神楽殿の床下で、鈍い音が鳴った。
  それは拍子とは異なる、地の底から突き上げるような振動。
  直後、御手洗山の奥にある岩封のあたりから、黒い煙が噴き上がった。
 「っ……封が、割れる!」
 督真が叫ぶと同時に、参道の林が唸りを上げて揺れた。
  風ではない——“何か”が這い出してくる音。
  動物たちの悲鳴が山から逃げ、烏の群れが斜面を裂いて飛び立った。
 その中心に、黒い影が蠢く。
  煙とも獣ともつかぬ異形のものが、地を這いながら宵宮へと向かっていた。
 「……禍神(まがつかみ)……!」
 誰かが名を呼ぶ。
  封に失敗したとき、目覚めるとされる災厄の存在。
  空は朱を通り越し、紫に染まり始めていた。
 神楽殿の舞台では、千夜が動きを止めなかった。
  足元が震え、風が頬を裂いても、舞の型は揺るがない。
  拍子は失われたが、千夜の胸の内で、もう一つの“リズム”が生まれていた。
 ——心臓の音。
 それが、彼女にとっての最後の“拍子”だった。
  一歩、一拍。
  鼓動に合わせて、袖が揺れる。
  深く、低く、地の底に染み入るような動き。
 (止めなきゃ)
 それは義務でも命令でもなかった。
  誰に命じられたわけでもない。
  ただ、ここで舞いを止めれば——誰かが、何かが壊れると、体が知っていた。
 (この鼓動が、神に届くなら)
 舞の動きは、もはや観客の目では追えなかった。
  風と火と、桜吹雪が渦を巻き、千夜の身体はその中心で、ただ一筋の光となっていた。
 そして——
 黒煙が、神楽殿へ届いた。
 参拝者たちの悲鳴。
  女中たちが逃げ惑い、男たちが槍を構える。
  しかし、禍神の影は、炎を食らい、刃を吸い込んで、なお動きを止めない。
 そのとき——
 千夜が、舞いながら禍神の正面に歩み出た。
 袖が、紅蓮の弧を描く。
  扇が開かれ、炎の中でひときわ鮮やかに輝いた。
 目の前に、黒い塊が口を開く。
  それは叫びでも雄叫びでもない。
  封を解かれた神の“嘆き”だった。
 (わたしが——受け止める)
 千夜は、舞を止めなかった。
  一歩も退かず、黒煙の中へと足を踏み入れた。