その夜。
千夜は部屋の奥に膝を折って、ほつれた袖を再び針でなぞっていた。
灯明の光だけが、薄く擦れた畳を照らしている。
家中が寝静まったこの時間だけが、千夜にとっての“自分の時間”だった。
屋根裏の風が鳴る。御手洗山から下りてくる風だ。
それが桜の枝を揺らし、微かに囁く。
それが、千夜を呼んでいるように思えた。
(行こう)
針を仕舞い、破れ袖の着物を羽織り、そっと障子を開ける。
誰にも気づかれないように、裸足のまま庭を抜け、裏門へ。
そこから続く山道を、千夜は迷わず歩き出す。
闇に紛れた山の気配は、むしろ彼女には懐かしかった。
夜の草の匂い、濡れた苔の柔らかさ、ふと鹿の息づかいが聞こえ、すぐまた静寂に溶ける。
やがて、見慣れた社の前に辿り着く。
灯もなく、祠だけが月に照らされている。
そこが、千夜の“稽古場”だった。
彼女は何も言わず、そこに立った。
そして、音もなく袖を広げる。
一歩、二歩——
細かい所作を思い出すまでもない。
手の流れ、足の返し、扇の仮想の重み。
(師はいない。でも、舞は、ある)
それはまるで、封じられた歌を自分の身体が思い出していくような感覚だった。
舞えば舞うほど、肩の力が抜け、心が解かれていく。
舞は誰かに見せるためではなく、自分が“ここにいる”と証明するための行為だった。
千夜はふと足を止めた。
祠の前に、何かが落ちていた。
濡れた古文書の一部。破けた紙片が風に揺れている。
拾い上げると、そこにかすれた墨で、こう記されていた。
「神は身分に拠らず。声なき者ほど、耳を傾けられる」
千夜の目が見開かれた。
(……これが、“鎮魂の舞”の真意?)
読み進めるにつれ、それはただの舞ではなく、「封印をつなぐ」ための巫女の務めであり、
その巫女にふさわしいのは“高貴な血”ではなく——
“苦しみを知る者”。
(なら……わたしに、意味はあった?)
今までの痛みや、夜毎の繕いが、すべてこの場所に向かって収束していくような感覚があった。
目の奥が熱くなる。
けれど涙は落とさず、千夜はもう一度だけ、舞の構えをとった。
——誰かが、見ている気がした。
夜の風が、一筋の拍子を運んでくる。
その呼吸に乗せて、千夜の袖が再び月下を舞った。
(第二章・了)
千夜は部屋の奥に膝を折って、ほつれた袖を再び針でなぞっていた。
灯明の光だけが、薄く擦れた畳を照らしている。
家中が寝静まったこの時間だけが、千夜にとっての“自分の時間”だった。
屋根裏の風が鳴る。御手洗山から下りてくる風だ。
それが桜の枝を揺らし、微かに囁く。
それが、千夜を呼んでいるように思えた。
(行こう)
針を仕舞い、破れ袖の着物を羽織り、そっと障子を開ける。
誰にも気づかれないように、裸足のまま庭を抜け、裏門へ。
そこから続く山道を、千夜は迷わず歩き出す。
闇に紛れた山の気配は、むしろ彼女には懐かしかった。
夜の草の匂い、濡れた苔の柔らかさ、ふと鹿の息づかいが聞こえ、すぐまた静寂に溶ける。
やがて、見慣れた社の前に辿り着く。
灯もなく、祠だけが月に照らされている。
そこが、千夜の“稽古場”だった。
彼女は何も言わず、そこに立った。
そして、音もなく袖を広げる。
一歩、二歩——
細かい所作を思い出すまでもない。
手の流れ、足の返し、扇の仮想の重み。
(師はいない。でも、舞は、ある)
それはまるで、封じられた歌を自分の身体が思い出していくような感覚だった。
舞えば舞うほど、肩の力が抜け、心が解かれていく。
舞は誰かに見せるためではなく、自分が“ここにいる”と証明するための行為だった。
千夜はふと足を止めた。
祠の前に、何かが落ちていた。
濡れた古文書の一部。破けた紙片が風に揺れている。
拾い上げると、そこにかすれた墨で、こう記されていた。
「神は身分に拠らず。声なき者ほど、耳を傾けられる」
千夜の目が見開かれた。
(……これが、“鎮魂の舞”の真意?)
読み進めるにつれ、それはただの舞ではなく、「封印をつなぐ」ための巫女の務めであり、
その巫女にふさわしいのは“高貴な血”ではなく——
“苦しみを知る者”。
(なら……わたしに、意味はあった?)
今までの痛みや、夜毎の繕いが、すべてこの場所に向かって収束していくような感覚があった。
目の奥が熱くなる。
けれど涙は落とさず、千夜はもう一度だけ、舞の構えをとった。
——誰かが、見ている気がした。
夜の風が、一筋の拍子を運んでくる。
その呼吸に乗せて、千夜の袖が再び月下を舞った。
(第二章・了)

