僕は店員さんから借りた黄色いタオルでさっと体をふくと、頭を下げてからそそくさと店を出た。濡れた座席やテーブルをそのままにしておくのは気が引けたけれども、店中の注意を集めている状態でいられるほど僕の心は強くなかった。

「うっ、寒い」

 さすがに、日が出ている昼間だとしても水を浴びた後に外に出るとかなり寒い。それに、店内にいたせいでコートを脱いでいた。水がかかったのは中に来ていたシャツだから、いくらコートを羽織っていても内側から冷やされているので、あまり意味を成していなかった。せめて、どこかで服を乾かしてから帰ろう。

 そうでないと、駅に到着するまえに凍死してしまいそうだ。

「寒いなあ」

 水をかけられたけど、やっぱり良太に対して怒りの感情は湧いてこなかった。もしも、逆の立場ならば僕は良太に向かって水をかけていただろうと思うし、彼だって僕と同じく友人を失った悲しみにくれている。少しくらいは感情の制御が上手くいかないこともあるかもしれない。良太に怒る道理がなかなか見つからないのもある。

 良太は、そういうところがあった。勉強も運動もできて性格もよいから人気がある。だけど、どこか人とは違ったところにこだわりをもっていて、そこを突かれるとかなり感情に大きな波が生まれる。そのせいで、いつもいいところを逃していた気がする。惜しいというか、なんというか。感情のコントロールが僕よりは苦手だ。

 そんなことを考えながら歩いていると、コンビニエンスストアが見えた。その中から漏れる光は、とても暖かそうで僕は誘蛾灯に引き寄せられる虫のようにそのコンビニエンスストアに入店した。別に珍しいことではないけれど、僕が彼女の通夜に関して母から電話を受けたときにいたコンビニと同じチェーンの店舗だった。

「いらっしゃいませー」
 
 ドアが開くと、まるで包み込むように温かい暖房の空気に体が包まれた。男性店員の気が抜けた声が聞こえる。どうやら店内には僕とレジの後ろにいる彼以外には他に誰もいないらしい。その方がずいぶんと気が楽だ。僕は適当にカイロと温まりそうなお茶と肉まん、おでんのちくわと玉子を注文した。

「ありがとうございました」

 彼は非常に手際よくおでんをすくい、つゆも多めに入れてくれた。僕はイートインスペースに腰をかけるが、椅子は誰も座っていなかったのだろう。少しひんやりとして冷たかった。ズボンにまで浸食してきた水分が、椅子と体に挟まれて音を立てる。

―――これからどうしようか

 考えていたのは、良太と翼さんの事だった。二人のことはやはり心配だった。最近はあまり会うことが少なくなってはいたけれども、それでもやっぱり僕が最も人生で輝いていた時間に、必要な二人だったのだ。

 これからも友人でいたいと、そこまでを願うつもりはないけれどせめてどこかで平穏に、そして幸せに暮らしていてくれればいいと思うし、彩音もそう思っているはずだ。彼女の意にそぐわないことはしたくない。

『いつまでも、仲良しでいられますように』

 その言葉を彩音の望みだと考えれば、二人がその死を探ることは彩音の意向には反することになるだろうから。彼女なら、自分がいない世界でも残された僕たちが仲良く幸せに暮らしてくれることを望んでくれるだろう。

「はぁ」

 温かいお茶が体へと染みわたり、口から食道へ、食道から胃へ、その先はどうなるのか知らない。けど、全身にぽかぽかとした陽気が広がっていく。やっと、生きていると感じられた。葬儀の時から、なんだか変な浮遊感というか心ここにあらずというよりも、体がここに無いような感覚に襲われていたのだ。

 焼香をした時も、彼女の両親に向かって頭を下げた時も、自分とは別のいわゆる葬儀での常識が体を動かしているのであって、僕自身がそれを操作しているのだとは感じられなかったのだ。その感覚がようやく消えた。

 それと同時に、涙が流れた。涙が頬をつたって、手のひらに落ちた。

 そのときにようやく、僕は自分が泣いていることに気が付いた。

「あれ?」

 これまで、確かに何度か彩音の訃報を聞いてから涙を流したはずだった。だけど、それも『友人が死んだら悲しむのが普通』という固定観念に縛られて、そこから逸脱するのを恐れて勝手に流れていた涙だったのだろうか。

 しかし、それよりも何よりも、僕は普通の人間であるとようやく自覚できた。サイコパスとかソシオパスとかいろいろな言葉に悩まされたけど、それでも僕が友人の、そして恋人の死を素直に悲しめるのが嬉しかった。

 僕はその涙をぬぐうこともせずに、ただただ流し続けた。涙は机に置いた腕にぶつかって染み込んでいった。冷たくなかった、温かかった。