さて、大学が終わればアルバイトが待っている。近所のコンビニで週四日ほどシフトを入れている僕、実はアルバイトも初心者だ。

「いらっしゃいませ」

 客が来るたびにソワソワしてしまう。

 レジは上手く打てるだろうか。クレームを入れられたらどうしよう。イレギュラーなことがあった時、対応できるだろうか。

「ふふ、桐原君。また肩に力入ってる」

 笑顔が素敵なこの女性は、佐々木(ささき) (りつ)。同じ大学に通う二つ年上の先輩で、いつも僕を助けてくれる優しい人だ。見た目も非常に愛らしい。

「気楽にね。緊張しっぱなしは疲れるでしょ」
「はい」

 律と話をしていると癒される。こういう女性と付き合えたなら、僕の人生はもっと明るいものになりそうだ。気弱な僕には告白なんて無理だろうけど。

「ねぇ、桐原君」
「はい! 僕、何かやらかしましたか!?」
「ふふ、違う違う。三笠君と仲良いの?」
「え!? どうしてですか?」

 律とは大学が一緒だが、学部が違うからか、大学内ではまだ会ったことがない。三笠先輩といる現場も見られていないはず。

 不思議に思っていると、律が視線を窓の外に向けた。

「だってほら」
「わ! 三笠先輩!?」

 そこには三笠先輩の姿があった。

 目が合えば、優しく微笑みながら手を振られた。

「桐原君のシフトが入ってる時だけ来るみたい」
「そ、そうなんですか」

 まるで保護者だ。

 それにしても、僕はバイト中に三笠先輩の姿を見たことが無かったので、いつもああやって外から見られていたのかもしれない。恥ずかし過ぎる。

 何となく居た堪れない気持ちになっていると、律は嬉しそうに言った。

「三笠君って格好良いよね!」
「で、ですね」
「彼女も可愛い子らしいし、羨ましい」
「え、三笠先輩って、彼女いるんですか?」
「あくまでも噂だけどね。彼女さんは————」

 何故か胸がザワザワする。

 あの整った容姿だ。家柄もしっかりしているし、彼女の一人や二人いない方がおかしい。いや、二人いたらクズ男か。

「でね、同棲してるんじゃないかって噂もあってね」
「あ、それはガセですね」

 あのゴミ屋敷で同棲していたら、彼女の人格を疑う。

「へー。やっぱ桐原君、三笠君と仲良いんだ。羨ましい」
「え、いや、そんなことは。てか、律先輩も三笠先輩の事、好き……なんですか?」

 恐る恐る聞いて見れば、律は笑って言った。

「まさか」
「え? でも、羨ましいって」
「推しみたいなもんだよ。あんなズバ抜けて顔の良い人は、遠くから見て楽しむくらいが丁度良いんだから」
「へぇ」

 何故だろう。ホッとした。
 やはり、僕は律が好きなのだろうか。

「三笠君に、ギューとかされたら心臓が破裂しそうだもんね」
「そうなんですよ。心臓がいくらあっても足りないです」
「え?」

 まずい。三笠先輩の元に居候していることは内緒にしたいのに。しかも、今のは三笠先輩にギューってされていると言っているようなものだ。

「いや、その。男でもそう思えるくらいイケメンですよね。三笠先輩」
「だよねぇ」
「僕、商品の補充してきますね!」

 誤魔化すように、僕は商品の補充に回った。

◇◇◇◇

 家に帰れば、ハンバーグの焼けた香ばしい匂いが漂っていた——。

「てか、そもそも三笠先輩が悪いんですからね!」

 三笠先輩の作ったクマさんハンバーグを頬張りながら、文句を言った。

「智、お酒飲む?」
「まだ二十歳になってません」
「じゃあコーラにする? 苛々した時にはシュワッとしたものに限るよね」
「そういう問題じゃありませんよ。ウマッ」

 苛々しながらも三笠先輩の料理が絶品で、つい頬が緩んでしまう。緩んだ顔を整えつつ、三笠先輩に言った。

「何で僕のバイト姿覗いてるんですか? 先輩は、保護者ですか? それともストーカーですか?」
「うーん、強いて言うなら後者かな」

 ヘラヘラと笑う三笠先輩に苛々する。

「三笠先輩、ふざけないで下さい。絶対もうバイト先に来ないで下さいよ」
「なんで?」
「なんで……って、恥ずかしいじゃないですか。普通に考えて」
「働いてる智、格好良いよ」
「え……」

 格好良いと言われ、胸が高鳴った。

 今まで言われ慣れていないからだろうけれど、三笠先輩に言われて嬉しかった。

 しかし、それもすぐに苛々に変わる。

「格好良い人に言われても、全然嬉しくありませんよ」
「え、格好良いって俺のこと?」
「他に誰がいるんですか」

 素直に喜ぶ三笠先輩を見て、酒が飲みたいと思ってしまう。まだ十八歳なので、コーラで我慢する。

「ねぇ、智は何でそんなに苛々してるの? 何か嫌な事でもあった?」
「そりゃ三笠先輩にカノ……」
「俺に?」

 キョトン顔の三笠先輩に、僕は何を言おうとした? そして、僕は何故こんなにも苛々しているのだろう。

 三笠先輩がバイト先に来たからって、中で揶揄ってくる訳でもなく、誰にも迷惑をかけていない。それに対しては、羞恥はあるものの然程問題とは思っていない。

 では、何故こんなに苛々するのか。

「俺に、何?」
「いえ……何でもないです」
「えー、何? 気になるじゃん」

 服をクイクイと引っ張る三笠先輩を無視しながら、僕は両手を合わせた。

「ご馳走様でした」

 食べ終えた食器を流しへ持っていき、水を出す。スポンジに洗剤を垂らし、皿の汚れを落としていく。

 皿を洗っている時間は、無心になれるので僕は好きだ。苛々もしないし、余計なことを考えなくて済む。余計なことを考えなくて……。

「ちょ、三笠先輩。近い。食器が洗えないですって」

 三笠先輩に後ろから抱きしめられているのだ。苛々よりも、ドキドキが止まらない。

「俺、何か悪い事した?」
「し、してませんよ。強いて言うなら、その冗談やめてくださいって」

 三笠先輩の方が背が高いので、喋る時の吐息が丁度耳元に当たってくすぐったい。

「でも、俺が苛々の原因なんでしょ? 智、帰ってきてからずっと怒ってる」
「それは……」

 さっき僕が言いかけた言葉。それは——。

『三笠先輩に彼女がいるから』

 僕自身が驚いている。

 三笠先輩に彼女がいるからって、八つ当たりするのはお門違いだ。好きな相手を取られた訳でもあるまいし。

 多分、僕は律が好きなのだ。律が三笠先輩を恋愛対象として見ていないと知って、安堵したのだから。だから、三笠先輩に嫉妬なんてしていない。

「せ、先輩。こういうことは好きな相手にして下さい」
「こういうことって?」
「だ、抱きしめたりとか」

 そう言うと、三笠先輩は何とも色っぽい声で言った。

「だったら問題ないよ。俺、智のこと好きだもん」
「——ッ」

 耳まで真っ赤になっているのが分かるほど、顔が熱い。

「も、もう止めて下さいよ」
「嫌?」
「嫌ですよ。僕、男ですよ? こういうことは、彼女にしてあげて下さい」

 自分の言った言葉で、胸がズキリと痛む。

 何故?

 何故か分からないが、このままじゃ心臓がもたない。とにかく、三笠先輩から離れなければ。

 食器を早々に洗い終え、僕は寝る準備に取り掛かることにした——。

 風呂も歯磨きもちゃちゃっと済ませ、二人分の布団を敷き、自身の布団に潜り込んだ。

「おやすみなさい」
「智、早いよ。ちょっと待って」

 三笠先輩は、電気を消してもう一枚の布団……を通り過ぎて僕の布団の中に入ってきた。

「ちょ、自分の布団で寝て下さいよ」
「お昼に約束したでしょ? 抱き枕にして寝て良いって」
「あれは、三笠先輩が離れないから」
「だって離れたくないもん」

 腕枕をされ、何故か顔の辺りからしっかりホールドされる。

 抱き枕って、普通体幹をギュッとするのでは? 位置を間違っていないだろうかと毎回思う。

 そして今日もまた、僕は眠れそうにない——。