「じゃあ、これで端材の木材をつかった、リサイクル工作のブースの説明は終わり。どうかな、君たちも運営に参加してみないか?」
駅前商店街の中央にある振興組合の事務所に、俺と先輩はちょこんと座って、おじさんたちから説明を受けていた。
先輩は心配そうな顔で俺の顔をちらちらとみてくる。
その顔は参加してみたいんですね。身を乗り出して熱心に聞いてましたね。分かりました。俺は目で先輩に頷いてから、先に「分かりました。参加させてください」と挨拶し、先輩も「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「端材を家の形に見立てて子供たちにペイントしてもらって、それを集めて自分たちの夢の街のオブジェにして駅前広場の壁に貼り付ける。夢があるなあって思いました。自分たちの住む街に愛着も持てるし、大きくなってもそこに自分の作品が並んでるのを見ながら駅を使えて、なんかいいなって思いました」
「そうか。ありがとうね。キタさんが君たちを誘ってみたらどうかって熱心でねえ。雨の中も清掃活動に参加してくれたらしいね。熱意ある若者がいるって嬉しそうでねえ」
「ありがとうございます」
キタさんというのは前回俺と先輩が参加した清掃活動の時、事務所で色々話をしてくれたおじいちゃんの事らしい。商店街では知らない人はいない老舗酒屋の名物店主で、先輩の事をいたく気に入っている感じだった。お前たち成人したら俺の店で一番いい酒をのませてやるからなとかいってたっけ。
「じゃあ、俺たちはこれで」
挨拶をして立ちあがろうとした俺たちを、振興会ジャンバーをおじさんは尚も引き留めようとしてくる。
「せっかくだから、一緒にキタさんの店に顔をだしてみないか?」
先輩が「そうですか」とかほいほいと頷きそうになったから、俺は机の下で膝の上に置かれていた先輩の手をぎゅっと握った。
先輩がぴくっと肩を揺らす。大胆剛毅な先輩だけど、こんな風に触れられるのは慣れていないみたいで、いちいち可愛い反応をしてくれるからたまらない。
ねえ、先輩。
俺たちは二時間前に恋人同士になったばかりなんだから。俺は今すぐにでも、先輩と二人きりになりたい。
先輩が俺を紫陽花の咲く遊歩道まで連れ去ってくれて、俺たちは思いを通じ合わせられた。
幸せで、早く二人っきりになりたくて。先輩が俺に問いかけてくれて……。そのあと急に始まった。
「お前! 委員会さぼった上に俺の連絡全然見てないだろ! 学校に商店街の人たちからイベントのボランティアスタッフをしてみないかって要請があって、今日の四時半からその打ち合わせの約束だったんだよ!」
そういえば……。前回の雨の日の清掃活動の帰り際、先輩は商店街のおじいちゃんにものすごく気に入られて、握手までしてなんか色々話をされていたなあと思いだす。
先輩は、無自覚の人たらしだ。俺自身が身をもって体験しているからよくわかる。
それは老若男女問わずに発動される魅力のようだ。礼儀正しくて、姿勢が良くて、話し方も柔和で、温かい笑顔がすごく可愛い。
まあ、先輩は誰がどう見ても孫や息子にしたい好青年ナンバーワンであることは間違いない。
「今日は俺を優先してくれないの? 恋人同士になったばっかだよ」
そんな風に言ったらきっと先輩は困った顔をして、なんとか俺の事を優先しようとするかもしれない。
でもそれじゃダメなんだ。
俺が目指しているのは、先輩が自由に伸び伸びと、先輩らしくいられる場所で生きてくれるのを、一番傍で見守ること。
本音を言えば、ずっとずっと、手に入れたかった人がやっと俺の掌の上まで来てくれたんだ。
ぎゅっと握りしめて、どこにも行かせたくない。
俺だけ見て欲しい。
離れていた時間、会えなかった時間、先輩がどんなふうに今の先輩になったのか何もかも知りたい。
そして、これから大人になるまでに経験する何もかもを、全て先輩と一緒に手を繋いで乗り越えていきたい。
ふいに先輩が俺の手を握り返してくれた。力強く温かい手、胸の中にじわっと安堵が広がる。
「すいません、俺たちこれから用事があるんです。どうだよな? 唯」
はっきりとそう断って、先輩はすくっと立ち上がる。先輩の立ち姿はいつでも潔く、格好が良くて。俺は見惚れてしまう。
先輩は俺を見下ろして、にっこり笑う。ああ、この笑顔。本当にズルい。これだけで俺は天まで上るような気分になったけど、先輩に悪いと、人目を一応気にして、俺の方からつないだ手を離してしまった。
「また改めて伺います」
俺も立ち上がる。挨拶をして頭を下げたのは先輩とほぼ同時で、おじさんに「仲がいいなあ」と感心するように褒められた。
電車に乗って、俺たちの最寄り駅の隣のターミナル駅で降りる。
今日も帰りに「陽だまり」による用事があるんだろう。先輩は部活をしていなくても十分に忙しそうだ。なんとなく先を歩く先輩の半歩後ろを歩いていたら、「んっ」と手を伸ばされた。
暗くなってきたとはいえ、ここは最寄り駅にもほど近い。制服姿で手なんか繋いで歩いていたら、誰に目撃されるか分からない。陽だまりに行くのはあの日以来、躊躇した俺の手を、一歩踏み込んだ先輩が手を伸ばして、指と指を絡めて握ってきた。
「へへ。恋人繋ぎだな」
街灯の下、照れた顔が俺を見上げてる。あー、もう。この人は。なんでこんなに人を喜ばせるのが上手いんだろう。
隣を歩く、今日は雨が降っていない。暗い藍色の空にはもう星が白く光る。
「なあ、さっき話が途中になったよな」
こんな風に大胆に手を繋いできた人とは思えない、消え入りそうな小さな声だ。
「あのさあ……」
先輩が聞きたいことは大体わかっている。あれだろう。今までも何度も俺のスマホをちらちらとみてはもの問いたげな視線を送ってきていた。いつ質問されるかな? と思っていたけど、聞かれないまま今まで来た。
「なあ、北門」
「なんですか?」
「お前さあ、俺がうちの高校にいるって、知ってて受けたの?」
先にそっちを聞かれたか。俺はこくっと頷いた。
そうです。答えは「はい」。先輩の進学先は知っていました。
中学三年間は大体ずっと家がごたついていて、隣の区に引っ越したから転校もしたから、俺は学力的に、今の高校に来るのは結構大変で、だけど勉強に没頭できることは色々とメリットもあった。
一つは、先輩と再会できることは、俺の人生の目標の一つになっていたから。
もう一つは、受験勉強を理由に、SNSも全てシャットダウンして、しつこく誘ってくる女子の連絡を全て断ち切れたから。
「入学した後、先輩を探すの結構大変でしたよ。学年が違うとクラスも分からない。入るつもりもないのに、バスケ部に見学にまでいきましたし」
「え、北門、バスケ部に見学に行ったのか?」
「はい。先輩を探すのに手っ取り早いと思ったんです。だけど先輩がいなかったから、どうしたんだろうって思いました」
「わー。そうだったのか」
先輩がバスケ部にいないのは意外だった。サッカーは好きだけど、いっそ同じ部活に入ったら接点が持てるとまで思っていたから、計画が大きく狂ってしまった。先輩の情報を探すのはやっぱり、SNSの力を借りた方が早い。先輩のクラスや今彼女がいるかどうかなんかはどうしても知りたい。先輩みたいに素敵な人は、恋人がいる可能性だって高い。
だとしたら……、友達でもいいから、まずは先輩の一番傍に行きたい。
登録し直して、クラスメイトに連絡先を教えたら、色々と面倒なことが起った。
高校から知り合った女子や、それ以外にも中学の後輩伝いに俺のアカウントを知った女子からDMがひっきりなしに送られてきた。
先輩のクラスは分かった。だがなんの理由もなくいきなり下級生の男が訪ねていけるはずもない。
どうしたらいいのか考えあぐねて、仲立ちになりそうな二年生の女子と連絡先を交換したら、そこからはさらに女子の連絡が増えて、待ち伏せまでされるようなって辟易していた。
『北門ってさ、中学の時、高校生と付き合ってたんでしょ?』
そんな風に面と向かって言われたこともある。過去の所業を知っている女子もいる。
先輩は正義感が強くて、潔癖そうだ。俺と出会う前に先に俺の良くない噂が耳に入ったりしたら、軽蔑されて親しくなる以前に拒絶される可能性だってある。
でも、後輩の一人としてなら、過去に中学で出会っていたと分かったら……。
面倒見のいい先輩は世話をやこうとしてくれるかもしれない。友達としてなら、友達として……。
サッカー部に入ることにして、校庭をランニングしていた時、沢山の友人と帰っていく先輩の姿を見かけた。
部活の最中でなければ追いかけて行って、中学の後輩でしたとかなんとかいって、連絡先を聞き出すことだってできたのに。
俺はその時スマホを持っておらず、立ち尽くして。
桜の花びらだけが舞う中で帰っていく先輩の背中を見つめることしかできなかった。
先輩の去年のクラスメイトだという、女子の先輩が燈真先輩との接点になってくれると言われた。
少しでいいから先輩への道筋をつけたかった俺は、その先輩とやり取りを続けた。カフェに行こうと言われたら行ったし、一緒に帰ろうと言われたら帰った。
一向に先輩との連絡を繋いでもらえず、そうしているうちにその先輩から告られた。
もちろん断った。彼女からの連絡は当然なくなり、ブロックされて、俺はまた色々が嫌になってきた。
授業中、同じ校舎のどこかに先輩がいるというのに、会おうと思えば数分で抱きしめることだってできるだろうに。
俺と先輩の距離は遠い。俺と繋がりたい、仲良くなりたいという相手も何人もいた。もちろんクラスメイトどまり、サッカー部の友人どまりだったら歓迎した。先輩も周りの人を大切にするから、俺もそういう風に生きてみたかった。
だけど、どうしても見返りを求めてくるような接し方をさせると、過去の記憶が蘇って、俺は人間を嫌いになってしまいそうになった。
人の温もりや人を信じることの素晴らしさを教えくれたのは先輩で、先輩に近づきたいのに近づこうとすればするほど、俺は人の暗い側面も嫌でも目にすることになる。
助けて。燈真先輩。
俺の守護天使。
あの日怒りに震えながら周りの人を正して、俺を勇気づけてくれた貴方なら、また暗い所へ沈んでいこうとする俺を明るい方へ引っ張り上げてくれるんじゃないか。
だからあの日。
美化委員会の教室に先輩が入ってきた時、俺がどれほど嬉しかったか、どれほど興奮したか。
先輩には分かる?
どうしても先輩の傍に行きたかった。どうしても先輩に俺を見つけてもらいたかった。
どうする、どうしたらいい。
美化委員会なんて外れの委員を引き受けて、みんなやる気もなくスマホを手にしている。でも先輩はいつも通り、堂々と背筋をピンと伸ばした姿勢で、みんなに呼びかけている。
綺麗な顔なのに、髪型がいまいちなせいか、生意気な一年生に絡まれていた。そいつらは先輩がどんな人なのかわかっていないから、言いたい放題だ。先輩は怒ることもなく、鷹揚に話を聞いている。口元には微笑みさえ浮かべていて、目は気力が漲っている。そいつらをしっかりと睨みつけた美しい目にぞくぞくとした。
ああ、俺の知っている先輩のままだ。この目、厳しくも温かいこの強い眼差し。
俺を勇気づけてくれる、世界でたった一人の人。
普段なら争いごとに首を突っ込むなんてそんな愚かな真似はしない。面倒だし、やりたくはない。
だけど先輩を侮るような態度を見せられたら、俺は黙ってはいられない。先輩は驚いて、ちょっとあっけにとられたような顔をして、でも少し嬉しそうだった。
その顔を見られただけでも、声を上げた意味があった。
先輩の声はあの頃より低くなって、でも低すぎずによく通る。いつの間にか皆先輩の話に耳を傾けていた。
ああ、きっとまた。先輩を好きになった人が増えただろう。この人は、本当に素敵な人で、俺のロールモデルで、でも先輩とまるっきり同じになりたいわけじゃない。
顔を見て思った。やっぱり俺あの時、先輩に恋をした。
友達じゃダメなんだ。ただの後輩じゃダメなんだ。
恋人になりたい。この人の唯一になって、この人とずっと一緒にいられる、資格が欲しい。
そしてもう、俺が暗い方へ歩まないように、その光で弱い俺を照らし続けて欲しい。
俺はスマホを手に取った。唯一持っていた先輩の写真。手元が狂わないように真剣に、ロック画に写真を据えた。
正気じゃないだろ、こんなことして。
でもいい。これは賭けだ。
スマホを置いて教室を出る。最後に先輩の姿を目に焼き付ける。友達と喋って、明るい笑顔を見せる。
その顔を俺だけに見せて。俺だけに微笑んで。
本音をぐっと胸に押し殺す。この欲を飼いならして大人の男になって、貴方の傍に立てる強い人間になる。
それが俺の決意。
先輩が俺のスマホを手に取って、俺の元に駆けよってくる。
その一瞬の絆を、俺は絶対に放しはしない。
「俺のロック画見た時、どう思いましたか?」
「あ、ええと……、お前さあ」
肩を引き寄せる。
薄暗い夕暮れの道、先輩の可愛い耳が真っ赤になっているのが見えない。それが残念だ。
終
駅前商店街の中央にある振興組合の事務所に、俺と先輩はちょこんと座って、おじさんたちから説明を受けていた。
先輩は心配そうな顔で俺の顔をちらちらとみてくる。
その顔は参加してみたいんですね。身を乗り出して熱心に聞いてましたね。分かりました。俺は目で先輩に頷いてから、先に「分かりました。参加させてください」と挨拶し、先輩も「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「端材を家の形に見立てて子供たちにペイントしてもらって、それを集めて自分たちの夢の街のオブジェにして駅前広場の壁に貼り付ける。夢があるなあって思いました。自分たちの住む街に愛着も持てるし、大きくなってもそこに自分の作品が並んでるのを見ながら駅を使えて、なんかいいなって思いました」
「そうか。ありがとうね。キタさんが君たちを誘ってみたらどうかって熱心でねえ。雨の中も清掃活動に参加してくれたらしいね。熱意ある若者がいるって嬉しそうでねえ」
「ありがとうございます」
キタさんというのは前回俺と先輩が参加した清掃活動の時、事務所で色々話をしてくれたおじいちゃんの事らしい。商店街では知らない人はいない老舗酒屋の名物店主で、先輩の事をいたく気に入っている感じだった。お前たち成人したら俺の店で一番いい酒をのませてやるからなとかいってたっけ。
「じゃあ、俺たちはこれで」
挨拶をして立ちあがろうとした俺たちを、振興会ジャンバーをおじさんは尚も引き留めようとしてくる。
「せっかくだから、一緒にキタさんの店に顔をだしてみないか?」
先輩が「そうですか」とかほいほいと頷きそうになったから、俺は机の下で膝の上に置かれていた先輩の手をぎゅっと握った。
先輩がぴくっと肩を揺らす。大胆剛毅な先輩だけど、こんな風に触れられるのは慣れていないみたいで、いちいち可愛い反応をしてくれるからたまらない。
ねえ、先輩。
俺たちは二時間前に恋人同士になったばかりなんだから。俺は今すぐにでも、先輩と二人きりになりたい。
先輩が俺を紫陽花の咲く遊歩道まで連れ去ってくれて、俺たちは思いを通じ合わせられた。
幸せで、早く二人っきりになりたくて。先輩が俺に問いかけてくれて……。そのあと急に始まった。
「お前! 委員会さぼった上に俺の連絡全然見てないだろ! 学校に商店街の人たちからイベントのボランティアスタッフをしてみないかって要請があって、今日の四時半からその打ち合わせの約束だったんだよ!」
そういえば……。前回の雨の日の清掃活動の帰り際、先輩は商店街のおじいちゃんにものすごく気に入られて、握手までしてなんか色々話をされていたなあと思いだす。
先輩は、無自覚の人たらしだ。俺自身が身をもって体験しているからよくわかる。
それは老若男女問わずに発動される魅力のようだ。礼儀正しくて、姿勢が良くて、話し方も柔和で、温かい笑顔がすごく可愛い。
まあ、先輩は誰がどう見ても孫や息子にしたい好青年ナンバーワンであることは間違いない。
「今日は俺を優先してくれないの? 恋人同士になったばっかだよ」
そんな風に言ったらきっと先輩は困った顔をして、なんとか俺の事を優先しようとするかもしれない。
でもそれじゃダメなんだ。
俺が目指しているのは、先輩が自由に伸び伸びと、先輩らしくいられる場所で生きてくれるのを、一番傍で見守ること。
本音を言えば、ずっとずっと、手に入れたかった人がやっと俺の掌の上まで来てくれたんだ。
ぎゅっと握りしめて、どこにも行かせたくない。
俺だけ見て欲しい。
離れていた時間、会えなかった時間、先輩がどんなふうに今の先輩になったのか何もかも知りたい。
そして、これから大人になるまでに経験する何もかもを、全て先輩と一緒に手を繋いで乗り越えていきたい。
ふいに先輩が俺の手を握り返してくれた。力強く温かい手、胸の中にじわっと安堵が広がる。
「すいません、俺たちこれから用事があるんです。どうだよな? 唯」
はっきりとそう断って、先輩はすくっと立ち上がる。先輩の立ち姿はいつでも潔く、格好が良くて。俺は見惚れてしまう。
先輩は俺を見下ろして、にっこり笑う。ああ、この笑顔。本当にズルい。これだけで俺は天まで上るような気分になったけど、先輩に悪いと、人目を一応気にして、俺の方からつないだ手を離してしまった。
「また改めて伺います」
俺も立ち上がる。挨拶をして頭を下げたのは先輩とほぼ同時で、おじさんに「仲がいいなあ」と感心するように褒められた。
電車に乗って、俺たちの最寄り駅の隣のターミナル駅で降りる。
今日も帰りに「陽だまり」による用事があるんだろう。先輩は部活をしていなくても十分に忙しそうだ。なんとなく先を歩く先輩の半歩後ろを歩いていたら、「んっ」と手を伸ばされた。
暗くなってきたとはいえ、ここは最寄り駅にもほど近い。制服姿で手なんか繋いで歩いていたら、誰に目撃されるか分からない。陽だまりに行くのはあの日以来、躊躇した俺の手を、一歩踏み込んだ先輩が手を伸ばして、指と指を絡めて握ってきた。
「へへ。恋人繋ぎだな」
街灯の下、照れた顔が俺を見上げてる。あー、もう。この人は。なんでこんなに人を喜ばせるのが上手いんだろう。
隣を歩く、今日は雨が降っていない。暗い藍色の空にはもう星が白く光る。
「なあ、さっき話が途中になったよな」
こんな風に大胆に手を繋いできた人とは思えない、消え入りそうな小さな声だ。
「あのさあ……」
先輩が聞きたいことは大体わかっている。あれだろう。今までも何度も俺のスマホをちらちらとみてはもの問いたげな視線を送ってきていた。いつ質問されるかな? と思っていたけど、聞かれないまま今まで来た。
「なあ、北門」
「なんですか?」
「お前さあ、俺がうちの高校にいるって、知ってて受けたの?」
先にそっちを聞かれたか。俺はこくっと頷いた。
そうです。答えは「はい」。先輩の進学先は知っていました。
中学三年間は大体ずっと家がごたついていて、隣の区に引っ越したから転校もしたから、俺は学力的に、今の高校に来るのは結構大変で、だけど勉強に没頭できることは色々とメリットもあった。
一つは、先輩と再会できることは、俺の人生の目標の一つになっていたから。
もう一つは、受験勉強を理由に、SNSも全てシャットダウンして、しつこく誘ってくる女子の連絡を全て断ち切れたから。
「入学した後、先輩を探すの結構大変でしたよ。学年が違うとクラスも分からない。入るつもりもないのに、バスケ部に見学にまでいきましたし」
「え、北門、バスケ部に見学に行ったのか?」
「はい。先輩を探すのに手っ取り早いと思ったんです。だけど先輩がいなかったから、どうしたんだろうって思いました」
「わー。そうだったのか」
先輩がバスケ部にいないのは意外だった。サッカーは好きだけど、いっそ同じ部活に入ったら接点が持てるとまで思っていたから、計画が大きく狂ってしまった。先輩の情報を探すのはやっぱり、SNSの力を借りた方が早い。先輩のクラスや今彼女がいるかどうかなんかはどうしても知りたい。先輩みたいに素敵な人は、恋人がいる可能性だって高い。
だとしたら……、友達でもいいから、まずは先輩の一番傍に行きたい。
登録し直して、クラスメイトに連絡先を教えたら、色々と面倒なことが起った。
高校から知り合った女子や、それ以外にも中学の後輩伝いに俺のアカウントを知った女子からDMがひっきりなしに送られてきた。
先輩のクラスは分かった。だがなんの理由もなくいきなり下級生の男が訪ねていけるはずもない。
どうしたらいいのか考えあぐねて、仲立ちになりそうな二年生の女子と連絡先を交換したら、そこからはさらに女子の連絡が増えて、待ち伏せまでされるようなって辟易していた。
『北門ってさ、中学の時、高校生と付き合ってたんでしょ?』
そんな風に面と向かって言われたこともある。過去の所業を知っている女子もいる。
先輩は正義感が強くて、潔癖そうだ。俺と出会う前に先に俺の良くない噂が耳に入ったりしたら、軽蔑されて親しくなる以前に拒絶される可能性だってある。
でも、後輩の一人としてなら、過去に中学で出会っていたと分かったら……。
面倒見のいい先輩は世話をやこうとしてくれるかもしれない。友達としてなら、友達として……。
サッカー部に入ることにして、校庭をランニングしていた時、沢山の友人と帰っていく先輩の姿を見かけた。
部活の最中でなければ追いかけて行って、中学の後輩でしたとかなんとかいって、連絡先を聞き出すことだってできたのに。
俺はその時スマホを持っておらず、立ち尽くして。
桜の花びらだけが舞う中で帰っていく先輩の背中を見つめることしかできなかった。
先輩の去年のクラスメイトだという、女子の先輩が燈真先輩との接点になってくれると言われた。
少しでいいから先輩への道筋をつけたかった俺は、その先輩とやり取りを続けた。カフェに行こうと言われたら行ったし、一緒に帰ろうと言われたら帰った。
一向に先輩との連絡を繋いでもらえず、そうしているうちにその先輩から告られた。
もちろん断った。彼女からの連絡は当然なくなり、ブロックされて、俺はまた色々が嫌になってきた。
授業中、同じ校舎のどこかに先輩がいるというのに、会おうと思えば数分で抱きしめることだってできるだろうに。
俺と先輩の距離は遠い。俺と繋がりたい、仲良くなりたいという相手も何人もいた。もちろんクラスメイトどまり、サッカー部の友人どまりだったら歓迎した。先輩も周りの人を大切にするから、俺もそういう風に生きてみたかった。
だけど、どうしても見返りを求めてくるような接し方をさせると、過去の記憶が蘇って、俺は人間を嫌いになってしまいそうになった。
人の温もりや人を信じることの素晴らしさを教えくれたのは先輩で、先輩に近づきたいのに近づこうとすればするほど、俺は人の暗い側面も嫌でも目にすることになる。
助けて。燈真先輩。
俺の守護天使。
あの日怒りに震えながら周りの人を正して、俺を勇気づけてくれた貴方なら、また暗い所へ沈んでいこうとする俺を明るい方へ引っ張り上げてくれるんじゃないか。
だからあの日。
美化委員会の教室に先輩が入ってきた時、俺がどれほど嬉しかったか、どれほど興奮したか。
先輩には分かる?
どうしても先輩の傍に行きたかった。どうしても先輩に俺を見つけてもらいたかった。
どうする、どうしたらいい。
美化委員会なんて外れの委員を引き受けて、みんなやる気もなくスマホを手にしている。でも先輩はいつも通り、堂々と背筋をピンと伸ばした姿勢で、みんなに呼びかけている。
綺麗な顔なのに、髪型がいまいちなせいか、生意気な一年生に絡まれていた。そいつらは先輩がどんな人なのかわかっていないから、言いたい放題だ。先輩は怒ることもなく、鷹揚に話を聞いている。口元には微笑みさえ浮かべていて、目は気力が漲っている。そいつらをしっかりと睨みつけた美しい目にぞくぞくとした。
ああ、俺の知っている先輩のままだ。この目、厳しくも温かいこの強い眼差し。
俺を勇気づけてくれる、世界でたった一人の人。
普段なら争いごとに首を突っ込むなんてそんな愚かな真似はしない。面倒だし、やりたくはない。
だけど先輩を侮るような態度を見せられたら、俺は黙ってはいられない。先輩は驚いて、ちょっとあっけにとられたような顔をして、でも少し嬉しそうだった。
その顔を見られただけでも、声を上げた意味があった。
先輩の声はあの頃より低くなって、でも低すぎずによく通る。いつの間にか皆先輩の話に耳を傾けていた。
ああ、きっとまた。先輩を好きになった人が増えただろう。この人は、本当に素敵な人で、俺のロールモデルで、でも先輩とまるっきり同じになりたいわけじゃない。
顔を見て思った。やっぱり俺あの時、先輩に恋をした。
友達じゃダメなんだ。ただの後輩じゃダメなんだ。
恋人になりたい。この人の唯一になって、この人とずっと一緒にいられる、資格が欲しい。
そしてもう、俺が暗い方へ歩まないように、その光で弱い俺を照らし続けて欲しい。
俺はスマホを手に取った。唯一持っていた先輩の写真。手元が狂わないように真剣に、ロック画に写真を据えた。
正気じゃないだろ、こんなことして。
でもいい。これは賭けだ。
スマホを置いて教室を出る。最後に先輩の姿を目に焼き付ける。友達と喋って、明るい笑顔を見せる。
その顔を俺だけに見せて。俺だけに微笑んで。
本音をぐっと胸に押し殺す。この欲を飼いならして大人の男になって、貴方の傍に立てる強い人間になる。
それが俺の決意。
先輩が俺のスマホを手に取って、俺の元に駆けよってくる。
その一瞬の絆を、俺は絶対に放しはしない。
「俺のロック画見た時、どう思いましたか?」
「あ、ええと……、お前さあ」
肩を引き寄せる。
薄暗い夕暮れの道、先輩の可愛い耳が真っ赤になっているのが見えない。それが残念だ。
終



