中一まで俺の身長は155㎝ぐらいしかなかった。中学生女子の平均身長だそうだ。その上顔は母親に似て派手め、女子からは美少年とかアイドルみたいと言われて、色々としつこくされ、男子からは女の子みたいな顔だと、それはそれで揶揄われた。
サッカー部でもそれは同じだった。俺の容姿や体格で周りにひけをとりたくなくて、負けたくない一心で、時には周囲にたいして生意気な態度をとったと思う。
一年生ながらレギュラーに選ばれたが、俺の奢った態度とひがみや嫉妬から部内の連絡網からはぶかれてしまった。
あの日は運動部が参加する駅前清掃活動の日だった。朝駅前に集まって清掃活動が終わってから学校に戻って部の活動をするというスケジュールで、駅にいく途中でもう雨が降り出したが、俺のところには中止になったという連絡は来なかった。
リュックを背負い、傘はない。そんな俺を構う人はいなかった。父親は休日は寝てばかりで、母親は年の離れた妹と実家に帰っていてこちらにはいなかった。
自分で買ってきた軍手をつけてビニール袋を手に持って立っていたけど、駅前には誰も来なくて、多分嫌がらせをされたのだろうと早々に悟った。同じクラスにもサッカー部のやつはいたけど連絡はなかった。
濡れながら意地になってゴミを拾った。でもすぐに馬鹿馬鹿しくなって袋を腕に下げた状態で駅前広場のベンチに座り、激しさを増すばかりの雨に打たれていた。
惨めだった。悔しかった。だけど絶対に嫌がらせをしてくる奴らに負けたくはなかった。でもまだ中一だった俺には、あの仕打ちは相当に応えた。
ちょうど家もがたがたしていた時期だった。元々良くなかった両親の仲は壊滅的で、俺が中学を卒業するまではしないとか、そんな理由をつけて離婚を先延ばしにしたくせに、顔を合わせたら口論ばかりだ。
家に居場所がなくて、部活にも居場所がなくて、そんな時にこんなことになった。
この状態で家まで逃げ帰ったらあいつらの思うつぼだ。このまま学校に行って堂々と部活に参加してやる。悪いのはあいつらだ。そんな風に自分を奮い立たせようと膝に置いた拳を握った。
でも立ちあがる気力がでない。世界中が敵に思えて、情けなくて、辛くて、雨じゃない、温い水が頬を伝ってきた。
こらえたかったのに、こらえきれない。でも、もういいかと思った。これだけずぶ濡れなら、俺が泣いていることなんて誰にも分らないだろう。
嗚咽を漏らしそうになって、両手で口を覆う。だけど下を向いていたら急に雨が当たらなくなった。
忘れもしない、あの時の光景。差し出された傘の色は青、あの人のユニフォームは鮮やかな赤。
「なあ、お前。今日清掃活動、ないぞ。誰も教えてくれなかったのか?」
変声期直前の高い声は、少女めいていたが意志の強そうな力強さを秘めていた。
間違えてきている者がいないか、確認に来たバスケ部の親切な副部長。それが燈真先輩だった。
「そうみたいっすね」
この時の燈真先輩に対する態度も最悪だったと思う。ぶっきらぼうに言い捨てて、目もろくに見ないで顔をそむけた。惨めな姿を見られたくなかった、放っておいてほしかった。
だけど同時にどこかで俺を助けてくれる誰かを求めていたのかもしれない。先輩から逃げ、家に帰ることだってできたのに、俺はその場にとどまった。
「泣いてるのか?」
ストレートに聞かれて、「泣いてねぇし!」って怒鳴り返したと思う。その時初めてみた先輩の顔は、黒目がちな目がくりくりとしていて、なんか好奇心旺盛なリスかウサギみたいに見えた。
「おお、元気そうで良かった。じゃあ、帰るぞ。立て」
「帰るって……、どこに?」
「どこにって。学校に決まってるだろ」
立ち上がった俺の腕を、思った以上に強い力で掴まれた。
「行くぞ」
先輩は傘を俺に押し付けて前を歩く。雨が先輩のユニフォームもみるみる濡らしていき、華奢な身体に張り付いていく。普段ならこんな強引さを相手に見せられたら反発するだろう。だけどこの時は弱っていて振り払う気持ちにはなれなかった。雨で冷え切った身体に、先輩の掌から伝わる、そこだけがじわっと熱い。
悔しい、涙があとからあとから零れてしまった。だが同時にさらに熱い何かが胸の中に溢れてきた。
人の体温にこれほど勇気づけられたことはなかった。
燈真先輩から伝わる熱、それはそのまま、この人の心の温かさと情熱そのものに思えた。俺よりはちょっぴりだけ背は高いけど、まだ小さな先輩の背中が、すごく力強く大きく、俺を奮い立たせてくれた。
先輩はそのまま俺をつれて、一旦バスケ部が活動してる体育館に寄った。体育館に入りたくなくて入口脇にいた俺のところに、応援しているチームのロゴが入ったタオルを持ってかけてきた。自分も首からタオルを下げていたけど、着替えもしていない。俺の元にすっ飛んで帰ってきてくれて、タオルを頭から被せてくれる。乾いた布の感触が心地よい。懸命にわし、わしと髪の雫を拭ってくれる手は、ちょっとぶっきらぼうで乱暴だけど、それがこの人らしいなと思った。
「風邪ひくなよ」
盗み見た顔は唇をとんがらせて、必死な感じだ。柔らかそうな唇が赤くて、秋の雨に濡れた頬や鼻先がちょっと薔薇色に色づいていた。それがもの凄く可愛く見えた。同じ男なのにそんな風に自然に思えてしまった自分にちょっと戸惑った。
それから先輩は体育館に向かって「ちょっとサッカー部いってきます!」って叫んで、俺を連れて本当にサッカー部に乗り込んだ。
後から先輩の事を小学生の頃から知っている別の先輩がいっていた。あんなに怖い顔をしたあいつを初めて見たと。
義憤に駆られていたんだろう。俺の腕を掴んだまま、多目的室で筋トレをしていたサッカー部に乗り込むと、部長はずぶ濡れの俺たちを見て、驚きを隠せないようだった。
燈真先輩は有無を言わせぬ口調で部長に食って掛かった。
「おい! こいつになんで今日の清掃活動がないって、誰も教えなかったんだっ」
部長がすぐに「連絡しなかったのか?」と二年生の方を振り返った。ずぶ濡れの俺を見てにやついた奴らは、俺にレギュラーを奪取された奴とその友人だった。
部長の剣幕にそいつらはすぐに目を逸らしていたが、燈真先輩はそれを見逃さなかった。
身長はまだ170センチに到底届いていなかっただろう。だが自分より大きな同級生に食って掛かって、胸倉をつかみ上げてギラギラした目で睨みつけた。
「お前っ! 一年相手にくだらないことしてんじゃねぇよ」
一直線に突き進む、赤いユニフォームを着た燈真先輩はメラメラ燃える火の球みたいに見えた。カッコよかった。それと同時に、涙がまた沸き起こりそうなのを俺は唇を噛み締めて必死にこらえた。
涙で曇らせている場合じゃない。見なければ。
俺の為にこんな風に怒ってくれる人に、人生で初めて出会った。どうしてもこの人の一挙手一投足、見逃がしたくない。
俺に嫌がらせをした先輩も、燈真先輩の勢いに負けて言い訳すらできない様子だった。
先輩は小さな身体で凄んで唸り、殴りでもするのかと思われたのか、慌てて部長が燈真先輩を羽交い絞めにする。その横からサッカー部の、先輩のクラスメイトや友人と思しき数人がすっとんで飛んできた。
「おい、燈真! 何やってんだ」
先輩の声は高いが物凄くよく通ったようだ。燈真先輩の様子が気になって後を追ってきたんだろう。廊下から騒ぎを聞きつけて、バスケ部の部長や部員が押し寄せてきた。その場は両方の部員が入り乱れて、騒然となってしまった。
先輩の人徳だろう。俺に嫌がらせをした相手より、先輩の味方の方がずっと多かった。数で圧倒するとか、カッコいいとは言えないのかもしれないが、真っすぐな先輩は人から好かれる魅力が駄々洩れで、これはみんなが先輩びいきになるのは仕方がないと思った。
「お前! 二度とこいつにこんなくだらない嫌がらせをするなよ。部長、あんたもちゃんとこいつらの指導をしろよ!」
部長同士も友人。仲のいい部員同士もいる。俺が春から夏の終わりまで悩んでいたことを、先輩はあっという間に解決した。
その場で二度とこういうことを部員にさせないようにしろと、サッカー部部長に皆の前で啖呵を切って約束させたのだ。
それは痺れる格好良さで、怒りに震えた小さな顔は同時にとても美しいと思った。
その時、サッカー部部長が「こいつも生意気なところがあるからやっかまれたんだろ」と俺の方を見ながら言った。そうしたら何人かの部員が頷いた。腹のあたりがもやっと重くなる。俺は下を向いた。
女の子みたいに可愛い顔だとか、北門なら付き合えるかもとか言われたのがしゃくで、その女の子みたいな顔の奴に負けたんだぞって思わせたかった、なんていえるかよ。
「そうなのか?」
先輩はわざわざ屈んで、俺の顔を覗き込んできた。ぐっと唇を切れそうなほどに噛む俺の肩を、先輩は一度激励するみたいに掴む。まだ濡れたままの前髪から雨の雫が落ちる。先輩は無造作にそれを拭って、俺にだけ聞こえる声で尋ねてきた。
「言いたくないか?」
こくん、と素直に頷く。そんな俺の様子が普段よりずっと素直だと思ったのか、部長もいつもみたいに俺にくどくどと説教をすることはなかった。
先輩は身体を起こすと、部長に振り返った。
「それならどこが嫌だったか、そのことを本人に伝えればいいでしょう? なにか誤解があったのかもしれないじゃないか。こんな風に一人に対して陰で嫌がらせをする理由になるんですか?」
部長は三年生。先輩は二年生だ。だけど一歩も引かない。
俺は顔を上げた。その背に庇われ護られて、圧倒的な安心感と慕わしさが同時に押し寄せ胸が苦しい。今まで、家でも居場所がなくて、部活でも苦しくて、誰かに助けてって言いたかった。
でも誰にも言えなくて、あがいてとげとげとした態度で自分も相手も刺しつづけるほか、自分を守るすべがなかった。
だけど、今。声に出せなかったのに、こうして俺の事を見つけ出し、助けてくれる人と出会えた。
神様がいるなら、それはとても気の利く神だと思った。
燈真先輩は俺を振り返って、やっと輝くような笑顔を見せた。それは優しくて、飾り気がなくて、でもものすごく可愛いといっていいぐらいのあどけない笑顔だった。あの激しさを見せた人とはまるで別人みたいに思えた。
かっこいいと可愛いは両立できるものなんだ、とかこんな今まで思ってもみないような考えが頭にふわっと浮かんできた。その時にはもう、俺は運動部の男たちがぎゅうぎゅうにひしめく教室の中で、この人の事しか見えなくなっていた。
「なあ、サッカーは一人じゃできないんだからさ。お前もチームメイトにもう少し心を開いた方がいいと思うよ。プレイをするときに結果を出すのは大事だ。だけどそれは周りもちゃんと機能しているからできることであって、お前一人ではできないはずだろ。信頼して任せ合える関係がないと、駄目だろ。これからは何かあったら部長に相談するんだぞ。そうですよね? 先輩」
部長もバスケ部の下級生という部外者に、圧倒されたままではいられないと悟ったのか、「分かったまかせろ」とか腕組みをして請け負った。
急に、窓の外が眩しくなった。見ればカーテンを開け放った窓の外に見えた空一面垂れこめていた鈍色の雲間から、日の光が差し込んできていた。
俺の代わりに燈真先輩が大暴れしてくれたから、すかっとした。俺の心もこの空と同じようにいつの間にか晴れあがっていった。
すうっと息を吸う。俺も先輩みたいに背筋を伸ばす。部長やその向こうにいた、嫌がらせをした人たちの顔も真っすぐに見た。
「今まで、俺の顔の事とか、色々。言われて嫌だったことがあった。だけど、俺の態度も悪かったことも、あったと思う」
巻き込んでしまった部員全員に向かって、俺はごめんなさいって素直に謝った。肩が触れる距離に、燈真先輩が横にいてくれたおかげだと思う。
そうしたら周りの態度も一変した。
「……俺たちも変なこと言ったのが悪かったし、イケメン羨ましいって思ってやっかんだ」
「俺の好きな子がお前の事好きとか聞いて、なんかムカついた」
とか口々に素直に言いだして口々に「ごめんな」なんて謝ってこられた。クラスメイトも「俺もごめん、今日伝えなかったの、俺もだし」とべそをかいていた。
開かれたままのドアの向こうで聞いてた若いコーチが「青春だなあ」とか言いながら入ってきて、笑いをとったから、その場が何となく和やかな感じになった。
燈真先輩は探しに来た部員たちと一緒に笑いあいながら帰っていった。先輩が行ってしまう。一言、お礼を言いたかったのに。あの時の俺は何故かそれが出来なかった。
先輩が帰ってしまうことが寂しくて、もっと傍に居たくて、あの人の目に俺だけを映してもらいたくて、堪らない気持ちになった。
仲間たちに囲まれながら燈真先輩が帰った後、部屋の中は光を失ったように色あせて見えた。先輩と親しそうだった人に聞いて、その時初めて先輩が『南澤燈真』という名前だと知った。
その先輩は誇らしそうに、燈真先輩の話をする。
「あいつ、いいやつだろ。面倒見がいいんだ。あいつの兄さんもバスケ部の部長でさ、でかくてイケメンで、頭も良くて、確か有名なバスケ部のある高校に進学してレギュラーとってる。まあ、あいつは父さんや兄さんみたいにでかくなるはずだったのにって、ぼやいてたけど。すげぇ美人のお母さん似で女子にモテそうな可愛い顔してるから、いいじゃんかって俺は思うけどな」
先輩の家族がすごいとか、俺にはどうでもいい。俺にとってのヒーローは先輩だけだ。
だけど俺の知らない先輩の事をたくさん知っているであろう、その人に対して、胸にちりちりと切ない複雑な疼きが生まれた。
この気持ちは何なのか、あの時は分からなかった。だけど今は分かる。あれは嫉妬だった。あの人の全てを知りたいのに、何も知らない自分が悔しかった。
それから俺は一種の信仰のように、先輩の事を好きになった。
SNSに誰かが上げていた公式戦の試合中の写真。画像は荒いけど先輩のところだけを切り抜いてひっそり持っていた。
あれから両親は離婚して、元々無口だった父とは大して言葉を交わさない。母についてきなさいと言われたが、実家のある遠い県に引っ越す母についていったら、もう燈真先輩と会うことは出来なくなる。それは絶対に嫌だった。
長い間かかって、沢山考えて、答え合わせができたのは、高校に入って先輩の姿を見かけた時。相変わらず友達と楽しそうにしている先輩の姿に、どうしてそこにいるのは自分ではないのかと、喉がヒリヒリ痛むほどの渇きを覚えた。
サッカー部でもそれは同じだった。俺の容姿や体格で周りにひけをとりたくなくて、負けたくない一心で、時には周囲にたいして生意気な態度をとったと思う。
一年生ながらレギュラーに選ばれたが、俺の奢った態度とひがみや嫉妬から部内の連絡網からはぶかれてしまった。
あの日は運動部が参加する駅前清掃活動の日だった。朝駅前に集まって清掃活動が終わってから学校に戻って部の活動をするというスケジュールで、駅にいく途中でもう雨が降り出したが、俺のところには中止になったという連絡は来なかった。
リュックを背負い、傘はない。そんな俺を構う人はいなかった。父親は休日は寝てばかりで、母親は年の離れた妹と実家に帰っていてこちらにはいなかった。
自分で買ってきた軍手をつけてビニール袋を手に持って立っていたけど、駅前には誰も来なくて、多分嫌がらせをされたのだろうと早々に悟った。同じクラスにもサッカー部のやつはいたけど連絡はなかった。
濡れながら意地になってゴミを拾った。でもすぐに馬鹿馬鹿しくなって袋を腕に下げた状態で駅前広場のベンチに座り、激しさを増すばかりの雨に打たれていた。
惨めだった。悔しかった。だけど絶対に嫌がらせをしてくる奴らに負けたくはなかった。でもまだ中一だった俺には、あの仕打ちは相当に応えた。
ちょうど家もがたがたしていた時期だった。元々良くなかった両親の仲は壊滅的で、俺が中学を卒業するまではしないとか、そんな理由をつけて離婚を先延ばしにしたくせに、顔を合わせたら口論ばかりだ。
家に居場所がなくて、部活にも居場所がなくて、そんな時にこんなことになった。
この状態で家まで逃げ帰ったらあいつらの思うつぼだ。このまま学校に行って堂々と部活に参加してやる。悪いのはあいつらだ。そんな風に自分を奮い立たせようと膝に置いた拳を握った。
でも立ちあがる気力がでない。世界中が敵に思えて、情けなくて、辛くて、雨じゃない、温い水が頬を伝ってきた。
こらえたかったのに、こらえきれない。でも、もういいかと思った。これだけずぶ濡れなら、俺が泣いていることなんて誰にも分らないだろう。
嗚咽を漏らしそうになって、両手で口を覆う。だけど下を向いていたら急に雨が当たらなくなった。
忘れもしない、あの時の光景。差し出された傘の色は青、あの人のユニフォームは鮮やかな赤。
「なあ、お前。今日清掃活動、ないぞ。誰も教えてくれなかったのか?」
変声期直前の高い声は、少女めいていたが意志の強そうな力強さを秘めていた。
間違えてきている者がいないか、確認に来たバスケ部の親切な副部長。それが燈真先輩だった。
「そうみたいっすね」
この時の燈真先輩に対する態度も最悪だったと思う。ぶっきらぼうに言い捨てて、目もろくに見ないで顔をそむけた。惨めな姿を見られたくなかった、放っておいてほしかった。
だけど同時にどこかで俺を助けてくれる誰かを求めていたのかもしれない。先輩から逃げ、家に帰ることだってできたのに、俺はその場にとどまった。
「泣いてるのか?」
ストレートに聞かれて、「泣いてねぇし!」って怒鳴り返したと思う。その時初めてみた先輩の顔は、黒目がちな目がくりくりとしていて、なんか好奇心旺盛なリスかウサギみたいに見えた。
「おお、元気そうで良かった。じゃあ、帰るぞ。立て」
「帰るって……、どこに?」
「どこにって。学校に決まってるだろ」
立ち上がった俺の腕を、思った以上に強い力で掴まれた。
「行くぞ」
先輩は傘を俺に押し付けて前を歩く。雨が先輩のユニフォームもみるみる濡らしていき、華奢な身体に張り付いていく。普段ならこんな強引さを相手に見せられたら反発するだろう。だけどこの時は弱っていて振り払う気持ちにはなれなかった。雨で冷え切った身体に、先輩の掌から伝わる、そこだけがじわっと熱い。
悔しい、涙があとからあとから零れてしまった。だが同時にさらに熱い何かが胸の中に溢れてきた。
人の体温にこれほど勇気づけられたことはなかった。
燈真先輩から伝わる熱、それはそのまま、この人の心の温かさと情熱そのものに思えた。俺よりはちょっぴりだけ背は高いけど、まだ小さな先輩の背中が、すごく力強く大きく、俺を奮い立たせてくれた。
先輩はそのまま俺をつれて、一旦バスケ部が活動してる体育館に寄った。体育館に入りたくなくて入口脇にいた俺のところに、応援しているチームのロゴが入ったタオルを持ってかけてきた。自分も首からタオルを下げていたけど、着替えもしていない。俺の元にすっ飛んで帰ってきてくれて、タオルを頭から被せてくれる。乾いた布の感触が心地よい。懸命にわし、わしと髪の雫を拭ってくれる手は、ちょっとぶっきらぼうで乱暴だけど、それがこの人らしいなと思った。
「風邪ひくなよ」
盗み見た顔は唇をとんがらせて、必死な感じだ。柔らかそうな唇が赤くて、秋の雨に濡れた頬や鼻先がちょっと薔薇色に色づいていた。それがもの凄く可愛く見えた。同じ男なのにそんな風に自然に思えてしまった自分にちょっと戸惑った。
それから先輩は体育館に向かって「ちょっとサッカー部いってきます!」って叫んで、俺を連れて本当にサッカー部に乗り込んだ。
後から先輩の事を小学生の頃から知っている別の先輩がいっていた。あんなに怖い顔をしたあいつを初めて見たと。
義憤に駆られていたんだろう。俺の腕を掴んだまま、多目的室で筋トレをしていたサッカー部に乗り込むと、部長はずぶ濡れの俺たちを見て、驚きを隠せないようだった。
燈真先輩は有無を言わせぬ口調で部長に食って掛かった。
「おい! こいつになんで今日の清掃活動がないって、誰も教えなかったんだっ」
部長がすぐに「連絡しなかったのか?」と二年生の方を振り返った。ずぶ濡れの俺を見てにやついた奴らは、俺にレギュラーを奪取された奴とその友人だった。
部長の剣幕にそいつらはすぐに目を逸らしていたが、燈真先輩はそれを見逃さなかった。
身長はまだ170センチに到底届いていなかっただろう。だが自分より大きな同級生に食って掛かって、胸倉をつかみ上げてギラギラした目で睨みつけた。
「お前っ! 一年相手にくだらないことしてんじゃねぇよ」
一直線に突き進む、赤いユニフォームを着た燈真先輩はメラメラ燃える火の球みたいに見えた。カッコよかった。それと同時に、涙がまた沸き起こりそうなのを俺は唇を噛み締めて必死にこらえた。
涙で曇らせている場合じゃない。見なければ。
俺の為にこんな風に怒ってくれる人に、人生で初めて出会った。どうしてもこの人の一挙手一投足、見逃がしたくない。
俺に嫌がらせをした先輩も、燈真先輩の勢いに負けて言い訳すらできない様子だった。
先輩は小さな身体で凄んで唸り、殴りでもするのかと思われたのか、慌てて部長が燈真先輩を羽交い絞めにする。その横からサッカー部の、先輩のクラスメイトや友人と思しき数人がすっとんで飛んできた。
「おい、燈真! 何やってんだ」
先輩の声は高いが物凄くよく通ったようだ。燈真先輩の様子が気になって後を追ってきたんだろう。廊下から騒ぎを聞きつけて、バスケ部の部長や部員が押し寄せてきた。その場は両方の部員が入り乱れて、騒然となってしまった。
先輩の人徳だろう。俺に嫌がらせをした相手より、先輩の味方の方がずっと多かった。数で圧倒するとか、カッコいいとは言えないのかもしれないが、真っすぐな先輩は人から好かれる魅力が駄々洩れで、これはみんなが先輩びいきになるのは仕方がないと思った。
「お前! 二度とこいつにこんなくだらない嫌がらせをするなよ。部長、あんたもちゃんとこいつらの指導をしろよ!」
部長同士も友人。仲のいい部員同士もいる。俺が春から夏の終わりまで悩んでいたことを、先輩はあっという間に解決した。
その場で二度とこういうことを部員にさせないようにしろと、サッカー部部長に皆の前で啖呵を切って約束させたのだ。
それは痺れる格好良さで、怒りに震えた小さな顔は同時にとても美しいと思った。
その時、サッカー部部長が「こいつも生意気なところがあるからやっかまれたんだろ」と俺の方を見ながら言った。そうしたら何人かの部員が頷いた。腹のあたりがもやっと重くなる。俺は下を向いた。
女の子みたいに可愛い顔だとか、北門なら付き合えるかもとか言われたのがしゃくで、その女の子みたいな顔の奴に負けたんだぞって思わせたかった、なんていえるかよ。
「そうなのか?」
先輩はわざわざ屈んで、俺の顔を覗き込んできた。ぐっと唇を切れそうなほどに噛む俺の肩を、先輩は一度激励するみたいに掴む。まだ濡れたままの前髪から雨の雫が落ちる。先輩は無造作にそれを拭って、俺にだけ聞こえる声で尋ねてきた。
「言いたくないか?」
こくん、と素直に頷く。そんな俺の様子が普段よりずっと素直だと思ったのか、部長もいつもみたいに俺にくどくどと説教をすることはなかった。
先輩は身体を起こすと、部長に振り返った。
「それならどこが嫌だったか、そのことを本人に伝えればいいでしょう? なにか誤解があったのかもしれないじゃないか。こんな風に一人に対して陰で嫌がらせをする理由になるんですか?」
部長は三年生。先輩は二年生だ。だけど一歩も引かない。
俺は顔を上げた。その背に庇われ護られて、圧倒的な安心感と慕わしさが同時に押し寄せ胸が苦しい。今まで、家でも居場所がなくて、部活でも苦しくて、誰かに助けてって言いたかった。
でも誰にも言えなくて、あがいてとげとげとした態度で自分も相手も刺しつづけるほか、自分を守るすべがなかった。
だけど、今。声に出せなかったのに、こうして俺の事を見つけ出し、助けてくれる人と出会えた。
神様がいるなら、それはとても気の利く神だと思った。
燈真先輩は俺を振り返って、やっと輝くような笑顔を見せた。それは優しくて、飾り気がなくて、でもものすごく可愛いといっていいぐらいのあどけない笑顔だった。あの激しさを見せた人とはまるで別人みたいに思えた。
かっこいいと可愛いは両立できるものなんだ、とかこんな今まで思ってもみないような考えが頭にふわっと浮かんできた。その時にはもう、俺は運動部の男たちがぎゅうぎゅうにひしめく教室の中で、この人の事しか見えなくなっていた。
「なあ、サッカーは一人じゃできないんだからさ。お前もチームメイトにもう少し心を開いた方がいいと思うよ。プレイをするときに結果を出すのは大事だ。だけどそれは周りもちゃんと機能しているからできることであって、お前一人ではできないはずだろ。信頼して任せ合える関係がないと、駄目だろ。これからは何かあったら部長に相談するんだぞ。そうですよね? 先輩」
部長もバスケ部の下級生という部外者に、圧倒されたままではいられないと悟ったのか、「分かったまかせろ」とか腕組みをして請け負った。
急に、窓の外が眩しくなった。見ればカーテンを開け放った窓の外に見えた空一面垂れこめていた鈍色の雲間から、日の光が差し込んできていた。
俺の代わりに燈真先輩が大暴れしてくれたから、すかっとした。俺の心もこの空と同じようにいつの間にか晴れあがっていった。
すうっと息を吸う。俺も先輩みたいに背筋を伸ばす。部長やその向こうにいた、嫌がらせをした人たちの顔も真っすぐに見た。
「今まで、俺の顔の事とか、色々。言われて嫌だったことがあった。だけど、俺の態度も悪かったことも、あったと思う」
巻き込んでしまった部員全員に向かって、俺はごめんなさいって素直に謝った。肩が触れる距離に、燈真先輩が横にいてくれたおかげだと思う。
そうしたら周りの態度も一変した。
「……俺たちも変なこと言ったのが悪かったし、イケメン羨ましいって思ってやっかんだ」
「俺の好きな子がお前の事好きとか聞いて、なんかムカついた」
とか口々に素直に言いだして口々に「ごめんな」なんて謝ってこられた。クラスメイトも「俺もごめん、今日伝えなかったの、俺もだし」とべそをかいていた。
開かれたままのドアの向こうで聞いてた若いコーチが「青春だなあ」とか言いながら入ってきて、笑いをとったから、その場が何となく和やかな感じになった。
燈真先輩は探しに来た部員たちと一緒に笑いあいながら帰っていった。先輩が行ってしまう。一言、お礼を言いたかったのに。あの時の俺は何故かそれが出来なかった。
先輩が帰ってしまうことが寂しくて、もっと傍に居たくて、あの人の目に俺だけを映してもらいたくて、堪らない気持ちになった。
仲間たちに囲まれながら燈真先輩が帰った後、部屋の中は光を失ったように色あせて見えた。先輩と親しそうだった人に聞いて、その時初めて先輩が『南澤燈真』という名前だと知った。
その先輩は誇らしそうに、燈真先輩の話をする。
「あいつ、いいやつだろ。面倒見がいいんだ。あいつの兄さんもバスケ部の部長でさ、でかくてイケメンで、頭も良くて、確か有名なバスケ部のある高校に進学してレギュラーとってる。まあ、あいつは父さんや兄さんみたいにでかくなるはずだったのにって、ぼやいてたけど。すげぇ美人のお母さん似で女子にモテそうな可愛い顔してるから、いいじゃんかって俺は思うけどな」
先輩の家族がすごいとか、俺にはどうでもいい。俺にとってのヒーローは先輩だけだ。
だけど俺の知らない先輩の事をたくさん知っているであろう、その人に対して、胸にちりちりと切ない複雑な疼きが生まれた。
この気持ちは何なのか、あの時は分からなかった。だけど今は分かる。あれは嫉妬だった。あの人の全てを知りたいのに、何も知らない自分が悔しかった。
それから俺は一種の信仰のように、先輩の事を好きになった。
SNSに誰かが上げていた公式戦の試合中の写真。画像は荒いけど先輩のところだけを切り抜いてひっそり持っていた。
あれから両親は離婚して、元々無口だった父とは大して言葉を交わさない。母についてきなさいと言われたが、実家のある遠い県に引っ越す母についていったら、もう燈真先輩と会うことは出来なくなる。それは絶対に嫌だった。
長い間かかって、沢山考えて、答え合わせができたのは、高校に入って先輩の姿を見かけた時。相変わらず友達と楽しそうにしている先輩の姿に、どうしてそこにいるのは自分ではないのかと、喉がヒリヒリ痛むほどの渇きを覚えた。



