夜が更けるほどに、火の色は深まっていった。
焚き火はもう、ただの“火”ではなかった。
誰かの祈りを宿したような、紅蓮の魂だった。
千夜の袖は、乾いたあともなお、かすかに熱を帯びていた。
それは、赤銅の染めが“芯”まで染み渡った証だった。
「……できた」
誰に向けるでもなく、千夜は呟いた。
指先は煤に汚れ、目の下にはくっきりと疲労の影が落ちていた。
けれどその顔には、一分の曇りもなかった。
戸の外では、女たちが一人また一人と立ち上がっていく。
言葉は交わさずとも、それぞれが火のそばに手をかざし、深く頭を下げた。
その無言の礼こそが、いちばんの激励だった。
やがて、千夜はその場を離れた。
袖を抱きしめ、庭を抜け、静かに御手洗山へと向かう。
宵宮の本殿では、明朝に備えて最後の準備が進められていた。
参道を登る足取りは、決して速くはない。
けれど、一歩一歩が確かな“決断”を刻んでいた。
(わたしは、選ばれたわけじゃない)
(でも、逃げなかった。だから、ここにいる)
そのとき、木々の影から低い唸りが聞こえた。
風か、あるいは——
「……禍神が目覚めかけている」
それは確信だった。
社の奥から流れてくる、異様な“気”が肌に触れる。
それは、言葉ではなく、体にじかに響く“脅威”だった。
(でも、大丈夫。舞える。わたしの舞は——怖くない)
そう言い聞かせ、山を下りた千夜は屋敷へ戻ると、
誰もいない部屋で装束を身につけはじめた。
小さな手鏡の前で、帯を締め、髪を結い、ひとつひとつ、身支度を整えていく。
顔には何の化粧も施さない。
ただ、目だけが揺らがず、芯を宿していた。
そのとき——
「……着替え、手伝おうか?」
戸の向こうから、百花の声がした。
驚いて振り向くと、そこには、旅支度のままの姉が立っていた。
風に濡れた髪が肩にかかり、草履の裏には泥が残っている。
「姉さま……?」
千夜が声を失うなか、百花は一歩、部屋に入ってきた。
その手には、かつての舞扇があった。
「ごめん。逃げたの、わたし。
でもね、あんたの袖が——この色が、どんな金の織物より、ずっと強くてきれいで……だから、戻ってきたの」
千夜は何も言わなかった。
ただ、姉が扇を差し出す手を、静かに受け取った。
「舞って。……あんたの舞、見届ける」
その一言で、すべてが報われた気がした。
(第七章・了)
焚き火はもう、ただの“火”ではなかった。
誰かの祈りを宿したような、紅蓮の魂だった。
千夜の袖は、乾いたあともなお、かすかに熱を帯びていた。
それは、赤銅の染めが“芯”まで染み渡った証だった。
「……できた」
誰に向けるでもなく、千夜は呟いた。
指先は煤に汚れ、目の下にはくっきりと疲労の影が落ちていた。
けれどその顔には、一分の曇りもなかった。
戸の外では、女たちが一人また一人と立ち上がっていく。
言葉は交わさずとも、それぞれが火のそばに手をかざし、深く頭を下げた。
その無言の礼こそが、いちばんの激励だった。
やがて、千夜はその場を離れた。
袖を抱きしめ、庭を抜け、静かに御手洗山へと向かう。
宵宮の本殿では、明朝に備えて最後の準備が進められていた。
参道を登る足取りは、決して速くはない。
けれど、一歩一歩が確かな“決断”を刻んでいた。
(わたしは、選ばれたわけじゃない)
(でも、逃げなかった。だから、ここにいる)
そのとき、木々の影から低い唸りが聞こえた。
風か、あるいは——
「……禍神が目覚めかけている」
それは確信だった。
社の奥から流れてくる、異様な“気”が肌に触れる。
それは、言葉ではなく、体にじかに響く“脅威”だった。
(でも、大丈夫。舞える。わたしの舞は——怖くない)
そう言い聞かせ、山を下りた千夜は屋敷へ戻ると、
誰もいない部屋で装束を身につけはじめた。
小さな手鏡の前で、帯を締め、髪を結い、ひとつひとつ、身支度を整えていく。
顔には何の化粧も施さない。
ただ、目だけが揺らがず、芯を宿していた。
そのとき——
「……着替え、手伝おうか?」
戸の向こうから、百花の声がした。
驚いて振り向くと、そこには、旅支度のままの姉が立っていた。
風に濡れた髪が肩にかかり、草履の裏には泥が残っている。
「姉さま……?」
千夜が声を失うなか、百花は一歩、部屋に入ってきた。
その手には、かつての舞扇があった。
「ごめん。逃げたの、わたし。
でもね、あんたの袖が——この色が、どんな金の織物より、ずっと強くてきれいで……だから、戻ってきたの」
千夜は何も言わなかった。
ただ、姉が扇を差し出す手を、静かに受け取った。
「舞って。……あんたの舞、見届ける」
その一言で、すべてが報われた気がした。
(第七章・了)

