黒煙が、神楽殿の舞台を呑み込もうとした瞬間——
千夜の舞が、そのただ中で揺るぎなく続いていた。
風を断ち、火を裂き、袖が空を斬る。
彼女の舞は、もはや所作ではなく、“意思”そのものだった。
禍神の咆哮が鳴る。
地が軋み、社の屋根の端が崩れ落ちる。
それでも千夜は、視線を逸らさなかった。
(神さま……泣いてる)
誰もが怯え、敵と見なすその存在の奥に、千夜だけが“痛み”を感じ取っていた。
長く封じられ、忘れられ、名も呼ばれず、ただ閉じ込められていた存在の悲しみ。
それは千夜自身が、誰よりも知っている感情だった。
だから、彼女は舞いの“型”を崩した。
扇を伏せ、膝をつき、胸に手を当て、呼吸を深く——
そして、鼓動を打つ。
「——とくん」
その一拍は、彼女だけの心音ではなかった。
神楽殿に集ったすべての命が、胸の奥で共鳴するように、静かに、確かに響いた。
(ねえ、聞いて。これが、わたしたちの音)
破れ袖が揺れる。
その裾が、黒煙の輪郭に触れる。
煙は一瞬、波打った。
さらにもう一拍。
その鼓動が、まるで産声のように禍神の中心を打つ。
黒煙の核が、ぐらりと揺れた。
中心に一瞬、なにか“人のかたち”にも似た影が浮かぶ。
それは、かつて神と呼ばれ、人と共に在ったなにか。
その影が、千夜の舞に呼応するように、手を伸ばす。
黒い指が、白い袖へと向かって——
千夜は、怯まない。
一歩、踏み出す。
一拍、胸を鳴らす。
一息、舞を繋ぐ。
そのとき、闇の奥から、低く、細く、声が響いた。
「——忘れられた名に……灯を……」
風が止む。
煙が静かに収縮し、やがて、月明かりの中へ溶けていった。
闇が退き、空が戻る。
篝火がふたたび舞台を照らしたとき、そこには——
ひとり、立ち尽くす千夜の姿だけがあった。
面をつけず、顔を上げたその姿に、誰もが声を失っていた。
(第九章・了)
千夜の舞が、そのただ中で揺るぎなく続いていた。
風を断ち、火を裂き、袖が空を斬る。
彼女の舞は、もはや所作ではなく、“意思”そのものだった。
禍神の咆哮が鳴る。
地が軋み、社の屋根の端が崩れ落ちる。
それでも千夜は、視線を逸らさなかった。
(神さま……泣いてる)
誰もが怯え、敵と見なすその存在の奥に、千夜だけが“痛み”を感じ取っていた。
長く封じられ、忘れられ、名も呼ばれず、ただ閉じ込められていた存在の悲しみ。
それは千夜自身が、誰よりも知っている感情だった。
だから、彼女は舞いの“型”を崩した。
扇を伏せ、膝をつき、胸に手を当て、呼吸を深く——
そして、鼓動を打つ。
「——とくん」
その一拍は、彼女だけの心音ではなかった。
神楽殿に集ったすべての命が、胸の奥で共鳴するように、静かに、確かに響いた。
(ねえ、聞いて。これが、わたしたちの音)
破れ袖が揺れる。
その裾が、黒煙の輪郭に触れる。
煙は一瞬、波打った。
さらにもう一拍。
その鼓動が、まるで産声のように禍神の中心を打つ。
黒煙の核が、ぐらりと揺れた。
中心に一瞬、なにか“人のかたち”にも似た影が浮かぶ。
それは、かつて神と呼ばれ、人と共に在ったなにか。
その影が、千夜の舞に呼応するように、手を伸ばす。
黒い指が、白い袖へと向かって——
千夜は、怯まない。
一歩、踏み出す。
一拍、胸を鳴らす。
一息、舞を繋ぐ。
そのとき、闇の奥から、低く、細く、声が響いた。
「——忘れられた名に……灯を……」
風が止む。
煙が静かに収縮し、やがて、月明かりの中へ溶けていった。
闇が退き、空が戻る。
篝火がふたたび舞台を照らしたとき、そこには——
ひとり、立ち尽くす千夜の姿だけがあった。
面をつけず、顔を上げたその姿に、誰もが声を失っていた。
(第九章・了)

