朝の光が、鏡台に差し込んでいた。
  百花はその前に座り、紅筆を取る手を止めていた。
 指の先に、かすかに震えがある。
  その震えを見つめるうち、眉が自然と寄る。
  顔の角度を変え、もう一度、鏡を見た。
 「……笑って。いつも通り。そう、百花は、藩をもてなす“姫”なんだから」
 自分に言い聞かせるように、唇を弧に整える。
  目尻をやや下げて、声を出さずに笑顔を形だけつくる。
  それは“習った笑顔”だった。
  綾女が教え込んだ、客前で見せるべき顔。
 ——けれど、それはどうしても“顔に貼った面”のように感じられた。
  頬が痛い。
  笑う筋肉が、うまく言うことを聞かない。
 「百花。準備は?」
 障子の向こうから綾女の声がした。
  はっとして立ち上がろうとするが、足元の裾に手が絡んでよろける。
  それを見て綾女は眉を寄せた。
 「だらしないわね。あとで師匠に立ち方から教えてもらいなさい」
 「……はい」
 百花は言葉少なに答える。
  しかしその声音は、どこか乾いていた。
  綾女は気づかない。いや、気づいても口にはしない。
  娘には“美しく”“完璧で”“誇らしい”存在であってほしいのだから。
 そのあとも稽古は続いた。
  師匠がつける拍子木の音が、ぴたりぴたりと時を刻む。
  けれど百花の足は、ついにその音から半拍遅れた。
 「そこ、止まりきれていません」
 師匠の声が冷たく響く。
  百花は言葉を返せない。
  扇を取り落としそうになった手元を、なんとかこらえる。
 縁に控えていた千夜の手が、ぎゅっと拳を握った。
  ——声をかけることは許されない。
  でも、姉の膝の震えが、袖の揺れが、千夜には痛いほどわかってしまう。
 その夜。
  夕餉を終えた千夜が、庭の石を拭いていると、奥の部屋から激しい音が響いた。
 ——鏡台が倒れた音だった。