「お久しぶりです」

「わざわざ遠いところをごめんね」

 第三の事件が起こった週末に、僕は彩音の家を訪れていた。理由は一つで、遺品を整理するのにおいて僕に受け取ってほしいものがあると彩音の母親から連絡があったからだ。僕はその連絡を受けた次の瞬間には、荷物を準備し始めていた。

 前にも、いつかは忘れたが来たことがあったはずなのに、その光景とはあまりにも違っていた。具体的に何が違うかと言われれば、彩音がいるかいないかという一点しかないはずなのに、家の中は暗かった。天照が身を隠した逸話に、よく似ている。

 彩音こそが僕にとっても、そして鷹山家にとっても太陽だったのだ。

「いえ、先にお線香をあげさせてもらってもいいですか?」

「ええ、もちろん。彩音も喜ぶだろうから」

 昔は、それこそ小学生時代は彩音の両親だと納得できるほどに綺麗だった彩音の母ストレスのせいか十歳以上も老けて見えた。僕の母と同世代であることは間違いないのに、えらく変わるものだ。まあ、仕方がないのだろう。

 僕も、人からみればストレスで老けているように見えるのかもしれない。

 鈴《りん》が鳴る音が、和室中に響いた。きっと、天国にいるはずの彩音にも届いているだろう。写真の中にいる彼女は、やっぱりこの世の何よりも綺麗で美しく、なによりも色づいていた。彼女がもうすでにこの世にいない以上は、次に美しい彼女の写真こそが世界で最も美しいものとなる。暗い家の中では、なんだか異質だった。

 目を閉じて手を合わせ、彩音にできる限りの報告を胸の中でした。

「ありがとうございました。それで、受け取ってほしいものというのは?」

 僕がそういうと、奥からたいそうな装飾が施されたケースをもって彩音の母が戻ってきた。それをテーブルの上に置くと、僕に開くように手で促す。見るからに高級そうなそれにたじろいだが、手を触れるとそこには彩音の残した温かさがあった。

「じゃあ、失礼します」

 その中身は、浴衣だった。デザインは黒をベースとしてその上に赤やピンクの花が咲き誇っている。ずいぶんと大人びているように見えたけれども、きっと彩音ならば着こなすだろう。自分自身の魅力を理解しているのは、彩音自身なのだから。

「これは、浴衣?」

「これはね、彩音が去年の花火大会に来ていくためにって単発のバイト代をためて買った浴衣なの。残念ながら、去年は雨が降ったから誘えなかったけど」

 アルバイト? 僕の知らない間にそんなことをしていたのか。まあ、僕たちは常に一緒にいるわけじゃないから知らなくてもおかしくはない。サプライズ的な意味で、意図的に隠していたのだろう。女性の嘘を見破れるほど、人生経験を積んでいない。

 去年の花火大会の日は、それはひどい大雨だった。

「でも、花火大会には中学校から三年ほど行っていないですけど」

 あの時、僕が彩音と愛を確かめようとした夜に、千草と初めて結ばれた夜。

 あの日以来、僕は花火を見ていない。それは、彩音も同じだったはずだ。いつもは彩音のほうから誘ってくれていた花火大会も行くことはなく、僕から誘うのもなんだか気が引けて結局は訪れていなかった。忌まわしい記憶と言ってもいい。

「そう。だから、彩音はちゃんとした浴衣姿を見てほしいって言ってアルバイトをして浴衣を選んでたの。その時の彩音は本当に嬉しそうでね、なんだか私まで高校生の頃にもどって恋愛をしているような幸せな気持ちになれたわ」

 そんなことがあったのか。僕はそれを聞いて、自然と涙が目の奥に溜まるのがわかった。それでも、僕は黙って話を聞いていた。先に泣くのは、違う気がした。

「それで、悩んで悩んでこの柄を選んだの。それからは、何もないのに浴衣を着て光誠君に見てもらうんだって、何度も姿見で自分の姿を確認していたわ。やっぱり、あの子は光誠君のことがとっても好きだったのね」

「僕なんかには、もったいない恋人でした」

「ううん、そんなことはないわ。偉そうなことを言うけれども、私は光誠君が彩音の恋人でいてくれてよかったと思っているの。もちろん、なかなか会えないのは可哀そうに思ったこともあるけれども、デートの日が近づくと鼻歌なんて歌ってどの服を着ていくかをずっとシミュレーションしているほどだったの。きっと、その気持ちは遠距離恋愛でもない限りはなかなか味わえない気持ちだと思うわ」

「そんなことがあったんですね」

 彩音は、スタイルがいいから何を着てもお洒落だと思っていたし、服を選ぶことに苦しむことはないんだろうと思っていた。だけど、それは違ったのだ。僕に魅せるためだけに何度も服を変えて、考えてくれていたのだ。彩音の愛情表現だった。

「僕は、そこまで思ってもらえて幸せ者です」

「彩音も幸せだと思うわ。こうして、光誠君が今も思ってくれているんだもの。でも、あの子なら早く光誠君に新しい恋人を作ってほしいと思っているかもね」

 その言葉を聞かされた途端に、僕はなんとも言えないものが押しあがってきた。たぶん、それは胃液だ。辛くて、しょっぱくて、不味い。僕が彩音以外の相手を恋人とするのか。そんなことを、想像するのではなくて言葉として聞くだけでも不快だ。

「大丈夫? 光誠君」

「ええ、大丈夫です。少し、涙が出そうになって」

「私の前だからって気を使わないで。泣きたいときは泣けばいいのよ」

 僕の隣に、彩音以外の人物が並ぶというのが、どうしても想像できなかった。いや、体の部分だけなら想像できる。だけど、顔の部分が黒い霧で覆われている。

「すいません。それで、この浴衣をいただいてもいいんですか?」

「もちろんよ。彩音が光誠君のためにって買ったものだし、ちょうど今日は花火大会だしね。そうしてくれたら、彩音も喜ぶと思うの」

「ありがとうございます」

 僕は、ケースから浴衣を取り出すと、まるでそこに彩音がいるかのように抱きしめた。虚空を掴むのと同じように彩音の体は崩れて腕の中には何も残らなかったけれども、少しだけ、ほんの少しだけ彩音の香りを感じることができた。

 時刻はまだ、昼も過ぎていない。十分に、時間はあった。