「探しなさい! 今すぐ!」
綾女の声が、屋敷中に響いた。
雨の音さえかき消すような声だった。
女中たちが手分けして門から裏庭へ走り、灯を掲げて桜の木の下を探る。
千夜も、無言で草履を履いた。
姉が逃げる——それは予感していたはずなのに、現実となると胸が締めつけられる。
(どうして、逃げたの?)
問いは浮かぶが、答えはない。
ただ、桜雨のなかに落ちた一枚の絹布——百花の袖の断片だけが、足元で冷たく濡れていた。
そのとき、後ろから綾女の声が鋭く飛ぶ。
「あなたは、行かなくていいわ。千夜」
「でも……」
「恥を広げないで。これ以上、この家の“汚点”を増やさないでちょうだい」
汚点。
その言葉が、鋭い刃のように胸を刺す。
——綾女は、千夜が動くことで何かを“証明されてしまう”のを恐れていた。
逃げた娘の代わりに、もう一人の娘が立つかもしれない——そんな“可能性”すら、恐ろしかったのだ。
(わたしは……動かない。まだ、今は)
千夜は、静かにその場に膝をついた。
草に濡れながら、袖の切れ端を拾い上げる。
絹布の縁に、繊細な刺繍が残っていた。
それはかつて、父が百花と千夜にお揃いで贈ったもの。
同じ反物から仕立てられた袖。
けれど今、片方だけが手元にある。
(姉さま……どこに行ったの)
夜が深くなるほど、雨足は細く、静かに変わっていく。
その音は、まるで誰かが泣く声に似ていた。
一刻ほどして、女中の一人が戻ってきた。
「見つかりません。……街道の方まで、見張りを出しましたが、痕跡もなくて」
綾女は、押し殺したような声で言った。
「——見失った、で済むことではありません。……けれど……口外は禁じます。明日、藩主さまには……体調を崩したとだけ伝えて」
その目には、一片の涙もなかった。
それどころか、口元には微かに作り笑いが浮かんでいた。
「この家が笑われるわけにはいかないの。……わかったでしょう、千夜?」
綾女がふいに、静かに言った。
その視線は、断罪よりも鋭く、拒絶よりも遠かった。
千夜は、黙って頷いた。
そして再び、袖の端を見つめた。
(わたしが——動くしか、ない)
この家の誰もが動けなくなったとき。
綾女が口を閉ざし、女中たちが混乱し、姉がいなくなった今。
千夜は、胸の奥で、もう一度だけ針を刺すように決めた。
自分の中にあるものを、引き裂いてでも縫い直す。
それが、今、自分にできる唯一のことだった。
(第五章・了)
綾女の声が、屋敷中に響いた。
雨の音さえかき消すような声だった。
女中たちが手分けして門から裏庭へ走り、灯を掲げて桜の木の下を探る。
千夜も、無言で草履を履いた。
姉が逃げる——それは予感していたはずなのに、現実となると胸が締めつけられる。
(どうして、逃げたの?)
問いは浮かぶが、答えはない。
ただ、桜雨のなかに落ちた一枚の絹布——百花の袖の断片だけが、足元で冷たく濡れていた。
そのとき、後ろから綾女の声が鋭く飛ぶ。
「あなたは、行かなくていいわ。千夜」
「でも……」
「恥を広げないで。これ以上、この家の“汚点”を増やさないでちょうだい」
汚点。
その言葉が、鋭い刃のように胸を刺す。
——綾女は、千夜が動くことで何かを“証明されてしまう”のを恐れていた。
逃げた娘の代わりに、もう一人の娘が立つかもしれない——そんな“可能性”すら、恐ろしかったのだ。
(わたしは……動かない。まだ、今は)
千夜は、静かにその場に膝をついた。
草に濡れながら、袖の切れ端を拾い上げる。
絹布の縁に、繊細な刺繍が残っていた。
それはかつて、父が百花と千夜にお揃いで贈ったもの。
同じ反物から仕立てられた袖。
けれど今、片方だけが手元にある。
(姉さま……どこに行ったの)
夜が深くなるほど、雨足は細く、静かに変わっていく。
その音は、まるで誰かが泣く声に似ていた。
一刻ほどして、女中の一人が戻ってきた。
「見つかりません。……街道の方まで、見張りを出しましたが、痕跡もなくて」
綾女は、押し殺したような声で言った。
「——見失った、で済むことではありません。……けれど……口外は禁じます。明日、藩主さまには……体調を崩したとだけ伝えて」
その目には、一片の涙もなかった。
それどころか、口元には微かに作り笑いが浮かんでいた。
「この家が笑われるわけにはいかないの。……わかったでしょう、千夜?」
綾女がふいに、静かに言った。
その視線は、断罪よりも鋭く、拒絶よりも遠かった。
千夜は、黙って頷いた。
そして再び、袖の端を見つめた。
(わたしが——動くしか、ない)
この家の誰もが動けなくなったとき。
綾女が口を閉ざし、女中たちが混乱し、姉がいなくなった今。
千夜は、胸の奥で、もう一度だけ針を刺すように決めた。
自分の中にあるものを、引き裂いてでも縫い直す。
それが、今、自分にできる唯一のことだった。
(第五章・了)

