくれよぉ! 今すぐに・今すぐに入りたいんだよぉぉ‼」

 ◯態度が急変した老婆の態度に驚きつつ、つぐみはその勢いに気圧されて頷いた。

つぐみ「わ、分かりました。やってみます…。」
老婆「早く、早くだよぉ!」
つぐみ「はい、今すぐに!」

 ◯つぐみは犬対策にと事前に用意していた肉の骨を風呂敷包みから取り出した。
 中鈴屋の厨房のくず入れから密かにくすねてきたものだった。

 ◯冷や汗で脇がじんわりするのを感じながら、つぐみは肉の骨を犬の前で振りながら近づく。

つぐみ「そなたは賢い犬よね。そら、ごちそうですよ。」
犬「ウー…。」

 ◯つぐみの願いとは裏腹に、近づくにつれ黒い犬が歯をむき出して低い唸り声を漏らした。

つぐみ(これ以上は恐ろしくて近づけないわ。ならば一か八か…。)

 ◯つぐみは手に持っていた骨を犬の鼻先に近づけて充分に引きつけてから、門の横の草むらに思い切り放り投げた。

 ◯肉片を撒き散らしながら骨が宙に舞う。

つぐみ「シッシ! 行きなさい!!」
 
 ◯犬はそちらに一瞬気を取られたものの、すぐにけたたましく吠えて急転回した。
 そして、呼び鈴目がけて力の限り走っていたつぐみの背中を目がけて襲いかかった。

犬「ワワワン‼」
つぐみ「キャッ!」

 ◯つぐみは勢いよく硬い地面に押し倒され、もんどりを打って体を丸くした。

犬「ガルルル‼」

 ◯つぐみに馬乗りになった犬は容赦なくつぐみの着物の小袖に噛みつき、太くて長い牙を布に食いこませる。
 ◯無情にも着物の小袖がビリビリ裂かれてつぐみは思わず悲鳴をあげた。

つぐみ「アアアア…!!」

つぐみ(噛み殺される!)

 ◯つぐみが死を意識して目を閉じた瞬間、鋭い声が空を切った。

鷹次郎「斑丸、待てッ!」

 ◯その声にあっさりと犬がつぐみから離れた。

鷹次郎「そちらさんは違う。侵入者を追え!」

 ◯つぐみが恐るおそる目を開けると、あの弱々しかった老婆が恐ろしい速さで風を切って門をすり抜けて走っていた。

つぐみ「お婆さん…!?」

 ◯黒い犬がどんどん速度を上げて老婆に追いつき、猛然とその背中に飛びかかると肩甲骨に鋭い牙を打ち立てる。

犬「ガウウウッ‼」
老婆「イヒヒィ‼」

 ◯犬が頭を振りながら老婆に噛みつき振り回すと、悲鳴を上げた老婆の頭から角が生えてその顔つきや姿形は悪鬼そのものになった。

悪鬼「離せ、犬コロが‼」
つぐみ「⁉」

 ◯その時、男性の呪文を唱える低い声が辺り一帯に木霊した。

男性「急々如律令!」

 ◯悪鬼は白く仄光る呪文の網に絡め取られた。

悪鬼「おのれ阪本家! 末代まで祟ってやるからなぁ‼」

 ◯呪いの言葉を吐いた悪鬼の顔にピキピキとヒビが入り、あっという間に木っ端みじんに土の上に散らばった。

鷹次郎「言われなくとも、呪われている。」

 ◯皮肉気な声につぐみが目を凝らして暗闇を見つめると、紺色の着流しを着た中肉中背の男性があの恐ろし気な犬を服従させて、白い腹を撫でている。

つぐみ「何が起こったというの…?」
鷹次郎「おまへさんは普通の人間だね。悪鬼に利用されただけか。」

 ◯黒縁眼鏡から覗く切れ長の瞳に薄い唇。
 目の前に居たのは、つぐみが探し求めていた鷹次郎だった。



 ◯腰を抜かして草の上に座り込んでいたつぐみは鷹次郎に助け起こされた。
 ◯鷹次郎は犬に小袖を引きちぎられて露わになったつぐみの手首を両手で包むように触れた。

鷹次郎「脈は速いが一時的なものかな。痛むところは?」
つぐみ「幸い、袖ひとつで済みました。」

 ◯気色ばんだ鷹次郎は破れた小袖を犬の口から取り返すと、つぐみに頭を下げた。

鷹次郎「申し訳ないことをしました。
 今日は正門の方位が吉凶入り混じる不思議な日だったので班丸を置いていたのだが、まさかこんなことになるとは。
 人間には飛びつかないように言っておいたのだが、おまへさんが悪鬼の仲間に見えたらしい。」

つぐみ(あれが悪鬼?)

 ◯鷹次郎の言葉にまさかとは思いつつ、今見た化け物を表す言葉としてはしっくり来た。

つぐみ「私、お婆さんを助けたくて…。」
鷹次郎「鬼は簡単に人の心の中に入り込んで騙すんです。でも、鬼本来の姿が見える人は少ない。
 だから、今夜のことはあまり人には話さない方がいいでしょう。」

 ◯どうせ妓楼で世間話をする友だちは鷲男くらいだ。
 ◯つぐみがコクリと頷くと、鷹次郎はつぐみの手を取って破れた小袖を持たせた。

鷹次郎「着物は弁償します。」

 ◯つぐみは慌てて渡された小袖を背中に隠した。

つぐみ「お気になさらずに! 急用があるとはいえ、こんな時分に他人さまの家の呼び鈴を押そうとした私が悪いのですから。日をあらためて来るべきでした。」 
鷹次郎「それではこちらも納得がいかない。せめて着物代と治療費の請求はしてください。幸い、うちは医者ですから遠慮はなさるな。」

 ◯鷹次郎はもう一度丁寧に頭を下げ、憂鬱そうな表情を浮かべた。

鷹次郎「しかし…こんな夜分に若い娘さんがうちに何の用だったのですか?」
つぐみ「あ、そうでした!」

 ◯つぐみは慌てて胸元から一通の手紙を出して差し出した。

つぐみ「実は、私は阪本さまが先日いらした中鈴屋の下女です。
 ひばり太夫の手紙を言付かっておりまして、今日は返事も頂けと仰せつかっております。」
鷹次郎「ああ、遊郭の!」

 ◯封筒を受け取った鷹次郎はつぐみの目の前で封を開け、サッと中身を読んで眉根を寄せる。
 つぐみは、鷹次郎の様子に不安を煽られた。

つぐみ(もしかしたら、恋文の文面がおかしいのかしら?)

鷹次郎「お尋ねしたい。」

 ◯やきもきしながら待っていたつぐみに、鷹次郎がようやく恋文から目を離して口を開いた。

鷹次郎「おまへさんはひばり太夫と親しい間柄なのですか?」

 ◯思わず義理妹だと口をすべらせそうになり、ひばりの嫌がる顔を思い浮かべたつぐみは慌てて言い直した。

つぐみ「いも…はい、親しくさせていただいています。」
鷹次郎「では、もう一つ教えてほしい。」
 
 ◯鷹次郎は苦しそうな表情で胸の内を明かした。

鷹次郎「本当にこの手紙はひばり太夫が書いたものですか?」