御手洗山の麓に建つ本殿は、桜の吹雪に包まれていた。
  境内には、町の者たちが身を寄せ合って集まり、祭の始まりを待っていた。
  例年ならば、拍手と笑顔の絶えぬこの場に、今年はなぜか緊張が漂っていた。
 ——姫が逃げた、という噂が、ひそかに広まっていたのだ。
 とはいえ表向き、百花は「体調不良」として欠席扱いとなっていた。
  しかし誰もが問うていた。
  この宵宮で、いったい誰が舞うのかと。
 やがて、太鼓の音が一つ、山にこだました。
  篝火が焚かれ、神楽殿の幕が静かに上がる。
 観客の視線が、一斉に集まった。
 そこに、立っていたのは——
  粗末な舞衣を纏った、ひとりの少女だった。
 「……下女、じゃないか?」
 「千夜……あの子……まさか……」
 ざわめきが波紋のように広がる。
  千夜は、物怖じすることなく、面をつけたまま舞台中央に進んだ。
  手には、紅銅に染まった破れ袖の装束。
  足元は、決して飾られていない。
  けれど、その立ち姿には、揺るぎない“芯”があった。
 「静まれ!」
 藩主・督真の声が響く。
  それだけで、観客の息が止まる。
 「これより、宵宮の舞、始まる。
  この者こそ、神の目に見初められし、封の舞手。
  その姿形に惑わされるな。魂を観よ」
 その宣言に、再びざわめきが起こりかけた。
  だがその前に——
 千夜が、ゆっくりと、面を外した。
 風が、舞台を吹き抜ける。
  桜の花弁が空を舞い、篝火に照らされて、まるで蝶のように渦を巻いた。
 そして——舞が始まる。
 千夜は、静かに一歩を踏み出す。
  誰にも見せたことのない所作。
  けれど、何度も、何度も夜に繰り返してきた動き。
 袖が、風に乗って広がる。
  扇が開かれ、神楽の拍子とぴたりと重なる。
 その瞬間——
  ざわめきは、すべて消えた。
 客席の誰もが、息を呑んでいた。