翌日もあいつのことが頭を離れなかった。
北門が中学の頃の俺を知っていることは明らかだけど、でも俺にはあいつに覚えがない。あんなに目立つやつは、流石に学年違いでも目立つと思うんだよな。
「なあ、俺って中学んとき、何部だったと思う?」
昼休み。兄貴が握ったでかでか梅干しおにぎりの最後の一口を飲み込んでから、隣の席のクラスメイトに尋ねてみる。
「何だ急に?」
「いいから答えろって」
「うーん」
クラスメイトは勿体つけるみたいにたっぷり間を開けてにかっと笑った。
「陸上部かな? こないだダントツで早かったよな! 体育祭のリレー担当決定だろ」
「おお、そっか。そう思うか」
この間体育の授業で測った短距離のタイム、高校生だし真面目に走らない奴もいるかもだけど、俺がクラスで1番速かった。
周りでゲームの話をしていた奴らもこっちの会話に気が付いて口々にサッカー部だの吹奏楽部だの色々言ってきたけど、正解は当たりそうで当たらない。
「こいつ、中学ん時、バスケ部だぞ」
そしたら去年も同じクラスだった奴が通りすがりにバラして行った。
「あー。バラすなって」
「去年球技大会でうちのクラスが学年優勝できたの、こいつのお陰だし。動きみりゃあ絶対分かるよ。すげぇ上手いから。なんでバスケ部入んなかったんだかな」
『なんでバスケ部に入らなかったんですか?』
あいつに言われたのと同じ台詞だ。びくっと身体が反応してしまう。
「え、バスケ部だったの?」
お互い座った状態ではあったけど、クラスメイトが俺の頭のてっぺんから足先まできょろっと視線を動かして感心するように「へー」って声を出し、目をまんまるにした。
「何その反応。バスケ部に見えねぇとか思ったんだろ。あんま背ぇ高くないし」
「ええ、でもトーマ、身長170はあるだろ? 俺なんてギリない、168!」
「まあそうなんだけどさ。兄貴も親父も180センチ余裕で越えてるから。兄貴とか188センチあるし」
「そうなんだ! でっかいなあ」
「そうそう。俺だけがちっさい。兄貴ぐらいあったらよかったんだけどな。それだとあちこち頭ぶつけないといけなくなるけど」
自分で言ってちょっと卑屈に聞こえていたら嫌だなあと冗談を交えてみたが、周りはニコニコした顔のままでほっとした。
うちは四人家族だ。高校教師でバスケ部の顧問をしている父と、看護師として忙しく働いている母、それと四つ年上の兄貴だ。
兄貴は名門バスケ部のある私学の高校に進学して、大学でもバスケ三昧、ずっと結果を残し続けてきた。
兄貴は中学ですでに身長が170半ばを越えていて、主将でエース。将来は父親みたいな指導者になりたいらしくて、教育学部に進学。学業もおろそかにしない上に結構なイケメン、身内の贔屓目で見たとしてもけっこうなチート野郎だ。
小さい頃から面倒見のいい兄貴の後ろを追いかけてきたから、遊んでもらうのもバスケ絡みのボール遊び、だから俺も当たり前のように、小中とバスケをやってきた。バスケ部で部長をしていた兄貴を意識しちゃって、みんなから『部長は燈真がいい』なんて担ぎあげられたのもあって、二年三年と副部長と部長を歴任した。
といっても俺は兄貴とは性格も見た目も全然違う。精神的にはタフだけど華奢な体格の母さんにそっくりで、バスケ部の中では背も低い方だった。プレイも、長身を生かして繰り出すシュートでばしばし得点決める兄貴に比べたら華やかさにかける。だけど、チームを助けるアシストや献身的なプレイに命かけてた。
うちの代のバスケ部は気も荒い奴も多かったから、キャプテンとしてみんなをまとめるのは骨が折れたけど、バスケも、チームメイトも大好きだったからみんなの世話をやくのも嫌いじゃなかった。嫌いじゃなかったんだけどなあ。
だけどいつからか、これは俺が俺自身で選んできた道なのかなって思い始めたんだ。
急に女子の話し声が一段と高く大きくなった。水筒を煽っている時に視界の端、教室の入り口にすらりとした長身の男がいた。
え、北門? どうして?
思いがけない来客に驚いて、手元が狂った。麦茶がごぼぼっと口の端から溢れて顎まで流れてきてしまった。冷たてぇ! 慌てて口元を手の甲で拭った。
「おーい。燈真。お客さんだぞ」
うちの学校は最上階とその次の階が一年生、三年生は一階に全クラスある。だからここは二年だけの階だ。俺が一年生の時なんて恐ろしくてこの階に立ち止まったことなんてなかったぞ。だけど北門はクラスメイトの隣からこっちを見て、落ち着き払った状態で俺に軽く会釈をしてきた。やっぱ俺の事を訪ねてきてくれたみたいだ。何の用だろう。
後輩が訪ねてくれるなんて気恥ずかしい。俺はちょっと頬を緩めながら、片手を上げる挨拶を返して立ち上がる。
きゃあきゃあと弾けるような歓声が教室に残っていた女子の間から沸き起こる。まるでアイドルでも見つけたファンの集団みたいだ。
いつも5.6人で弁当を食べている女子グループから、誰にでも馴れ馴れしく話しかけてくる子が猫みたいに飛び出した。机の間を器用に通りながらわざわざ俺のところまでやってくる。
「ねえ、あの人と知り合いなの? 1年の北門くんだよね」
「美化委員会の、後輩」
「なにそれぇ。私も美化委員になればよかったあ」
あまりにもストレートな感嘆の声に面食らう。北門、四月に入学したばかりなのに二年の女子にまで顔が浸透しているらしい。イケメンパワー、恐るべし。
俺が北門がどうしてここまで来たのか図りかねて立ち止まっていたら、その女子にぐいっと引っかけるようにして腕を組まれた。
その子は自分が魅力的ってことをよくわかっていて、馴れ馴れしい感じが逆に相手に喜んでもらえるって自信たっぷりな態度だ。
確かにこの距離感を喜ぶ男子も多いかもだが、俺はこんな風に急に相手から距離を詰められるのはちょっと苦手だ。男兄弟で育ってきたから、今も内心は女子と一対一で話すのは腰が引ける、恥ずかしいけども。
「ほらあ、待たせちゃ駄目だよ」
流石に女子の腕を強引に振り払うのはどうかと思って、されるがままでいたら、彼女は悪びれもせずに俺の腕を掴んで北門の元まで引っ張っていった。
その後もちゃっかり俺の隣を陣取って、興味津々といった顔つきで俺たちを見上げてくる。北門はそんな俺と彼女を見比べてから、形のいい眉毛を分かりやすく顰めていた。そうだよな、引くよな。俺だって引いてる。
「燈真先輩、美化委員のことで、ちょっといいですか?」
「燈真先輩だって!」とか茶化すような声もちらほらと聞こえて、昨日から続いていた名前呼びは結構気恥ずかしい。
「美化委員……?」
何か話すことなんてあったかな? なんて思ったけど、北門の何か言いたげな様子を察して俺は大きく頷いた。
「わかった。で、何?」
わかっているんだかわからないんだか、我ながらへんてこな返事を胸を張って応える。北門はちょっと笑って俺を目でからかってくる。
「先輩の事、ちょっと借ります」
「いいよお! 連れてっちゃって、また遊びに来てね」
逆の腕を今度は北門の大きな手に掴まれた。手首、というよりほとんど手を握られたに等しい。賑やかな教室を後にして、そのまま北門は俺を廊下に連れ出した。すんっとした表情をしてるくせに、すげぇ強引な奴め。
昼休みを使って廊下で自撮りしている女子、以前のクラスメイトと廊下で喋っているやつ、教室に戻ってこようとしている奴、二年生の廊下は意外にごみごみしている。
その間を長身で目立つ容姿の北門は迷いなく真っ直ぐ歩く。そんな北門に腕を引かれて、もっさりした髪を揺らして走る俺。そりゃもう。めっちゃみられてる。まずは北門を見て、その後後ろの俺を見て、みんな一様に驚いた表情を浮かべる。
だよなあ、意外な組み合わせ。美化委員、俺ら美化委員です!って叫びたくなる。特に繋いだ手に視線が集中するのが恥ずかしい。
「どこいくんだよ?」
まさかこのまま一年の廊下まで連れていかれるのか? と思っていたら違った。一階まで降りて、先生の前は北門もややスピードを落とす。通り過ぎたらまたスピードが上がり、自販機の並ぶちょっと広い廊下の角や渡り廊下を越えて体育館へ渡る通路までやってきた。そこをさらにずんずん進む。ここまで来ると流石に人気がなかった。
だが北門は止まらない。もはや裏の公園の木々の影でちょっと暗いあたりまできてようやく立ち止まった。
風がザザザと木々を揺らす。涼しい風が吹いてきて心地よい。いつもの昼休みじゃない、新鮮な気分に俺は背筋をうーんと伸ばした。
「はー。すげぇ遠くまで来たな。戻るの大変だぞ」
「先輩との話、誰にも邪魔されたくなかったんで」
しれっとそんなことを言う。なんだか特別扱いをされているみたいでくすぐったい。
まあ確かに。あのままあそこで話をしたら何から何まで聞き耳をたてられて大変だっただろう。俺も「そうだな」って理解を示して、体育館の下窓の前の手前に腰を掛けようとした。だけど、北門が何故か繋いだまま離さずにそれを阻んできた。
「おい」
腕を取り戻そうと引っ張り返したのに、体幹が強いのかあいつはびくともしない。北門は目尻を吊り上げ、怒ってるみたいな顔つきになった。なんでだよ? 俺ちゃんとついてきただろ。
「あの人。トーマ先輩の彼女ですか?」
「はあ? 何いってんの?」
聞かれるとは思ってもみなかった問いにはすぐに答えを返せないものだ。ただそれだけなのに、躊躇したと思われたのだろか。
「答えて」
矢継ぎ早に急かされた。俺は何もしてないのに、なんで怒ってんだよ。むっとして睨み返す。そしたら手首をすごい馬鹿力でぎゅうっと握られた。思わずこっちも乱暴な声が出る。
「おい、離せよ! 痛いって!」
痛がる俺に北門が怯んだ。その隙に腕を奪い返して、大げさに手首を摩る。
めっ、乱暴は駄目だぞ。そしたらあいつは怒られてしょげた犬みたいにしゅんとした。
「すみません……」
あっちのほうが俺よりずっと痛い目を見たみたいな顔だ。俺は急に可哀そうになって北門の両腕を外側からぽんぽんってやった。
「あー、うそうそ、大丈夫だから。お前がなんか喧嘩腰だったからムキになっただけ」
「喧嘩腰……、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、なんでそんなに、気にするんだよ。あー。あの子のことが気になった? 一目惚れとか?」
「違います」
冗談のつもりで言ったのに、食い気味に強く否定された。その目つきの激しさに、俺は胸の辺りを無意識に抑えて一歩下がり、北門の剣幕に押され背中をのけぞらせた。
後ろは公園との境にある柵で、これ以上は後ろに下がれない。間髪入れずにがしゃんって俺の両側で音が立つ。北門が正面から両腕で俺を囲うようにして金網を握ったからだ。
「北門?」
「なんで気になるんだと思います?」
逃げられない状態で、覗き込んでくる琥珀色の綺麗な目。こいつの眼差しの強さに心を真っ直ぐに射抜かれる。もったいぶるつもりはなかったのに、衝撃で言葉がうまく出ない。
「ええと……」
熱っぽい視線、掠れて切なげな声。こんなのまるで、こいつがあの子に嫉妬でもしてるみたいだろ。
だけどなんでって? なんでって……。俺の方が聞きたいよ。
北門、お前が俺の写真をロック画にしているのは、なんで?
それってさ、もしかして……。でも俺、男だし、こいつ女子にモテモテだし、いやそんなはずは……とか。色々頭を過ってしまう。
そんで顔が、すっごく近い、近いって! ちょっと顔を動かしたら唇が触れてしまいそうだ。心臓バクバクしてきた。その綺麗な顔で人の息の根を止められるぞ、お前っ!
「……なんで、あいつと俺が、付き合ってるとか、思ったんだ」
なんとか絞り出した声は情けないほど小さくなった。
「親しそうだったから。あの人、燈真先輩に触ってた……」
「ああいう感じの子なんだよ。誰に対しても」
「……誰にも触らせたくないのにな」
北門はまるで独り言みたいに呟いた。
逃げられないからせめて下を向いてたのに、北門の手が俺の重たい前髪をかき上げて、目線を合わせようとしてきた。
「親し気っていうなら、お前だって」
最初からすごく距離近かっただろう。その度にこっちは無駄にドキドキしてんだよ。
この距離感、友達ならまあギリ許容範囲、ドキドキすんのも変だろって思おうとしても、やたら妖しい雰囲気で熱っぽい目で見られるとグッチャグチャにかき乱されて変になりそうだ。
文句を言いたかったけど、またもや、うまく言葉にできない。昨日からお前の事で頭がいっぱいになってしまっているなんて、恥ずかしくて言えるわけない。悔しくて目の端に涙が浮かんできた。ぎょっとした顔をした北門に引き寄せられて、肩を抱かれて頭をよしよしとされてしまった。
「ごめん。怖がらせた」
頭をこてっと肩に押し付けられて、俺はされるがままだ。あああ、なになに。昼間の校内でなにやっちゃってんの、俺たち。
「一年なんて、……怖くねぇしっ」
北門が長い腕で俺の事を真正面から抱き寄せてきた。
「ごめん……。俺、あの人が先輩の彼女なのかと思ったら、なんか腹の当たりが苦しくて、熱くなった」
「ただのクラスメイトだし」
顔が見えない状態で耳に熱い吐息が当たりながら囁かれる。
「トーマ先輩は俺の面倒だけ見てくれればいいのに。誰からも親しげにされるんだね」
なんだそれ。こっちはもう、ぶわあああっと余計に顔が熱くなった。あああっ! こいつ、なんなん。いちいち言い方が一つ一つ、すげぇ思わせぶりでこっちは心臓がばくばく、運動した後でもないのに足がなんかふらつく。
がばって顔を起こして北門の胸に手をついて距離を取る。
「俺は、彼女いないから。むしろ女子の集団はちょっと苦手だし。それ、お前と一緒」
「そっか。先輩も……」
「ああ」
「苦手なのに、昨日頑張って追い払ってくれたんだ。俺の為に」
「まあ、そ、そういうことになるなあ」
北門の綺麗な顔、表情が急に明るくなった。何、嬉しそうにしてんだよ。照れるし、やめろって。
「なんかお前といると、調子狂う……」
「そうですか? 俺は先輩といると、楽しいです」
「楽しいのか?」
「楽しいです」
「……昨日、初めて会ったばっかなのにか?」
俺としてはいつもみたいに直球を使わずに鎌をかけてみた。北門が僅かに目を見開く。俺はごくりと喉を鳴らした。
「相談したいことがあったんです」
鮮やかに会話をそらされた。俺はそれ以上うまく会話を元に戻せるテクニックを知らなくて「なんだ?」と聞き返した。
「昨日先輩のバイト先で借りた容器。返しに行きたいんですけど」
「あー。そんなん普通に聞いてくれたらよかったじゃん」
北門は腰に手を当てて俺を見下ろしてきた。
「まだ連絡先聞いてなかったんで、繋がってください」
「あ、そうだったな」
北門がスマホを取り出してきた。これはチャンスだ。ロック画のことをさりげなく指摘しよう。北門の動作を固唾を飲んで見守ってたのに、俺の目の前に晒されたのは友達追加の画面だった、くそう。
「これでよし、と。ああ、でもさ。俺に渡してくれてもいいよ。返しとくから」
「ちゃんとお礼が言いたいから」
「そっか」
「次、先輩がバイトに行くときに、俺も一緒に行っていいですか?」
「それは構わないけど。お前部活忙しくないの?」
「うちの高校の部活って、中学の時よりずっと緩いっていうか……」
「ああ、確かに二年の半ばでもう受験の準備はじめるからってあんま活動しないやつもいるぐらいだもんなあ」
「先輩は塾とかもう行ってるんですか?」
「うちに凄腕の塾講師がいるから……。まあ、兄貴っていうんだけど。一応親父も高校教師だし」
「すごいですね」
「別に、あの人たちがすごいだけで、俺は普通だし。受験目前になったらいくかもだけど、今のところは分からないところだけ兄貴に聞いたら困らないから」
「賢いですね」
「確かに、兄貴はスポーツ推薦も受けられたのに、外部受験で大学入ったからなあ。頭いいよ」
「先輩が、ですよ。分からない部分の要点だけ聞けば理解できるってすごいことでしょう?」
「……そんなことないよ。塾にほとんど通わなくても、頭の作りがそもそも違う兄貴はすんなりと大学に合格していた。そういう化け物が近くにいると、俺なんかって……」
じっと見てくる視線に耐え兼ねて、俺は後ろを向いて金網をがしゃんって引っ張った。
「まあ、それはいいとして、今日バイト行くから、部活帰りによれば?」
「そしたら、先輩と一緒に帰れる時間がいいです。何時に終わりますか?」
「片付けが終わるのは9時ぐらいかな。8時閉店だけど閉店した後も常連さんが居残っててオーナーとおしゃべりしてるのを、俺も一緒になって喋っちゃったりしてるし……」
先ほどとは打って変わって北門は俺の隣で柵にもたれて、機嫌よさげに微笑んでいる。あんまりにこにこしてるから、バカにでもしているのかと思って俺はむうっと口を尖らせた。
「おい、お前。俺の事、お喋りなんだなって思っただろ」
「え? 思ってませんけど」
「そうかあ? 男なのによく喋るって家族によく言われるけどなあ」
「別にいいじゃないですか。明るくて。……俺の家なんて父親との会話はほぼありませんよ」
二人家族でそれは寂しいよなって思ったけど、なんて答えていいのか分からなかった。お喋りを自認してるのに、こんな時気の利いたことが言える大人になりたい。逆に気を遣わせたのか北門があのちょっと寂し気な微笑みを唇にだけ浮かべた。
「そんな顔しないでください。俺の傍では笑ってて、おしゃべりしてて、先輩らしくいてくれたらいいんです」
北門は優しい目をして俺を見下ろしてくる。やっぱり前から俺の事を知っているような口ぶりだ。
「北門、お前さ」
言いかけたら予鈴がなった。
「行かないとですね」
そう言いながらも、北門は動かない。走って乱れた俺の前髪を、優しい手つきで後ろに撫ぜつけてくれる。
先輩らしく、かあ。俺らしい、俺って一体どんな俺だろう。俺が一番、それを知りたい。
俺は北門の言葉を反芻して、ぼんやりとされるがままになってしまった。
※※※
「ああ、私、今年7組になれて、本当によかったあ」
ゴールデンウィーク明けの昼休み、急に隣の列の机でお弁当を食べていた大人しめの女子が大声を上げたから、俺はびっくりしてそっちに注目してしまった。
「それ、私もそう思う!」
向かいに座っていた女子と手を取り合ってきゃあきゃあ喜び合ってる。
「俺がいるからか?」
クラスで一番の陽キャ男子がそう言って笑わせようとしたが、「ちがうし」と意外と強めに否定されて即、肩を落とす。哀れ な奴。
「そんなの、南澤がいるからに決まってるでしょ」
「え、俺? やったあ!」
突然スポットライトを浴びて、俺がパンを片手にふざけて拳を振り上げたら、横から友達に肘で強めに小突かれた。
「お前ってか、あいつの事だ、あいつ」
「あいつ?」
「お前の、イケメン後輩」
「イケメン? ああ、北門な」
勘違いが恥ずかしくなって慌てて腕を下ろしたら、陽キャ君から「ドンマイ、トーマ」と声がかかった。うるさい。
「でも南澤のお陰で、学年が違うのにあの画面国宝を毎日見られるんだから、南澤のお陰ともいう」
ありがたいねぇ。なんて周囲の女子から一斉に拝まれた。ヤメテ、照れる。
そうなのだ。あれから三週間、ほぼ毎日、北門は俺のクラスに顔を見せるようになった。
それだけじゃない。あいつはオーナーが自ら教えたという、俺のシフトの日も熟知していて、子ども食堂の日以外にも『陽だまり』にちょくちょく遊びに来ていた。
俺は今、多分学校以外でも一番あいつと一緒にいるかもしれない。すっかりあいつが隣にいることが普通になった。といってもあの顔はまじまじと見るとまだ照れるけどな。
北門はオーナーと前に約束したとおり、作り方を教えて貰った料理を家でお父さんに振舞ったらしい。
「父さん食べながら涙ぐんでた。大袈裟だよな」
なんて言うから、オーナーが感動して泣いちゃって『すごいな!』って俺が褒めたらあいつは照れてはにかんでた。
「先輩がここに連れてきてくれたお陰です」
普段クール系イケメンがふと見せた、笑顔のギャップは破壊力抜群で、周りの人も見惚れてたけど、俺もなんかこいつ本当に可愛い奴だなって思った、なんてこともあった。
そして今、うちのクラスの女子の間では、北門が来たら俺を呼んで北門の元まで連れて行くのが流行ってる、らしい。昼休みに俺の近くの机付近に女子が集中して座っているという謎の現象が起こっていた。
「ねーねえ。南澤君が髪型変えたのって、後輩君の影響?」
北門効果で自然と女子から話しかけられる機会も増えて、俺は少しだけ女子と喋ることに抵抗がなくなっていた。
「髪は、元々切ることが決まってたんだよ。バイト先の先輩が美容師の専門学校に行ってて、その実験台になるために伸ばしてたんだ」
「そうなんだ。いーなあ。美容師の知り合いがいるなんて。紹介して欲しいな」
「いいよ。面倒見が良い人だから、どんな風になりたいか話し聞きながら丁寧に切ってくれるよ」
「その人、南澤君のことよくわかってる人なんだね。良いところ引き出してもらってる感じ!」
「そう?」
相手はおしゃれに気を使ってる子だったから褒められて嬉しかったし少し照れた。俺が髪型を変えた時は北門はちょっと不服そうだったけど。
「あの人がトーマ先輩を自分好みの髪型に変えたんだ」
とか、カフェに来てた先輩のことをなんでかじーっと睨んでたっけ。似合わないかって聞いたら、「似合ってるから悔しいんです」って言われた。意味がわからん。
次回髪型を変える時にはなぜだか北門もついてくるそうだ。美容師の仕事に興味があるのかな? あいつが美容師になったら若い女性のお客さん殺到しそう。なんかそれ、ちょっともやもやするけど。
「今の髪型、すごくいいよ。あのもさもさよりずっといい!」
「……もさもさしてるって思ってたんだ」
「今はさらさらだね」
髪色はそんなに暗くないのに、それなりに量とうねりがあったからもっさりしていた俺の髪の毛だ。美容師の先輩が綺麗系に整えてくれて、額も出すスタリングに挑戦してみた。
俺の髪の毛は男家族兼用何百円のシャンプーから、北門と一緒に探して買ってきた、うねりをとるタイプのちょい高めのに変えたら大分落ち着いた。
こんなに違うんだって驚いたけど、値段も高くてびっくりした。髪の毛さらさらになりましたね、とか日に一回は触ってこられて、ちゃんと寝る前に乾かしてるのか確認される。今までタオルでささっと吹いただけで寝てたのがばれたからだ。北門はちゃんとお洒落に気を遣えているのが偉いと思う。
「なんかさ、すごくあか抜けたよね。アイドルのデビュー直後と一年後ぐらい違う! 最近イケメン君と並んでてもビジュ的に負けてないっていうか、いや、さすがに負けてはいるかもだけどなんていうか、二人とも対称的でこう、いい感じの。尊さ? そう。イケメン同士仲良くしてるから本当にこう、ああ、7組最高!」
ぶつぶつと早口で喋ってくる女子に閉口しつつ、俺もそろそろ扉の当たりが気になってきた。いつもだとそろそろあいつが訪ねてくる時間なんだけど。
するとスマホが律動した。「北門唯」と名前が見える。急いでスマホを取り上げたら『昼休み、行けなくなりました』と書いてあった。
なんだ、来ないのか。
「なに、捨てられた犬みたいな顔してんだ」
「え?」
友達に言われて気が付く。俺、しょぼっとした顔してたんだ。確かに気は抜けたけども、そんな風に顔にまで出ていたとは意外だ。
「北門、今日の昼休みは来ないって」
「ええええええ」
周りで聞き耳を立てていた女子から悲鳴に似た声が上がった。耳がキンキンする、ヤメテ。
「寂しそうな顔すんなって。俺らがいるだろ」
「いや、別に寂しそうな顔なんてしてないし。明日が美化委員の校外活動日だから、色々確認したかっただけだし。明日雨予報だから、もしかしたらやらないかもってさ」
「そうかあ? それにしちゃあ、あいつ毎日来てたのに、来なかったの初めてじゃないか」
「……そうだけど」
「下、見ろよ。いたぞ、イケメン野郎」
窓辺にいた奴の声で、何故だかよくわからないけど、クラスの半分ぐらいが窓のところに机にぶつかる勢いで集まって張り付いた。北門効果恐るべし。俺もその勢いに乗せられて、ついつい窓の下を覗き込んでしまった。
うちの教室の真下から、屋外のバスケットコートが見える。北門はそこで友人たちとスリーオンスリーをしていた。あいつバスケやるんだ。いいなあ。俺も混ざりたい。今度誘ってみようかな。
楽しそうにしている北門を見ると、なんか安心する反面ちょっとだけ寂しい気分になった。
「……あいつ、友達いたんだ」
ぽつっと独り言を呟いたつもりが、隣のサッカー部の奴に聞かれていたらしい。
「北門かあ? あいつ部内に友達多いよ。はっきり発言もするし、周りとの和も乱さないし、あの顔面で気遣いまでできていい奴だ。神様は不公平だろ。悔しいっ」
「そうなんだ……」
てっきり北門はあの雰囲気や風貌で周りから少し距離を置かれているんだとばかり思っていた。だから知り合った年上の俺を慕って、あんな風に会いに来てくれているのだと思ってた。
俺だけ、特別。
そんなのは俺の自惚れだったみたい。胸の中に変なもやもやが生まれて、慌ててそれに気がつかないふりをした。
北門たちの周りにはそれを見守っている女子の集団もいて、相変わらず放課後待ち伏せされたりしているのかなあと思ったりして、友達の中にはもう女子も含まれているのかなあなんて思ったり。
北門はさ、テスト前とか部活がない日は俺と一緒に最寄りまで帰ったり、バイト先についてきたりするんだ。たまに庭仕事したり、ホールの片づけの手伝いとかもしてくれて、密かにあいつ目当てで通ってくるお姉さんたちもいるっぽい。前に連絡先聞かれてたから。断ってたけど。
正直、何で目立つあいつが地味な俺の傍に居ようとするのか、よく分からない。それにまだ、スマホの待ち受けの事、聞かないでいるんだ。仲良くなったらなったで、少しでも気まずくなるような要素を避けたくなったから。ずっとこんな風に一緒にいたいなって思うようになったから。
「……あいつに友達がいてよかった。てっきり浮いてるから俺んとこばっか来てるんだと思ってた。よかった」
わざと自分に言い聞かせるように呟いた。すると俺の隣で窓の下を見下ろしていた、クラスの派手系女子が綺麗に巻いた長い髪をぱさっと振り払いながら言い捨てた。
「あいつ、そんないい奴なのかな」
意味深な台詞に、ぞくっとなる。
「それ、どういう意味なんだ?」
彼女の女友達が「なーに、怖い」とか茶化しながら、後ろからいちゃいちゃと伸し掛かったら笑顔を見せたけど、俺がじっと見つめたらばつが悪そうな顔つきになった。
「あいつさ、あたし、同中なんだけど」
「え、あいつ東中っていってたけど。それ、本当なのか?」
「違うから。あたし妹が1年下にいるからさ、卒アル載ってるし。あいつさ、中学の時、女子と次から次に沢山付き合って、そのたびに酷い振り方して泣かしたって噂になってたよ。たしか高校生とも付き合って聞いたし」
「え……」
寝耳に水だった。だって、あいつは……。女子が苦手で、困ってて。 俺と同じ中学だったはずの、北門。
「あんたの前ではさ、あんな感じだけど。女子には最低な男だからね。南澤は本当にいい奴だからさ、あいつの外面に騙されて欲しくない」
もう一度窓の下を見た。たまたま、北門が校舎の方を見て、距離が離れているのに、俺に気が付いた。スマホがまた鳴った。俺は心が急激に冷えていく中、それを手に取る。
『先輩、そっち行けなくてごめんね』
北門は相変わらず優しい声で、スマホを耳に押し当てた姿勢で俺に向かって手を振ってきた。手足が長くてスタイルがいいから、あんな風にさりげない動作もすごく絵になる。
だけど俺はあいつの綺麗な顔が、急に恐ろしく見えて、俺は手を振り返すのを戸惑った。
『明日、休みでも先輩に会えるの楽しみだな』
心の底からそう思っているような少し弾んだ声、なのに俺はなんていいっていいのか分からずに、「明日雨予報で、雨なら中止だから」とだけいって通話を切った。
翌日、清掃活動当日。俺は前の晩、クラスの女子に言われたことで頭がいっぱいになって中々寝付けなかった。そんな俺の気持ちを表しているみたいにどんよりと鈍色の空で、今にも雨が落ちてきそうだった。
美化委員会は活動日に集合するだけだと、委員である自覚が薄れてしまうから、月に一度は次回の活動の日時の確認や直近の活動の半生を行うことにした。
でも俺は担任や北門とも相談して、あの一年生の言うとおり、今後の緊急連絡には学校で登録している連絡網アプリを使うことにしたんだ。
今週は曇天が続き、昨日も夕方から雨が降った。夜には『明日の清掃活動は中止』とのアプリに連絡が来た。
今にも振り出しそうだけど一応曇り。これでは連絡網を見てなくて来てしまうやつがいるかもしれない。俺は念のため私服姿で商店街に行ってみることにした。
学生は不参加にしても、商店街の人たちはちゃんと清掃活動をするらしい。みんな揃いの蛍光イエローのビブスを着ていて、その上に念のためかレインコートを着ている人もいる。みな駅前にわらわらと集まっていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日雨降りそうだから高校生は来なくてよかったのに」
にこにこと出迎えてくれたのは去年の活動の時に色々と俺たちの面倒を見てくれた、東口商店街のおじさんだ。去年も見たことのある顔だとはお互いに思ったみたいで、親し気に声をかけてくれた。
「間違えてくる人がいるかと思って、一応見に来てみたんです。俺、今年は委員長なんで」
「おお、出世したねえ。今年もよろしくね、南澤くん」
俺がこうして見回りに来たのは、過去の体験に基づいての行動だ。
中学生の時、運動部が参加する駅前清掃活動があった。
それが雨天予定で中止になったから、朝から部活の活動があり、みんなをまとめていた部長の代わりに、副部長の俺が一応駅まで間違えていっているやつがいないか見に行った。
あの時は確か……。
「義理堅くきてくれて、本当に偉いなあ」
「まあ、今日は他には誰も来ないと思いますけど。俺は手伝っていきますね」
最初に声をかけてくれた女性が、ビブスとゴミを拾うトングを俺に渡してくれた。俺を見るなり「あっちにも一人来ているよ」と言われた。彼女が向いた方向に振り返ったら、ひと際目立つ長身が目に飛び込んできた。俺が見間違えるはずがない。
駆け寄ったら、北門はあのちょっと切なげな、放っておけないような表情を浮かべていた。
「北門、どうして?」
「誰か間違えてくる人がいるかもしれないと思って、一応来てみたんです」
そんなこと言われたら、一晩中抱えていた複雑な思いが吹き飛んでしまった。
「そっか! ありがと」
嬉しい、なんかすごく嬉しい。だって、中学の時、俺と同じように考えてこんな風に一緒に来てくれる人なんて誰もいなかった。なのに、こいつは来てくれたんだ。
それだけでもう、頭の上に垂れこめてた雲が一気に晴れ渡ったような気持になれた。
「よかった……。俺、先輩の事、怒らせてたのかと思った」
北門は迷子の子どもが、親に出会って心底ほっとしたような顔をしていた。俺が昨日あの後バイト終わったぐらいに寄るって言ってたのに「急いでるから」ってさっさと帰ってしまったから。他にも、色々……。
「どうしてそう思ったんだ?」
「昨日、ちょっと様子がおかしかったから。メッセージも、いつもよりそっけなかったし。俺、なんか先輩が気に障るようなことした?」
帰宅してから通話できるか聞かれたけど、断った。俺はなんでも物事を単純に解決したくて、ストレートに聞いてしまいたくなるから。
『お前本当は東中じゃなかったんだって? 付き合った女子を沢山泣かせたって本当?』
でもクラスの女子の言葉ばかりを信じて北門に気持ちをぶつけるのもどうかと思った。まだ頭の中がまとまってないうちに話しをしたくなかったんだ。
それで代わりにメッセージを貰っていたけど、確かにいつもより短文で済ませていたと思う。いつもの俺は、文章ですらおしゃべりで、聞き上手な北門相手に沢山くだらないことをしゃべりすぎてしまう。きっと普段とのギャップが激しかったよな。
「北門、あのな……」
「おーい。始めるよ。君たちうちのグループに入って。雨が振る前にちゃっちゃとはじめよう」
商店街の人たちが俺たちを手招きしてくれる。
「ごめん……、怒ったりしてないよ。後でちゃんと話そう」
せっかく仲良くなれたのに、俺たちの間に謎ばかりじゃ良くない。
俺は心なしか背を丸めた北門の手を引いて、呼んでくれた人たちの輪の中へと入っていった。
清掃活動は二人一組。軍手をはめて大きめのゴミ袋を持った北門と、借り物のゴミ取りトングを持った俺は商店街に並行してある国道沿いの大通りの担当になった。
ごみごみした路地よりゴミは少ないかと思ったけど、昨日の夜に風雨が強かったせいか、街路樹から散って落ちた葉っぱが路上にへばりついて滑りやすくなっていた。それを根気よくトングではがして捨てる。排水溝の前にたまった葉っぱもまとめて捨てる。
北門は街路樹の下に落ちていたペットボトルやレジ袋を手で拾っていた。
二人して黙々と作業していたから、「働き者で感心だねえ」なんて声がかかる。ちらり、と北門をみた。俺を見るとすぐはにかむ、あの笑顔が今日は見れない。
ずきっと胸が痛んだ。他人がどう言おうと、噂が真実だったとしても、今のこいつを見てやるのが大切なんじゃないのか。
俺だって……。俺自身で考えて求めて探し出したことで認められたかったから、バスケを止めて別の道を模索してるんじゃないのか。それは今の自分を評価してもらいたいって思ったからじゃないのか。
雨は三十分と経たずに落ちてきて、瞬く間に雨脚が強くなった。中止の声が掛かって、レインコートどころか傘もさしていない俺たちはすぐにTシャツに雨の染みが走る。
スマホだけ死守したくて鞄を下げたお姉さんに頼んで持ってもらう。引き上げの連絡を受けて、集合場所に向かってとぼとぼと歩き出した。
「袋、重くなっただろ。持つの代わるぞ」
「大丈夫です。俺の方が力があるし」
「いいって。貸せよ」
「いやです」
なんだか頑なな北門にむっとして、俺はゴミ袋をひったくろうとした。北門がひょいっと腕を振りまわしてそれを躱す。腕のリーチの違いがずるい。
「俺のが小さいからって、バカにしてんのか?」
「そんなこと、一言も言ってません」
「じゃあ、貸せよ」
「俺じゃ先輩の役にたちませんか? 任せられない?」
「そんなこと言ってないだろ」
「おい、なんだ喧嘩かあ?」
大人たちが心配そうに俺たちを振り返る。
「こっちこい。事務所でちょっとなんか食べてからかえりなあ」
ちょっと遠くから商店街のオリジナルジャンバーを着たお爺ちゃんが声をかけてくれた。ああ、もう何やってんだろ。どうして北門相手だとこんなに心がゆらゆらするんだろう。
俺は恥ずかしくなって、北門を置いて先に駆け出そうとした。それで罰があたったんだ。マンホールにつるっと足を取られた。
「ぎゃああ!」
「先輩!」
トングを振り回しながらひっくり返って、お尻を地面に叩きつけるかと思った。だけどそうはならなかった。無様な声を上げてひっくり返りそうになった俺を、北門が後ろから俺に飛びついて助けてくれたんだ。
身を挺して俺を守ってくれた、北門の腕の中から慌てて振り返る。アスファルトの水たまりに尻もちをついている北門の両肩に手をかけた。
「ごめん、ごめんな! 怪我はないか?」
「大丈夫ですから、慌てないで」
雨の雫で前髪が余計に目元にかかっている。北門は男っぽい仕草で軍手を取り去ると、片手で前髪をかきあげた。
雫の落ちる綺麗な額、形よい眉もすっと通った鼻梁も、そして煌めく大きな琥珀色の眼差しもいつもより強い印象で俺を捉えた。
その時、不意になんだかこの光景、前にも見たことがあるような、そんな気がしたんだ。滑り落ちる雨、ずぶ濡れの黒髪、くっきりとした二重の大きな瞳に、ぐっと引き結んだ、強情そうな口元。大人たちが慌てて俺たちを取り囲むが、俺はもう北門の事しか見えなかった。
「……北門、俺たち前にも、会ったことがある?」
※※※
「入っていいよ。誰もいないし」
「お邪魔します」
誰もいないといってもちゃんとお邪魔しますって言いながら俺の後ろを追いかけてくるのなんかだか可愛い。こんなにデカい男だけど、でかい男を見慣れた俺からしたらやっぱりまだ線が細いなって思える。
さっき福島出身だという商店街のお店のおじいちゃんが、白虎隊の『蛍狩りの約束」って初耳のエピソードを出してきて、俺たちの事をねぎらってくれた。
雨で蛍狩りは出来ないってわかっているのに、相手との約束を大切にして約束通りに家を尋ねてきた少年の話だそうだ。雨の中でも律儀にやってきた俺たちのことが気に入ったんだってさ。
『商店街で大学生と合同でやるイベントを企画してるんだけど、君たちみたいな高校生にも参加してもらいたいな』と他の商工会の人にも言われた。また二人で商店街の事務所を訪ねる約束をした。商店街の人にタオルで身体を拭かせてもらって、沢山のお菓子やコロッケ、パンなんかのお土産を沢山持たされた。
それで俺たちは、一度俺の家に戻ることにした。北門が俺のせいでタオルじゃどうにもならない程ずぶ濡れになってしまった。
尻もちをついたせいでズボンやパンツはおろか、全身ずぶぬれになっていた。五月間近でも四月の雨は冷たくて、とても家まで帰れる状態じゃない。俺のせいだから、俺が責任を取りたい。
玄関先で靴下になったら俺も足先までぐっしょりと濡れていた。このまま歩いたら母さんにどんな目に合わされるだろう。想像するだけで恐ろしい。
「身体冷えたよな。シャワー浴びなよ」
下着は帰り際にコンビニで買ったから、あとは体格的に俺よりは大きい兄貴の服を拝借することにした。まあ、兄貴の服なんてほとんどスポーツメーカーのジャージかTシャツ、パーカーばっかだけど、ないよりましだろう。
「先輩が先に浴びて」
「いや、いいって。お前が先に入れてって。着替えとか用意してくるから」
じいっと見つめられたから首を傾げたら、「じゃあ、一緒にはいろうか」とかイケボを繰り出された。
「はあああ、いや、いやいや、無理だって!」
「男同士なのになんで? 先輩、俺の事、意識してる?」
「な、なにいってんだよ!」
冗談だってわかってるのに、じっと見つめられたらやたら落ち着かない気分になってしまう。女子の言ってた、女の子を泣かせていたの、あながち嘘じゃないと思ってしまう。なんというかちょっと魔的な魅力があるよな。
「分かりました。先に入ります」
「ああ、でももう、風呂に浸かった方があったまるかも」
浴室に飛び込んで風呂の栓をして、お湯を張る。北門を風呂に放り込み、急いで兄の部屋まで行って兄が唯一持っている俺の好きな海外バスケチームの紫色パーカーと、灰色のスエット、適当なTシャツを手に取った。
「タオルと着替え、ここ置いておくからな!」
「ありがとうございます」とシャワーの音に交じって北門の声が聞こえた。
なんかすごいな、と妙な高揚感が押し寄せてくる。
今まで仲良くなったチームメイトにだって家で風呂を貸したことはない。まあ中学は近所だし、友達が止まりに来たこととかなかったから当たり前だけど。ホカホカの湯気を頭から出しながら出てきた北門を、俺の部屋まで案内した。そんなに広くないけど一応一戸建て、一番奥に俺の部屋と兄貴の部屋が隣同士である。
「ごめん、ソファーないから、適当に腰かけてて」
自分も慌てて風呂につかって、着替えをして洗濯をした。後で乾燥機を回しておかないといけない。さっき貰ったお菓子やペットボトルなんかを持って部屋に戻った。
自分の部屋に北門が座ってる。身の置き所がないのか、ベッドに背をもたれかけて、長い脚をおりたたんでちょこーんって擬音が付きそうな感じで座ってた。北門が自分の部屋にいるだけで、妙に非日常な感覚になる。
「はは、なんかこの眺め、新鮮だな」
「いろいろ。服とか、タオルとか。ありがとうございます」
「こっちこそごめんな。洗って乾燥機かけるけど……、縮むかも。普通に乾かした方がいいかもな。うちは縮むこと想定してでかいサイズの服買ってるから」
「なんか、お母さんっぽい」
「悪かったな。うちは母さん看護師でいそがしいから、家事はみんなで分担してるんだよ」
そういってから、こいつの家は父親と二人だから当たり前にやってるだろうなと思った。
「うちも乾燥機使ってます。だから、多分大丈夫」
「そっか。これ、どっち飲む? お前先に選びな」
「こっち」
スポーツドリンクを手渡して、ベッドに置いておいた抱き枕をクッション代わりに手渡した。
「お尻痛くなるぞ。これつかいな」
「はい」
並んで座ってお茶をあおって、その後で北門が髪の毛からぽたぽた水を垂らしているのが気になって、俺は北門が首に巻いていたタオルを頭の上にかぶせた。
「風邪ひくって」
わしわしわし。髪の毛の雫をふき取っていく。夢中になりすぎて、きつくしすぎたのか、タオルを動かしていた俺の手を北門が握ってきた。
「先輩」
「痛かったか?」
立膝になった俺を見上げる瞳、綺麗な額が露わになって顔立ちがすっきりよくわかる。俺はじっと検分するように、あの日の少年の面影を北門の中に探し出す。
「……やっぱ、お前」
確信した。やっぱり、お前あの時の……。外の雨音が強くなる、雷雨に変わったみたいだ。頭がどんよりと重たい。寝不足がここにきて身体も瞼も重くさせる。
「俺、ちょっと寝るから。一時間経ったら起きるから。その辺の漫画とか好きに見てていいよ……」
スマホのタイマーをかけて、のそのそとベッドによじ登る。ごろり、と敷布団の上に身体を投げ出した。
「先輩、そのまま寝たら風邪ひきますよ」
俺がさらにベッドの端に転がっていったら、北門は面倒みよく、俺の下からガーゼケットを引っ張り出してかけてくれた。
「くしゅ」
布団を動かしたから埃がたったせいかもしれないが、北門がくしゃみをした。俺は壁側に転がったまま、ぽんぽんと背中側の空いてる布団を手で叩く。
「お前も寝ていいぞ」
「え……」
「雨降ってきたら、なんか寒くなってきたな。風邪ひくぞ」
流石に引いたか、と思ったがベットが重みでぎっと少しだけ傾ぐ。すぐ背後に人の気配がした。
「狭いよな。ちょっとまってろ」
窓側にさらに寄ろうとして、転がり落ちそうになったのを前に回った長い腕が制してくれた。そのままぐっと身体を後ろに引き寄せられる。いわゆるバッグハグ状態になった。
「これで、落ちない」
また、耳をくすぐるイケボ。湯上りの身体はぽかぽかと暖かくて、まるで大きなワンコを膝に乗せているみたいだ。はあああ、なんか照れるが。でも暖かいのが心地よい。
いや、この場合、抱きかかえられている俺の方がワンコなのかも? どっちでもいい。温かくて居心地がいい腕の中だ。
軽い清掃活動ぐらいで疲れたも何もないが、雨に当たって冷えた身体を昼間なのに湯につかってしかも寝不足、もはや瞼がくっつくのは待ったなしだ。
「なんか、格好悪いとこばっかみせて、ごめんな。俺のが年上だから、しっかりしてなきゃいけないのに」
これでもさ、昨日の態度も昼間の事、反省してるんです。なんでだろ、なんで北門相手だとただ親切にしたいってだけじゃなくなって、感情がコントロールできなくなっちゃうんだろう。
「ごめんな……」
ああ、情けない。
「俺は嬉しいですよ。それって全部、素の先輩が俺だけ見れてるってことでしょ?」
「え……」
「俺にだけ、甘えてくれたらいいんです」
吐息のような静かな声だけど、内容は俺の心音を早めるのに十分だった。こんなにくっついてたら、北門にバレそう。
でも、ばれてもいいか。こいつになら何て思われてもいいか。
前に回ってきた北門の腕を身体に巻き付ける。
ドキドキするのに、こうしていると抱き枕みたいで落ち着く、ずっとこうしていたいなって思ったら、北門も同じように思ってたのか、「抱き枕みたいで、落ち着く」って言われた。
誰かと同じ気持ちでいられることの喜びが胸の中に溢れてきた。バスケの試合で感じたものとはまた違う心地よさに俺はちょっと、うっとりしてしまった。
ざーざーざー。雨の音。窓にぱちぱち、雨粒が打ち付け、弾けてる。
それ以外はすごく静かで、お互いの吐息や身じろぎする音だけが静かに耳に入ってくる。
「人とずっとこの距離感でいられるの、久しぶり」
「そうか?」
「嬉しい」
その一言が見た目より重たい雪の塊みたいにずしっと聞こえた。抱きしめられた腕に少しだけ力が籠る。俺はなだめるように手を動かし、小さい子を寝かしつけるみたいにパーカーの袖を軽く叩いた。
俺には結構スキンシップが激しい兄貴がいる。だけどこいつは両親が離婚して父親と二人暮しで、ちょっとまだ人恋しいのかな。こないだまで中学生だったものな。それもそうかと思った。
「暖かい、ずっとこうしていたい」
そう言って俺の方に額を押し付けて、まるで俺がいつもTレックスのぬいぐるみにしてるみたいに、もっと全身を使って毛布みたいに抱え込まれた。
俺の方がでかかったら逆に包んでやりたかったのにな、って残念に思う。
「先輩、いい香りがする」
首筋に当たる、あいつのまだ少ししっとり濡れた髪の毛がくすぐったい。
「これかあ? ラベンダーじゃないかなあ。母さんがはまって買ってる、海外の量り売りの石鹸」
「癒される」
「ラベンダーはそういう効果があるんだって。俺はお前のがいつもいい匂いしてると思うけどなあ」
「俺が?」
「流石イケメン、香りまでイケメンって思ってるもん」
本人を前にしてついつい『イケメン』とかいったら、後ろで北門がくすっと笑った。
「先輩あのね」
「なに?」
「いい香りだなって思う相手とは本能的に相性がいいんだって」
「へーえ、……えっ?」
「先輩も、いつもすごくものすごくいい匂いだよ。安らぐ」
ぎゅっとさらに抱きしめてくる腕に力が籠る。だけどなんだか縋られているような感じで放っておけない気分になった。
ああ、こいつやっぱり寂しいのかなって思う。こんな風に甘える相手は他にいなかったのかな。
俺にだけ甘えるの、なんかいいな。とか思ってしまった後で、いや、そんなこともないだろうと思い直す。
昼間学校でこいつの周りに友達らしき奴らや遠巻きにでも見守ってる女の子が沢山いただろ。きっと俺だけが特別なわけじゃない。
不思議だ。そう思ったらなんだか泣きそうな気分だ。胸にチクって小さな棘が刺さったような感じ。バイト先で薔薇の手入れをした時に刺さったあれ。あんなに小さいのにものすごく痛かった。なんてことはない、友達の一人が別の奴とも仲良くしてるとか、いいことじゃないか。なのになんでこんな……、ずき、ずきって。
この胸の痛みって、どうやったら解放されるんだろう。距離を取るしかないのかな。
「お前なら、甘えさせてくれる人、沢山いるんじゃないか。……昔、付き合ってた相手とかさ、いたんだろ?」
昼間女子から聞いた話を匂わせてみて、なんでこんなこと聞いたんだろうってすぐに後悔が波のように押し寄せてきた。
「ごめんっ。踏み込みすぎた。今の質問、なし!」
前に逃れて物理的にも距離を取ろうと思ったのに、尚更腕の中に強く囲われた。あんなに雨に濡れたのに、風呂上がりの二人の体温でもう、ガーゼケットの中は暑いぐらいだ。
「暑い、離せって!」
だけど北門は俺を離さない。
「……誰かから、俺の中学ん時の噂とか、なんか聞きました?」
その上意外にも北門の方から先回りして気になっていた話を広げられてしまった。
こっちからタイミングを図って聞きだしていこうと思っていたのに。心身ともに退路を断たれた気分だ。
何かしら言い逃れを考える前に、嘘が付けない俺の身体はビクッとすぐ反応してしまった。こんなの動揺が相手に分かりまくりで自分が情けない。もっと堂々としていたいのに。
「やっぱり、だから先輩、急に俺に冷たくなったんだ」
「ごめん」
「謝るってことは、俺より噂の方を信じたんだ」
耳元で吐き捨てる声は急激に温度を失っていた。
「それは違う!」
今、こいつの信頼を失うことは耐えられそうにない。
俺は怖くなって、ぎゅうって北門の腕を掴んで否定した。せっかく仲良くなったんだ。これからも北門と、もっと一緒にいたいと思ってるんだ。
気のいい部長でも、なんでも引き受ける頼りがいのあるクラスメイトでもない、素の俺を晒せる「陽だまり」での、素のまんまの俺をこいつには見せてもいいなって思ってたから。
俺は北門の腕からなんとか抜け出して身を起こす。
「俺は、お前の口から、直接話を聞きたいって思ったんだ。ただの友達の俺に、お前の全部を知る資格なんてないのかもしれないけど、でも、俺。どうしてもお前のことが知りたい」
「先輩……」
「昨日は色々と、無視するみたいになってごめん。でも俺、お前にとって都合の悪いことも、言いづらいことも、逃げずにちゃんと教えて貰いたかったから。通話とかメッセージじゃなくてさ、会って話したかった。じゃないと今、お前がどんな顔してんのか、分かってやれないだろ。今みたいな顔してても、気がついてやれないだろ」
今みたいに泣きそうに切ない顔で俺を見上げる、お前の中の悲しみを見過ごしてしまうのが、俺はどうしても嫌だった。
「先輩が、俺のことを、知りたい?」
「うん」
「先輩、俺の何が知りたいんですか?」
全部知りたい。そう叫びそうになったけど、ぐっと一度唇を引き絞って、そのあと大きく息を吸う。順序があるだろう、ちゃんと今聞きたいことを優先しろよ、俺。
「クラスの女子が言ったんだ。お前は東中じゃない別の中学で出身で、そこで女の子沢山泣かしてたって」
北門は一度、絶句したように黙った。俺はたっぷりとした間を受け入れて、何を聞いても落ち着いていられるように、俺自身も心の準備をしたんだ。
「……どう話したらいいんだろ」
「どうとでもいい。話してくれ。どんなお前でも、ちゃんと受け止めるから」
「燈真……」
ああ、なんて切ない声で俺の名前を呼ぶんだろう。
胸がちりちりって痛んで、愛おしいけど哀しいような、複雑な感情が沸き起こってくる。
左手を伸ばしてきたから、俺は正面から右手で受け止めて、手のひらを合わせた。
俺を見上げる北門は気だるげで、陰を帯びた表情は大人びて見えた。苦し気な表情、いいたくないんだろうな。そうだろう。
でも大丈夫。大丈夫だよ。怖くないよ。
俺はもう一度こいつと目線を合わせようと手を繋いだまま、向かい合わせにベットに横たわって微笑んだ。
「……なあ、北門。俺さあ」
「はい」
「お前の事、思い出したよ」
「……」
「あの時も、こんな雨が降ってたよな」
「……はい」
「お前は、確かに東中だった」
「はい」
「あのあと、引っ越した?」
「……はい」
「そっか。納得」
「先輩……」
「眠いから……。少し寝て、起きたら、色々話そ。俺が高校でバスケ部に入らなかった理由も、ちゃんと話すよ。だからお前も、俺に話してくれよ。あの日から今までの、お前の話」
北門が中学の頃の俺を知っていることは明らかだけど、でも俺にはあいつに覚えがない。あんなに目立つやつは、流石に学年違いでも目立つと思うんだよな。
「なあ、俺って中学んとき、何部だったと思う?」
昼休み。兄貴が握ったでかでか梅干しおにぎりの最後の一口を飲み込んでから、隣の席のクラスメイトに尋ねてみる。
「何だ急に?」
「いいから答えろって」
「うーん」
クラスメイトは勿体つけるみたいにたっぷり間を開けてにかっと笑った。
「陸上部かな? こないだダントツで早かったよな! 体育祭のリレー担当決定だろ」
「おお、そっか。そう思うか」
この間体育の授業で測った短距離のタイム、高校生だし真面目に走らない奴もいるかもだけど、俺がクラスで1番速かった。
周りでゲームの話をしていた奴らもこっちの会話に気が付いて口々にサッカー部だの吹奏楽部だの色々言ってきたけど、正解は当たりそうで当たらない。
「こいつ、中学ん時、バスケ部だぞ」
そしたら去年も同じクラスだった奴が通りすがりにバラして行った。
「あー。バラすなって」
「去年球技大会でうちのクラスが学年優勝できたの、こいつのお陰だし。動きみりゃあ絶対分かるよ。すげぇ上手いから。なんでバスケ部入んなかったんだかな」
『なんでバスケ部に入らなかったんですか?』
あいつに言われたのと同じ台詞だ。びくっと身体が反応してしまう。
「え、バスケ部だったの?」
お互い座った状態ではあったけど、クラスメイトが俺の頭のてっぺんから足先まできょろっと視線を動かして感心するように「へー」って声を出し、目をまんまるにした。
「何その反応。バスケ部に見えねぇとか思ったんだろ。あんま背ぇ高くないし」
「ええ、でもトーマ、身長170はあるだろ? 俺なんてギリない、168!」
「まあそうなんだけどさ。兄貴も親父も180センチ余裕で越えてるから。兄貴とか188センチあるし」
「そうなんだ! でっかいなあ」
「そうそう。俺だけがちっさい。兄貴ぐらいあったらよかったんだけどな。それだとあちこち頭ぶつけないといけなくなるけど」
自分で言ってちょっと卑屈に聞こえていたら嫌だなあと冗談を交えてみたが、周りはニコニコした顔のままでほっとした。
うちは四人家族だ。高校教師でバスケ部の顧問をしている父と、看護師として忙しく働いている母、それと四つ年上の兄貴だ。
兄貴は名門バスケ部のある私学の高校に進学して、大学でもバスケ三昧、ずっと結果を残し続けてきた。
兄貴は中学ですでに身長が170半ばを越えていて、主将でエース。将来は父親みたいな指導者になりたいらしくて、教育学部に進学。学業もおろそかにしない上に結構なイケメン、身内の贔屓目で見たとしてもけっこうなチート野郎だ。
小さい頃から面倒見のいい兄貴の後ろを追いかけてきたから、遊んでもらうのもバスケ絡みのボール遊び、だから俺も当たり前のように、小中とバスケをやってきた。バスケ部で部長をしていた兄貴を意識しちゃって、みんなから『部長は燈真がいい』なんて担ぎあげられたのもあって、二年三年と副部長と部長を歴任した。
といっても俺は兄貴とは性格も見た目も全然違う。精神的にはタフだけど華奢な体格の母さんにそっくりで、バスケ部の中では背も低い方だった。プレイも、長身を生かして繰り出すシュートでばしばし得点決める兄貴に比べたら華やかさにかける。だけど、チームを助けるアシストや献身的なプレイに命かけてた。
うちの代のバスケ部は気も荒い奴も多かったから、キャプテンとしてみんなをまとめるのは骨が折れたけど、バスケも、チームメイトも大好きだったからみんなの世話をやくのも嫌いじゃなかった。嫌いじゃなかったんだけどなあ。
だけどいつからか、これは俺が俺自身で選んできた道なのかなって思い始めたんだ。
急に女子の話し声が一段と高く大きくなった。水筒を煽っている時に視界の端、教室の入り口にすらりとした長身の男がいた。
え、北門? どうして?
思いがけない来客に驚いて、手元が狂った。麦茶がごぼぼっと口の端から溢れて顎まで流れてきてしまった。冷たてぇ! 慌てて口元を手の甲で拭った。
「おーい。燈真。お客さんだぞ」
うちの学校は最上階とその次の階が一年生、三年生は一階に全クラスある。だからここは二年だけの階だ。俺が一年生の時なんて恐ろしくてこの階に立ち止まったことなんてなかったぞ。だけど北門はクラスメイトの隣からこっちを見て、落ち着き払った状態で俺に軽く会釈をしてきた。やっぱ俺の事を訪ねてきてくれたみたいだ。何の用だろう。
後輩が訪ねてくれるなんて気恥ずかしい。俺はちょっと頬を緩めながら、片手を上げる挨拶を返して立ち上がる。
きゃあきゃあと弾けるような歓声が教室に残っていた女子の間から沸き起こる。まるでアイドルでも見つけたファンの集団みたいだ。
いつも5.6人で弁当を食べている女子グループから、誰にでも馴れ馴れしく話しかけてくる子が猫みたいに飛び出した。机の間を器用に通りながらわざわざ俺のところまでやってくる。
「ねえ、あの人と知り合いなの? 1年の北門くんだよね」
「美化委員会の、後輩」
「なにそれぇ。私も美化委員になればよかったあ」
あまりにもストレートな感嘆の声に面食らう。北門、四月に入学したばかりなのに二年の女子にまで顔が浸透しているらしい。イケメンパワー、恐るべし。
俺が北門がどうしてここまで来たのか図りかねて立ち止まっていたら、その女子にぐいっと引っかけるようにして腕を組まれた。
その子は自分が魅力的ってことをよくわかっていて、馴れ馴れしい感じが逆に相手に喜んでもらえるって自信たっぷりな態度だ。
確かにこの距離感を喜ぶ男子も多いかもだが、俺はこんな風に急に相手から距離を詰められるのはちょっと苦手だ。男兄弟で育ってきたから、今も内心は女子と一対一で話すのは腰が引ける、恥ずかしいけども。
「ほらあ、待たせちゃ駄目だよ」
流石に女子の腕を強引に振り払うのはどうかと思って、されるがままでいたら、彼女は悪びれもせずに俺の腕を掴んで北門の元まで引っ張っていった。
その後もちゃっかり俺の隣を陣取って、興味津々といった顔つきで俺たちを見上げてくる。北門はそんな俺と彼女を見比べてから、形のいい眉毛を分かりやすく顰めていた。そうだよな、引くよな。俺だって引いてる。
「燈真先輩、美化委員のことで、ちょっといいですか?」
「燈真先輩だって!」とか茶化すような声もちらほらと聞こえて、昨日から続いていた名前呼びは結構気恥ずかしい。
「美化委員……?」
何か話すことなんてあったかな? なんて思ったけど、北門の何か言いたげな様子を察して俺は大きく頷いた。
「わかった。で、何?」
わかっているんだかわからないんだか、我ながらへんてこな返事を胸を張って応える。北門はちょっと笑って俺を目でからかってくる。
「先輩の事、ちょっと借ります」
「いいよお! 連れてっちゃって、また遊びに来てね」
逆の腕を今度は北門の大きな手に掴まれた。手首、というよりほとんど手を握られたに等しい。賑やかな教室を後にして、そのまま北門は俺を廊下に連れ出した。すんっとした表情をしてるくせに、すげぇ強引な奴め。
昼休みを使って廊下で自撮りしている女子、以前のクラスメイトと廊下で喋っているやつ、教室に戻ってこようとしている奴、二年生の廊下は意外にごみごみしている。
その間を長身で目立つ容姿の北門は迷いなく真っ直ぐ歩く。そんな北門に腕を引かれて、もっさりした髪を揺らして走る俺。そりゃもう。めっちゃみられてる。まずは北門を見て、その後後ろの俺を見て、みんな一様に驚いた表情を浮かべる。
だよなあ、意外な組み合わせ。美化委員、俺ら美化委員です!って叫びたくなる。特に繋いだ手に視線が集中するのが恥ずかしい。
「どこいくんだよ?」
まさかこのまま一年の廊下まで連れていかれるのか? と思っていたら違った。一階まで降りて、先生の前は北門もややスピードを落とす。通り過ぎたらまたスピードが上がり、自販機の並ぶちょっと広い廊下の角や渡り廊下を越えて体育館へ渡る通路までやってきた。そこをさらにずんずん進む。ここまで来ると流石に人気がなかった。
だが北門は止まらない。もはや裏の公園の木々の影でちょっと暗いあたりまできてようやく立ち止まった。
風がザザザと木々を揺らす。涼しい風が吹いてきて心地よい。いつもの昼休みじゃない、新鮮な気分に俺は背筋をうーんと伸ばした。
「はー。すげぇ遠くまで来たな。戻るの大変だぞ」
「先輩との話、誰にも邪魔されたくなかったんで」
しれっとそんなことを言う。なんだか特別扱いをされているみたいでくすぐったい。
まあ確かに。あのままあそこで話をしたら何から何まで聞き耳をたてられて大変だっただろう。俺も「そうだな」って理解を示して、体育館の下窓の前の手前に腰を掛けようとした。だけど、北門が何故か繋いだまま離さずにそれを阻んできた。
「おい」
腕を取り戻そうと引っ張り返したのに、体幹が強いのかあいつはびくともしない。北門は目尻を吊り上げ、怒ってるみたいな顔つきになった。なんでだよ? 俺ちゃんとついてきただろ。
「あの人。トーマ先輩の彼女ですか?」
「はあ? 何いってんの?」
聞かれるとは思ってもみなかった問いにはすぐに答えを返せないものだ。ただそれだけなのに、躊躇したと思われたのだろか。
「答えて」
矢継ぎ早に急かされた。俺は何もしてないのに、なんで怒ってんだよ。むっとして睨み返す。そしたら手首をすごい馬鹿力でぎゅうっと握られた。思わずこっちも乱暴な声が出る。
「おい、離せよ! 痛いって!」
痛がる俺に北門が怯んだ。その隙に腕を奪い返して、大げさに手首を摩る。
めっ、乱暴は駄目だぞ。そしたらあいつは怒られてしょげた犬みたいにしゅんとした。
「すみません……」
あっちのほうが俺よりずっと痛い目を見たみたいな顔だ。俺は急に可哀そうになって北門の両腕を外側からぽんぽんってやった。
「あー、うそうそ、大丈夫だから。お前がなんか喧嘩腰だったからムキになっただけ」
「喧嘩腰……、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、なんでそんなに、気にするんだよ。あー。あの子のことが気になった? 一目惚れとか?」
「違います」
冗談のつもりで言ったのに、食い気味に強く否定された。その目つきの激しさに、俺は胸の辺りを無意識に抑えて一歩下がり、北門の剣幕に押され背中をのけぞらせた。
後ろは公園との境にある柵で、これ以上は後ろに下がれない。間髪入れずにがしゃんって俺の両側で音が立つ。北門が正面から両腕で俺を囲うようにして金網を握ったからだ。
「北門?」
「なんで気になるんだと思います?」
逃げられない状態で、覗き込んでくる琥珀色の綺麗な目。こいつの眼差しの強さに心を真っ直ぐに射抜かれる。もったいぶるつもりはなかったのに、衝撃で言葉がうまく出ない。
「ええと……」
熱っぽい視線、掠れて切なげな声。こんなのまるで、こいつがあの子に嫉妬でもしてるみたいだろ。
だけどなんでって? なんでって……。俺の方が聞きたいよ。
北門、お前が俺の写真をロック画にしているのは、なんで?
それってさ、もしかして……。でも俺、男だし、こいつ女子にモテモテだし、いやそんなはずは……とか。色々頭を過ってしまう。
そんで顔が、すっごく近い、近いって! ちょっと顔を動かしたら唇が触れてしまいそうだ。心臓バクバクしてきた。その綺麗な顔で人の息の根を止められるぞ、お前っ!
「……なんで、あいつと俺が、付き合ってるとか、思ったんだ」
なんとか絞り出した声は情けないほど小さくなった。
「親しそうだったから。あの人、燈真先輩に触ってた……」
「ああいう感じの子なんだよ。誰に対しても」
「……誰にも触らせたくないのにな」
北門はまるで独り言みたいに呟いた。
逃げられないからせめて下を向いてたのに、北門の手が俺の重たい前髪をかき上げて、目線を合わせようとしてきた。
「親し気っていうなら、お前だって」
最初からすごく距離近かっただろう。その度にこっちは無駄にドキドキしてんだよ。
この距離感、友達ならまあギリ許容範囲、ドキドキすんのも変だろって思おうとしても、やたら妖しい雰囲気で熱っぽい目で見られるとグッチャグチャにかき乱されて変になりそうだ。
文句を言いたかったけど、またもや、うまく言葉にできない。昨日からお前の事で頭がいっぱいになってしまっているなんて、恥ずかしくて言えるわけない。悔しくて目の端に涙が浮かんできた。ぎょっとした顔をした北門に引き寄せられて、肩を抱かれて頭をよしよしとされてしまった。
「ごめん。怖がらせた」
頭をこてっと肩に押し付けられて、俺はされるがままだ。あああ、なになに。昼間の校内でなにやっちゃってんの、俺たち。
「一年なんて、……怖くねぇしっ」
北門が長い腕で俺の事を真正面から抱き寄せてきた。
「ごめん……。俺、あの人が先輩の彼女なのかと思ったら、なんか腹の当たりが苦しくて、熱くなった」
「ただのクラスメイトだし」
顔が見えない状態で耳に熱い吐息が当たりながら囁かれる。
「トーマ先輩は俺の面倒だけ見てくれればいいのに。誰からも親しげにされるんだね」
なんだそれ。こっちはもう、ぶわあああっと余計に顔が熱くなった。あああっ! こいつ、なんなん。いちいち言い方が一つ一つ、すげぇ思わせぶりでこっちは心臓がばくばく、運動した後でもないのに足がなんかふらつく。
がばって顔を起こして北門の胸に手をついて距離を取る。
「俺は、彼女いないから。むしろ女子の集団はちょっと苦手だし。それ、お前と一緒」
「そっか。先輩も……」
「ああ」
「苦手なのに、昨日頑張って追い払ってくれたんだ。俺の為に」
「まあ、そ、そういうことになるなあ」
北門の綺麗な顔、表情が急に明るくなった。何、嬉しそうにしてんだよ。照れるし、やめろって。
「なんかお前といると、調子狂う……」
「そうですか? 俺は先輩といると、楽しいです」
「楽しいのか?」
「楽しいです」
「……昨日、初めて会ったばっかなのにか?」
俺としてはいつもみたいに直球を使わずに鎌をかけてみた。北門が僅かに目を見開く。俺はごくりと喉を鳴らした。
「相談したいことがあったんです」
鮮やかに会話をそらされた。俺はそれ以上うまく会話を元に戻せるテクニックを知らなくて「なんだ?」と聞き返した。
「昨日先輩のバイト先で借りた容器。返しに行きたいんですけど」
「あー。そんなん普通に聞いてくれたらよかったじゃん」
北門は腰に手を当てて俺を見下ろしてきた。
「まだ連絡先聞いてなかったんで、繋がってください」
「あ、そうだったな」
北門がスマホを取り出してきた。これはチャンスだ。ロック画のことをさりげなく指摘しよう。北門の動作を固唾を飲んで見守ってたのに、俺の目の前に晒されたのは友達追加の画面だった、くそう。
「これでよし、と。ああ、でもさ。俺に渡してくれてもいいよ。返しとくから」
「ちゃんとお礼が言いたいから」
「そっか」
「次、先輩がバイトに行くときに、俺も一緒に行っていいですか?」
「それは構わないけど。お前部活忙しくないの?」
「うちの高校の部活って、中学の時よりずっと緩いっていうか……」
「ああ、確かに二年の半ばでもう受験の準備はじめるからってあんま活動しないやつもいるぐらいだもんなあ」
「先輩は塾とかもう行ってるんですか?」
「うちに凄腕の塾講師がいるから……。まあ、兄貴っていうんだけど。一応親父も高校教師だし」
「すごいですね」
「別に、あの人たちがすごいだけで、俺は普通だし。受験目前になったらいくかもだけど、今のところは分からないところだけ兄貴に聞いたら困らないから」
「賢いですね」
「確かに、兄貴はスポーツ推薦も受けられたのに、外部受験で大学入ったからなあ。頭いいよ」
「先輩が、ですよ。分からない部分の要点だけ聞けば理解できるってすごいことでしょう?」
「……そんなことないよ。塾にほとんど通わなくても、頭の作りがそもそも違う兄貴はすんなりと大学に合格していた。そういう化け物が近くにいると、俺なんかって……」
じっと見てくる視線に耐え兼ねて、俺は後ろを向いて金網をがしゃんって引っ張った。
「まあ、それはいいとして、今日バイト行くから、部活帰りによれば?」
「そしたら、先輩と一緒に帰れる時間がいいです。何時に終わりますか?」
「片付けが終わるのは9時ぐらいかな。8時閉店だけど閉店した後も常連さんが居残っててオーナーとおしゃべりしてるのを、俺も一緒になって喋っちゃったりしてるし……」
先ほどとは打って変わって北門は俺の隣で柵にもたれて、機嫌よさげに微笑んでいる。あんまりにこにこしてるから、バカにでもしているのかと思って俺はむうっと口を尖らせた。
「おい、お前。俺の事、お喋りなんだなって思っただろ」
「え? 思ってませんけど」
「そうかあ? 男なのによく喋るって家族によく言われるけどなあ」
「別にいいじゃないですか。明るくて。……俺の家なんて父親との会話はほぼありませんよ」
二人家族でそれは寂しいよなって思ったけど、なんて答えていいのか分からなかった。お喋りを自認してるのに、こんな時気の利いたことが言える大人になりたい。逆に気を遣わせたのか北門があのちょっと寂し気な微笑みを唇にだけ浮かべた。
「そんな顔しないでください。俺の傍では笑ってて、おしゃべりしてて、先輩らしくいてくれたらいいんです」
北門は優しい目をして俺を見下ろしてくる。やっぱり前から俺の事を知っているような口ぶりだ。
「北門、お前さ」
言いかけたら予鈴がなった。
「行かないとですね」
そう言いながらも、北門は動かない。走って乱れた俺の前髪を、優しい手つきで後ろに撫ぜつけてくれる。
先輩らしく、かあ。俺らしい、俺って一体どんな俺だろう。俺が一番、それを知りたい。
俺は北門の言葉を反芻して、ぼんやりとされるがままになってしまった。
※※※
「ああ、私、今年7組になれて、本当によかったあ」
ゴールデンウィーク明けの昼休み、急に隣の列の机でお弁当を食べていた大人しめの女子が大声を上げたから、俺はびっくりしてそっちに注目してしまった。
「それ、私もそう思う!」
向かいに座っていた女子と手を取り合ってきゃあきゃあ喜び合ってる。
「俺がいるからか?」
クラスで一番の陽キャ男子がそう言って笑わせようとしたが、「ちがうし」と意外と強めに否定されて即、肩を落とす。哀れ な奴。
「そんなの、南澤がいるからに決まってるでしょ」
「え、俺? やったあ!」
突然スポットライトを浴びて、俺がパンを片手にふざけて拳を振り上げたら、横から友達に肘で強めに小突かれた。
「お前ってか、あいつの事だ、あいつ」
「あいつ?」
「お前の、イケメン後輩」
「イケメン? ああ、北門な」
勘違いが恥ずかしくなって慌てて腕を下ろしたら、陽キャ君から「ドンマイ、トーマ」と声がかかった。うるさい。
「でも南澤のお陰で、学年が違うのにあの画面国宝を毎日見られるんだから、南澤のお陰ともいう」
ありがたいねぇ。なんて周囲の女子から一斉に拝まれた。ヤメテ、照れる。
そうなのだ。あれから三週間、ほぼ毎日、北門は俺のクラスに顔を見せるようになった。
それだけじゃない。あいつはオーナーが自ら教えたという、俺のシフトの日も熟知していて、子ども食堂の日以外にも『陽だまり』にちょくちょく遊びに来ていた。
俺は今、多分学校以外でも一番あいつと一緒にいるかもしれない。すっかりあいつが隣にいることが普通になった。といってもあの顔はまじまじと見るとまだ照れるけどな。
北門はオーナーと前に約束したとおり、作り方を教えて貰った料理を家でお父さんに振舞ったらしい。
「父さん食べながら涙ぐんでた。大袈裟だよな」
なんて言うから、オーナーが感動して泣いちゃって『すごいな!』って俺が褒めたらあいつは照れてはにかんでた。
「先輩がここに連れてきてくれたお陰です」
普段クール系イケメンがふと見せた、笑顔のギャップは破壊力抜群で、周りの人も見惚れてたけど、俺もなんかこいつ本当に可愛い奴だなって思った、なんてこともあった。
そして今、うちのクラスの女子の間では、北門が来たら俺を呼んで北門の元まで連れて行くのが流行ってる、らしい。昼休みに俺の近くの机付近に女子が集中して座っているという謎の現象が起こっていた。
「ねーねえ。南澤君が髪型変えたのって、後輩君の影響?」
北門効果で自然と女子から話しかけられる機会も増えて、俺は少しだけ女子と喋ることに抵抗がなくなっていた。
「髪は、元々切ることが決まってたんだよ。バイト先の先輩が美容師の専門学校に行ってて、その実験台になるために伸ばしてたんだ」
「そうなんだ。いーなあ。美容師の知り合いがいるなんて。紹介して欲しいな」
「いいよ。面倒見が良い人だから、どんな風になりたいか話し聞きながら丁寧に切ってくれるよ」
「その人、南澤君のことよくわかってる人なんだね。良いところ引き出してもらってる感じ!」
「そう?」
相手はおしゃれに気を使ってる子だったから褒められて嬉しかったし少し照れた。俺が髪型を変えた時は北門はちょっと不服そうだったけど。
「あの人がトーマ先輩を自分好みの髪型に変えたんだ」
とか、カフェに来てた先輩のことをなんでかじーっと睨んでたっけ。似合わないかって聞いたら、「似合ってるから悔しいんです」って言われた。意味がわからん。
次回髪型を変える時にはなぜだか北門もついてくるそうだ。美容師の仕事に興味があるのかな? あいつが美容師になったら若い女性のお客さん殺到しそう。なんかそれ、ちょっともやもやするけど。
「今の髪型、すごくいいよ。あのもさもさよりずっといい!」
「……もさもさしてるって思ってたんだ」
「今はさらさらだね」
髪色はそんなに暗くないのに、それなりに量とうねりがあったからもっさりしていた俺の髪の毛だ。美容師の先輩が綺麗系に整えてくれて、額も出すスタリングに挑戦してみた。
俺の髪の毛は男家族兼用何百円のシャンプーから、北門と一緒に探して買ってきた、うねりをとるタイプのちょい高めのに変えたら大分落ち着いた。
こんなに違うんだって驚いたけど、値段も高くてびっくりした。髪の毛さらさらになりましたね、とか日に一回は触ってこられて、ちゃんと寝る前に乾かしてるのか確認される。今までタオルでささっと吹いただけで寝てたのがばれたからだ。北門はちゃんとお洒落に気を遣えているのが偉いと思う。
「なんかさ、すごくあか抜けたよね。アイドルのデビュー直後と一年後ぐらい違う! 最近イケメン君と並んでてもビジュ的に負けてないっていうか、いや、さすがに負けてはいるかもだけどなんていうか、二人とも対称的でこう、いい感じの。尊さ? そう。イケメン同士仲良くしてるから本当にこう、ああ、7組最高!」
ぶつぶつと早口で喋ってくる女子に閉口しつつ、俺もそろそろ扉の当たりが気になってきた。いつもだとそろそろあいつが訪ねてくる時間なんだけど。
するとスマホが律動した。「北門唯」と名前が見える。急いでスマホを取り上げたら『昼休み、行けなくなりました』と書いてあった。
なんだ、来ないのか。
「なに、捨てられた犬みたいな顔してんだ」
「え?」
友達に言われて気が付く。俺、しょぼっとした顔してたんだ。確かに気は抜けたけども、そんな風に顔にまで出ていたとは意外だ。
「北門、今日の昼休みは来ないって」
「ええええええ」
周りで聞き耳を立てていた女子から悲鳴に似た声が上がった。耳がキンキンする、ヤメテ。
「寂しそうな顔すんなって。俺らがいるだろ」
「いや、別に寂しそうな顔なんてしてないし。明日が美化委員の校外活動日だから、色々確認したかっただけだし。明日雨予報だから、もしかしたらやらないかもってさ」
「そうかあ? それにしちゃあ、あいつ毎日来てたのに、来なかったの初めてじゃないか」
「……そうだけど」
「下、見ろよ。いたぞ、イケメン野郎」
窓辺にいた奴の声で、何故だかよくわからないけど、クラスの半分ぐらいが窓のところに机にぶつかる勢いで集まって張り付いた。北門効果恐るべし。俺もその勢いに乗せられて、ついつい窓の下を覗き込んでしまった。
うちの教室の真下から、屋外のバスケットコートが見える。北門はそこで友人たちとスリーオンスリーをしていた。あいつバスケやるんだ。いいなあ。俺も混ざりたい。今度誘ってみようかな。
楽しそうにしている北門を見ると、なんか安心する反面ちょっとだけ寂しい気分になった。
「……あいつ、友達いたんだ」
ぽつっと独り言を呟いたつもりが、隣のサッカー部の奴に聞かれていたらしい。
「北門かあ? あいつ部内に友達多いよ。はっきり発言もするし、周りとの和も乱さないし、あの顔面で気遣いまでできていい奴だ。神様は不公平だろ。悔しいっ」
「そうなんだ……」
てっきり北門はあの雰囲気や風貌で周りから少し距離を置かれているんだとばかり思っていた。だから知り合った年上の俺を慕って、あんな風に会いに来てくれているのだと思ってた。
俺だけ、特別。
そんなのは俺の自惚れだったみたい。胸の中に変なもやもやが生まれて、慌ててそれに気がつかないふりをした。
北門たちの周りにはそれを見守っている女子の集団もいて、相変わらず放課後待ち伏せされたりしているのかなあと思ったりして、友達の中にはもう女子も含まれているのかなあなんて思ったり。
北門はさ、テスト前とか部活がない日は俺と一緒に最寄りまで帰ったり、バイト先についてきたりするんだ。たまに庭仕事したり、ホールの片づけの手伝いとかもしてくれて、密かにあいつ目当てで通ってくるお姉さんたちもいるっぽい。前に連絡先聞かれてたから。断ってたけど。
正直、何で目立つあいつが地味な俺の傍に居ようとするのか、よく分からない。それにまだ、スマホの待ち受けの事、聞かないでいるんだ。仲良くなったらなったで、少しでも気まずくなるような要素を避けたくなったから。ずっとこんな風に一緒にいたいなって思うようになったから。
「……あいつに友達がいてよかった。てっきり浮いてるから俺んとこばっか来てるんだと思ってた。よかった」
わざと自分に言い聞かせるように呟いた。すると俺の隣で窓の下を見下ろしていた、クラスの派手系女子が綺麗に巻いた長い髪をぱさっと振り払いながら言い捨てた。
「あいつ、そんないい奴なのかな」
意味深な台詞に、ぞくっとなる。
「それ、どういう意味なんだ?」
彼女の女友達が「なーに、怖い」とか茶化しながら、後ろからいちゃいちゃと伸し掛かったら笑顔を見せたけど、俺がじっと見つめたらばつが悪そうな顔つきになった。
「あいつさ、あたし、同中なんだけど」
「え、あいつ東中っていってたけど。それ、本当なのか?」
「違うから。あたし妹が1年下にいるからさ、卒アル載ってるし。あいつさ、中学の時、女子と次から次に沢山付き合って、そのたびに酷い振り方して泣かしたって噂になってたよ。たしか高校生とも付き合って聞いたし」
「え……」
寝耳に水だった。だって、あいつは……。女子が苦手で、困ってて。 俺と同じ中学だったはずの、北門。
「あんたの前ではさ、あんな感じだけど。女子には最低な男だからね。南澤は本当にいい奴だからさ、あいつの外面に騙されて欲しくない」
もう一度窓の下を見た。たまたま、北門が校舎の方を見て、距離が離れているのに、俺に気が付いた。スマホがまた鳴った。俺は心が急激に冷えていく中、それを手に取る。
『先輩、そっち行けなくてごめんね』
北門は相変わらず優しい声で、スマホを耳に押し当てた姿勢で俺に向かって手を振ってきた。手足が長くてスタイルがいいから、あんな風にさりげない動作もすごく絵になる。
だけど俺はあいつの綺麗な顔が、急に恐ろしく見えて、俺は手を振り返すのを戸惑った。
『明日、休みでも先輩に会えるの楽しみだな』
心の底からそう思っているような少し弾んだ声、なのに俺はなんていいっていいのか分からずに、「明日雨予報で、雨なら中止だから」とだけいって通話を切った。
翌日、清掃活動当日。俺は前の晩、クラスの女子に言われたことで頭がいっぱいになって中々寝付けなかった。そんな俺の気持ちを表しているみたいにどんよりと鈍色の空で、今にも雨が落ちてきそうだった。
美化委員会は活動日に集合するだけだと、委員である自覚が薄れてしまうから、月に一度は次回の活動の日時の確認や直近の活動の半生を行うことにした。
でも俺は担任や北門とも相談して、あの一年生の言うとおり、今後の緊急連絡には学校で登録している連絡網アプリを使うことにしたんだ。
今週は曇天が続き、昨日も夕方から雨が降った。夜には『明日の清掃活動は中止』とのアプリに連絡が来た。
今にも振り出しそうだけど一応曇り。これでは連絡網を見てなくて来てしまうやつがいるかもしれない。俺は念のため私服姿で商店街に行ってみることにした。
学生は不参加にしても、商店街の人たちはちゃんと清掃活動をするらしい。みんな揃いの蛍光イエローのビブスを着ていて、その上に念のためかレインコートを着ている人もいる。みな駅前にわらわらと集まっていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日雨降りそうだから高校生は来なくてよかったのに」
にこにこと出迎えてくれたのは去年の活動の時に色々と俺たちの面倒を見てくれた、東口商店街のおじさんだ。去年も見たことのある顔だとはお互いに思ったみたいで、親し気に声をかけてくれた。
「間違えてくる人がいるかと思って、一応見に来てみたんです。俺、今年は委員長なんで」
「おお、出世したねえ。今年もよろしくね、南澤くん」
俺がこうして見回りに来たのは、過去の体験に基づいての行動だ。
中学生の時、運動部が参加する駅前清掃活動があった。
それが雨天予定で中止になったから、朝から部活の活動があり、みんなをまとめていた部長の代わりに、副部長の俺が一応駅まで間違えていっているやつがいないか見に行った。
あの時は確か……。
「義理堅くきてくれて、本当に偉いなあ」
「まあ、今日は他には誰も来ないと思いますけど。俺は手伝っていきますね」
最初に声をかけてくれた女性が、ビブスとゴミを拾うトングを俺に渡してくれた。俺を見るなり「あっちにも一人来ているよ」と言われた。彼女が向いた方向に振り返ったら、ひと際目立つ長身が目に飛び込んできた。俺が見間違えるはずがない。
駆け寄ったら、北門はあのちょっと切なげな、放っておけないような表情を浮かべていた。
「北門、どうして?」
「誰か間違えてくる人がいるかもしれないと思って、一応来てみたんです」
そんなこと言われたら、一晩中抱えていた複雑な思いが吹き飛んでしまった。
「そっか! ありがと」
嬉しい、なんかすごく嬉しい。だって、中学の時、俺と同じように考えてこんな風に一緒に来てくれる人なんて誰もいなかった。なのに、こいつは来てくれたんだ。
それだけでもう、頭の上に垂れこめてた雲が一気に晴れ渡ったような気持になれた。
「よかった……。俺、先輩の事、怒らせてたのかと思った」
北門は迷子の子どもが、親に出会って心底ほっとしたような顔をしていた。俺が昨日あの後バイト終わったぐらいに寄るって言ってたのに「急いでるから」ってさっさと帰ってしまったから。他にも、色々……。
「どうしてそう思ったんだ?」
「昨日、ちょっと様子がおかしかったから。メッセージも、いつもよりそっけなかったし。俺、なんか先輩が気に障るようなことした?」
帰宅してから通話できるか聞かれたけど、断った。俺はなんでも物事を単純に解決したくて、ストレートに聞いてしまいたくなるから。
『お前本当は東中じゃなかったんだって? 付き合った女子を沢山泣かせたって本当?』
でもクラスの女子の言葉ばかりを信じて北門に気持ちをぶつけるのもどうかと思った。まだ頭の中がまとまってないうちに話しをしたくなかったんだ。
それで代わりにメッセージを貰っていたけど、確かにいつもより短文で済ませていたと思う。いつもの俺は、文章ですらおしゃべりで、聞き上手な北門相手に沢山くだらないことをしゃべりすぎてしまう。きっと普段とのギャップが激しかったよな。
「北門、あのな……」
「おーい。始めるよ。君たちうちのグループに入って。雨が振る前にちゃっちゃとはじめよう」
商店街の人たちが俺たちを手招きしてくれる。
「ごめん……、怒ったりしてないよ。後でちゃんと話そう」
せっかく仲良くなれたのに、俺たちの間に謎ばかりじゃ良くない。
俺は心なしか背を丸めた北門の手を引いて、呼んでくれた人たちの輪の中へと入っていった。
清掃活動は二人一組。軍手をはめて大きめのゴミ袋を持った北門と、借り物のゴミ取りトングを持った俺は商店街に並行してある国道沿いの大通りの担当になった。
ごみごみした路地よりゴミは少ないかと思ったけど、昨日の夜に風雨が強かったせいか、街路樹から散って落ちた葉っぱが路上にへばりついて滑りやすくなっていた。それを根気よくトングではがして捨てる。排水溝の前にたまった葉っぱもまとめて捨てる。
北門は街路樹の下に落ちていたペットボトルやレジ袋を手で拾っていた。
二人して黙々と作業していたから、「働き者で感心だねえ」なんて声がかかる。ちらり、と北門をみた。俺を見るとすぐはにかむ、あの笑顔が今日は見れない。
ずきっと胸が痛んだ。他人がどう言おうと、噂が真実だったとしても、今のこいつを見てやるのが大切なんじゃないのか。
俺だって……。俺自身で考えて求めて探し出したことで認められたかったから、バスケを止めて別の道を模索してるんじゃないのか。それは今の自分を評価してもらいたいって思ったからじゃないのか。
雨は三十分と経たずに落ちてきて、瞬く間に雨脚が強くなった。中止の声が掛かって、レインコートどころか傘もさしていない俺たちはすぐにTシャツに雨の染みが走る。
スマホだけ死守したくて鞄を下げたお姉さんに頼んで持ってもらう。引き上げの連絡を受けて、集合場所に向かってとぼとぼと歩き出した。
「袋、重くなっただろ。持つの代わるぞ」
「大丈夫です。俺の方が力があるし」
「いいって。貸せよ」
「いやです」
なんだか頑なな北門にむっとして、俺はゴミ袋をひったくろうとした。北門がひょいっと腕を振りまわしてそれを躱す。腕のリーチの違いがずるい。
「俺のが小さいからって、バカにしてんのか?」
「そんなこと、一言も言ってません」
「じゃあ、貸せよ」
「俺じゃ先輩の役にたちませんか? 任せられない?」
「そんなこと言ってないだろ」
「おい、なんだ喧嘩かあ?」
大人たちが心配そうに俺たちを振り返る。
「こっちこい。事務所でちょっとなんか食べてからかえりなあ」
ちょっと遠くから商店街のオリジナルジャンバーを着たお爺ちゃんが声をかけてくれた。ああ、もう何やってんだろ。どうして北門相手だとこんなに心がゆらゆらするんだろう。
俺は恥ずかしくなって、北門を置いて先に駆け出そうとした。それで罰があたったんだ。マンホールにつるっと足を取られた。
「ぎゃああ!」
「先輩!」
トングを振り回しながらひっくり返って、お尻を地面に叩きつけるかと思った。だけどそうはならなかった。無様な声を上げてひっくり返りそうになった俺を、北門が後ろから俺に飛びついて助けてくれたんだ。
身を挺して俺を守ってくれた、北門の腕の中から慌てて振り返る。アスファルトの水たまりに尻もちをついている北門の両肩に手をかけた。
「ごめん、ごめんな! 怪我はないか?」
「大丈夫ですから、慌てないで」
雨の雫で前髪が余計に目元にかかっている。北門は男っぽい仕草で軍手を取り去ると、片手で前髪をかきあげた。
雫の落ちる綺麗な額、形よい眉もすっと通った鼻梁も、そして煌めく大きな琥珀色の眼差しもいつもより強い印象で俺を捉えた。
その時、不意になんだかこの光景、前にも見たことがあるような、そんな気がしたんだ。滑り落ちる雨、ずぶ濡れの黒髪、くっきりとした二重の大きな瞳に、ぐっと引き結んだ、強情そうな口元。大人たちが慌てて俺たちを取り囲むが、俺はもう北門の事しか見えなかった。
「……北門、俺たち前にも、会ったことがある?」
※※※
「入っていいよ。誰もいないし」
「お邪魔します」
誰もいないといってもちゃんとお邪魔しますって言いながら俺の後ろを追いかけてくるのなんかだか可愛い。こんなにデカい男だけど、でかい男を見慣れた俺からしたらやっぱりまだ線が細いなって思える。
さっき福島出身だという商店街のお店のおじいちゃんが、白虎隊の『蛍狩りの約束」って初耳のエピソードを出してきて、俺たちの事をねぎらってくれた。
雨で蛍狩りは出来ないってわかっているのに、相手との約束を大切にして約束通りに家を尋ねてきた少年の話だそうだ。雨の中でも律儀にやってきた俺たちのことが気に入ったんだってさ。
『商店街で大学生と合同でやるイベントを企画してるんだけど、君たちみたいな高校生にも参加してもらいたいな』と他の商工会の人にも言われた。また二人で商店街の事務所を訪ねる約束をした。商店街の人にタオルで身体を拭かせてもらって、沢山のお菓子やコロッケ、パンなんかのお土産を沢山持たされた。
それで俺たちは、一度俺の家に戻ることにした。北門が俺のせいでタオルじゃどうにもならない程ずぶ濡れになってしまった。
尻もちをついたせいでズボンやパンツはおろか、全身ずぶぬれになっていた。五月間近でも四月の雨は冷たくて、とても家まで帰れる状態じゃない。俺のせいだから、俺が責任を取りたい。
玄関先で靴下になったら俺も足先までぐっしょりと濡れていた。このまま歩いたら母さんにどんな目に合わされるだろう。想像するだけで恐ろしい。
「身体冷えたよな。シャワー浴びなよ」
下着は帰り際にコンビニで買ったから、あとは体格的に俺よりは大きい兄貴の服を拝借することにした。まあ、兄貴の服なんてほとんどスポーツメーカーのジャージかTシャツ、パーカーばっかだけど、ないよりましだろう。
「先輩が先に浴びて」
「いや、いいって。お前が先に入れてって。着替えとか用意してくるから」
じいっと見つめられたから首を傾げたら、「じゃあ、一緒にはいろうか」とかイケボを繰り出された。
「はあああ、いや、いやいや、無理だって!」
「男同士なのになんで? 先輩、俺の事、意識してる?」
「な、なにいってんだよ!」
冗談だってわかってるのに、じっと見つめられたらやたら落ち着かない気分になってしまう。女子の言ってた、女の子を泣かせていたの、あながち嘘じゃないと思ってしまう。なんというかちょっと魔的な魅力があるよな。
「分かりました。先に入ります」
「ああ、でももう、風呂に浸かった方があったまるかも」
浴室に飛び込んで風呂の栓をして、お湯を張る。北門を風呂に放り込み、急いで兄の部屋まで行って兄が唯一持っている俺の好きな海外バスケチームの紫色パーカーと、灰色のスエット、適当なTシャツを手に取った。
「タオルと着替え、ここ置いておくからな!」
「ありがとうございます」とシャワーの音に交じって北門の声が聞こえた。
なんかすごいな、と妙な高揚感が押し寄せてくる。
今まで仲良くなったチームメイトにだって家で風呂を貸したことはない。まあ中学は近所だし、友達が止まりに来たこととかなかったから当たり前だけど。ホカホカの湯気を頭から出しながら出てきた北門を、俺の部屋まで案内した。そんなに広くないけど一応一戸建て、一番奥に俺の部屋と兄貴の部屋が隣同士である。
「ごめん、ソファーないから、適当に腰かけてて」
自分も慌てて風呂につかって、着替えをして洗濯をした。後で乾燥機を回しておかないといけない。さっき貰ったお菓子やペットボトルなんかを持って部屋に戻った。
自分の部屋に北門が座ってる。身の置き所がないのか、ベッドに背をもたれかけて、長い脚をおりたたんでちょこーんって擬音が付きそうな感じで座ってた。北門が自分の部屋にいるだけで、妙に非日常な感覚になる。
「はは、なんかこの眺め、新鮮だな」
「いろいろ。服とか、タオルとか。ありがとうございます」
「こっちこそごめんな。洗って乾燥機かけるけど……、縮むかも。普通に乾かした方がいいかもな。うちは縮むこと想定してでかいサイズの服買ってるから」
「なんか、お母さんっぽい」
「悪かったな。うちは母さん看護師でいそがしいから、家事はみんなで分担してるんだよ」
そういってから、こいつの家は父親と二人だから当たり前にやってるだろうなと思った。
「うちも乾燥機使ってます。だから、多分大丈夫」
「そっか。これ、どっち飲む? お前先に選びな」
「こっち」
スポーツドリンクを手渡して、ベッドに置いておいた抱き枕をクッション代わりに手渡した。
「お尻痛くなるぞ。これつかいな」
「はい」
並んで座ってお茶をあおって、その後で北門が髪の毛からぽたぽた水を垂らしているのが気になって、俺は北門が首に巻いていたタオルを頭の上にかぶせた。
「風邪ひくって」
わしわしわし。髪の毛の雫をふき取っていく。夢中になりすぎて、きつくしすぎたのか、タオルを動かしていた俺の手を北門が握ってきた。
「先輩」
「痛かったか?」
立膝になった俺を見上げる瞳、綺麗な額が露わになって顔立ちがすっきりよくわかる。俺はじっと検分するように、あの日の少年の面影を北門の中に探し出す。
「……やっぱ、お前」
確信した。やっぱり、お前あの時の……。外の雨音が強くなる、雷雨に変わったみたいだ。頭がどんよりと重たい。寝不足がここにきて身体も瞼も重くさせる。
「俺、ちょっと寝るから。一時間経ったら起きるから。その辺の漫画とか好きに見てていいよ……」
スマホのタイマーをかけて、のそのそとベッドによじ登る。ごろり、と敷布団の上に身体を投げ出した。
「先輩、そのまま寝たら風邪ひきますよ」
俺がさらにベッドの端に転がっていったら、北門は面倒みよく、俺の下からガーゼケットを引っ張り出してかけてくれた。
「くしゅ」
布団を動かしたから埃がたったせいかもしれないが、北門がくしゃみをした。俺は壁側に転がったまま、ぽんぽんと背中側の空いてる布団を手で叩く。
「お前も寝ていいぞ」
「え……」
「雨降ってきたら、なんか寒くなってきたな。風邪ひくぞ」
流石に引いたか、と思ったがベットが重みでぎっと少しだけ傾ぐ。すぐ背後に人の気配がした。
「狭いよな。ちょっとまってろ」
窓側にさらに寄ろうとして、転がり落ちそうになったのを前に回った長い腕が制してくれた。そのままぐっと身体を後ろに引き寄せられる。いわゆるバッグハグ状態になった。
「これで、落ちない」
また、耳をくすぐるイケボ。湯上りの身体はぽかぽかと暖かくて、まるで大きなワンコを膝に乗せているみたいだ。はあああ、なんか照れるが。でも暖かいのが心地よい。
いや、この場合、抱きかかえられている俺の方がワンコなのかも? どっちでもいい。温かくて居心地がいい腕の中だ。
軽い清掃活動ぐらいで疲れたも何もないが、雨に当たって冷えた身体を昼間なのに湯につかってしかも寝不足、もはや瞼がくっつくのは待ったなしだ。
「なんか、格好悪いとこばっかみせて、ごめんな。俺のが年上だから、しっかりしてなきゃいけないのに」
これでもさ、昨日の態度も昼間の事、反省してるんです。なんでだろ、なんで北門相手だとただ親切にしたいってだけじゃなくなって、感情がコントロールできなくなっちゃうんだろう。
「ごめんな……」
ああ、情けない。
「俺は嬉しいですよ。それって全部、素の先輩が俺だけ見れてるってことでしょ?」
「え……」
「俺にだけ、甘えてくれたらいいんです」
吐息のような静かな声だけど、内容は俺の心音を早めるのに十分だった。こんなにくっついてたら、北門にバレそう。
でも、ばれてもいいか。こいつになら何て思われてもいいか。
前に回ってきた北門の腕を身体に巻き付ける。
ドキドキするのに、こうしていると抱き枕みたいで落ち着く、ずっとこうしていたいなって思ったら、北門も同じように思ってたのか、「抱き枕みたいで、落ち着く」って言われた。
誰かと同じ気持ちでいられることの喜びが胸の中に溢れてきた。バスケの試合で感じたものとはまた違う心地よさに俺はちょっと、うっとりしてしまった。
ざーざーざー。雨の音。窓にぱちぱち、雨粒が打ち付け、弾けてる。
それ以外はすごく静かで、お互いの吐息や身じろぎする音だけが静かに耳に入ってくる。
「人とずっとこの距離感でいられるの、久しぶり」
「そうか?」
「嬉しい」
その一言が見た目より重たい雪の塊みたいにずしっと聞こえた。抱きしめられた腕に少しだけ力が籠る。俺はなだめるように手を動かし、小さい子を寝かしつけるみたいにパーカーの袖を軽く叩いた。
俺には結構スキンシップが激しい兄貴がいる。だけどこいつは両親が離婚して父親と二人暮しで、ちょっとまだ人恋しいのかな。こないだまで中学生だったものな。それもそうかと思った。
「暖かい、ずっとこうしていたい」
そう言って俺の方に額を押し付けて、まるで俺がいつもTレックスのぬいぐるみにしてるみたいに、もっと全身を使って毛布みたいに抱え込まれた。
俺の方がでかかったら逆に包んでやりたかったのにな、って残念に思う。
「先輩、いい香りがする」
首筋に当たる、あいつのまだ少ししっとり濡れた髪の毛がくすぐったい。
「これかあ? ラベンダーじゃないかなあ。母さんがはまって買ってる、海外の量り売りの石鹸」
「癒される」
「ラベンダーはそういう効果があるんだって。俺はお前のがいつもいい匂いしてると思うけどなあ」
「俺が?」
「流石イケメン、香りまでイケメンって思ってるもん」
本人を前にしてついつい『イケメン』とかいったら、後ろで北門がくすっと笑った。
「先輩あのね」
「なに?」
「いい香りだなって思う相手とは本能的に相性がいいんだって」
「へーえ、……えっ?」
「先輩も、いつもすごくものすごくいい匂いだよ。安らぐ」
ぎゅっとさらに抱きしめてくる腕に力が籠る。だけどなんだか縋られているような感じで放っておけない気分になった。
ああ、こいつやっぱり寂しいのかなって思う。こんな風に甘える相手は他にいなかったのかな。
俺にだけ甘えるの、なんかいいな。とか思ってしまった後で、いや、そんなこともないだろうと思い直す。
昼間学校でこいつの周りに友達らしき奴らや遠巻きにでも見守ってる女の子が沢山いただろ。きっと俺だけが特別なわけじゃない。
不思議だ。そう思ったらなんだか泣きそうな気分だ。胸にチクって小さな棘が刺さったような感じ。バイト先で薔薇の手入れをした時に刺さったあれ。あんなに小さいのにものすごく痛かった。なんてことはない、友達の一人が別の奴とも仲良くしてるとか、いいことじゃないか。なのになんでこんな……、ずき、ずきって。
この胸の痛みって、どうやったら解放されるんだろう。距離を取るしかないのかな。
「お前なら、甘えさせてくれる人、沢山いるんじゃないか。……昔、付き合ってた相手とかさ、いたんだろ?」
昼間女子から聞いた話を匂わせてみて、なんでこんなこと聞いたんだろうってすぐに後悔が波のように押し寄せてきた。
「ごめんっ。踏み込みすぎた。今の質問、なし!」
前に逃れて物理的にも距離を取ろうと思ったのに、尚更腕の中に強く囲われた。あんなに雨に濡れたのに、風呂上がりの二人の体温でもう、ガーゼケットの中は暑いぐらいだ。
「暑い、離せって!」
だけど北門は俺を離さない。
「……誰かから、俺の中学ん時の噂とか、なんか聞きました?」
その上意外にも北門の方から先回りして気になっていた話を広げられてしまった。
こっちからタイミングを図って聞きだしていこうと思っていたのに。心身ともに退路を断たれた気分だ。
何かしら言い逃れを考える前に、嘘が付けない俺の身体はビクッとすぐ反応してしまった。こんなの動揺が相手に分かりまくりで自分が情けない。もっと堂々としていたいのに。
「やっぱり、だから先輩、急に俺に冷たくなったんだ」
「ごめん」
「謝るってことは、俺より噂の方を信じたんだ」
耳元で吐き捨てる声は急激に温度を失っていた。
「それは違う!」
今、こいつの信頼を失うことは耐えられそうにない。
俺は怖くなって、ぎゅうって北門の腕を掴んで否定した。せっかく仲良くなったんだ。これからも北門と、もっと一緒にいたいと思ってるんだ。
気のいい部長でも、なんでも引き受ける頼りがいのあるクラスメイトでもない、素の俺を晒せる「陽だまり」での、素のまんまの俺をこいつには見せてもいいなって思ってたから。
俺は北門の腕からなんとか抜け出して身を起こす。
「俺は、お前の口から、直接話を聞きたいって思ったんだ。ただの友達の俺に、お前の全部を知る資格なんてないのかもしれないけど、でも、俺。どうしてもお前のことが知りたい」
「先輩……」
「昨日は色々と、無視するみたいになってごめん。でも俺、お前にとって都合の悪いことも、言いづらいことも、逃げずにちゃんと教えて貰いたかったから。通話とかメッセージじゃなくてさ、会って話したかった。じゃないと今、お前がどんな顔してんのか、分かってやれないだろ。今みたいな顔してても、気がついてやれないだろ」
今みたいに泣きそうに切ない顔で俺を見上げる、お前の中の悲しみを見過ごしてしまうのが、俺はどうしても嫌だった。
「先輩が、俺のことを、知りたい?」
「うん」
「先輩、俺の何が知りたいんですか?」
全部知りたい。そう叫びそうになったけど、ぐっと一度唇を引き絞って、そのあと大きく息を吸う。順序があるだろう、ちゃんと今聞きたいことを優先しろよ、俺。
「クラスの女子が言ったんだ。お前は東中じゃない別の中学で出身で、そこで女の子沢山泣かしてたって」
北門は一度、絶句したように黙った。俺はたっぷりとした間を受け入れて、何を聞いても落ち着いていられるように、俺自身も心の準備をしたんだ。
「……どう話したらいいんだろ」
「どうとでもいい。話してくれ。どんなお前でも、ちゃんと受け止めるから」
「燈真……」
ああ、なんて切ない声で俺の名前を呼ぶんだろう。
胸がちりちりって痛んで、愛おしいけど哀しいような、複雑な感情が沸き起こってくる。
左手を伸ばしてきたから、俺は正面から右手で受け止めて、手のひらを合わせた。
俺を見上げる北門は気だるげで、陰を帯びた表情は大人びて見えた。苦し気な表情、いいたくないんだろうな。そうだろう。
でも大丈夫。大丈夫だよ。怖くないよ。
俺はもう一度こいつと目線を合わせようと手を繋いだまま、向かい合わせにベットに横たわって微笑んだ。
「……なあ、北門。俺さあ」
「はい」
「お前の事、思い出したよ」
「……」
「あの時も、こんな雨が降ってたよな」
「……はい」
「お前は、確かに東中だった」
「はい」
「あのあと、引っ越した?」
「……はい」
「そっか。納得」
「先輩……」
「眠いから……。少し寝て、起きたら、色々話そ。俺が高校でバスケ部に入らなかった理由も、ちゃんと話すよ。だからお前も、俺に話してくれよ。あの日から今までの、お前の話」



