千夜が屋敷へ戻ったのは、夜が明ける少し前だった。
裏門の閂を音を立てずに戻し、濡れた足袋を脱いで物置の隅に押し込む。
体の芯まで冷えていたが、それでも一歩ずつ、自室へ向かう足取りは確かだった。
(鎮魂の舞……それを、わたしが)
心のなかで繰り返すたび、胸の奥に火が灯るようだった。
それは野心ではない。
名を挙げたいのでも、姉を出し抜きたいのでもなかった。
ただ、存在の意味が、やっと“与えられた”気がしたのだ。
否——与えられたのではない。
奪われ続けたなかで、自分の手で掘り出した意味だった。
その瞬間——
「どこに行ってたの?」
廊下の陰から声がした。
凍るような声音だった。
灯もつけていない薄闇のなかに、百花が立っていた。
きちんと髪を結い、朱の着物に羽織を重ねた姿は、いつもよりもいっそう“姫”らしく見えた。
「……用があって、外に」
「夜中に? 一人で? そんな破れた着物で?」
千夜は言葉に詰まった。
百花の声には、咎めよりも不安がにじんでいた。
だが、それを隠すように、彼女は笑みを浮かべて言う。
「まさか……宵宮の舞を、踊るつもりじゃないよね?」
「そんなこと——」
「だってさ、最近ずっと見てたもの。わたしの舞の稽古」
千夜は目を伏せた。
それは否定ではなく、肯定でもなかった。
「ねぇ、千夜。わたしの舞、どう思う?」
思わぬ問いだった。
ずっと、百花は千夜に感想など求めたことがなかった。
それは、聞かなくても自分の舞が“選ばれる”ことを信じていたからだ。
「……綺麗。でも……呼吸が苦しそうだった」
「……やっぱり」
百花が小さく呟く。
その声に、張り詰めたものが混じっていた。
「怖いの。わたし……舞台が。あそこに立つのが」
はじめてだった。
百花が弱さを見せたのは。
そしてそれを、千夜が見たのも、はじめてだった。
(怖いのは、姉さまだけじゃないよ)
心のなかで千夜は呟いた。
けれど、それを口に出すことはなかった。
「平気。姉さまは選ばれる。だって、それが“決まってること”でしょう?」
皮肉でも嫌味でもなかった。
ただ、真実を言っただけだ。
——けれど、その一言が、百花の胸に小さな棘を残した。
二人のあいだに、また沈黙が落ちる。
やがて百花は「……寝る」とだけ言い残し、廊下の奥へと消えた。
その背中を見送りながら、千夜は拳を握った。
(怖がることが、舞を止める理由にはならない)
(わたしは、怖くても、舞う)
朝が近づいていた。
桜の枝が、ほのかな朱に染まり始める。
その下で、千夜の心に、確かな決意の炎が芽吹いていた。
(第三章・了)
裏門の閂を音を立てずに戻し、濡れた足袋を脱いで物置の隅に押し込む。
体の芯まで冷えていたが、それでも一歩ずつ、自室へ向かう足取りは確かだった。
(鎮魂の舞……それを、わたしが)
心のなかで繰り返すたび、胸の奥に火が灯るようだった。
それは野心ではない。
名を挙げたいのでも、姉を出し抜きたいのでもなかった。
ただ、存在の意味が、やっと“与えられた”気がしたのだ。
否——与えられたのではない。
奪われ続けたなかで、自分の手で掘り出した意味だった。
その瞬間——
「どこに行ってたの?」
廊下の陰から声がした。
凍るような声音だった。
灯もつけていない薄闇のなかに、百花が立っていた。
きちんと髪を結い、朱の着物に羽織を重ねた姿は、いつもよりもいっそう“姫”らしく見えた。
「……用があって、外に」
「夜中に? 一人で? そんな破れた着物で?」
千夜は言葉に詰まった。
百花の声には、咎めよりも不安がにじんでいた。
だが、それを隠すように、彼女は笑みを浮かべて言う。
「まさか……宵宮の舞を、踊るつもりじゃないよね?」
「そんなこと——」
「だってさ、最近ずっと見てたもの。わたしの舞の稽古」
千夜は目を伏せた。
それは否定ではなく、肯定でもなかった。
「ねぇ、千夜。わたしの舞、どう思う?」
思わぬ問いだった。
ずっと、百花は千夜に感想など求めたことがなかった。
それは、聞かなくても自分の舞が“選ばれる”ことを信じていたからだ。
「……綺麗。でも……呼吸が苦しそうだった」
「……やっぱり」
百花が小さく呟く。
その声に、張り詰めたものが混じっていた。
「怖いの。わたし……舞台が。あそこに立つのが」
はじめてだった。
百花が弱さを見せたのは。
そしてそれを、千夜が見たのも、はじめてだった。
(怖いのは、姉さまだけじゃないよ)
心のなかで千夜は呟いた。
けれど、それを口に出すことはなかった。
「平気。姉さまは選ばれる。だって、それが“決まってること”でしょう?」
皮肉でも嫌味でもなかった。
ただ、真実を言っただけだ。
——けれど、その一言が、百花の胸に小さな棘を残した。
二人のあいだに、また沈黙が落ちる。
やがて百花は「……寝る」とだけ言い残し、廊下の奥へと消えた。
その背中を見送りながら、千夜は拳を握った。
(怖がることが、舞を止める理由にはならない)
(わたしは、怖くても、舞う)
朝が近づいていた。
桜の枝が、ほのかな朱に染まり始める。
その下で、千夜の心に、確かな決意の炎が芽吹いていた。
(第三章・了)

