【過去】

 旅行の前日、夏休みにある夏期講習を休んで僕は一日中を千草と過ごした。理由なんて一つしかない。それは、初めて千草と偽りでも愛を交わした時から千草と僕が一緒にいる理由なんて一つだ。性欲の解消。千草にとっては残酷な話だが。

 僕はそれほどまでに、彩音を傷つけることを恐れていた。

 あの時、僕の手を払いのけた表情が何度もフラッシュバックして僕を苦しめた。眠る前、何気なくテレビを見ているとき、テストを受けているとき。そして、千草と交わっているときまで。その時の僕は言いも知れない恐怖に襲われるのだ。

―――僕は、なんどあの過ちを後悔すれば、苦しまなくて済むのだろう

 あの表情、彩音の怯えた表情が脳に焼き付いて離れない。それを思い出すたびに、彼女の視線が向いた先から燃えるように熱を帯びて、その部分だけを掻きむしってしまいたくなるほどなのだ。再び、あの表情を向けられてしまえば僕はどうなるのだろうかと考えたが、その想像はうまくできない。きっと、心が壊れてしまう。

 まるで、想像した先のイメージを黒い霧が覆いつくすようだった。

 きっと、その時の僕はひどく恐ろしい顔をしていただろう。

 それだけは避けなければいけない。彩音のためにも、僕のためにも。

「今日は、すごく元気だね。なにかあった?」

 千草がそう聞いてきたのは、無視をするしかなかった。


 泊まりに行った日の夜だった。その日は二人でいろいろなところを回って、充実した一日を過ごした。彩音の喜ぶ顔を一日中見られたことが何よりも嬉しかった。会えない時間も、ずっと彩音のことを思っていたつもりだったけれども、やっぱり一日中という長い時間を過ごしているとそれは完璧じゃないと思う。

 彩音が隣にいることで、僕の心は全てが彩音で満たされていた。

 しかし、問題は夜だ。最初は、僕も別々の部屋をとることも考えたけれども彩音はそんな配慮にも構わずに一部屋しか空きがない旅館を所望した。普通は、そうだろうと思う。カップルなんだから、同じ部屋に泊まるのが当たり前だ。

 そこは確かに部屋から海が見える評判の良い旅館で、彩音の両親がお金を出してくれるというから僕もできるならそれが良かったけれど、やっぱり彼女を大切にしたいという思いが大きかった。そのためには、自制を強いられる。

「ねえ、お布団はどうする?」

 当然ながら、予約は彩音の両親に取ってもらうしかなかったので任せたのだが、どうやら泊まる二人がカップルであったと伝えていたらしく、夕食が終わって部屋に戻ると準備されていたのは並べられた敷布団だった。

 カップルであるということは間違っていないけれど、いわゆる一般的なカップルにとっての夜とは僕たちには持つ意味合いが違う。夜は、悲しい時間だ。性行為まではいかなくても、彩音はもしかすると布団の中で抱き合ったまま眠ることにあこがれていてもおかしくない。だけど、そんなことをすれば理性が崩壊するのがわかる。

 浴衣を着て雰囲気が少し緩くなった彩音は、あまりにも魅力的で妖艶だった。乾かし切れていない髪の毛が、より艶っぽく見せる。その抗いがたい魅力に、これからの時間を絶えなければいけないのかと思うと、どうしようもなく辛かった。

―――襲えば、一度でもしてしまえばなし崩しに許してくれるんじゃないか?

 そんな考えが浮かんだ。しかし、それを振り払う。

「離しておく? でも、僕は眠りたくない」

 もちろん、眠らなければ明日の予定が苦しくなることが分かっていたけれども、彩音との夜にしか味わえない甘い時間をもっと堪能したかったし、彼女が眠ってしまえば僕の体の内に眠る黒がどうなってしまうかわからなかった。

 できれば、夜の海を眺めながら二人でひたすらにおしゃべりして、気が付けば二人とも眠っている。そして、目が覚めた時には二人で体が痛いと笑いあう、これこそが僕の理想だった。そうすれば、彩音を守ってあげることができる。

 彩音は僕の言葉を聞いて、一瞬の逡巡を挟んだ後に頷いた。

「じゃあ、ジュースとおかしを買いにいこうか」

 僕と彼女は、夜の十一時。とっくに出歩いてもいい時間を過ぎてホテルの近くにあるコンビニエンスストアまでの夜の散歩へと繰り出した。その時の僕らはお酒なんてなくても、薬なんてなくてもとても高揚して気分が良かった。

 夜の海を見ながら、様々なことを話した。思い出もそうだし、お互いに会えない寂しさを話した。これからの未来を話したし、進学する大学についても話した。

「大学は、一緒のところに行こうね」

 そういいながら、指を絡めてくる。お酒なんて飲んでいないはずなのに、なんだか彩音の顔は赤かった。そして、どうやら僕も赤かったらしい。絡めた小指を彩音は体のほうへと引き寄せて、まるで子供を抱きしめるように二人の手を体で包んだ。

「それで、お互いに就職して、頑張って働いて、貯金して。その時には、もう一回、あの時みたいにプロポーズしてね。私、すごく楽しみにしてるんだ」

 あの時、小学校の卒業式でしたプロポーズを思い出すと恥ずかしくなる。

「あはは、赤くなってる。でもね、照れないでもいいよ」

「え?」

「私、今まで十五年も生きてきたけれども、あの時が人生で最高に幸せだった」

 そういって、彩音は思いっきり笑った。
 
「そっか、それはよかった」

 そのまま、お互いへの愛を語って、夜を明かしたのだった。
 
 やっぱり、その時の僕らには体の関係は必要なかった。

 言葉さえあれば。お互いを思う気持ちが十分に伝わった。