宵宮舞を三日後に控えた日、夕坂の空は昼過ぎから鈍く曇っていた。
花の盛りを過ぎかけた桜の枝先には雨が宿り、重たげに垂れ下がっている。
舞稽古の最終日。
屋敷の座敷では、師匠が最後の仕上げと称し、拍子を緩やかに打ち続けていた。
「……右足に力が入りすぎ。扇は胸より高く上げない」
厳しい声が飛ぶたび、百花の扇先が揺れる。
反応はする。だが、動きに“迷い”が見える。
膝の角度、袖の高さ、首の振り幅。どれも一つずつが僅かにぶれていた。
(いつもなら、あの程度の揺れで師匠は止めない)
(でも今日は、全部指摘してる……本番直前だから)
千夜は廊下の柱の陰から、目を凝らしていた。
雨の音が屋根に広がり、どこか不吉な拍子を刻んでいるように思える。
そのなかで百花の姿は、いつもよりも小さく見えた。
「もう……やだっ」
不意に、百花が扇を取り落とした。
師匠が眉をひそめる。
「何をしているのです、姫様」
「だって、だってもう、わかんないの! 昨日できてたところも、今はできないの!」
声が上ずっていた。
百花は膝をつき、濡れた袖で額を押さえる。
師匠が言葉を飲み込み、静かに拍子木を置いた。
「では今日はここまで。……明後日、必ず御前で仕上げてください」
その背を見送った後、百花はしばらくその場にうずくまっていた。
千夜は、すぐには近づかなかった。
この沈黙の中に、触れてはいけない痛みがあると知っていたからだ。
けれど夜になると、屋敷に異変が走った。
女中のひとりが、駆け込んできたのだ。
「姫様の姿が見えません……! 鏡台の引き出しが開いていて、装束が、ないんです……!」
廊下に緊張が走る。
綾女が顔色を変えて立ち上がる。
「……どこへ?」
答えは、誰も持っていなかった。
花の盛りを過ぎかけた桜の枝先には雨が宿り、重たげに垂れ下がっている。
舞稽古の最終日。
屋敷の座敷では、師匠が最後の仕上げと称し、拍子を緩やかに打ち続けていた。
「……右足に力が入りすぎ。扇は胸より高く上げない」
厳しい声が飛ぶたび、百花の扇先が揺れる。
反応はする。だが、動きに“迷い”が見える。
膝の角度、袖の高さ、首の振り幅。どれも一つずつが僅かにぶれていた。
(いつもなら、あの程度の揺れで師匠は止めない)
(でも今日は、全部指摘してる……本番直前だから)
千夜は廊下の柱の陰から、目を凝らしていた。
雨の音が屋根に広がり、どこか不吉な拍子を刻んでいるように思える。
そのなかで百花の姿は、いつもよりも小さく見えた。
「もう……やだっ」
不意に、百花が扇を取り落とした。
師匠が眉をひそめる。
「何をしているのです、姫様」
「だって、だってもう、わかんないの! 昨日できてたところも、今はできないの!」
声が上ずっていた。
百花は膝をつき、濡れた袖で額を押さえる。
師匠が言葉を飲み込み、静かに拍子木を置いた。
「では今日はここまで。……明後日、必ず御前で仕上げてください」
その背を見送った後、百花はしばらくその場にうずくまっていた。
千夜は、すぐには近づかなかった。
この沈黙の中に、触れてはいけない痛みがあると知っていたからだ。
けれど夜になると、屋敷に異変が走った。
女中のひとりが、駆け込んできたのだ。
「姫様の姿が見えません……! 鏡台の引き出しが開いていて、装束が、ないんです……!」
廊下に緊張が走る。
綾女が顔色を変えて立ち上がる。
「……どこへ?」
答えは、誰も持っていなかった。



