音のした方へ、女中たちが顔を見合わせる。
だが誰も動こうとしない。
——その部屋は、“綾女さまの姫君”の部屋。
不用意に入れば叱責が飛ぶことを、皆が知っていた。
ただ一人、千夜だけが立ち上がった。
庭の手桶を置き、濡れた指を膝でぬぐって、廊下を静かに歩く。
障子の向こうからは、泣き声も怒声も聞こえない。
代わりに、息を殺すような静寂が張り詰めていた。
「姉さま……?」
小さく声をかけて、戸をわずかに開ける。
中では、百花が膝を抱えて鏡台の脇に座り込んでいた。
倒れた鏡には細かいひびが入り、粉のこぼれた紅が畳を濡らしている。
「なに、見てるの」
目だけで睨む百花の声は、涙で濡れていた。
でも、その悔しさを隠そうともしていない。
千夜は何も言わず、鏡台の傍に近づくと、砕けた硝子をそっと片付け始めた。
「触らないで」
「でも、危ないから……」
「わたしの鏡。わたしの部屋。あんたは、入る立場じゃないでしょう?」
その言葉に、千夜はぴたりと動きを止めた。
でも、それでも、黙って指先で硝子を拾い続けた。
袖が破れても、手に傷がついても、黙って、丁寧に。
「……どうして、そんな顔してるのよ」
百花の声が、かすれた。
「なにをされても、なにを言われても……なんで、笑ってんのよ」
その問いは、怒りにも似ていた。
けれどそれは、姉としての誇りを脅かす何かへの、哀しみに近い叫びだった。
千夜は、ようやく目を上げた。
その瞳には、決して揺らがぬ静かな炎が灯っていた。
「わたし、負けたくないの」
「え?」
「誰かにじゃなくて、自分に。……昔の自分に。あの頃の、諦めてたわたしに」
百花の目が、大きく見開かれる。
「姉さまは、誰かに見てほしくて舞う。でもわたしは、見てもらえなくても、舞うの」
「……っ!」
何かを言いかけた百花は、唇を噛みしめた。
顔をそむけるように、俯いた。
「部屋、片づけておくね」
それだけ言って、千夜は立ち上がる。
一礼し、静かに部屋を出ていった。
百花は動けなかった。
ただ、鏡台に映ったひび割れた自分の姿を見つめながら、何度も何度も、指先で紅をこすった。
だが誰も動こうとしない。
——その部屋は、“綾女さまの姫君”の部屋。
不用意に入れば叱責が飛ぶことを、皆が知っていた。
ただ一人、千夜だけが立ち上がった。
庭の手桶を置き、濡れた指を膝でぬぐって、廊下を静かに歩く。
障子の向こうからは、泣き声も怒声も聞こえない。
代わりに、息を殺すような静寂が張り詰めていた。
「姉さま……?」
小さく声をかけて、戸をわずかに開ける。
中では、百花が膝を抱えて鏡台の脇に座り込んでいた。
倒れた鏡には細かいひびが入り、粉のこぼれた紅が畳を濡らしている。
「なに、見てるの」
目だけで睨む百花の声は、涙で濡れていた。
でも、その悔しさを隠そうともしていない。
千夜は何も言わず、鏡台の傍に近づくと、砕けた硝子をそっと片付け始めた。
「触らないで」
「でも、危ないから……」
「わたしの鏡。わたしの部屋。あんたは、入る立場じゃないでしょう?」
その言葉に、千夜はぴたりと動きを止めた。
でも、それでも、黙って指先で硝子を拾い続けた。
袖が破れても、手に傷がついても、黙って、丁寧に。
「……どうして、そんな顔してるのよ」
百花の声が、かすれた。
「なにをされても、なにを言われても……なんで、笑ってんのよ」
その問いは、怒りにも似ていた。
けれどそれは、姉としての誇りを脅かす何かへの、哀しみに近い叫びだった。
千夜は、ようやく目を上げた。
その瞳には、決して揺らがぬ静かな炎が灯っていた。
「わたし、負けたくないの」
「え?」
「誰かにじゃなくて、自分に。……昔の自分に。あの頃の、諦めてたわたしに」
百花の目が、大きく見開かれる。
「姉さまは、誰かに見てほしくて舞う。でもわたしは、見てもらえなくても、舞うの」
「……っ!」
何かを言いかけた百花は、唇を噛みしめた。
顔をそむけるように、俯いた。
「部屋、片づけておくね」
それだけ言って、千夜は立ち上がる。
一礼し、静かに部屋を出ていった。
百花は動けなかった。
ただ、鏡台に映ったひび割れた自分の姿を見つめながら、何度も何度も、指先で紅をこすった。

