縫い目が走る音は、静かな午前の台所にだけ響いていた。
糸の通るたびに、ほつれた布がほんの少しずつ元の形に戻っていく。
誰に褒められるでもない修繕だが、千夜にとっては大切な“戻す”作業だった。
(これを着ていたときは、まだ……父様がいた)
目の前の袖は、父から贈られた唯一の品だった。
布地はすでに薄くなり、色も褪せた。けれど、この袖だけは何度破れても捨てずに直してきた。
——あのとき、姉妹で同じ色の反物をもらったはずだった。
けれど今、百花の袖は金糸を重ね、千夜の袖は何度も縫い縮められている。
その差は、もう並ぶものではない。
「千夜さま……お掃除、手伝いましょうか」
ふと背後から声がした。振り返ると、下働きの娘・お梅が立っていた。
痩せて背の低い、おどおどとした子だが、千夜にだけはよく声をかけてくれる。
「ありがとう。でも、お梅はお昼の支度があるでしょう?」
「でも……昨日も一人でお庭の石まで拭かれてて、見てて……なんだか、つらくて……」
千夜は、笑った。
「平気よ。わたし、動いてないと落ち着かないの。……ね?」
その笑顔に、お梅は何も言えず、頷いた。
——つられて笑ったその顔に、ほんの少し罪悪感が走る。
(ほんとは、つらいよ。でも……それは言ったら、終わりだ)
誰かに同情されるたび、自分が“惨めである”ことを突きつけられる。
それならば、笑ってやり過ごすほうがましだ。
そのとき、屋敷の門の方から、ざわめきが起こった。
千夜が顔を上げると、女中たちが一斉に膝を折っているのが見えた。
「督真様、お越しでーすっ」
呼ばわる声とともに、夕坂藩主・督真が屋敷に入ってくる。
百花と綾女がすぐに奥から出てきて、深々と頭を下げた。
「まぁ……督真様。こんな朝早くに、わざわざ」
綾女は声音を一段高くして言った。普段とは別人のように、芝居がかった笑みを浮かべている。
「宵宮のご準備、進んでおりますよ。百花も、毎日一生懸命に——」
「その様子を見に来たのだ。余の目で確かめねばな」
督真は、言葉少なに頷きながら屋敷へと入っていく。
その横をすれ違ったとき、一瞬だけ、千夜の視線が督真の衣装に止まった。
朝霧色の単衣。飾り気はないが、よく手入れされた綾織。
民の前では簡素に、しかし立ち姿には威厳を——それが、この藩主の流儀だった。
(……宵宮の舞台に立つ人を、“自分の目”で選ぶって、そういうことか)
督真の目は、舞台の面だけを見ているのではない。
立ち居振る舞い、日々の所作、その人の“奥”を見ようとしている。
千夜は、袖を縫う手を止めて、その背を見送った。
あと十日。
表舞台には立てないと知りながらも、彼女は針を再び布に通した。
それは、己にしか届かぬ舞台の幕を開くための、一針だった。
(第一章・了)
糸の通るたびに、ほつれた布がほんの少しずつ元の形に戻っていく。
誰に褒められるでもない修繕だが、千夜にとっては大切な“戻す”作業だった。
(これを着ていたときは、まだ……父様がいた)
目の前の袖は、父から贈られた唯一の品だった。
布地はすでに薄くなり、色も褪せた。けれど、この袖だけは何度破れても捨てずに直してきた。
——あのとき、姉妹で同じ色の反物をもらったはずだった。
けれど今、百花の袖は金糸を重ね、千夜の袖は何度も縫い縮められている。
その差は、もう並ぶものではない。
「千夜さま……お掃除、手伝いましょうか」
ふと背後から声がした。振り返ると、下働きの娘・お梅が立っていた。
痩せて背の低い、おどおどとした子だが、千夜にだけはよく声をかけてくれる。
「ありがとう。でも、お梅はお昼の支度があるでしょう?」
「でも……昨日も一人でお庭の石まで拭かれてて、見てて……なんだか、つらくて……」
千夜は、笑った。
「平気よ。わたし、動いてないと落ち着かないの。……ね?」
その笑顔に、お梅は何も言えず、頷いた。
——つられて笑ったその顔に、ほんの少し罪悪感が走る。
(ほんとは、つらいよ。でも……それは言ったら、終わりだ)
誰かに同情されるたび、自分が“惨めである”ことを突きつけられる。
それならば、笑ってやり過ごすほうがましだ。
そのとき、屋敷の門の方から、ざわめきが起こった。
千夜が顔を上げると、女中たちが一斉に膝を折っているのが見えた。
「督真様、お越しでーすっ」
呼ばわる声とともに、夕坂藩主・督真が屋敷に入ってくる。
百花と綾女がすぐに奥から出てきて、深々と頭を下げた。
「まぁ……督真様。こんな朝早くに、わざわざ」
綾女は声音を一段高くして言った。普段とは別人のように、芝居がかった笑みを浮かべている。
「宵宮のご準備、進んでおりますよ。百花も、毎日一生懸命に——」
「その様子を見に来たのだ。余の目で確かめねばな」
督真は、言葉少なに頷きながら屋敷へと入っていく。
その横をすれ違ったとき、一瞬だけ、千夜の視線が督真の衣装に止まった。
朝霧色の単衣。飾り気はないが、よく手入れされた綾織。
民の前では簡素に、しかし立ち姿には威厳を——それが、この藩主の流儀だった。
(……宵宮の舞台に立つ人を、“自分の目”で選ぶって、そういうことか)
督真の目は、舞台の面だけを見ているのではない。
立ち居振る舞い、日々の所作、その人の“奥”を見ようとしている。
千夜は、袖を縫う手を止めて、その背を見送った。
あと十日。
表舞台には立てないと知りながらも、彼女は針を再び布に通した。
それは、己にしか届かぬ舞台の幕を開くための、一針だった。
(第一章・了)

