夜が、明けていく。
  御手洗山の上にかかった雲が、ゆっくりとほどけていった。
  その切れ間から射した光が、神楽殿の屋根を白く染める。
 境内に集まっていた人々は、ただ静かにその光景を見つめていた。
  千夜は舞台の中央に立ったまま、わずかに肩で息をしていた。
  けれどその目は澄みきっていた。
 割れた封、顕れた禍神、そして——その鎮め。
  誰もが“奇跡”と呼ぶであろう出来事が、たしかにこの場で起きた。
 だが、奇跡ではない。
  ひとりの少女が、奪われ続けた日々のなかで、諦めずに繋ぎ続けたものが、ついに結実しただけのことだった。
 「……ご無事ですか?」
 小さな声が、舞台の下から届いた。
  振り向けば、百花が膝をつき、袖で目元を拭っていた。
 「千夜……ありがとう。あたし、ほんとうに、間違ってた」
 その声は震えていたが、まっすぐだった。
  上辺の姉らしさでも、演技でもない。
  初めて、妹に頭を下げる姉の声だった。
 千夜は、微笑んだ。
 「ありがとう、姉さま。……わたしも、ここまで来られたのは、ずっと見てきた“舞”があったから」
 その言葉に、百花はさらに深く頭を垂れた。
  それは、自らの立場を投げ出すことではなかった。
  百花自身が、ようやく自分の“弱さ”を認めた証だった。
 やがて、藩主・督真が神楽殿の階段を登る。
  彼の背には、今まで見せたことのない“錦の羽織”があった。
 いつもは質素な装いの督真が、今この瞬間だけ、威光を帯びてそこに立つ。
 「千夜」
 その名を、はっきりと呼んだ。
  もはや誰も、この名を“下女のもの”だとは思っていない。
 「そなたの舞、しかと見届けた。
  それは、誰のためでもない、魂の鎮め。
  ——まさに、藩を照らす“巫女”にふさわしい」
 ざわめきが起こる。
  神楽殿の周囲から、感嘆と賞賛と、そして涙ぐむ声すら聞こえる。
 「これより、そなたを新たな守り巫女と定め、我が後見に置く」
 督真の言葉に、千夜は深く頭を下げる。
  ただ、その顔には誇りも、高ぶりもなかった。
 (ここからが、始まり)
 誰にも期待されなかった自分が、誰よりも“祈る者”になった。
  それだけが、千夜にとっての誇りだった。