かん、かん、かん、と三度、火打石が鳴った。
  灰混じりの煤がひゅっと風に舞い、細い鼻先をくすぐる。
 「……よし」
 千夜は小さく息をつき、囲炉裏の火種を煽ると、ぱちりと音を立てて火が起きた。
  まだ陽も昇り切らぬ刻限、屋敷の台所には春の冷気が忍び込んでくる。足袋の底から冷たさが這い上がってくるのを、千夜は黙って受け流した。
 鍋に湯を張り、糠味噌から菜を掬い、昨日の飯を蒸篭に広げて火に掛ける。動きは手慣れていて、迷いがない。
  それでも、動くたびに袖がずり落ちる。布はほつれ、繕った跡は重ねに重ねられ、もはや縫い目か模様かの区別もつかない。
 「……もう三度目だな、ここ」
 呟きながら、右袖の脇を指でつまむと、かすかに糸がきしんだ。
  それを見なかったことにして、千夜は庭先へ出る。
 桜の枝が、朝靄に濡れながら垂れ下がっていた。
  昨夜の風でいくつかの花灯が傾いている。
 提灯の縄に指をかけ、ぐっと引き上げると、微かな灯が風に揺れた。
  白紙に赤い筆で「宵宮」と記されたその灯は、夜の名残を照らすように、静かに光を放っていた。
 「光は……奪えないんだよ」
 千夜はそう呟くと、指先で提灯の下を軽く撫でた。
  誰に聞かせるでもない独り言だ。
  奪われたのは着物であり、部屋であり、名前の響きすらも今や呼ばれない。
  けれど、夜明けに残るこの灯だけは、自分に微笑んでくれる気がした。
 背後から、障子が開く音。
 「ちーやぁー! あたしの朝餉、まだあ? おなかすいたぁ〜」
 甘えた声が庭に響いた。
 振り返ると、簪を何本も挿した女の影が、襖の向こうから覗いていた。
  姉の百花。豪奢な寝間着の袖をひらひらさせながら、欠伸交じりに顔をしかめている。
 「もうすぐです、すぐ……すみません」
 千夜はすぐさま膝を折り、頭を垂れた。
  百花はふうん、とつまらなさそうに鼻を鳴らし、踵を返す。
  そのとき、足元の苔に気づいたのか、
 「これ……濡れてるじゃない。掃除、ちゃんとしたの?」
 吐き捨てるように言って、千夜を一瞥もせずに立ち去った。
  濡れていたのは夜露だ。だが、言い訳をする気にはなれなかった。
 千夜は静かに苔の上を撫で、箒を手に取った。