宵宮の前夜。
  夕坂の空は燃えるような紅を帯びていた。
  その朱は不気味に濃く、まるで何かが地の底から滲み出しているかのようだった。
 屋敷の奥——物置の蔵に灯りがともる。
  千夜は、ひとりそこにいた。
  破れた袖の舞装束を膝に抱き、赤銅色の染料を手にしている。
 「……姉さまの着物は、わたしには着られない」
  「でも、これは——わたしの袖。何度縫っても、破れても、これだけは手放せなかった」
 薄紅に褪せた布を、火桶の湯であたため、染料を含ませた刷毛を静かに走らせていく。
  朱ではなく、紅でもなく、赤銅——
  血と炎を混ぜたような深い赤。
  それは、“ただ美しいだけではない色”だった。
 外では、風が唸っている。
  山の木々がざわめき、遠くで鳥が鳴き止んだ。
  そのすべてが、不穏な気配を帯びていた。
 千夜は、それに気づいていた。
  だからこそ、装束だけは自分の手で、最後まで整えたかった。
 「この袖で舞う。……何が起きても、退かない」
 言葉にすれば、不安は少しだけ遠のく。
  そうして千夜は、刷毛を置き、仕上がった袖を火のそばに吊るした。
 そのとき——
 「……何してんの」
 小さな声が、戸の向こうから漏れた。
  物陰から現れたのは、お梅だった。
  いつものように不安げな目で、千夜の袖を見つめていた。
 「すごく……きれい。でも、怖い。千夜さま、どこかに行ってしまうみたい」
 千夜は微笑んで首を横に振った。
 「大丈夫。行くんじゃないよ。……戻るんだよ、本来の場所に」
 お梅は、意味を測りかねるように首を傾げた。
  けれどそのあと、すっと一歩前に出て、言った。
 「……わたし、手伝います。火を絶やさないように、見張ります」
 千夜は驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
  そして、染め上がった袖をそっと握りしめた。
 そのとき、蔵の外から音がした。
 草履の音。複数。
  静かに集まり、そっと戸の前に立つ。
 そして、ひとりが口を開いた。
 「……わたしたちにも、何か、できることはありませんか」
 それは、屋敷で働く下働きたちの声だった。
  名もない彼女たちは、声をひそめて日々を生きていた。
  けれど今、袖を染める火に照らされた千夜の姿を見て、心を動かされたのだった。
 千夜は、微笑んだ。
  何も言わず、ただ一つ、火桶の傍に腰を落とし、空いている染め布を差し出した。
 その夜、火のまわりにはひとつ、またひとつと人の影が増えた。
  誰も喋らなかったが、そこには確かに、ひとつの想いが集まっていた。