月が冴え、夜はまだ深い。
  御手洗山の奥、人の気配が遠ざかる領域に、千夜は息を殺すように佇んでいた。
 社の裏手にある古びた祠——そこは、地元の者でも足を踏み入れぬ“封域”とされていた。
  けれど千夜にとっては、ただ静かで、誰も追いかけてこない安息の地だった。
 「……あった」
 木箱の底から引き出した一巻の紙束。
  それは、父がかつて「触るな」と言い残していたものだった。
  布に包まれ、長らく人目に触れていなかったせいか、巻紙には湿気の匂いが染みついていた。
 紙片をそっと開く。
  そこには、古文書としての体裁はなかったが、幾つかの所作が図解で記されていた。
 「舞の……型?」
 しかし、その所作はどこかいびつだった。
  足の踏み方が左右逆だったり、扇を持つ角度が不自然だったり。
  まるで意図的に“型崩れ”させているようにすら見える。
 だが、千夜はすぐにそれが“裏舞”であることに気づいた。
  表向きの舞ではない、秘されたもう一つの動き——それは、祭祀で使われる“鎮魂の型”だ。
 (……間違いない。これが“封じの舞”)
 千夜は手元の図と、自らが夜毎に舞っていた所作を照らし合わせる。
  知らず知らずのうちに、彼女はその多くを身体に刻み込んでいた。
  誰にも教わらず、誰にも認められず。
  だが、間違いなく“近づいて”いた。
 「なぜ……これを、誰も継がなかったの?」
 思わず口にしたその言葉に、答える者はいない。
  ただ、夜風が笹を揺らし、遠くで鴉が一声、啼いた。
 「……あのときの夜鴉も、ここにいたね」
 千夜は目を細める。
  まだ幼かった頃、この場所で父と二人、舞の話をしていた記憶がある。
  百花はその日、熱を出して屋敷に残され、綾女の機嫌を損ねていた。
 千夜だけが、山へ連れて行かれた。
 「おまえは、よく山を視る」
 父がそう言って笑った。
  その目には優しさがあった。
  けれど、再婚して間もなく——その笑みは見られなくなった。
 (わたしは、捨てられたんじゃない。隠されたんだ)
 涙が滲みそうになるのをこらえ、千夜は立ち上がった。
  一枚の紙を懐に収める。
  それは“決意”の重さに近かった。
 誰にも見つかってはならない。
  けれど、誰かが継がねばならない。
 ——舞は、血筋のためにあるのではない。
  ——苦しみの声を鎮め、封じるためにある。
 そう信じたとき、千夜の背に、かすかに暖かい風が吹いた。