朝の稽古場には、香の匂いが漂っていた。
  白檀に梅皮の調合、それを練香にしたもので、空気がやわらかく湿っている。
  薄紅色の襖が引かれ、陽の光が斜めに差す。
  その中心、舞台に立つのは百花だった。
 「——いち、に、さん、ひらいて、止まる。そう、それで……」
 女師匠の声に合わせ、百花が長い袖を翻す。
  金糸が仕込まれた袖口は、まるで陽炎のように煌めいて見えた。
  足運びは緩やかに、舞扇はきちりと胸元に添えられ、振るたびに花の文様がちらりと見える。
 「……さすが、お綾女さまのお嬢さま。気品がございます」
 縁に控えた女中たちが小声で囁く。
  その視線の先には、緋毛氈の端で正座しているもう一人の少女、千夜の姿もあった。
  彼女は舞台には立たない。
  けれどその視線は一心に、百花の動きを追っていた。
 右足を引くとき、左手は扇よりもわずかに低く構える。
  角度は——三分ほど斜めに。
 (……違う。さっきと微妙にズレてる。けど、師匠は止めなかった)
 千夜の目は、舞の技術ではなく、師匠の反応と百花の挙動との“間”を読んでいる。
  誰が見ても「うつくしい」と言う舞の、その裏にある「ごまかし」や「不安定さ」を嗅ぎ分けようとしていた。
 自分が舞うことは許されない。
  けれど、目と身体に染みつけることならできる。
 袖のほつれを隠すように、膝の上でこっそりと指先を動かす。
  動かすのは、破れた袖の繕いで鍛えた“無駄な力を入れない指先”。
  それが、舞の所作の基本に通じていることを、千夜だけが知っていた。
 「千夜、お茶」
 稽古の合間、百花が視線も向けずに言った。
  師匠が席を外した隙を見計らったように、ついでのように。
 「はい、すぐに」
 千夜は立ち上がると、静かに足を運んだ。
  盆に載せた茶碗と羊羹を置くと、百花がちらりと目だけ動かした。
 「ねぇ……あんた、ずっと見てるけどさ。覚えたって意味ないよ?」
 「……」
 「どうせ舞うのは、わたしだから」
 微笑みながら言うその目は、どこか焦っていた。
  それに気づかないふりをして、千夜は盆を下げた。
 (わたしが、見ていることに気づいてるんだ。……怖がってる?)
 百花は気づいている。
  自分の舞に、何かが足りていないことに。
  そして、それを見抜ける誰かが近くにいることに。
 千夜の心に、ふっと灯がともる。
  それは誰にも見えない、袖の裏に隠された小さな火だった。