「あれ、紫藤(しどう)は?」

 教室に着くと、友人の久保(くぼ)が俺を見るなり、第一声にそう言った。

「あいさつが先だろ」

 わずかに眉を寄せると、久保の唇に微苦笑が浮かぶ。

「あー、おはよ。だって、高校入ってから初めてじゃない? 臨がひとりで登校してくんの」
「そんなこと……」

 言いかけて、実際にそうかもしれないと思ったから口をつぐんだ。

 高校に入ってからずっと――、いや。もっというと、保育園の頃からずっと、俺、長濱 臨(ながはま りん)の隣には、だいたいいつも決まったやつがいる。

「うざっ……」

 そいつの顔を思い浮かべながらふとつぶやくと、久保が「え、俺?」とちょっと不安そうな顔になる。

 今のはたしかに、俺の言い方が悪かった。

「違う、違う」

 顔の前で横に小さく手を振ったとき。

「あーっ! いたっ! 臨っ! なんで俺のこと置いてひとりで行っちゃったんだよ」

 バカでっかい声が教室に響いた。

 紫藤 快(しどう かい)。いつも俺の隣にいる、保育園の頃からの幼なじみだ。

 快の声は、どこにいたってすぐわかる。よく通るし、地声がムダにでかいから。

 耳にうるさい幼なじみの声に反応せずにいると、

「なあ、臨〜! 臨ちゃん!」

 俺の名前を連呼する快の気配が近付いてきた。

 周りから「臨ちゃん」なんて呼ばれてたのは、保育園の頃まで。いまだにそんな呼び方をするのは、母方のばあちゃんと快、それから快ん()のばあちゃんくらいだ。

 ふだんだったら、「ちゃん、て呼ぶな」って文句のひとつも言うとこだけど。

 今日はスルー。ていうか、快なんてしばらく無視だ。

 快とは小学校の頃から、どっちかが風邪で休むとき以外、ずっといっしょに登校している。

 いつからだったか忘れたけど、快が毎朝、家まで俺を迎えに来るようになったのだ。

 にこにこしながら毎朝決まった時間に家にやってくる快をウザく思うときもあるけど、結局向かう場所は同じだから、抵抗する理由がない。

 なぜか、俺がバスケ部の朝練があるときまで迎えにくるのは謎だけど……。ちなみに、快は中学も高校も帰宅部だ。

 そんな感じで、暗黙の了解みたいだった朝の約束。それを今朝、初めて破った。

 快に対してどうしても消化できない個人的ないらだちがあって。今日は快の顔を見たくなかった。それに、普段どおりに快と話せる自信もなかった。

「臨ー、聞こえてるよな。なんで無視すんの?」

 ついに背後に迫ってきた快が、後ろから抱きつくみたいに俺の肩を組んで、横から顔を覗きこんでくる。

 近い。めっちゃくちゃ。頬に息がかかるくらい。

 小さな頃から変わらない、快の普段どおりのスキンシップ。俺に対するバグった距離感。それが今日はやっぱりムリだった。

 無言で肩にのせられた腕を払うと、快の表情が固まった。

 まさか、俺から拒絶されるとは思っていなかったらしい。

 一瞬で青ざめた快の後ろから、「ガーン」っていう不協和な効果音がリアルに聞こえてくるような気がする。

「え、臨? なんで?」

 狼狽えた目で見つめてくる快に、いらだちが募った。

 やっぱり、快はなんにもわかってない。

 そんなのわかってたけど、わかってたからこそ、快にも、心の整理をつけられない自分にも腹が立つ。

 今口を開いたら、また余計なことを言ってしまうかもしれない。

 俺は快の目を睨むように数秒見つめてから、ふいっと顔をそらした。

「え、なに? ケンカ?」

 朝から不穏な空気を出している俺と快の顔を交互に見ながら、久保が戸惑い気味に訊ねてくる。

「べつに……」

 ぼそっと答えると、俺は自分の席へと早足で移動した。

 快とは昨日ちょっと言い合いになったけど、ケンカってほどじゃない。

 あいつは、あいつの正直な気持ちを口にしただけなんだから。

 俺と快は幼なじみで、ずっと一番仲がいい。

 昔から、いつも俺にくっついてて、高校だって俺が受験するって決めたこの高校をあたりまえみたいに快も受験した。

 どっちかというと、かなり好かれてるほうだと思う。でも、快の俺に対する好意の種類は、俺の快に対するそれとは違う。

 だから、あんなこと言うつもりなかった。

 それなのに、どうして言ってしまったんだろう。

 案の定、結果は惨敗で。一晩寝たくらいでは、気持ちの整理もつけられない。

「無視すんなよ、臨。なんか怒ってんの?」

 自分の席に逃げようとする俺の後ろを快の声が追いかけてくる。

「なあ、臨ってば。なんで怒ってんの? 言ってくれないとわかんないんだけど。聞けよ、臨!」

 最初は俺の機嫌を窺うようだった快の声が、だんだんちょっとキレ気味になってくる。

 なんで快がキレんだよ。ていうか、なんでわかんないの? ずっと、嫌になるくらいいっしょにいたくせに。

「なあ、臨! 臨ちゃんて」

 席に座ろうと椅子を引いたとき、快が右側から俺の前に腕を回して、左側の肩をつかんでグイッと後ろに引っ張る。

 ぜったいにもっと普通な呼び止め方があるはずなのに、なぜか俺は快に片腕でバックハグ状態。

 俺よりも二センチだけ背の高い快の胸に、ほぼ全面的に背中がくっついている。

「無視すんなよ、臨ちゃん」

 左の耳元で聞こえる、快の拗ねた低い声。わずかにかかる吐息に、首の後ろがぞくっとした。

 快を意識して、トクトクと鼓動が速くなる。手で触ると、左耳がやけに熱くなっている。

 このまま無視し続けても、快は俺がなにか言うまで離れないだろう。

 変なところでしつこいんだ。快は。

「うざ……『ちゃん』って言うな……」

 左耳を手で覆ったまま、観念して振り向く。

 あまり力の入らない声で、いちおう文句を言ってやったら、快がばあーっと表情を明るくした。

「よかった。臨、やっとしゃべってくれた」

 そう言ったかと思うと、もう片方の腕も俺の前に回して、背中からぎゅーっとしがみついてくる。朝の教室で。人目も憚らず。

 だけど、はずかしさに頬を染めるのは俺ばかりで。快はにこにこ嬉しそうだし、周りのクラスメートたちも特に騒ぐことなく生温かい目で俺たちのことを見てくる。

 クラスメートたちにとっては、こんなのもう見慣れた風景なのだ。

 俺への快の距離感がおかしいのも。快が俺にべったりなのも。みんなにとっては日常風景。

 それが、俺にははずかしくてかなり複雑。

 クラスメートたちの中には、俺と快が付き合ってるって勘違いしてるやつもいるはずだから。

 快の距離感が一方的にバグってるだけで、俺たちはただの幼なじみなのに。

「なあ、臨。なんで俺になんの連絡もせずに先に行っちゃったんだよ」

 不貞腐れた声で言いながら、バックハグ状態のままで、快が俺の前髪を勝手に弄ってくる。

 快がこんなふうに距離が近いのは、昔からずっと俺にだけ。

 こういうの、ウザそうな顔で受け止めつつ内心ではうれしかった。ちょっと前までは。

 今だって、俺の髪を触る快の長い指が目の前をちらつくだけで、胸がきゅっと鳴ってドキドキが止まらない。

 でも、こんなのダメじゃん……? 友達でいるんだから。

「なあ、臨ちゃん。お返事は〜?」

 背中に軽く体重をかけるようにのしかかってきた快が、髪に触っていないほうの手の指で俺の両頬をぎゅっと押しつぶしてくる。

「俺、置いてかれてすごいショックだったんだけど。ねえ、臨。なんで?」

 快が、むにむにと、無許可でしつこく人のほっぺたを押してくる。

 なんでか、なんて。そんなの、自分で考えろよ。バカ快。

 って言ったって、どうせ一生考えたって気付かないんだろうな。鈍感すぎて。

 あーあ。もう、ほんとむかつくんだけど。

 なんで、俺ばっかりが悩まないといけないんだ。

 頬をつかむ快の手をバシッと叩き落とすと、へばりついてる快の胸を突き飛ばす。

「……しばらく快とはいっしょに学校行かない」
 
 眉間を寄せて不機嫌顔を作る俺を、快が茫然自失って感じで見つめてくる。

 数秒時間が止まったように固まっていた快が、視線を泳がせた。

「は? え? なんで?」

 渇いて、掠れた快の声が揺れる。

「……気分じゃないから」

 冷たく突き放すようにそう言うと、快の顔からみるみると血の気が引いていった。同時に「ガーン」て、本日二度目の架空の効果音が、俺の耳に盛大に響いてくる。

 傷付く快の顔を見て、ちょっとかわいそうだったかなと思う。だけど同じくらいに、すっきりもしていた。

 快だって、ちょっとは困ればいい。俺が気持ちに整理をつけられるまで。

 俺も快も、もうあのときみたいな子どもじゃない。