無理やり名前を付けるとすれば、サッカーボール顔面直撃事件の翌日、僕が登校してくると普段は声をかけてこない大柄な男子が、いきなり頭を下げてきた。そこまでされてようやく、僕は彼がサッカーボールを蹴った本人であるとそのときに知った。
「本当にごめん!」
彼はまるでお手本のように、直角に体を折り曲げて頭を下げてきた。
その時の僕は正直に言えば、昨日のことは彼女と保健室に向かったとき以外はほとんど覚えていなかった。それ以前の記憶はぼんやりとしていて定かではない。保健室までの短い間ではあったが、彼女と二人でいられた。その幸福が、怒りなどの感情を消し去っていたから、サッカーボールをぶつけられたことなんてどうでも良かった。
いや、むしろ初めてしっかりと彼女と話をできる機会をくれたと考えれば、僕は彼に感謝を伝えてもよかったかもしれないと思うと、少しだけ面白くて、その時の僕は優しい顔になれた。その顔は、彼を助けることになったというのは後から聞いた。
「いや、本当に気にしないでくれ。わざとじゃないんだろう?」
僕はそんなことよりも、彼女になんとかお礼を言わなければいけないという思いのほうが強かった。さっさと彼との話を切り上げて、彼女の姿を探したかった。
昨日の夜、お風呂に入ってからはずっと部屋に籠って、彼女になんと言えばいいのかをずっと考えていたけれども、人に面と向かってお礼を言うなんて経験をほとんどしてこないほど優等生だった僕の頭では、夜通し考えてもついに答えは出なかった。
彼女にどう言うべきか、考えても考えても答えは出ず、ただただそれを考えている間は、彼女への思いが募るばかりだった。しかし、それは当たり前のことだった。
僕はただ、お礼を言うのではなくて、これをきっかけに彼女との関係を近づけたいと思っていたから。せめて、友達とは言えなくても登校すれば自然と挨拶が交わせるくらいにはなりたかった。例えば、隣の人と英会話の練習にでもなれば話せるけれども、そうでない限りは基本的に並べた机以外に彼女との接点は無かった。
しかし、それは思いがけず達成されることになる。サッカーボールを蹴った彼があまりにもしつこく、それもかなり真剣に謝るものだから彼の友達も面白がって、僕と彼の周りには人混みができていた。その塊が、教室の入り口をふさいでいたのだ。
「ちょっと、どうしたの?」
彼女の声が、群衆の奥から聞こえた。その瞬間、僕は言いもしれない感覚に襲われた。二人でいるときに感じたものとも違う。布団に入ってから感じたものとも違う。
全身に毛が逆立つ感覚、目の焦点が確かにその方向へとしか向かなくなった。
すぐに彼女の声を感じたい、視界に閉じ込めてしまいたい、強く抱きしめたいというあふれ出る感情が体の内側から広がってきたが、僕はそれを必死に抑えようとなんとかこぶしに力を込めて、爪を手のひらへと食い込ませてそれをどこかへ追いやる。
そんなことは知らない彼女は群衆をかきわけて、僕の下へとやってきた。その雰囲気はどこか昨日とは違って見えた。いや、どこも変わらないはずなのに何かが違う。その意味はきっと、恋だろうか。より洗練された美しさがあった。
その腕には、既に保健室で洗われて、昨晩にお風呂に入って綺麗になっていたはずなのに、なぜか僕の目には薄く、細い赤い糸が見えた気がした。
「後藤君、大丈夫だった?」
彼女は、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。当然ながら、鼻血はもう止まっている。しかし、あの時の光景。彼女の体の上を流れる血を思い出して、再び血が湧きたつ。この瞬間に僕は人生で初めての、そして最後の恋をはっきりと自覚した。
「う、うん。大丈夫だよ。ただの鼻血だし」
「そっか。良かった」
彼女はこの世界の何よりも綺麗な、自然な笑顔で笑った。
その純粋な笑顔を見ていればいるほどに、自分の中にある獣の感情がひどく愚かしく、醜く、恥ずかしく感じられた。彼女には下心などもちろんなく、僕を純粋に心配してくれていたのだ。そんな相手に対して、言葉にはできないけれども、汚れた感情を向けるなんてことは、恥ずべき行為だった。
「それより、ごめん。迷惑をかけて」
「ううん。気にしないで。保健委員の仕事だから」
群がるクラスメイトの中で、僕と彼女が二人で話している。彼らは全て脇役、背景に存在するだけのエキストラで、この瞬間だけは世界が僕と彼女のためだけに存在していると思えた。この世界にある彼女以外の全てには意味がないとそう思えた。しかし、そんな時間も長くは続かない。幸せなんてものは、すぐに終わってしまう。
「は~い、朝礼を始めるから席について」
いつも通り、優しそうな担任教師の号令がかかると、人の壁は崩れて外の世界へと引き戻される。彼女もその流れに乗って、席へと戻っていく。僕も彼女の後を追う様に自分の席へと戻った。その日から、僕と彼女の関係は始まることになる。
「おはよう」
「また明日」
こんな短い二言だけで始まった関係だったけれど、隣に座っていれば何かしら関わることは多い。そのうちに、次の授業についてとか給食についてとかだんだんと一日に話す言葉が増えていった。その言葉を交わすたびに、確かな喜びを感じた。
僕は毎日、眠る前に明日の彼女と話す言葉を探してから眠りにつくことが日課になっていた。その時に見つけた言葉の半分も、僕の口から彼女に向かって発せられることは無かっただろうけれども、僕を見て彼女が笑ってくれるのが幸せだったと思っていたし、不可能かもしれないけれども彼女と将来は結婚して生涯を共にしたいと夢見るようになった。そのころの僕は、純粋に彼女とずっと一緒にいたいと思っていた。
それだけではなくて、サッカーボールを蹴った彼も僕は気にしていなかっただけで、僕の後ろに座っていたらしい。彼の名前は梶原良太という。あれからというもの、彼はボールがぶつかったことに対して怒ることもせずに、飄々と許してくれた僕に対していわゆる大人の余裕というか、それに近いあこがれを感じるようになったらしい。傍目に見ても、彼が僕のことを尊重し、気を使ってくれているのが分かった。
そのため、僕と彩音と彼、さらには彩音の後ろに座る新村翼さんという女の子。
その四人でいわゆるグループみたいにつるむことになった。四人のバランスは、どうやらとても良かったようで、この先も中学、高校を経て彩音が亡くなるまで関係が続くことになる。それぞれ、お互いに足りないものを補い合って、お互いがお互いを支えあって、絶妙なバランスで成立していた。
そのころから、僕の生活というのもうまく回り始めた気がする。
それまではなかなか女子と会話をすることも無かったけれど、彼女と関わることで彼女の友達ともあくまで彼女を介してだが会話をすることが多くなった。男子とバカ騒ぎをするのも楽しかったし、女の子とただ会話をするのも楽しかった。
ただ、僕の心は常に彼女の下にあった。それは、ぼんやりとした記憶の中で唯一、僕が断言できることだった。心だけは、初めて出会った時から彼女を思っていた。
『すごい、今回のテスト難しかったのに。光誠くんは賢いね!』
そう言ってもらうためにテストの勉強を頑張った。
『リレーのメンバーに選ばれるなんてすごいね!』
そう褒められるために、毎日のように放課後はランニングへと繰り出した。
『好きだよ、光誠君』
いつかそう言ってもらえることを夢見て、少しでも彼女の横に立つにふさわしい人間になろうと、努力した。そうでもなければ、僕は自分が愚かに見えた。お前なんかが、鷹山彩音を幸せにできるか。そんな感情が僕を支配し、何度も苦しんだ。
そんなことが続いていくうちに、今になって思えばおかしな話だけれども僕は彼女に対する信仰心を深めていった。いわゆる純粋なハグがしたい、キスがしたいという欲望よりも、あそこまで綺麗な美を自分などで汚すことを恐れている気持ちがあった。一緒にいられるだけでも、十分すぎる幸せだと思っていた。だが、それと同時に小学校の五年生くらいになって、男子は本能的に女子の体に興味を持つことになる。
「本当にごめん!」
彼はまるでお手本のように、直角に体を折り曲げて頭を下げてきた。
その時の僕は正直に言えば、昨日のことは彼女と保健室に向かったとき以外はほとんど覚えていなかった。それ以前の記憶はぼんやりとしていて定かではない。保健室までの短い間ではあったが、彼女と二人でいられた。その幸福が、怒りなどの感情を消し去っていたから、サッカーボールをぶつけられたことなんてどうでも良かった。
いや、むしろ初めてしっかりと彼女と話をできる機会をくれたと考えれば、僕は彼に感謝を伝えてもよかったかもしれないと思うと、少しだけ面白くて、その時の僕は優しい顔になれた。その顔は、彼を助けることになったというのは後から聞いた。
「いや、本当に気にしないでくれ。わざとじゃないんだろう?」
僕はそんなことよりも、彼女になんとかお礼を言わなければいけないという思いのほうが強かった。さっさと彼との話を切り上げて、彼女の姿を探したかった。
昨日の夜、お風呂に入ってからはずっと部屋に籠って、彼女になんと言えばいいのかをずっと考えていたけれども、人に面と向かってお礼を言うなんて経験をほとんどしてこないほど優等生だった僕の頭では、夜通し考えてもついに答えは出なかった。
彼女にどう言うべきか、考えても考えても答えは出ず、ただただそれを考えている間は、彼女への思いが募るばかりだった。しかし、それは当たり前のことだった。
僕はただ、お礼を言うのではなくて、これをきっかけに彼女との関係を近づけたいと思っていたから。せめて、友達とは言えなくても登校すれば自然と挨拶が交わせるくらいにはなりたかった。例えば、隣の人と英会話の練習にでもなれば話せるけれども、そうでない限りは基本的に並べた机以外に彼女との接点は無かった。
しかし、それは思いがけず達成されることになる。サッカーボールを蹴った彼があまりにもしつこく、それもかなり真剣に謝るものだから彼の友達も面白がって、僕と彼の周りには人混みができていた。その塊が、教室の入り口をふさいでいたのだ。
「ちょっと、どうしたの?」
彼女の声が、群衆の奥から聞こえた。その瞬間、僕は言いもしれない感覚に襲われた。二人でいるときに感じたものとも違う。布団に入ってから感じたものとも違う。
全身に毛が逆立つ感覚、目の焦点が確かにその方向へとしか向かなくなった。
すぐに彼女の声を感じたい、視界に閉じ込めてしまいたい、強く抱きしめたいというあふれ出る感情が体の内側から広がってきたが、僕はそれを必死に抑えようとなんとかこぶしに力を込めて、爪を手のひらへと食い込ませてそれをどこかへ追いやる。
そんなことは知らない彼女は群衆をかきわけて、僕の下へとやってきた。その雰囲気はどこか昨日とは違って見えた。いや、どこも変わらないはずなのに何かが違う。その意味はきっと、恋だろうか。より洗練された美しさがあった。
その腕には、既に保健室で洗われて、昨晩にお風呂に入って綺麗になっていたはずなのに、なぜか僕の目には薄く、細い赤い糸が見えた気がした。
「後藤君、大丈夫だった?」
彼女は、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。当然ながら、鼻血はもう止まっている。しかし、あの時の光景。彼女の体の上を流れる血を思い出して、再び血が湧きたつ。この瞬間に僕は人生で初めての、そして最後の恋をはっきりと自覚した。
「う、うん。大丈夫だよ。ただの鼻血だし」
「そっか。良かった」
彼女はこの世界の何よりも綺麗な、自然な笑顔で笑った。
その純粋な笑顔を見ていればいるほどに、自分の中にある獣の感情がひどく愚かしく、醜く、恥ずかしく感じられた。彼女には下心などもちろんなく、僕を純粋に心配してくれていたのだ。そんな相手に対して、言葉にはできないけれども、汚れた感情を向けるなんてことは、恥ずべき行為だった。
「それより、ごめん。迷惑をかけて」
「ううん。気にしないで。保健委員の仕事だから」
群がるクラスメイトの中で、僕と彼女が二人で話している。彼らは全て脇役、背景に存在するだけのエキストラで、この瞬間だけは世界が僕と彼女のためだけに存在していると思えた。この世界にある彼女以外の全てには意味がないとそう思えた。しかし、そんな時間も長くは続かない。幸せなんてものは、すぐに終わってしまう。
「は~い、朝礼を始めるから席について」
いつも通り、優しそうな担任教師の号令がかかると、人の壁は崩れて外の世界へと引き戻される。彼女もその流れに乗って、席へと戻っていく。僕も彼女の後を追う様に自分の席へと戻った。その日から、僕と彼女の関係は始まることになる。
「おはよう」
「また明日」
こんな短い二言だけで始まった関係だったけれど、隣に座っていれば何かしら関わることは多い。そのうちに、次の授業についてとか給食についてとかだんだんと一日に話す言葉が増えていった。その言葉を交わすたびに、確かな喜びを感じた。
僕は毎日、眠る前に明日の彼女と話す言葉を探してから眠りにつくことが日課になっていた。その時に見つけた言葉の半分も、僕の口から彼女に向かって発せられることは無かっただろうけれども、僕を見て彼女が笑ってくれるのが幸せだったと思っていたし、不可能かもしれないけれども彼女と将来は結婚して生涯を共にしたいと夢見るようになった。そのころの僕は、純粋に彼女とずっと一緒にいたいと思っていた。
それだけではなくて、サッカーボールを蹴った彼も僕は気にしていなかっただけで、僕の後ろに座っていたらしい。彼の名前は梶原良太という。あれからというもの、彼はボールがぶつかったことに対して怒ることもせずに、飄々と許してくれた僕に対していわゆる大人の余裕というか、それに近いあこがれを感じるようになったらしい。傍目に見ても、彼が僕のことを尊重し、気を使ってくれているのが分かった。
そのため、僕と彩音と彼、さらには彩音の後ろに座る新村翼さんという女の子。
その四人でいわゆるグループみたいにつるむことになった。四人のバランスは、どうやらとても良かったようで、この先も中学、高校を経て彩音が亡くなるまで関係が続くことになる。それぞれ、お互いに足りないものを補い合って、お互いがお互いを支えあって、絶妙なバランスで成立していた。
そのころから、僕の生活というのもうまく回り始めた気がする。
それまではなかなか女子と会話をすることも無かったけれど、彼女と関わることで彼女の友達ともあくまで彼女を介してだが会話をすることが多くなった。男子とバカ騒ぎをするのも楽しかったし、女の子とただ会話をするのも楽しかった。
ただ、僕の心は常に彼女の下にあった。それは、ぼんやりとした記憶の中で唯一、僕が断言できることだった。心だけは、初めて出会った時から彼女を思っていた。
『すごい、今回のテスト難しかったのに。光誠くんは賢いね!』
そう言ってもらうためにテストの勉強を頑張った。
『リレーのメンバーに選ばれるなんてすごいね!』
そう褒められるために、毎日のように放課後はランニングへと繰り出した。
『好きだよ、光誠君』
いつかそう言ってもらえることを夢見て、少しでも彼女の横に立つにふさわしい人間になろうと、努力した。そうでもなければ、僕は自分が愚かに見えた。お前なんかが、鷹山彩音を幸せにできるか。そんな感情が僕を支配し、何度も苦しんだ。
そんなことが続いていくうちに、今になって思えばおかしな話だけれども僕は彼女に対する信仰心を深めていった。いわゆる純粋なハグがしたい、キスがしたいという欲望よりも、あそこまで綺麗な美を自分などで汚すことを恐れている気持ちがあった。一緒にいられるだけでも、十分すぎる幸せだと思っていた。だが、それと同時に小学校の五年生くらいになって、男子は本能的に女子の体に興味を持つことになる。
