あれから僕は、ずっと三笠先輩のことを考えている。この気持ちは何なのか。でも答えは出なかった。答えが出ないまま、一週間の時が流れた——。
そして、あの日を境に変わったことがある。
三笠先輩が、スキンシップをしてこなくなった。一緒に寝たいとも言わなくなった。バイト先にも来ないし、大学で会っても挨拶もしない。
これは全部、以前に僕が嫌だと言った事柄。本気で嫌だった訳ではない。全部照れ隠し。それでも、三笠先輩は全部しなくなった。
だからといって、喧嘩をしている訳でもない。家に帰れば普通に話すし、笑い合ったりもする。映画を観たり、時にはゲームをすることも。今も一緒に掃除をしている。
「智と一緒なら掃除が楽しいね」
「そうですか?」
「うん」
三笠先輩は、鼻歌混じりに掃除機をかけている。
二週間前の出会った当初とは大違いだ。服も自分で畳んで引き出しに入れているし、出したものは元あった場所に片付けている。しまいには、ゴミの分別までしっかりしている。
「僕がいなくなっても安心ですね」
親が安心してこの世から旅立てるような、そんな心境に近いような気がする。
しみじみとその光景を眺めながら窓を拭いていると、インターフォンが鳴った。
ピンポーン。
「桐原君いる?」
大家さんの声だ。
「はーい」
持っていた雑巾を窓枠にかけ、僕は玄関の外に出た。
「大家さん。何かありました?」
「それがね。ふふふ」
含み笑いした大家さんは、もったいぶった感じに言った。
「なんと、一ヶ月かかるはずだった修繕工事が、明後日には終わるんですって」
「え」
「嬉しいでしょ?」
「え、ええ。まぁ」
「そういうことだから、使えるようになったらまた来るわね」
「はい。宜しくお願いします」
大家さんは、上機嫌に手を振って帰って行った。
——僕は暫く扉の中に入れず、廊下に立ち尽くした。
あんなに待ち望んでいたはずなのに、自分の部屋に戻れて嬉しいはずなのに、これで三笠先輩との生活が終わるのかと思うと、胸が苦しくなる。
これからは、ただのお隣さん。そう、ただのお隣さん。それ以上でもそれ以下でもない。
三笠先輩に、みっともない姿は見せられない。頑張って笑顔を作って、僕は部屋の中に戻った。
中には、スイッチの入っていない掃除機を持った三笠先輩が、背を向けていた。
「三笠先輩」
名前を呼べば、三笠先輩は、いつものようにヘラヘラした笑顔を見せながら言った。
「良かったね。俺、今日はお祝いにケーキでも焼いちゃおっかなぁ」
「三笠先輩、僕……」
「智は甘いの好きだもんね。生クリームたっぷりのにしようね」
「ありがとうございます」
これで良い。たったの二週間と数日一緒に過ごしただけの仲。僕の長い人生のほんの一瞬の出来事。それなのに——。
「智、泣いてるの?」
「そんな訳ないじゃないですか。泣いてるとしたら、嬉し泣きですよ」
涙を堪えるのに必死だ。気を抜いたら、ぼろぼろとこぼれ落ちてしまいそうになる。
「三笠先輩の汚い部屋……掃除しなくてすむと思ったら、嬉しくて」
「そっか。ごめんね」
最近の三笠先輩は、すぐに謝る。そんな所が気に食わない。ヘラヘラ笑って自分を隠しているのも気に食わない。全部全部気に食わない。
でも、一番気に食わないのは————僕自身。
“もっと一緒にいたい”
その一言が出て来ない。
素直になれば、多分三笠先輩は受け入れてくれる。僕の事が好きな三笠先輩なら、『良いよ』と言ってくれる。そんな気がする。
「じゃ、俺。買い出し行ってくるね」
「お願いします」
パタン————。
三笠先輩が部屋を出れば、涼しい風が窓から入ってきた。
◇◇◇◇
それから二日、どうやって生活したのか分からなかった。いつものように三笠先輩のご飯を食べて、いつものように大学に行く。いつものようにアルバイトが終われば、これまたいつものように帰って寝る。
人形のようにルーティン化した生活を過ごしていただけ。感情は二日前……いや、もっと前に置いてきたかもしれない。
「三笠先輩。お世話になりました」
キャリーケースと旅行バックを持ち、玄関で挨拶する。
三笠先輩も、いつもの優しい微笑みを見せながら言った。
「うん。いつでも遊びにおいで」
「いつでも……?」
社交辞令なのは分かっている。けれど、都合の良い解釈をしたくなる。
それでも、僕は良識はある方だ。
「機会があれば」
ニコリと笑って返事をする。
機会があれば……この言葉ほど実現しないものはない。
——こうして、僕は呆気なく自分の部屋に戻ることになった。
そして、あの日を境に変わったことがある。
三笠先輩が、スキンシップをしてこなくなった。一緒に寝たいとも言わなくなった。バイト先にも来ないし、大学で会っても挨拶もしない。
これは全部、以前に僕が嫌だと言った事柄。本気で嫌だった訳ではない。全部照れ隠し。それでも、三笠先輩は全部しなくなった。
だからといって、喧嘩をしている訳でもない。家に帰れば普通に話すし、笑い合ったりもする。映画を観たり、時にはゲームをすることも。今も一緒に掃除をしている。
「智と一緒なら掃除が楽しいね」
「そうですか?」
「うん」
三笠先輩は、鼻歌混じりに掃除機をかけている。
二週間前の出会った当初とは大違いだ。服も自分で畳んで引き出しに入れているし、出したものは元あった場所に片付けている。しまいには、ゴミの分別までしっかりしている。
「僕がいなくなっても安心ですね」
親が安心してこの世から旅立てるような、そんな心境に近いような気がする。
しみじみとその光景を眺めながら窓を拭いていると、インターフォンが鳴った。
ピンポーン。
「桐原君いる?」
大家さんの声だ。
「はーい」
持っていた雑巾を窓枠にかけ、僕は玄関の外に出た。
「大家さん。何かありました?」
「それがね。ふふふ」
含み笑いした大家さんは、もったいぶった感じに言った。
「なんと、一ヶ月かかるはずだった修繕工事が、明後日には終わるんですって」
「え」
「嬉しいでしょ?」
「え、ええ。まぁ」
「そういうことだから、使えるようになったらまた来るわね」
「はい。宜しくお願いします」
大家さんは、上機嫌に手を振って帰って行った。
——僕は暫く扉の中に入れず、廊下に立ち尽くした。
あんなに待ち望んでいたはずなのに、自分の部屋に戻れて嬉しいはずなのに、これで三笠先輩との生活が終わるのかと思うと、胸が苦しくなる。
これからは、ただのお隣さん。そう、ただのお隣さん。それ以上でもそれ以下でもない。
三笠先輩に、みっともない姿は見せられない。頑張って笑顔を作って、僕は部屋の中に戻った。
中には、スイッチの入っていない掃除機を持った三笠先輩が、背を向けていた。
「三笠先輩」
名前を呼べば、三笠先輩は、いつものようにヘラヘラした笑顔を見せながら言った。
「良かったね。俺、今日はお祝いにケーキでも焼いちゃおっかなぁ」
「三笠先輩、僕……」
「智は甘いの好きだもんね。生クリームたっぷりのにしようね」
「ありがとうございます」
これで良い。たったの二週間と数日一緒に過ごしただけの仲。僕の長い人生のほんの一瞬の出来事。それなのに——。
「智、泣いてるの?」
「そんな訳ないじゃないですか。泣いてるとしたら、嬉し泣きですよ」
涙を堪えるのに必死だ。気を抜いたら、ぼろぼろとこぼれ落ちてしまいそうになる。
「三笠先輩の汚い部屋……掃除しなくてすむと思ったら、嬉しくて」
「そっか。ごめんね」
最近の三笠先輩は、すぐに謝る。そんな所が気に食わない。ヘラヘラ笑って自分を隠しているのも気に食わない。全部全部気に食わない。
でも、一番気に食わないのは————僕自身。
“もっと一緒にいたい”
その一言が出て来ない。
素直になれば、多分三笠先輩は受け入れてくれる。僕の事が好きな三笠先輩なら、『良いよ』と言ってくれる。そんな気がする。
「じゃ、俺。買い出し行ってくるね」
「お願いします」
パタン————。
三笠先輩が部屋を出れば、涼しい風が窓から入ってきた。
◇◇◇◇
それから二日、どうやって生活したのか分からなかった。いつものように三笠先輩のご飯を食べて、いつものように大学に行く。いつものようにアルバイトが終われば、これまたいつものように帰って寝る。
人形のようにルーティン化した生活を過ごしていただけ。感情は二日前……いや、もっと前に置いてきたかもしれない。
「三笠先輩。お世話になりました」
キャリーケースと旅行バックを持ち、玄関で挨拶する。
三笠先輩も、いつもの優しい微笑みを見せながら言った。
「うん。いつでも遊びにおいで」
「いつでも……?」
社交辞令なのは分かっている。けれど、都合の良い解釈をしたくなる。
それでも、僕は良識はある方だ。
「機会があれば」
ニコリと笑って返事をする。
機会があれば……この言葉ほど実現しないものはない。
——こうして、僕は呆気なく自分の部屋に戻ることになった。



