雨は明け方に上がり、朝日が濡れた瓦を光らせていた。
  宵宮舞の前日。
  城下の者たちはいつもより静かに、そして落ち着かぬ様子で屋敷の前を通り過ぎた。
 夕坂藩邸——
  藩主・督真は、その奥座敷に身を置いていた。
  書を広げながらも、視線は遠く、筆は止まったまま。
 「……どうして、舞手が姿を消すかね」
 重ねられた報告の巻物を押しのけ、督真は立ち上がった。
  控えていた侍臣がひとり、言葉を選びながら口を開いた。
 「姫君の……体調不良と綾女様より伺っております」
 「それが“真”ならば、なおさら重大。
  だが、病とは異なる気配がある。……昨夜から山の気が乱れている」
 督真の目が鋭く光る。
  彼はただの為政者ではない。
  この地の“封”を守る役目を、代々の藩主が密かに受け継いできた。
 御手洗山の神域。
  その封印が、宵宮の舞によって“新たに繋ぎ留められる”ことを知る者は、世に数えるほどしかいない。
 「このままでは、宵宮が崩れる。……舞がなければ、封も持たん」
 侍臣が恐る恐る問い返す。
 「……では、代わりを立てましょうか。
  女中の中でも、舞に心得ある者が一人……」
 「形を真似ても、魂が通らねば舞ではない。
  まして封の儀は“神の眼”に晒される場。
  ——偽りがあれば、封じは破れる」
 静かに、しかし断言するその声に、部屋の空気が張り詰めた。
 (では、どうする)
  侍臣たちの表情が沈むなか、一人だけ、静かに進み出る者があった。
 それは、千夜だった。
 庭先に伏していた彼女が、座敷に入るや否や、深々と頭を垂れる。
 「わたしに、舞わせてください」
 その声は、驚くほど澄んでいた。
  侍臣たちがざわつく。
  督真は、動じなかった。
 「……名を、言え」
 「千夜。屋敷に仕える者です。……姉、百花の妹です」
 「千夜。……なるほど」
 督真は目を細める。
  その名に聞き覚えがあった。
  幼い頃、父親に連れられてきた姉妹。
  そのとき、父が言っていた。
 ——『妹のほうが、神を視る目をしている』と。
 「その言葉が……今になってよみがえるか」
 督真がぽつりと呟くと、侍臣が慌てて遮ろうとする。
 「し、しかし千夜は正式な舞手では……しかも昨夜まで、屋敷の下働き——」
 「それがどうした。
  神が選ぶのは、位ではない」
 督真の言葉に、部屋の空気が変わった。
 千夜は、静かに顔を上げた。
 (この場所に立つために、わたしは……この家に残されたのかもしれない)
 その心に、迷いはなかった。