箒の先で苔の端をなぞりながら、千夜はふと足を止めた。
昨夜の雨の名残が、石畳の継ぎ目に小さな水たまりを残している。
月が映っていた。
ほんの数秒、その歪んだ銀の輪郭を見つめたあと、千夜は小さく震えた手で前掛けの端をきゅっと握った。
袖口の綻びがそこでもまた主張を始めた。
自分の身体から、ひとつ、またひとつと、縫い目がほぐれていく音が、風に紛れて聞こえてくるようだった。
「……縫わなきゃ」
小さく呟き、立ち上がる。
声に出すことで、自分を動かしていた。
それは、子どもの頃からずっと変わらない癖だった。
屋敷の奥から、再び百花の笑い声が聞こえた。
甲高く、澄んで、何も困っていない者の声。
それを聞くたび、千夜の背骨はきしむ。
その声が途絶えたのは、屋敷の女中たちが一斉に出てきたときだった。
「お千夜、朝餉、もう出来てる? 姫様の膳は別よ」
「火鉢、炊き直しといて。あと藩主様、明日お出ましだって」
矢継ぎ早の指示に、千夜は息を吸い直して頷いた。
「はい」「すぐに」「承知しました」——その三つの返答で朝が過ぎていく。
百花の朝餉は、桜色の絞り染めの膳にのせて運ぶ決まりだった。
焼き魚の切り身一つにしても、焼き目が崩れていれば作り直し。
だが、それを出すのは千夜。
いくら細心の注意を払っても、箸の先が気に食わぬと言われれば下げるしかない。
「なんか、今日の味噌、ぬるくない?」
蒸し桶の湯気が立つなか、百花は首を傾げた。
「この前の方がおいしかったなー」と、言いながらも茶碗を空にする。
千夜は「申し訳ありません」とだけ呟き、碗を下げた。
(味なんて、ほんとはどうでもいいくせに)
心のなかで呟いて、でもそれを顔には出さない。
出してはいけないと、もう何度も痛みで教わっていたからだ。
そのとき、台所に入ってきたのは綾女だった。
父の再婚相手。つまり綾女は、この姉妹にとって“母”の位置にあたる。
だが千夜が「お母様」と呼んだ記憶は、初めの一度きりしかない。
「千夜、桜灯の紐がねじれていたわ。……今夜のお客様に見苦しい思いをさせないでちょうだい」
それだけを言い残し、綾女は振り返りもせずに去った。
声の調子は涼やかだったが、その言葉の裏にあるものは冷たい風のようだった。
千夜はまた、深く頭を下げる。
(見苦しいのは……私のこと、か)
誰も言わないが、誰もがわかっている。
この家の中で、綾女が「娘」として扱うのは、百花ただ一人。
千夜は“奉公人”として家に残されているに過ぎなかった。
けれど千夜は、火鉢の前に座り直し、手拭いをしっかりと握った。
膝の上には破れた袖。
そっと布を引き寄せ、針箱の蓋を開ける。
針先の冷たさが、少しだけ目を覚まさせる。
(……あと十日)
御手洗山の宵宮舞まで、残すところ、あと十日だった。
昨夜の雨の名残が、石畳の継ぎ目に小さな水たまりを残している。
月が映っていた。
ほんの数秒、その歪んだ銀の輪郭を見つめたあと、千夜は小さく震えた手で前掛けの端をきゅっと握った。
袖口の綻びがそこでもまた主張を始めた。
自分の身体から、ひとつ、またひとつと、縫い目がほぐれていく音が、風に紛れて聞こえてくるようだった。
「……縫わなきゃ」
小さく呟き、立ち上がる。
声に出すことで、自分を動かしていた。
それは、子どもの頃からずっと変わらない癖だった。
屋敷の奥から、再び百花の笑い声が聞こえた。
甲高く、澄んで、何も困っていない者の声。
それを聞くたび、千夜の背骨はきしむ。
その声が途絶えたのは、屋敷の女中たちが一斉に出てきたときだった。
「お千夜、朝餉、もう出来てる? 姫様の膳は別よ」
「火鉢、炊き直しといて。あと藩主様、明日お出ましだって」
矢継ぎ早の指示に、千夜は息を吸い直して頷いた。
「はい」「すぐに」「承知しました」——その三つの返答で朝が過ぎていく。
百花の朝餉は、桜色の絞り染めの膳にのせて運ぶ決まりだった。
焼き魚の切り身一つにしても、焼き目が崩れていれば作り直し。
だが、それを出すのは千夜。
いくら細心の注意を払っても、箸の先が気に食わぬと言われれば下げるしかない。
「なんか、今日の味噌、ぬるくない?」
蒸し桶の湯気が立つなか、百花は首を傾げた。
「この前の方がおいしかったなー」と、言いながらも茶碗を空にする。
千夜は「申し訳ありません」とだけ呟き、碗を下げた。
(味なんて、ほんとはどうでもいいくせに)
心のなかで呟いて、でもそれを顔には出さない。
出してはいけないと、もう何度も痛みで教わっていたからだ。
そのとき、台所に入ってきたのは綾女だった。
父の再婚相手。つまり綾女は、この姉妹にとって“母”の位置にあたる。
だが千夜が「お母様」と呼んだ記憶は、初めの一度きりしかない。
「千夜、桜灯の紐がねじれていたわ。……今夜のお客様に見苦しい思いをさせないでちょうだい」
それだけを言い残し、綾女は振り返りもせずに去った。
声の調子は涼やかだったが、その言葉の裏にあるものは冷たい風のようだった。
千夜はまた、深く頭を下げる。
(見苦しいのは……私のこと、か)
誰も言わないが、誰もがわかっている。
この家の中で、綾女が「娘」として扱うのは、百花ただ一人。
千夜は“奉公人”として家に残されているに過ぎなかった。
けれど千夜は、火鉢の前に座り直し、手拭いをしっかりと握った。
膝の上には破れた袖。
そっと布を引き寄せ、針箱の蓋を開ける。
針先の冷たさが、少しだけ目を覚まさせる。
(……あと十日)
御手洗山の宵宮舞まで、残すところ、あと十日だった。

