―――雪が降る日に、彼は彼女を見つけた。
彼はこれまでに、彼女へ自分の内では抱えきれないほどの黒とピンクを、それでも彼女のためだと思い暴発させずに来た。それが愛なのだと、自分の体へと言い聞かせた。相手のことを思いやるということが愛なのだと信じていたから。
あふれ出る黒を抑えるため、彼女に会う前は常に体を清めた。そうでもしなければ自分の内に眠る悪感情を抑えきることができなかったのだ。抗いがたい魅力を、禁断の果実に手を伸ばすのをなんとか踏みとどまっていた。
だけど、そんなことを想定していなかった。目の前にいるのは、その彼女だった。
触れてはいけない、声を聴いてはいけない。それを理解しながら彼は欲望を抑えきることは無かった。彼の内に眠るピンクも茶色も赤も白もすべてが飲み込まれて彼は怪物となった。内面だけが黒い怪物。外面だけ、かろうじて人間の形をしている。
彼は、すぐさま彼女に声をかけた。彼女は偶然でも彼に会えたこと、それを喜んだけれども、すぐに豹変することになる。彼の目が、明らかにおかしかったのだ。
その目は、まるで獣のような目だった。その瞳は、血走っていた。その視線は、鋭利で、獲物を狙うような視線だった。彼の目は、確かに彼女を捉えていた。彼が捕食者、彼女が被捕食者という絶対的な差がそこにはあった。
その目は、まるで泥濘のような目だった。その瞳は、濁っていた。その視線は、濁っていて、何も周りが見えていないような視線だった。最後の望みにかけて、白い糸を手繰り寄せようとしているけれども、そのまま黒い泥に飲まれてゆく。
ただ、確かに彼女だけを捕えていた。
その目は、まるで悪魔のような目だった。その瞳は、冷たかった。彼女がこれまでに感じたそのどれとも種類の違う、感じたことのないようなものだった。その視線は、冷たくて、人間味を感じられないような視線だった。
その目は、愛慾に支配されていた。愛慾は、人の心に巣食うものだった。愛慾に支配された人間は、本来は持ち合わせるべき理性などをどこかへと吹き飛ばしてしまい、ただその愛欲を、己の黒くよどんだ愛欲を満たすために行動する。
彼女は、すぐさま逃げ出した。それは、とても生きた心地がしなかっただろうけど、彼はそんなことには構わなかった。ただ、自分を満たすためだけに必死だった。
彼女は、近くにあった山中へと逃げ込んだ。しかし、そもそもの脚力が違う。
彼のスピード、そして動きは草食動物を狙う肉食動物のように俊敏で、狡猾で、獰猛だった。そんな彼を振り切れるはずもなく、彼女は追いつかれてしまう。きっと、無我夢中で走ったのだろう。周りが見えていなかったのだ。降り続いた雪も影響し、彼女は足を滑らせて真っ逆さまに落ちていった。何かが折れる音がした。
彼女は、強く頭を打ち付けた。割れた頭から血が流れ、それが沢に注いでゆく。彼女は助けを求めた。今ならば、きっと救急車を呼べば助かっただろう。彼女の頭にはすでにあのけたたましいサイレンが鳴り響いていた。だが、彼はそれをしなかった。
もう、愛慾に溺れていたのだ。愛慾は、理性を吹き飛ばすのだ。
彼は、彼女の下に駆け寄ると彼女をそっと抱きしめた。それと同時に、彼女の唇を奪った。それは、彼と彼女が何度も交わした愛情表現であったはずなのにも関わらずにそこに彼女は愛を感じられなかった。確かに体だけはそれを理解し、反射的に涎をあふれさせる。血はたぎり、さらにどくどくと流れ出す。
彼は彼女を窒息させるほどに強く唇を吸った。真空が生まれ、彼女は息をすることができずにもがくことしかできない。そして、彼女の服を脱がす。彼女は騒いで大声を出していたけれども、雪の降る山には誰もいない。発せられた声は、降り積もった雪に吸われて、消えていった。だけど、不思議と寒くはなかった。
彼はそのままに本懐を果たした。女陰からは、静かに赤い血が流れていた。そのわずかな血がまるで川のように彼女の玉のような肌を流れる。抱きしめた彼の体にもそれは付着し、だんだんと黒く染まり、固まっていく。
彼女はそのまま、二度と目を覚ますことは無かった。
彼はその後も、彼女を何度も愛した。愛慾は満たされていた。彼は冷たくなんてなかった、彼女の温かさを感じられたから。雪が降っていても、彼女の体が冷たくてもそれでも彼は愛を手に入れ、愛によって温められていた。
寂れて今は使われなくなった火葬場。彼は動かなくなった彼女を連れてそこへと向かった。雪の積もっていた山道は歩きにくく、身体が揺れるたびに彼女の頭から流れるどす黒い血と、女陰から流れる綺麗な赤い血が、まるで彼の体を取りついて離さないかのように、包み込んでいった。
炎は、遺体の周りで激しく燃え上がった。彼女だったものがどんどんと肌色から黒へと変わり、灰燼へと変わっていった。赤い炎は、煙突から立ち上る黒い煙と共に巻き上がり、夜空を黒く汚した。木々の合間からは青黒く染まる空が見えなかった。
彼は、それに向かってずっと、手を合わせていた。しっかり天国へ行けるようにという、愛の気持ちを持って、彼女を埋葬した。そして、手向けに捧げたのは、近くの花屋から盗んできた。一本の黒い薔薇だった。本当なら、あの時に渡せなかった百本の薔薇をせめて彼女に捧げようと思ったけれども、既に愛は成ったのだ。
なら、それが滅びないよう。永遠のものであるように彼は祈った。彼女の冥福と、そして彼と彼女が育んだ愛がこの世界で永遠に残り続けるようにと。それを祝福するかのように、雨と雪が混じってぽつぽつと降りだした。
「雪が降り始めたよ」
千草がそう言った。それでも、手に込められる力は弱まらずに僕の首を絞めつける。雪が、僕の手にひとひら、舞い降りた。その白い雪は、僕の手に触れた瞬間に溶けて、手に染みこんでゆく。あたり一面が、これから再び白く染まるのだろう。それは綺麗な景色だと思うけれど、僕はもう見ることができない。
黒は白を染めてしまうから。
僕は、頭の中に十という数字が生まれた。
それはきっと、最後の瞬間までのカウントダウンだった。
僕はそのうちの半分を使った。
「愛してるよ。千草」
千草は泣いていた。嬉しさたまらず、泣いていた。
僕は残りの半分を使って、言った。
「愛してるよ。彩音」
そこまで言ったところで、僕の意識は途切れた。
二人、抱き合ったままに死んでいった。片方は、まるで縋るように彼を、彼の首を腰ひもで抱きしめた。強く、苦しく、痛く、抱きしめたまま幸せそうな笑顔で死んでいった。それが幸福の一種であることに疑いは無かった。
もう一人は、最後に罪を懺悔してから死んでいった。涙も、悲しみも失ってしまったけれど、最後の瞬間に天へと少しだけ舞えた。彼は、それを喜んだ。
また一人は、愛する人間に首を絞められて死んでいった。彼のためだけに行動し、彼のために死んでいった。彼女が最後に彼に残したものは、笑顔だった。
ある一人は、愛する人間と愛を証明して亡くなった。
愛慾に飲み込まれて、亡くなっていった。
彼は、最後に愛を伝えて、亡くなっていった。きっと、彼も幸せだった。
愛欲を、この世界に見つけられたから。 ―完―
彼はこれまでに、彼女へ自分の内では抱えきれないほどの黒とピンクを、それでも彼女のためだと思い暴発させずに来た。それが愛なのだと、自分の体へと言い聞かせた。相手のことを思いやるということが愛なのだと信じていたから。
あふれ出る黒を抑えるため、彼女に会う前は常に体を清めた。そうでもしなければ自分の内に眠る悪感情を抑えきることができなかったのだ。抗いがたい魅力を、禁断の果実に手を伸ばすのをなんとか踏みとどまっていた。
だけど、そんなことを想定していなかった。目の前にいるのは、その彼女だった。
触れてはいけない、声を聴いてはいけない。それを理解しながら彼は欲望を抑えきることは無かった。彼の内に眠るピンクも茶色も赤も白もすべてが飲み込まれて彼は怪物となった。内面だけが黒い怪物。外面だけ、かろうじて人間の形をしている。
彼は、すぐさま彼女に声をかけた。彼女は偶然でも彼に会えたこと、それを喜んだけれども、すぐに豹変することになる。彼の目が、明らかにおかしかったのだ。
その目は、まるで獣のような目だった。その瞳は、血走っていた。その視線は、鋭利で、獲物を狙うような視線だった。彼の目は、確かに彼女を捉えていた。彼が捕食者、彼女が被捕食者という絶対的な差がそこにはあった。
その目は、まるで泥濘のような目だった。その瞳は、濁っていた。その視線は、濁っていて、何も周りが見えていないような視線だった。最後の望みにかけて、白い糸を手繰り寄せようとしているけれども、そのまま黒い泥に飲まれてゆく。
ただ、確かに彼女だけを捕えていた。
その目は、まるで悪魔のような目だった。その瞳は、冷たかった。彼女がこれまでに感じたそのどれとも種類の違う、感じたことのないようなものだった。その視線は、冷たくて、人間味を感じられないような視線だった。
その目は、愛慾に支配されていた。愛慾は、人の心に巣食うものだった。愛慾に支配された人間は、本来は持ち合わせるべき理性などをどこかへと吹き飛ばしてしまい、ただその愛欲を、己の黒くよどんだ愛欲を満たすために行動する。
彼女は、すぐさま逃げ出した。それは、とても生きた心地がしなかっただろうけど、彼はそんなことには構わなかった。ただ、自分を満たすためだけに必死だった。
彼女は、近くにあった山中へと逃げ込んだ。しかし、そもそもの脚力が違う。
彼のスピード、そして動きは草食動物を狙う肉食動物のように俊敏で、狡猾で、獰猛だった。そんな彼を振り切れるはずもなく、彼女は追いつかれてしまう。きっと、無我夢中で走ったのだろう。周りが見えていなかったのだ。降り続いた雪も影響し、彼女は足を滑らせて真っ逆さまに落ちていった。何かが折れる音がした。
彼女は、強く頭を打ち付けた。割れた頭から血が流れ、それが沢に注いでゆく。彼女は助けを求めた。今ならば、きっと救急車を呼べば助かっただろう。彼女の頭にはすでにあのけたたましいサイレンが鳴り響いていた。だが、彼はそれをしなかった。
もう、愛慾に溺れていたのだ。愛慾は、理性を吹き飛ばすのだ。
彼は、彼女の下に駆け寄ると彼女をそっと抱きしめた。それと同時に、彼女の唇を奪った。それは、彼と彼女が何度も交わした愛情表現であったはずなのにも関わらずにそこに彼女は愛を感じられなかった。確かに体だけはそれを理解し、反射的に涎をあふれさせる。血はたぎり、さらにどくどくと流れ出す。
彼は彼女を窒息させるほどに強く唇を吸った。真空が生まれ、彼女は息をすることができずにもがくことしかできない。そして、彼女の服を脱がす。彼女は騒いで大声を出していたけれども、雪の降る山には誰もいない。発せられた声は、降り積もった雪に吸われて、消えていった。だけど、不思議と寒くはなかった。
彼はそのままに本懐を果たした。女陰からは、静かに赤い血が流れていた。そのわずかな血がまるで川のように彼女の玉のような肌を流れる。抱きしめた彼の体にもそれは付着し、だんだんと黒く染まり、固まっていく。
彼女はそのまま、二度と目を覚ますことは無かった。
彼はその後も、彼女を何度も愛した。愛慾は満たされていた。彼は冷たくなんてなかった、彼女の温かさを感じられたから。雪が降っていても、彼女の体が冷たくてもそれでも彼は愛を手に入れ、愛によって温められていた。
寂れて今は使われなくなった火葬場。彼は動かなくなった彼女を連れてそこへと向かった。雪の積もっていた山道は歩きにくく、身体が揺れるたびに彼女の頭から流れるどす黒い血と、女陰から流れる綺麗な赤い血が、まるで彼の体を取りついて離さないかのように、包み込んでいった。
炎は、遺体の周りで激しく燃え上がった。彼女だったものがどんどんと肌色から黒へと変わり、灰燼へと変わっていった。赤い炎は、煙突から立ち上る黒い煙と共に巻き上がり、夜空を黒く汚した。木々の合間からは青黒く染まる空が見えなかった。
彼は、それに向かってずっと、手を合わせていた。しっかり天国へ行けるようにという、愛の気持ちを持って、彼女を埋葬した。そして、手向けに捧げたのは、近くの花屋から盗んできた。一本の黒い薔薇だった。本当なら、あの時に渡せなかった百本の薔薇をせめて彼女に捧げようと思ったけれども、既に愛は成ったのだ。
なら、それが滅びないよう。永遠のものであるように彼は祈った。彼女の冥福と、そして彼と彼女が育んだ愛がこの世界で永遠に残り続けるようにと。それを祝福するかのように、雨と雪が混じってぽつぽつと降りだした。
「雪が降り始めたよ」
千草がそう言った。それでも、手に込められる力は弱まらずに僕の首を絞めつける。雪が、僕の手にひとひら、舞い降りた。その白い雪は、僕の手に触れた瞬間に溶けて、手に染みこんでゆく。あたり一面が、これから再び白く染まるのだろう。それは綺麗な景色だと思うけれど、僕はもう見ることができない。
黒は白を染めてしまうから。
僕は、頭の中に十という数字が生まれた。
それはきっと、最後の瞬間までのカウントダウンだった。
僕はそのうちの半分を使った。
「愛してるよ。千草」
千草は泣いていた。嬉しさたまらず、泣いていた。
僕は残りの半分を使って、言った。
「愛してるよ。彩音」
そこまで言ったところで、僕の意識は途切れた。
二人、抱き合ったままに死んでいった。片方は、まるで縋るように彼を、彼の首を腰ひもで抱きしめた。強く、苦しく、痛く、抱きしめたまま幸せそうな笑顔で死んでいった。それが幸福の一種であることに疑いは無かった。
もう一人は、最後に罪を懺悔してから死んでいった。涙も、悲しみも失ってしまったけれど、最後の瞬間に天へと少しだけ舞えた。彼は、それを喜んだ。
また一人は、愛する人間に首を絞められて死んでいった。彼のためだけに行動し、彼のために死んでいった。彼女が最後に彼に残したものは、笑顔だった。
ある一人は、愛する人間と愛を証明して亡くなった。
愛慾に飲み込まれて、亡くなっていった。
彼は、最後に愛を伝えて、亡くなっていった。きっと、彼も幸せだった。
愛欲を、この世界に見つけられたから。 ―完―
