「燈真、あんたいつにもましてぼーっとしてるねえ」
「へえ?」
仕事が手につかないというのはこういうことなんだ。初めて知ったよ。
北門がうちに立ちよった日から数日。俺は周りから言わせるとバイト先でも学校でも常にぼーっとしているらしい。
もちろん自分でも自覚がある。
気を抜くと「俺は先輩の事が好きです」ってあいつの告白がすぐ、ぐるぐるまわって何してても頭ん中があいつでいっぱいになってしまうんだ。
北門の告白の後、完全に意表を突かれて言葉を失っていた俺に「俺が勝手に好きなだけだから、先輩はそのままでいてください」とかあいつはダメ押ししてきやがった。
俺の気持ちの確認なしか!
……ありがたいような、寂しいような、いやいやいや、ああもうなんだかなあ。
俺はというと……、ああ、ばかばか。あの時にこそロック画の事を聞いておけばよかったんだ。
なあ、北門。やっぱお前ずっと俺の事を好きだからロック画が俺だったってこと?
そう呼びかけたかった。なのにまた聞きそびれた。だめだめな、俺……。
今週に入って月曜・火曜・水曜と北門が7組に訪ねてきてくれた、らしい。
だけど俺はなんかあいつの顔を見るのが恥ずかしくて、あいつを明確に避けて図書室とか空き教室とかに逃げてしまっていた。
だって、人前で顔を見たら多分、クラスの奴らからももろバレな程、俺はおかしな言動をとってしまう自信があるんだから。
ただの先輩後輩じゃないって、誰の目にも明らかになる。だから、しょうがないだろ。
だが俺が北門を避けているっぽいということは、敏感な女子達の目は誤魔化せず即話題になっていたらしい。
席替えで隣になった大人しめな女子に「ふふふっ……、好き避け。尊い」とか呟かれた。え、好き避けってなんだ?
バイトは木曜までなかったから、放課後も部活に行くあいつとは会おうと思わなければ会えない。昇降口に降りて帰る時も、校庭の端を通る時は猛ダッシュで駆け抜けた。学年が違うと相手が訪ねてでも来ない限り、接点がないんだ。
今まで会えてたのは俺に向かって手を伸ばし続けてくれた、あいつの努力。
ただそれだけ。胸がちくりと痛む。
このところスマホの通知を見ると、昼間も夜もあいつからの履歴が凄いことになっていた。途中からメッセージを見るのが怖くてやめた。
ちょっと冷静に考えたいだけなんだ、ちょっとだけそうっとして置いてくれ。
どのみち木曜に会うんだから。
色んな言い訳を繰り返しては、胸が苦しくて、あいつの顔が見たくて、でも引っ込みがつかなくなって眠れない夜を過ごした。
そして今日は木曜日。バイトの後『陽だまり』まで俺の事を迎えに来るらしい。
もはやうむをいわせない、「帰りに迎えに行きます」メッセージの強制力よ……。俺はとりあえずバスケットボールをダムダムするウサギイラストの「了解」スタンプを返しておいた。
でも、時間が近づくにつれ、なんとなくそわそわとして時計ばかりをみてしまう。
うーん。どうしよう。ロック画のことといい、多分俺このまま告白の事も話題に出しそびれたまま、ずっとあいつと波風立てずにいようとするかもなあ。
だけどさ、自分に置き換えてみたとして、好きだって告った相手の返事、普通聞きたいよな。
え、今のままでいいって思ってたら、聞きたくないか? わからん……。
それで……。俺は、あいつになんて返事をしよう。いつもならもっとうまく立ち回れるぐらいにはさ、大人になったって思ってたんだけど。
全然、ダメ。俺はただのクソガキのまんまだ。
「トンマ、スリーオンスリーやろうぜ」
またぼーっとしてしまった。小5の可愛いクソガキにTシャツの背中を引っ張られるけど、今は寺子屋ではなくバイト中だから隣の公園にはいけない。それにもう18時半を過ぎるところだった。ああ、あいつがくるまできっと、一時間もない。
「暗くなったぞ。そろそろ家帰らないと駄目だろ」
「俺、鍵忘れたから、姉ちゃんがここで待ってろって。もうすぐ来るよ」
「そっか。じゃあ、あっちで宿題やれば? みてやるよ」
カランって扉が開いて、冷たく湿った風が店内に吹き込んできた。新メニューの張り紙がかさかさと揺れる。扉の前、黒い折り畳み傘の雫を払っている背の高い姿、数日ぶりの再会なのになんだかとても久しぶりに感じる。
「いらっしゃいませ」
ああ、すごく会いたかったって自然と思えた。自分で避けたくせにな。
こちらを向いた今日の北門は、湿気で少しだけ癖の出た前髪を後ろに流してる。いつもよりさらに大人びて見えて新鮮だ。
白目が青く澄んだ大きな瞳、お互いに少し笑顔を浮かべられたことにほっとした。
「雨で部活早く終わったんです」
「ああ、うん。なんか、飲む?」
俺たちにとって雨はお互いを惹きつける呼び水みたいだなって思って、なに恥ずかしいこと考えちゃってんだ、俺。
「はい」
「じゃ、カウンターでいい?」
下げた食器の乗ったトレイが傾き、コップが落ちそうになったら、すかさず北門が手を伸ばして支えてくれた。
「わあ! あぶない!」
オーナーが叫んで、つられてまた俺は飛び上がりそうになった。今は常連さんばかりだったからいいけど、みんながびっくりするような大声だ。
北門はその間もずっとトレイに手をかけてくれていて、「ありがとな」って礼を言ったらそれには答えず、トレイの手から取り上げてカウンター越しにさっさとオーナーに渡してしまった。
なんだよ、返事ぐらいしろよって思ったんだけど、考えてみたら北門を避けていたのは俺の方だった。
「北門君来てくれてよかったわ。燈真、今日はもうずっとこの調子でそわそわしっぱなしだったんだから」
「オーナー!」
口の軽いオーナーが何を言い出すか分からない。無意識に「あー、北門来ちゃうな、どうしよう」とか呟いたのを地獄耳に聞きとがめられたのが運のつき。なんとなく北門の事をさけていることまで、しつこく聞きだされたのだ。
「あんたたち、喧嘩でもしたの?」
うわああ、ストレートすぎる。この人は、本当にもう。
カウンターに座った北門に、俺は水を置いてメニューを手渡す。目が合ったけどすぐぷいっとそらしてしまった。だって顔見るとなんか恥ずかしいんだよ。
「……俺が変なこといったから、避けられてるんです」
「はあああ?! お前、何言ってんだよ」
北門がこれ以上変なことを言わないように、口を塞ごうとしたら、その手を掴んでぐっと引き寄せられた。耳のすぐ傍に、北門の唇だ。
「俺の事、もう、顔も見たくない?」
ばっと顔を離したら北門の目はもう笑ってない。寂しそうな顔、手はぱっと離された。
まるで心まで突き放されたみたいに。
「そんなわけ、あるかよ」
自分でも思ってもみない程に情けない声が出た。好きな子に振られかけてる男みたいだなって思った。
「じゃあなんで、俺の事避けるの?」
「おい、バイト中だろ。ちょっと、待てって」
ちらっとみたらカウンターの中でオーナーが口元に手を当ててこっちをガン見してる。好奇心を止められないってその顔に書いてある。
「ちょっとだけ、外でていいですか?」
「いいよ」
俺はエプロンを外して席の背にかけると、だらりと下がった北門の腕を引いて外に出た。
俺の傘を差して、北門を入れようとしたらちょっと屈まれた。むむっと唇を尖らせたら、北門が真顔で俺の手ごと、傘の柄を握って持ってくれた。
俺はするり、とその手をすりぬける。
「お前さ、なんなわけ」
「なんなわけって……」
夜雨を吹き付ける風が冷たく、俺は鳥肌を立てた二の腕に手をやった。
「自分の気持ちだけ告ったら、それで終わりかよ」
「……じゃあ、どうすればよかったんですか」
ざーざーざー。
急に激しくなった雨音で北門の声が良く聞きとれない。
「なに?」
「傍にいられたらそれでいいって思ってた。……だけど近くにいたら、触れたくて堪らなくなった。初めて分かったんだ、俺にキスしようとした、先輩の気持ち」
「北門?」
「欲しくてしかたなくて、止められない気持ち」
北門は傘を少し傾げて、ガラスの嵌ったカフェの扉から俺たちの姿を隠すようにする。雨が肩や鼻先に当たる。北門は俺の後頭部に手を差し入れて、ぐっと引き寄せてきた。
ゆっくりと近づいてきた綺麗な顔、俺は反射的に目を閉じる。
うす温かく柔らかいものが一瞬唇に触れて、すぐに雨交じりの風が顔に吹き付けた。
北門は俺のすぐ傍で少しかがんで見下ろしてくる、北門の真剣な眼差し、捉えられたらもう目を逸らせない。ああ、自分でも分かるほどに、高まっていく胸の鼓動がうるさい程だ。
いっそ雨を頭から浴び続けて、頭を冷やしたいぐらいに爆発しそうに身体中が熱い。
「やっぱり、先輩の答えが聞きたい。俺の事……、どう思ってる?」
なんて顔すればいいのか分からない。笑えばいいのか、恥ずかしがればいいのか、怒ればいいのか、だってもう、全部ごちゃ混ぜで、苦しくて、ああ、こいつの名前を大声で叫びたくって……。
「俺は……」
初めての口付け、雨が降る中、傘の下で、後輩からされたキス。
頭の中はもうパニックで、目を見開いた俺は、だけどもう感覚的に気づいていたんだ。
俺、こいつの事、好きだなって。すげぇ、好き。
だって、いやじゃなかった。
雨の中、綿あめみたいに一瞬で溶けて消えたキス。
ざり、道路から少しだけ路地に入る私道には砂利が引かれていて、音で人の気配を感じた俺はぱっと北門から離れて背中が雨に濡れる。
「あ……、すみません」
明るい色の傘を差した制服姿の女性がこちらに近づいて来た。近くまできて、店の街灯の下まできたら、それが小5男子の姉だと気が付く。
俺が「こんばんは、弟君、中にいますよ」って声を掛けたら笑顔で挨拶をしてくれて、そのあとすぐに北門を見て顔を強張らせた。
「……先輩」
「あんた……、やだ、何でここにいんの?」
怒りに満ちた声色に俺が驚いている間に、彼女は傘を折りたたんでやや乱暴に陶器の傘立てに突っ込んだ。
「あら、お帰り」
「オーナー、遅くまでありがとうございました。帰るよ!」
「えー。まだいいじゃん」
「いいから早く来て」
店に飛び込むなり、制服姿の少女は弟を無理やり出入り口まで引っ張ってきた。
「トンマ! また遊ぼうな!」
無邪気な弟と対照的に、姉は俺たちとすれ違いざま、怒りで赤みを帯びた頬をして北門を睨みつける。北門は立ち尽くし、痛いところの傷をさらにえぐられたような苦し気な顔をしていた。
「あーあ。大好きなカフェだったのにもう来れないじゃん。本当、最悪!」
物々しい様子にオーナーもこちら側に出てきて、腕を組み俺たちに説明を求めているような顔つきになった。
「北門……、あの子って……」
はっとして、口に手をやる。
北門が言っていた。二個上の先輩に、無理やりキスをされたことがあるって。
今来た子は俺の一個年上、同中の先輩だ。背筋を冷たい雨の雫が伝う。すごくいやな予感がした。ゴロゴロと、遠くで春雷が鳴る。熱く蕩けた頭が、身体が、一気に冷えていく。
「燈真先輩。……俺、もうここには来ないから」
くらっとして、俺は扉に背中をついた。どうして、え? 今なんていった?
傘もささずに走って路地の向こうに消えていく北門の背中を、バイト中の俺はそのまま見送るしかなかった。
なんなんだ、なんなんだよ。神様。この人生の分岐ルート、必要ですか?
たった数分で、色々と、衝撃がデカすぎる。



