愛慾に至る病

【現実】

「それで、話したいことはなんですか」

 僕は翼さんの両親に呼ばれて、彼女の家に来ていた。家の外観は白い壁に茶色の屋根という子供がイメージするような一軒家。なのに、中はどんよりと沈んでいて空気が暗かった。心なしか、蛍光灯の付き具合も悪い気がする。

 薄い色が普通の畳ですらも、まるで沼地にいるのかと錯覚するほど暗く見えた。

「急に呼び出してすまない。翼のことで話があるんだ」

 深刻な面持ちで話す翼さんの父親。どういった意味の汗なのかわからないが、白いシャツがどんどんと濡れていく。涙の代わりに汗を流しているように見えた。

「これを見てほしい」

 僕はちゃぶ台の上に出された茶封筒を手に取る。さかさまにしてとんとんと手に打ち付けると、四つ折りにされた紙がすとんと落ちてきた。僕は再度、二人に向かって視線をぶつけて確認をとる。二人とも、小さいながらも強く頷いた。

「これは、検査結果ですか?」

 紙を開いてまず目についたのは、左上に記載された病院の名前だ。

 大きな病院で、僕ももちろんその名前を知っている。だが、訪れたことはない。僕が健康だからというわけではない。あまりにも遠いのだ。どれだけ急いでも翼さんの家から一時間はかかる。そこまで行かなくても近くに病院なんてあるはずだ。

 しかし、翼さんがわざわざ遠い病院まで行ったことの理由はすぐに判明した。

「妊娠ですか」

 そこには、翼さんが誰かしらの子供を妊娠していたことを科学的に裏付ける証拠が提示されていた。妊娠していることが証明されている。診察した日付はちょうど、翼さんが倒れて三人で看病した日の直後だ。あの時の熱はそういうことだろう。

「このことは?」

「いいえ、知りませんでした」

 それは嘘だ。しかし、彩音も翼さんも良太もいない以上は僕の発する言葉があの四人で交わされた会話と愛は、すべて僕の裁量次第で対外的に形作られる。

【過去】

「ねえ、話がしたいな」

 彩音は珍しく、かなり重い口調で話していた。電話越しにも緊張しているのが伝わってくる。彩音は緊張すると左手をぐっと握る癖があるけれども、今も向こうでそれをしているのだろうか。なにか、隠し事でもしていたのだろうか。

「どうしたの?」

「この前、翼が倒れた時に介抱してくれたでしょ?」

 もちろん、その時のことは覚えているけれども感謝されるほどのことでもないから意外だった。家まで運んだのも良太だし、看病は彩音が到着してからはほとんど彩音の指示だ。僕は特に家事や看病に慣れているわけではないので戦力にはなってない。

「その時のお礼を言っておいてって、翼が」

「なんだ、直接言えばいいのに」

「それで、その時にメッセージを見ないでおいてくれたでしょ。そのことについて、ちゃんと光誠君にも話しておきたいんだって。四人のうち、一人だけ知らないのはなんだか仲間外れみたいだからいやみたい。なんだか、真面目だよね」

 それはなんだか翼さんらしかった。律儀な性格なのだ。

「そうか。それで彩音が代わりに教えてくれるのか」

「うん、しっかり聞いてね」

 僕は誰にも見られていないとわかっていながらも、椅子の背もたれから体を離して電話から発せられる音に意識を集中させる。コツコツと時計の針が音を立てた。

「翼、どうやら妊娠したみたいなの」

 僕はその瞬間に、言葉を失った。なかなか言葉を素直に飲み込むこと、そしてそれを自分の中に溶け込ませることができなかった。もちろん、言葉の意味はわかるし、それが本来ならどれだけ幸せなことか奇跡的なことかはわかっている。

 だが、素直に祝福する前に確認しなければならないことがあった。

「相手は?」

「もちろん、良太だよ。翼、すっごく幸せそうだった」

 それをいうときの彩音は、もちろんまるで自分のことのように嬉しそうだった。僕もあの二人ならば素直に祝福したいとは思う。いや、良太の本心からすればどうなのかと思わないでもないけれども、翼さんはきっと幸せだろう。

「そうか」

「どうしたの。なんだか元気がないよ」

 ああ、そうだ。どうしても生物の本能として男性は女性よりも論理的に物事を考えることが多い。そして、感情ではもちろん良太と翼さんを祝福したいのだがどうしても目の前に現実が立ちはだかる。新たに生まれた命は、どうするのか。

「ごめん。いや、おめでとうって彩音に言うのはおかしい気がして」

「あはは、そうだね。今度、翼に会ったら言ってあげて」

 僕は、彼女のすべてを笑い飛ばすような。いや、すべてを笑い飛ばそうとしているような笑い声を聞いてそのことに僕から口を出すのはやめた。

 せっかく、翼さんからすれば結ばれた愛の証明。それを形作ったものが生まれたのにも関わらずに、自分の手で壊さなければならないことに目を背けた。

 そして、僕が翼さんにおめでとうと言う前に彩音は亡くなってしまった。

【現実】

「それで、こんなことを聞くのは申し訳ないんだが、翼のおなかにいた子供の父親は誰だと思う。もしも、良太君でないのならば会ってみたい。きちんと話がしたい」

 僕は翼さんの父が話し終わる前に言葉を口から放り投げてそれを撃ち落とした。

「彼です。梶原良太君です」

 僕がそういうと、二人は顔を落として黙り込む。翼さんの母親が涙をぽとりと畳に落とした。暗く見える畳に染みが生まれて更に黒く見える。震える体を翼さんの父親が抱きしめてそっと背中をさする。だが、彼も顔は泣いていた。

「翼さんは、彼女は梶原君以外を愛したことはありませんでした。もちろん、彼の以外の男性に心も体もささげたことすらありません。だから、翼さんのお腹にいた赤ちゃんは間違いなく、翼さんは素直に喜べる妊娠だったと思います」

 わざわざ、僕が翼さんと体を重ねたことをいう必要はない。

「ですから、そのことはあまり気にかけないでください。もちろん、簡単な気持ちで子供を作ってそれを中絶するのは褒められたことではないと思います。ですが、子供が欲しい理由は人それぞれです。翼さんからすればもちろん、子供も好きでしょうけれども、大好きな梶原君との間に子供ができたことはすごく幸せだったと思います」

「そうか。そうだな」

 それだけ言って、二人は抱き合って涙をぽろぽろとこぼしていた。そして、一通り泣き終えるまで僕が黙って待っていた。写真の中で笑う翼さんには、これが最善の答えだったと思う。嘘も方便、きっと彩音にも喜んでもらえるはず。

 そして、涙を拭いた翼さんの父親からそれを預かって僕は家へと戻った。

「もしもし、千草。今から帰る」

 僕は電話を終えると、電車が来る時刻を確認して駅へと向かった。