「おかえり。ご苦労様」

 千草は、最寄り駅の改札を出た僕に抱き着いてきた。それは、いつものようにべたべたとした触り方では無くて、なんだか慰めるような抱き着き方だった。白いふわふわとしたコートに身を包んだ千草が抱き着いてくると、とても暖かい。

「僕は、悲しそうな顔をしてるか?」

 そう問いかけても、千草は首を横に振るばかりだった。

「ううん。私が勝手にそう思っただけ」

 思えば、千草とは長い付き合いだ。もしかすると、同じ空間で共に過ごした時間ならば彩音よりも千草の方が長いかもしれない。心は常に彩音とともにあった、自分はそう言い切れるほどに彼女を思っていたけれども、身体は学校でも家でも千草の家でも常に千草の隣にあった。それだからどうとかいうわけではないけれども、千草には幸せになってほしい。そんなことを身勝手にも考えてしまう。

 良太がSたち五人に幸せを願ったように、僕もそれを千草に願う。

「なあ、千草」

「なあに?」

「もしも、僕が一緒に死んでくれと言ったら。その時は一緒に死んでくれるか?」
 
 その難しいはずの言葉に、千草は迷うことも無く頷いた。

「もちろん。私が生きている意味は、光誠君だけだから」

 千草は僕の胸に顔をうずめた。周りからの眼は気にならないほど、僕はもうすべてがどうでもよくなっていた。どうせ、消えてしまうのだからそんなことまで気を使っていても仕方がない。死ぬ前なのだからという気持ちもないが、解放感はあった。

 法律が許すのならば、このまま裸で抱き合うことすらもできた。

「そうか。ありがとう」

 僕は、初めて心を込めて千草の唇を奪った。それが感謝としての意味を持つキスなのかはわからない。千草に対しては、僕はわからないことだらけだ。

 事実として、僕は千草が鼻をすすり上げている理由がわからない。そう思っていた途端に、千草が自然と涙を見せた。本人も気づいていないような小さな涙が、千草の玉のように綺麗な肌をまるですべり落ちるように流れてゆく。そういえば、これまでの付き合いで千草が自然な涙を流したところを見たことが無かった。

 父が蒸発し、母が夜の店で働く苦悩を語る時ですらも、千草は涙を見せることすらも無かった。そんな彼女が、無意識に涙を流したのだ。どれほど、辛い思いをさせたかわからないけれども、そんななかでも動じずに僕を愛してくれた千草が。

「どうしたんだ?」

「ごめんね、急に。だけど、嬉しくて。なんだか、すっごく温かくて」

 そうか。僕は、やっと千草にわずかでも愛を与えてやることができたのか。父には捨てられて、母親には愛されているかもわからない。そんな中で、千草は僕を求めていた。その僕から、ようやく愛をもらえたのか。なぜか他人事のようだったけれども、僕はそれが嬉しかった。千草が満たされていくのが、見ていてよくわかった。

 僕は千草の手を動かないように、羽交い絞めにするように抱きしめると、そのまま千草の目から溢れて来る涙を、頬を伝う涙を舐め続けた。透明な色をした涙は、少し塩辛かった。僕はそうしながら、千草の頭をゆっくりと撫でた。

 良太の様に、思いが叶わない人はどれほどの割合でいるのだろう。

 僕の友人だけでも、太田は千草に、吉野は僕に対して好感を抱いているけれども、それは叶うことがない。同じように、良太もずっと彩音に対して叶わない恋心を抱いていたし、翼さんも良太に叶わない恋心を抱いていた。

 愛において、それが成就しなかったときに何が最もつらいかと言えば、それは愛の証明ができないことだろうと、僕は勝手ながら、わからないながらに思う。

 自分は、愛のためならば命を懸けることができる。愛のために、身を粉にして働いて一生を終えることも構わない。愛のために、自らが苦しんでも、愛する人が幸せに笑っていてくれるのならばそれで構わない。愛のために生きてゆきたい。

 そう考える人は少なくない。

 だけど、それを証明できない。

 いくら、自らを犠牲にして努力をしようとも愛した相手には届かない。それが、もっとも悲しいことだ。愛が成就することなんて、本質的にはどうでも良くて、愛を証明することができないことが悲しいのだ。誰に対してでもなく、自分に。

 もしも、愛する人が命の危機にさらされていれば、仮に自分の命が危ないとしても守りたいと思うのが、愛だ。愛の最も有名な一種だ。だが、それを証明できない。

 それを救うのは、自分ではなくて、愛する人に愛された人だ。

 そのことを僕は経験したことは無くて、それが僕の最も大きな欠陥であると思う。

 人生の価値が、愛する者を見つけることならば、それを為さずに死んでいく者なんてごまんといる。死ぬ間際に後悔せずに生きられたなんて、ほんの一握りであったはずだ。それを、人は美談と謳う。結ばれない愛を、美しいと呼ぶ。

 それは、果たして愛なのか。良太の愛は確かに一般的に見れば狂っている。きっと、一般人とは違った方向へと愛を向けることでしか心を保てなかった。

 だけど、そのベクトル。値の大きさは人以上ではないのか。それを証明できるのは、愛した良太と、愛された彩音。二人がいることでしか証明する方法がない。

 だけど、僕はその気持ちの百万分の一もわからないだろうけど、良太の愛を少しでも信じてあげられるように。彼に、最後の希望を見せてやるために。

 彼に最後の挨拶を告げるために、面会へ行くことを決めた。