その翌朝、百花は早くに目を覚ました。
鏡台の前に座ると、ひびの入った鏡をじっと見つめた。
割れた像は一つにならず、幾重にも重なって映っている。
その中のひとつに、無理やり笑おうとしている自分の顔があった。
(どうして……わたし、怖がってるの?)
昔は違った。
誰に教わらずとも踊れたし、拍子の数も感覚で数えられた。
けれど、宵宮舞だけは——何度繰り返しても、型が染みつかない。
「……巫女として見られるのが、怖いのかな」
ぽつりとつぶやいた声が、自分で思っていたよりも震えていた。
すると背後から、綾女の声が飛んだ。
「鏡を割るなんて、なんてことを! 縁起でもない!」
廊下にいた女中が報告したのだろう。
綾女はすぐに駆けつけ、畳の上の紅の染みに眉をひそめた。
「どうしてこんなことを。お客様の前に出る者が、こんな……!」
「だって……わたし、踊れない」
百花が小さく呟いたとき、綾女の顔が凍りついた。
——それは、聞いてはいけない言葉だった。
「踊れない? なにを言ってるの。あなたしかいないのよ」
「……でも、怖いの」
「怖い? 笑いなさい、百花。あなたの笑顔は、最強の武器になるのよ。思い出しなさい、あのとき——」
「思い出せない!」
叫び声が上がった。
百花が自分の声に驚いたように、口を手で覆った。
綾女も、初めて娘に声を荒げられ、数歩たじろいだ。
しん、と部屋の空気が止まった。
「……姉さま」
その空白を破ったのは、千夜だった。
戸口に立つ彼女の手には、包みが一つ。
中には、繕い終えたばかりの着物が収められていた。
「この袖、治しておいたよ。ほつれてたから。……わたし、姉さまに、ちゃんと舞ってほしいと思ってる」
「どうして……」
百花は思わず漏らした。
「わたしの舞台が奪われるのが怖いんじゃないの?」と。
千夜は小さく首を横に振る。
その目は、決して姉を見下していない。
ただ、まっすぐに、姉という一人の“舞手”を見ていた。
「姉さまの舞は、誰かに見せる舞。
でも、わたしの舞は、誰にも見られなくても、神さまに届くように舞うの。
——違うからこそ、姉さまの舞は、わたしにない力を持ってる」
その言葉に、百花は何も言えなかった。
涙がにじむ。
だがそれは、悔しさではない。
千夜が“敵”ではなく、真正面から支えてくれていることが、痛いほど伝わったからだ。
綾女は、娘たちのやりとりをただ見つめていた。
その表情に、いつものような余裕はなかった。
やがて千夜は、着物の包みをそっと置いて頭を下げ、部屋を出た。
百花は、黙ってそれを見送り——
膝の上の包みに、ゆっくりと手を伸ばした。
(第四章・了)
鏡台の前に座ると、ひびの入った鏡をじっと見つめた。
割れた像は一つにならず、幾重にも重なって映っている。
その中のひとつに、無理やり笑おうとしている自分の顔があった。
(どうして……わたし、怖がってるの?)
昔は違った。
誰に教わらずとも踊れたし、拍子の数も感覚で数えられた。
けれど、宵宮舞だけは——何度繰り返しても、型が染みつかない。
「……巫女として見られるのが、怖いのかな」
ぽつりとつぶやいた声が、自分で思っていたよりも震えていた。
すると背後から、綾女の声が飛んだ。
「鏡を割るなんて、なんてことを! 縁起でもない!」
廊下にいた女中が報告したのだろう。
綾女はすぐに駆けつけ、畳の上の紅の染みに眉をひそめた。
「どうしてこんなことを。お客様の前に出る者が、こんな……!」
「だって……わたし、踊れない」
百花が小さく呟いたとき、綾女の顔が凍りついた。
——それは、聞いてはいけない言葉だった。
「踊れない? なにを言ってるの。あなたしかいないのよ」
「……でも、怖いの」
「怖い? 笑いなさい、百花。あなたの笑顔は、最強の武器になるのよ。思い出しなさい、あのとき——」
「思い出せない!」
叫び声が上がった。
百花が自分の声に驚いたように、口を手で覆った。
綾女も、初めて娘に声を荒げられ、数歩たじろいだ。
しん、と部屋の空気が止まった。
「……姉さま」
その空白を破ったのは、千夜だった。
戸口に立つ彼女の手には、包みが一つ。
中には、繕い終えたばかりの着物が収められていた。
「この袖、治しておいたよ。ほつれてたから。……わたし、姉さまに、ちゃんと舞ってほしいと思ってる」
「どうして……」
百花は思わず漏らした。
「わたしの舞台が奪われるのが怖いんじゃないの?」と。
千夜は小さく首を横に振る。
その目は、決して姉を見下していない。
ただ、まっすぐに、姉という一人の“舞手”を見ていた。
「姉さまの舞は、誰かに見せる舞。
でも、わたしの舞は、誰にも見られなくても、神さまに届くように舞うの。
——違うからこそ、姉さまの舞は、わたしにない力を持ってる」
その言葉に、百花は何も言えなかった。
涙がにじむ。
だがそれは、悔しさではない。
千夜が“敵”ではなく、真正面から支えてくれていることが、痛いほど伝わったからだ。
綾女は、娘たちのやりとりをただ見つめていた。
その表情に、いつものような余裕はなかった。
やがて千夜は、着物の包みをそっと置いて頭を下げ、部屋を出た。
百花は、黙ってそれを見送り——
膝の上の包みに、ゆっくりと手を伸ばした。
(第四章・了)

