朝の七時半過ぎ。いつもどおり、臨が自宅マンションから出てきた。
臨は、昔から朝が弱い。
眠そうに目をこする臨の姿に、おもわずふっと笑ってしまう。
「おはよ〜、臨」
歩み寄って肩を抱くと、眠そうだった臨の目がぱちっと開いた。
「近い……」
顔をしかめた臨が、迷惑そうに俺の腕を払いのける。そうして、俺と距離をとると早足で歩き始めた。
ちょっと前までは、このくらいで振り払われることなんてなかったのに。
この頃、幼なじみの臨が俺に冷たい……。
俺は、スタスタと歩いて行く臨の背中を不満顔で追いかけた。
少し前を歩く臨の髪は、子どもの頃から地毛がやや茶色っぽい。
ちゃんと鏡を見て出てこなかったのか、癖のある髪の毛先が、左耳の後ろあたりで外側にぴょんと跳ねてる。
「臨ちゃん、寝癖」
背中から近付いていって、可愛く跳ねてる寝癖に触れる。その瞬間、臨が大げさなくらいにビクッと肩を揺らした。
「ちゃん、て呼ぶな!」
左耳を押さえて振り向いた臨が、俺の手を力いっぱい振り払う。
「あと……、近い……! もうちょっと離れて歩けよ……」
やや頬を紅潮させた臨が、眦をつり上げて怒ってくる。
俺から距離をとって、すたすたと早足になる臨。
そんな臨の態度に、ちょっぴり――。いや、かなり、びっくりした。
照れ屋な臨は、昔からあんまり感情表現が豊かなほうじゃない。
そのせいか、学校ではなんとなくクールなキャラでとおってて、俺に対しても照れ隠しで塩対応をとってくることはある。
たとえば俺が、今みたいに「臨ちゃん」て、呼ぶとき。臨は「ちゃん、て呼ぶな」と呆れ顔で俺を制してくる。(「臨ちゃん」て響き、可愛くて好きなのに……)
でも、静かに低い声で諭すだけで、さっきみたいに感情あらわに俺を避けたりしない。
このまえだって、俺を置いてひとりで学校に行っちゃうし。
俺のこと、一日中無視するし。
なんでだろう。
俺、もしかして臨に距離置かれてる――?
それとも、嫌われた――?
俺たちの関係がおかしくなったのは、少し前に臨に告白されてから。
臨に恋愛感情で「好きだ」って言われて、嬉しかったけど、ちょっとびっくりした。
俺だって臨のことは好きだけど、今までずっと友達だって思ってたし。
だから素直に「いちばんの友達だ」って言ったら、臨とケンカしてるみたいになった。
友達だ、って。好きだって言ってるのに、臨が怒ってる理由がわからなくて悲しかったけど。
そのあとちゃんと仲直りしたし。もう逃げないし、友達って約束してくれた。
そのはずなんだけどな……。
しょんぼりした気持ちで、俺は臨を追いかけた。
◇◇◇
昼休みが始まると、俺は弁当を持って急いで臨の席へと移動した。
「臨〜、お昼一緒に食べよう」
にっこり笑いかけると、臨の椅子に椅子をぴったりくっつけて、隣の席をキープする。
そんな俺に、臨が引きつり笑いを浮かべた。
「もうちょい、向こういって……」
「なんで……?」
「近いから」
「いつもこれくらいでしょ」
口を尖らせて抗議する俺を、臨が迷惑そうな目で見てくる。
「これじゃ、弁当食いにくい……」
俺の肘に肘をぶつけて狭さアピールをしてくる臨。
「だったら、俺が臨に食べさせてあげようか?」
にこっと笑って提案すると、臨が無表情で固まった。
なんだ、その反応は。俺に「あーん」してほしいってこと?
臨の顔をじっと見つめていると、久保と三上が近付いてきた。
「臨〜、今日弁当持ってきた? 三上が弁当ないから食堂行こうって言うんだけど。臨、どうする?」
久保と三上は、高校に入ってからの臨の友達。
俺が臨といるのに、いつもお構いなしに声をかけてくる。
「臨は今日、弁当持ってきてるよ」
臨より先に答えると、久保が微妙そうに俺を見下ろしてきた。
「なんで紫藤が答えんの?」
「友達だし」
臨の隣で胸を張る俺を、久保と三上が呆れ顔で見てくる。
「俺らだって友達だわ。で? 臨、食堂行く?」
俺から視線をはずした久保が、臨に訊ねる。
久保は、俺がいてもだいたい臨にばっかり話しかける。
俺の行動はすべて、臨とセットだと思われてるからっぽい。
食堂なんて行かないだろ。弁当持ってきてるし、臨は俺と教室で食べるよな。
とうぜんそうだと思ったのに……。
「行こっかな」
臨が弁当を持って立ち上がるから、一瞬、思考が止まった。
え、なんで……。臨は、俺より久保と三上をとるってこと……?
茫然とする俺を残して、臨が久保たちと一緒に歩いていく。
「臨、待って! 俺も行く!」
なんで、俺が臨に置いていかれないといけないんだよ……!
振り返った臨が、ちょっと面倒くさそうに俺を見てくる。そのまなざしに、ちょっと傷付いた。
前までは、俺を置いて他のやつと昼ごはんを食べるなんてことなかったのに。
やっぱり、臨が俺に冷たい。
久保と三上に挟まれて廊下を歩く臨の背中をとぼとぼと追いかける。
久保のスマホを見ながらなんか話しているみたいで、顔を寄せ合う三人の距離が近い。三上にいたっては、久保のほうに身を乗り出すために臨の肩に手をのせている。
だけど臨は、それを振り払おうとはしない。それどころか、さっきからずっと楽しそうに肩を揺らしてる。
俺のところからときおり垣間見れる臨の表情は、口角があがっていてやわらかだった。
俺が隣にいたときは引きつり笑いしてたくせに。久保と三上の隣だったら、自然に笑うんだ……。
ふたりとの扱いの違いに、モヤモヤする。
不貞腐れていると、食堂につながる度り廊下の手前で臨が振り向いた。
「快、遅くない?」
臨が俺を呼ぶ声に、ピクッと耳が反応する。
前を向くと、臨が呆れ顔で俺を見ていた。
あれ。冷たくされてると思ったのに、違った――?
臨の態度ひとつで、俺のテンションは地底まで沈むし、逆に一気に天まであがる。
早足で追いつくと、俺は久保を押し退けて臨の隣を奪い返した。
「なにすんだよ、紫藤……」
軽く突き飛ばされた久保が、迷惑そうに横目で見てくる。
「ふたりとも、臨に近寄り過ぎ。あと、肩に手をのせるな」
臨の後ろから手を伸ばして反対隣りにいる三上の肩をぐいっと向こうに押すと、臨を含めた三人が、それぞれに俺を呆れた目で見てきた。
「いやいや、紫藤がいちばん臨との距離間おかしいだろ」
「俺はいいんだよ。友達だから」
「だから、俺らだってそうだし」
俺の言葉に、久保と三上が互いに目を見合わせて苦笑いする。
「そんなこと言って、いつも臨に気安く触るじゃん。久保なんて、部活の練習のとき、いつも臨にくっついてるし」
「そんなこと言ったって、触らずに基礎トレできねーし」
「やっぱり、意図的に触ってんだな」
「はあ?」
臨の肩をグイッと引き寄せて、久保をみおろす。そうしたら。
「離せ……」
怒ったように眉間にシワを寄せた臨に、力いっぱい突き飛ばされた。
「痛い……臨ちゃん……」
びっくりしてそう言うと、臨が強張った顔でうつむいている。
さっきまで笑ってたのに。臨の様子が変だ。
「俺、先に行って席とってくる」
早口でそう言うと、臨が腕で顔を隠しながら俺に背を向ける。
「じゃあ、俺も……」
「急ぐから、快はついてくんな」
一緒に行こうとしたら、臨に低い声で静止された。臨とは付き合いが長いから、その言葉が本気かどうかは声のトーンでわかる。
今の「ついてくんな」は、本気の拒絶。
臨は俺がついてこないことを確かめてから、ひとりで先に走っていった。
俺にかまってくれたり、冷たく拒否ってきたり。
最近の臨は、情緒不安定気味っていうか。何を考えているのか全然わからない。
「はあ……。俺、今日は臨とお昼食べないほうがいいのかな……」
肩を落としてボソリとつぶやくと、「知らねーよ」と三上がどうでもよさそうに返してきた。
「ていうか、紫藤さあ。臨のこと、本気で『友達』って思ってんの?」
続けて久保から訊ねられて、何をバカなこと言ってんだって思う。
「決まってるだろ。臨は、昔から俺のいちばんの友達だよ」
自信たっぷりに答える俺を、なぜか久保が憐れむように見てくる。
「あんないつも距離感バグってて友達って言われてもな。ふつー勘違いするし。なんか、臨が不憫だわ」
「なんでだよ。最近、臨に冷たくされてる俺のほうがかわいそうだし」
「マジで言ってんの?」
ため息を吐いてうなだれる俺に、久保が無の表情で訊ねてくる。本気に呆れてるっていう、そういう顔。
なんで、俺がそんな顔でみられなきゃなんないんだ。
俺はただ、臨といたいだけなのに——。
そう。ただ、臨といっしょにいたいんだよ。
「やっぱり、俺、臨のこと追いかけるわ」
「え、は……?」
久保たちの怪訝なまなざしを感じながら、俺を臨を追いかけて駆けだした。
俺と長濱 臨が初めて会ったのは、五歳のときだ。
両親の離婚で母方のばあちゃん家に引っ越すことになった俺は、臨の通う保育園に転園してきた。
母さんがフルタイムで働き出して、毎日の俺の送り迎えはばあちゃんが担当。
家に帰っても、夜寝るまでばあちゃんとふたりきり。いつも遊んでた仲の良かった友達もいない。
環境の変化に、五歳の俺はちょっと不貞腐れてた。
保育園のクラスメートは、新しく入ってきた俺に興味津々で、話しかけてくれたり遊びに誘ってくれたけど……。
転園してきたばかりの俺の心は子どもなりにちょっと荒れてて。新しい友達と仲良くしようとか思えなかった。
話しかけてきてくれるクラスメートをわざと無視していたら、そのうちみんな、俺にあまり話しかけてこなくなった。
担任の先生は、教室でひとりでブロックで遊ぶ俺を気にかけて、友だちの輪の中に入れようとあの手この手で絡んできたけど。そういうの、全部うざったかった。
そうして過ごしてたあるとき、保育園の帰りのお迎えの時間がたまたま臨と一緒になった。
俺のお迎えは、当然ばあちゃん。
「快ちゃん、臨ちゃん、お迎えきたよー」
先生に呼ばれて、不貞腐れた顔でリュックを背負う。
手に持った水筒を引き摺りながら出て行ったら、臨のことを迎えにきていたのも、臨のばあちゃんだった。
俺は、前の家にいたときみたいに母さんが迎えに来てくれないことが不満だった。
ばあちゃんのことは好きだけど、お父さんやお母さんに迎えにきてもらえる他の子に嫉妬していた。
だから、ばあちゃんのお迎えを笑顔で受け入れている臨を見たとき、ぽろっと心のトゲがひとつとれたみたいな感じがした。
自分以外にもばあちゃんがお迎えに来る子がいたんだな……。
「あら、紫藤さん……?」
「長濱さん! お孫さん、ここの保育園だったの?」
偶然にも、俺のばあちゃん家と臨のばあちゃんの家は隣同士だった。
ばあちゃんたちの世間話でなんとなくわかったのは、臨の家もお父さんがいなくて、お母さんは夜遅くまで働かないといけない日もあるってこと。それでたまに、おばあちゃんが保育園帰りの臨を家で預かってるってことだ。
お互いにばあちゃんに手を引かれながら家まで歩くあいだ、臨は黙って俺のことをじっと睨んでいた。
ちょっとつり気味の奥二重の臨の目は、怒っているみたいに見える。
なんだよ。俺、何もしてないじゃん。
ムカつくなって思ってたら、家の前で別れるときに、臨が急に俺の服の袖をぎゅって引っ張ってきた。
なんだよ。
じっと睨んでくる臨を真っ直ぐ見返したら、臨がしかめっつらで唇をちょっと震わせた。
「おまえも、じーちゃんと公園行く?」
「へ?」
「ああ。臨ね、今日は保育園から帰ったあと、いつもよりちょっと遠い公園まで遊びに行こうっておじいちゃんと約束してるのよ。ログハウスとか大きな池がある公園でね――」
臨のばあちゃんが、俺と俺のばあちゃんにペラペラと説明をする。
臨のことはまだあまりよく知らなかったけど、保育園ではなんとなく無口な子って印象だった。
ずっと睨まれてるし、怒ってんのかと思ったけど。
俺を遊びに誘おうとタイミングを探していただけらしい。
新しい保育園で友達なんてどうでもよかったけど、臨の誘いは嬉しかった。
約束どおり、俺は臨のじいちゃんにいっしょに公園に連れて行ってもらって。臨が、引っ越してきて初めての俺の友達になった。
臨と仲良くなると、保育園の先生も安心したらしい。
家が近いし、ふたり組になるとき、俺と臨がなにかとよくセットにされた。
「なんでいっつも快となんだよ」
臨はたまに文句言ってたけど、俺は嬉しかった。
「いいじゃん。俺、臨ちゃんといっしょが嬉しい」
一度ほんとにそう言ったら、臨はちょっと照れてて。ぶっくりしたほっぺたが赤くしているのがかわいかった。
ばあちゃん家が隣同士っていうのもあって、俺と臨はほとんど毎日のようにいっしょに遊んだ。
小学生になると、ふたりで自転車に乗って遠くの公園まで行けるようになって。それがちょっとした冒険みたいで楽しかった。
だけど小学二年生の頃、急に今までのように自由に臨と遊び回ることができなくなった。
原因不明の足の痛みで、歩けなくなったのだ。
病院に行くと、走りすぎたり、思いきり過度な運動をすると痛くなる病気でわかったけど、原因は不明。学童期にかかりやすい病気らしくて、安静な生活をしていれば治るらしい。
でも、ひどいときはふつうに歩くことも苦痛なくらい足が痛くて。
今までみたいに臨と外で走り回るのはできなくなったし、学校に行くときも母親の送迎が必要になった。
毎日の送り迎えは、母さんが自転車でしてくれた。
うちは車を持っていなくて、ばあちゃんでは小学生の俺を自転車に乗せて走るのは体力的にきつかったから。
だけど、俺は毎日母さんに送り迎えしてもらわないと学校に通えないことが嫌だった。
放課後、臨とちょっと回り道しながらいっしょに帰ってこれないのが嫌だったし。休み時間も、放課後も、臨と外で遊べないのが不満だった。
保育園の頃は、母さんに迎えに来てもらえなくて不貞腐れていたのに、小学生になると母さんが迎えに来るのが恥ずかしかった。
思うように動けないストレスで、家では母さんやばあちゃんに八つ当たりしたときもあった。
それでも、わがままな俺に母さんはなんの文句も言わなかった。
そんなある日。俺を学校まで迎えに来る途中、母さんが事故に遭った。
病院に運ばれたときには意識不明で、そのまま目を覚ますことなく亡くなってしまった。
俺のせいだって思った。
俺のお迎えがなければ、母さんは仕事終わりに急いで学校まで自転車を走らせることもなかった。
俺が母さんを死なせたようなものだ。
父親もいなくなって、母親もいなくなって——。高齢のばあちゃんだって、きっと俺を置いていなくなる。
罪悪感と孤独感に苛まれた俺は、ひどく落ち込んだ。
足の病気のこともあって、母親の葬儀のあとはしばらく学校に行けなくなった。
そんな俺を心配して、臨は毎日会いに来てくれた。
なにか励ましてくれるわけでも、慰めてくれるわけでもない。ただ、毎日俺の部屋に来て、宿題をして。同じ空間にずっといてくれた。
そのことが嬉しい反面、うっとおしくも思った。
俺のことなんて、ほっとけばいいのに。
「そんな毎日来なくていいから」
母さんが亡くなって、いちばん気分の落ち込みが激しかった日。
俺はベッドの中で泣きながら、臨に冷たく乱暴にそう言った。
「俺は絶対ずっといっしょにいるから。だって、快の友達だもん」
しばらく泣きそうな目で俺を見つめた臨は、少し言葉を詰まらせながらそう言ってくれた。
泣きそうになっている臨の顔なんて、初めて見た。
ずっといっしょにいる。
あのときの臨の声が、今でもずっと耳に残ってる。
臨のことはもともと大好きだったけど、そのときを境に、臨は俺の特別になった。
絶対ずっといっしょにいる。俺の大切な友達。
臨の言葉を信じて、ずっといっしょにいたのに。今さら、遠ざけられても、離れられるわけねーじゃん。



