午後の光が、畳に斜めの格子を落としていた。
稽古場の障子がわずかに開かれ、そこから春の風がすっと吹き込んだ。
千夜はその風に乗ってくる音に、耳を澄ませた。
——笹の葉が擦れる音。烏が鳴く声。女中の草履の音。
そして、稽古の合間に洩れる百花の浅いため息。
「またここ、失敗しちゃった……」
扇を閉じながら、百花がぽつりと漏らす。
師匠はそれを聞かなかったふりで帳面に目を落としている。
だが、その眉間に刻まれた皺は、明らかに“見えている”者のものだった。
「もう一度、最初からお願いします」
師匠の声が静かに響くと、百花はわずかに肩を落としながらも、再び立ち上がった。
その様子を、畳の隅から千夜が見つめる。
——目は、ただの観客ではなかった。
自分ならどう動くか、どこを繕うか、そのすべてを頭の中で組み直している。
(左袖が先に出すぎてる。そこ、引けばもっと扇の線が映える)
(足の返しはきれい。でも、呼吸と拍子が合ってない)
胸の内で次々に反芻される所作の誤差。
けれどそれを、口には出さない。誰も聞こうとはしないからだ。
「百花様、あの……」
見かねたように、お梅がそっと声をかけた。
しかし、百花は返事をしない。
その代わりに、ぐっと唇を噛んで舞いの構えに入った。
——一、二、三、止。扇を開く。袖を送る。
動きは美しい。だが、どこか硬い。
その“硬さ”が、百花の不安を証明していた。
完璧であるべきはずの長女が、完璧であろうとするあまりに舞を失っていた。
そして、それを誰よりも早く理解したのは、舞台の端で座っていた千夜だった。
(怖がってるんだ、この舞を。……わたしは)
——怖くない。
誰にも教わらず、誰にも期待されず、ただ一人で拾ってきた舞。
誰かに見せることもなく、ただ山で、月の下で、風の中で、繰り返してきた。
(それだけが、わたしの中に、残ってる)
そのとき、袖口から一本の糸がぴん、とほどけた。
気づかぬうちに、自分の袖の繕いがまたほどけていたのだ。
けれど千夜はそれを結ばなかった。
その糸の“ほつれ”が、今の自分そのもののようで、むしろ愛おしかった。
師匠が「今日はここまで」と告げたとき、百花は深く頭を垂れた。
だがその背中には、どこか“敗北”の影が宿っていた。
千夜はその背を見つめながら、そっと袖口を握った。
(あと、七日)
宵宮舞まで、残された日々は指折り数えられるほどになっていた。
稽古場の障子がわずかに開かれ、そこから春の風がすっと吹き込んだ。
千夜はその風に乗ってくる音に、耳を澄ませた。
——笹の葉が擦れる音。烏が鳴く声。女中の草履の音。
そして、稽古の合間に洩れる百花の浅いため息。
「またここ、失敗しちゃった……」
扇を閉じながら、百花がぽつりと漏らす。
師匠はそれを聞かなかったふりで帳面に目を落としている。
だが、その眉間に刻まれた皺は、明らかに“見えている”者のものだった。
「もう一度、最初からお願いします」
師匠の声が静かに響くと、百花はわずかに肩を落としながらも、再び立ち上がった。
その様子を、畳の隅から千夜が見つめる。
——目は、ただの観客ではなかった。
自分ならどう動くか、どこを繕うか、そのすべてを頭の中で組み直している。
(左袖が先に出すぎてる。そこ、引けばもっと扇の線が映える)
(足の返しはきれい。でも、呼吸と拍子が合ってない)
胸の内で次々に反芻される所作の誤差。
けれどそれを、口には出さない。誰も聞こうとはしないからだ。
「百花様、あの……」
見かねたように、お梅がそっと声をかけた。
しかし、百花は返事をしない。
その代わりに、ぐっと唇を噛んで舞いの構えに入った。
——一、二、三、止。扇を開く。袖を送る。
動きは美しい。だが、どこか硬い。
その“硬さ”が、百花の不安を証明していた。
完璧であるべきはずの長女が、完璧であろうとするあまりに舞を失っていた。
そして、それを誰よりも早く理解したのは、舞台の端で座っていた千夜だった。
(怖がってるんだ、この舞を。……わたしは)
——怖くない。
誰にも教わらず、誰にも期待されず、ただ一人で拾ってきた舞。
誰かに見せることもなく、ただ山で、月の下で、風の中で、繰り返してきた。
(それだけが、わたしの中に、残ってる)
そのとき、袖口から一本の糸がぴん、とほどけた。
気づかぬうちに、自分の袖の繕いがまたほどけていたのだ。
けれど千夜はそれを結ばなかった。
その糸の“ほつれ”が、今の自分そのもののようで、むしろ愛おしかった。
師匠が「今日はここまで」と告げたとき、百花は深く頭を垂れた。
だがその背中には、どこか“敗北”の影が宿っていた。
千夜はその背を見つめながら、そっと袖口を握った。
(あと、七日)
宵宮舞まで、残された日々は指折り数えられるほどになっていた。

