当時の僕と言えばまだまだ子供で、女の子と手をつなぐことを妄想することよりもよっぽど、今日の晩御飯がカレーであるという妄想をしていた方が楽しいほどには純粋で無垢な子供だった。恋愛なんてものは母親の見るドラマの中だけのものでしかなくて、アニメにも漫画にもそんなものは出てこなかった。
だけど、そんな僕に恋というものを、そして愛を与えてくれたのは、きっと彼女だけなのだろう。初めて出会ったときには、雷ほどではないけれども自分の中に小さく電流が走った。フィクションだけの表現だと思っていたけれども、確かにその通りだった。体がしびれて、動かなくなった感触は今でも覚えている。
彼女の足や手は細く、僕よりも背が低いはずなのにその存在は大きく見えた。何より、彼女は自信満々でいつも笑っていた。また、生まれながらの茶髪も、特撮ヒーローに出て来る売り出し中の若手女優みたいで、とにかく僕からは遠い存在だった。
何よりも僕は、彼女のファッションに惹かれていたのかもしれない。彼女はただお洒落なだけでは無かった。自分に似合う色や、自分に似合う着こなしを熟知しており、それを常に意識したような服装で登校していた。まとった衣服が彼女を輝かせて、彼女もまたその衣服を輝かせていた。とにかく、その全てが美しかった。
そのせいか、彼女を訪ねて教室にまでやって来る先輩をそれなりに見かけた。聞いたところによると、やはり彼女はおよそ小学生には持ち合わせていないような美しさだったらしく、僕の周りでも何人かが好意を寄せていたらしい。
その中でも、積極的な上級生が声をかけに来ていたのだ。僕は彼女に群がる彼らを見かけるたびに、覚えたばかりの暴言を振りかざして、友達と共に彼らのことをこっそりと馬鹿にしていたものだ。しかし、それとは別に彼らに対して、ある意味では嫉妬のような感情を抱いていたことも、また確かだった。
馬鹿にしている彼らは曲がりなりにも彼女に対してアプローチをかけているにも関わらず、僕は声をかけるどころか彼女に近づくことすらできなかった。彼女は確かに困っていたけれども、それでもアプローチをかけている彼らは会話ができて楽しそうだった。自分もそうできれば幸せだろうと、何度も考えていたけれど。
彼女の放つ空気や、その匂いを感じるだけで激しく心臓がマーチを打ち鳴らし、血管が破れてしまうんじゃないかというほどに全身の血が騒ぎ出す。とてもではないけれども彼女に話しかけて、なおかつ好感を得ることなど不可能に思えた。
何よりも僕が臆病だった。
ただ、彼女に嫌われるのが、怖かった。
クラスを訪ねて来る奴らと同じにされるのが怖かったのだ。あの時の僕は、もはや彼女に対して崇拝とかそれに近い感情を抱いていたように思う。自らの性欲に、下半身の持つ欲望に任せて、それを彼女にぶつけることを恐れていた。
そんな僕の人生に転機が訪れたのは、冬休み明けの席替えだった。神様のいたずらか、それとも運命だったのか。僕はなんと彼女の隣の席のくじを引き当てたのだ。まさに、天にも昇る気持ちだったが、それを必死に隠そうと顔の筋肉に強張らせるように命令を飛ばす。しかし、そんな努力も彼女の美しさの前には無駄だった。
「よろしくね」
彼女が席を移動させて僕の隣にきたところで、座っている僕の顔を覗き込むようにしながら挨拶をしてきた。僕はそれになんと返したか覚えていないけれども、きっと何も言えなかったか、あるいは小さな声でぼそぼそと返事をするだけだっただろう。
彼女が机と椅子の運搬を終えて、机をくっつけたとたんにその接続部から熱を帯びて、それが指先を通じて体に伝わり、まるで電気ケトルのように僕の顔が湧きあがるイメージがすぐに思い浮かぶほどだった。顔を赤く染めて、耳からまるで蒸気機関車の様に煙を吹き出す表現。それはうまく表現したものだと感心した。
しかし、僕の体はそんな器用には出来ていないから熱は顔にたまるばかりで、冬だと言うのに汗がだらだらと流れてきた。耳の後ろから流れた汗のしずく、その一滴が机の木がむき出しになった部分に落ちて、濃い茶色へとその色を変化させる。
そう言えば、席替えをした日も彼女が亡くなった日も雪が降っていたと思う。
「大丈夫? もしかして、体調が悪い?」
彼女がそんな風に言って顔を覗き込んでくると、僕はなんとか顔を逸らして上ずりそうになる声をひたすらに低く、そして渋みがあるように意識して大丈夫だと伝えるのみだった。仮に体調が悪くても、保健室に行くようなことはしたくなかった。彼女にひ弱な男だと、そうは思われたくなかったのだ。
常に強い自分だけを見ていてほしかった。男らしさみたいなものが欲しかった。
そんな僕も、小学校に通っている間に一度だけ保健室を利用することがあった。それは、体育の授業でサッカーをしているとき。僕は活躍をして彼女にいいところを見せてやろうと、必死にグラウンドを走り回っていた。
だけれども、既に小学校に入る前から地元のクラブチームに所属しているような奴らに走り勝てるわけもなくて、僕は授業の途中からずっとへろへろになっており、とてもではないが見られたものでは無かっただろう。冬だというのに汗をだらだらと流し、顔は真っ赤になっている。脇腹が傷みだして、走るどころじゃなかった。
それでも、彼女のことだけ考えて必死にボールに走っていたつもりだった。
しかし、体力が無くなって注意の散漫になっていた僕は、顔に向かって一直線に飛んできたボールにも反応できなかった。気が付いた次の瞬間には、顔の真ん中あたりに強い衝撃を感じて、脳が頭の中でぐらぐらと揺れた気がした。
「おい! 大丈夫か?」
幸い、ボールの勢いは大したものじゃなかったようで転ぶほどではなかった。けれども、鼻の中でどろどろと何かが流れるような感触がした。慌ててそれが何を確認しようと手を鼻に当てると、そこには鼻血がべったりと付着していた。
「先生! 鼻血が」
生徒たちはすぐさま大騒ぎになった。ボールを蹴った本人は僕に向かって平謝りしていたけれども、僕はそんなことを気にしていられなかった。僕は、昔から何か一つのことが気になると他のことはどうでもよくなる傾向がある。
その時に気にしていたことは、ただ一つ。鼻血を出しているなんて見苦しい姿を、彩音に見られたくないという事だった。必死に鼻を抑えて何も無いようにふるまうけれど、そんなものは何年も教師生活を続けていれば簡単に看破できる。
往々にして、努力の甲斐なく不幸というものは重なるものだ。先生はすぐさま、保健委員に保健室へ付き添う様に言うけれども、そのころはインフルエンザが他のクラスで広がりだして、ちょうど男子の保健委員が欠席していたのだ。
先生もそれには気がつき、次に女子の保健委員を指名する。
「お~い、鷹山さん。後藤君をお願いできる?」
間延びして彩音を呼ぶ声がしてからすぐに、彼女は僕の下に近寄ってきた。どうやら僕が思っていたよりもよっぽど派手にぶつかったらしく、別のコートで試合をしていた女子でも気が付くほどだった。僕のせいで女子側の試合も中断してこちらに注目しており、すぐに彼女が駆けつけてくれたのだ。
彼女は座り込んでいる僕の隣に膝をついて、顔を覗き込んでくる。僕はこんな情けない姿を見られたくはなかったけれど、顔を逸らそうとすれば指の合間から漏れ出た血液が周りの地面に飛んだ。彼女の視線を、その美しい目に自らの最も醜く情けない姿を晒すしかなかったのだ。流れる血は止まらず、どろどろと僕の手を温めてゆく。
「後藤君、大丈夫? とりあえず、保健室に行こうか」
彼女の言う通りに、僕は立ち上がる。
彼女は、やはり僕のことを真剣に心配してくれていた。本来なら鼻血の介抱なんて隣について背中に手を置いてくれるだけでも十分なのに、彼女は左手を僕の背中に添えて、右手は僕が鼻を抑える手を支えてくれた。いくら手足が長くてもまだ小学生だから、そうすれば必然的に体の距離が縮まる。背中から、彼女の体温を感じた。
僕は出来る限り彼女のことを考えないようにしようと、体育の後の給食で出て来るデザートを考えていたけれども、体は正直だった。
彼女が触れた場所が、熱を覚える。そこから広がるように熱が体中を巡った。血が熱でぐつぐつと煮込まれて、鼻の中を這う血液がより生き物のようにうねうねと噴き出してくる。その勢いが、僕の手だけでは収まりきらずに廊下にぽたぽたと垂れる。
「大変! ほら、手を貸して」
それを見た彼女は、僕の手の甲に手のひらを重ねて僕の指。その隙間から垂れる血をその白い手で受け止めてくれた。何も穢れがないその白い手が、自分の血液によってどんどん汚れていく。自分の手についた血液よりも赤く見えた。
彼女の手で、自分の手から離れた血液がまるで生き物のように舞うことに対して、僕はわずかな不快感と、それ以上の何かを感じた。彼女が触れた部分以外からも、自分の体が湧きたつような感覚を覚えたのだ。それは人生で初めての事だった。
白く、穢れのない彼女。それを、黒く赤く汚れた僕の血が塗り重ねてゆく。僕から生まれた血が、彼女の白い腕を流れ、折り曲げた肘から落ちて、紺色の体操ズボンに付着した。紺色がまた赤黒く染まり、そしてしみ込んでいく。
彼女のハリがある珠のような肌は、するすると血を通し、一本の赤い線が確かに彼女に描かれた。指から手へ、手から腕へと流れるその線は、僕にとっての赤い糸になった。けして綺麗ではないけれども、それでも赤い線が僕と彼女を結んだ。
「あらあら大丈夫?」
養護教諭の先生は、僕を見るとすぐに詰め物とティッシュを用意してくれた。僕がそれを受けとろうとすると、それを彼女が遮る。そして、汚れていない右手に持ったティッシュで鼻の周りを拭いて、詰め物をいれてくれた。
「うん、あとは手を洗って。ほら、どうぞ」
綺麗なままの右手で蛇口をひねり、そのまま水が血を押し流していく。先を譲られた僕の手が綺麗になり、続いて彼女の手が洗われていく。消えてしまった赤い糸、だけれどもその残像が頭に残って離れない。
「じゃあ、あとでね」
保健室まで僕を送ってくれた彼女は、保健室の先生と少しだけ話してから彼女が手を振って、去っていく。僕はその時に手を振り返しただろうか。
そこからの事は、よく覚えていない。
気が付いた時には、授業が終わって家に帰っていた。母はボールがぶつかったところを心配してくれて、夜中に暑さで再び鼻血が出た時にも鼻尖を抑えてくれたけれども、あの時に感じたものと同じものとは思えないほどに冷たかった。
きっと、この時が僕の初恋だった。そして、最後の愛になった。
だけど、そんな僕に恋というものを、そして愛を与えてくれたのは、きっと彼女だけなのだろう。初めて出会ったときには、雷ほどではないけれども自分の中に小さく電流が走った。フィクションだけの表現だと思っていたけれども、確かにその通りだった。体がしびれて、動かなくなった感触は今でも覚えている。
彼女の足や手は細く、僕よりも背が低いはずなのにその存在は大きく見えた。何より、彼女は自信満々でいつも笑っていた。また、生まれながらの茶髪も、特撮ヒーローに出て来る売り出し中の若手女優みたいで、とにかく僕からは遠い存在だった。
何よりも僕は、彼女のファッションに惹かれていたのかもしれない。彼女はただお洒落なだけでは無かった。自分に似合う色や、自分に似合う着こなしを熟知しており、それを常に意識したような服装で登校していた。まとった衣服が彼女を輝かせて、彼女もまたその衣服を輝かせていた。とにかく、その全てが美しかった。
そのせいか、彼女を訪ねて教室にまでやって来る先輩をそれなりに見かけた。聞いたところによると、やはり彼女はおよそ小学生には持ち合わせていないような美しさだったらしく、僕の周りでも何人かが好意を寄せていたらしい。
その中でも、積極的な上級生が声をかけに来ていたのだ。僕は彼女に群がる彼らを見かけるたびに、覚えたばかりの暴言を振りかざして、友達と共に彼らのことをこっそりと馬鹿にしていたものだ。しかし、それとは別に彼らに対して、ある意味では嫉妬のような感情を抱いていたことも、また確かだった。
馬鹿にしている彼らは曲がりなりにも彼女に対してアプローチをかけているにも関わらず、僕は声をかけるどころか彼女に近づくことすらできなかった。彼女は確かに困っていたけれども、それでもアプローチをかけている彼らは会話ができて楽しそうだった。自分もそうできれば幸せだろうと、何度も考えていたけれど。
彼女の放つ空気や、その匂いを感じるだけで激しく心臓がマーチを打ち鳴らし、血管が破れてしまうんじゃないかというほどに全身の血が騒ぎ出す。とてもではないけれども彼女に話しかけて、なおかつ好感を得ることなど不可能に思えた。
何よりも僕が臆病だった。
ただ、彼女に嫌われるのが、怖かった。
クラスを訪ねて来る奴らと同じにされるのが怖かったのだ。あの時の僕は、もはや彼女に対して崇拝とかそれに近い感情を抱いていたように思う。自らの性欲に、下半身の持つ欲望に任せて、それを彼女にぶつけることを恐れていた。
そんな僕の人生に転機が訪れたのは、冬休み明けの席替えだった。神様のいたずらか、それとも運命だったのか。僕はなんと彼女の隣の席のくじを引き当てたのだ。まさに、天にも昇る気持ちだったが、それを必死に隠そうと顔の筋肉に強張らせるように命令を飛ばす。しかし、そんな努力も彼女の美しさの前には無駄だった。
「よろしくね」
彼女が席を移動させて僕の隣にきたところで、座っている僕の顔を覗き込むようにしながら挨拶をしてきた。僕はそれになんと返したか覚えていないけれども、きっと何も言えなかったか、あるいは小さな声でぼそぼそと返事をするだけだっただろう。
彼女が机と椅子の運搬を終えて、机をくっつけたとたんにその接続部から熱を帯びて、それが指先を通じて体に伝わり、まるで電気ケトルのように僕の顔が湧きあがるイメージがすぐに思い浮かぶほどだった。顔を赤く染めて、耳からまるで蒸気機関車の様に煙を吹き出す表現。それはうまく表現したものだと感心した。
しかし、僕の体はそんな器用には出来ていないから熱は顔にたまるばかりで、冬だと言うのに汗がだらだらと流れてきた。耳の後ろから流れた汗のしずく、その一滴が机の木がむき出しになった部分に落ちて、濃い茶色へとその色を変化させる。
そう言えば、席替えをした日も彼女が亡くなった日も雪が降っていたと思う。
「大丈夫? もしかして、体調が悪い?」
彼女がそんな風に言って顔を覗き込んでくると、僕はなんとか顔を逸らして上ずりそうになる声をひたすらに低く、そして渋みがあるように意識して大丈夫だと伝えるのみだった。仮に体調が悪くても、保健室に行くようなことはしたくなかった。彼女にひ弱な男だと、そうは思われたくなかったのだ。
常に強い自分だけを見ていてほしかった。男らしさみたいなものが欲しかった。
そんな僕も、小学校に通っている間に一度だけ保健室を利用することがあった。それは、体育の授業でサッカーをしているとき。僕は活躍をして彼女にいいところを見せてやろうと、必死にグラウンドを走り回っていた。
だけれども、既に小学校に入る前から地元のクラブチームに所属しているような奴らに走り勝てるわけもなくて、僕は授業の途中からずっとへろへろになっており、とてもではないが見られたものでは無かっただろう。冬だというのに汗をだらだらと流し、顔は真っ赤になっている。脇腹が傷みだして、走るどころじゃなかった。
それでも、彼女のことだけ考えて必死にボールに走っていたつもりだった。
しかし、体力が無くなって注意の散漫になっていた僕は、顔に向かって一直線に飛んできたボールにも反応できなかった。気が付いた次の瞬間には、顔の真ん中あたりに強い衝撃を感じて、脳が頭の中でぐらぐらと揺れた気がした。
「おい! 大丈夫か?」
幸い、ボールの勢いは大したものじゃなかったようで転ぶほどではなかった。けれども、鼻の中でどろどろと何かが流れるような感触がした。慌ててそれが何を確認しようと手を鼻に当てると、そこには鼻血がべったりと付着していた。
「先生! 鼻血が」
生徒たちはすぐさま大騒ぎになった。ボールを蹴った本人は僕に向かって平謝りしていたけれども、僕はそんなことを気にしていられなかった。僕は、昔から何か一つのことが気になると他のことはどうでもよくなる傾向がある。
その時に気にしていたことは、ただ一つ。鼻血を出しているなんて見苦しい姿を、彩音に見られたくないという事だった。必死に鼻を抑えて何も無いようにふるまうけれど、そんなものは何年も教師生活を続けていれば簡単に看破できる。
往々にして、努力の甲斐なく不幸というものは重なるものだ。先生はすぐさま、保健委員に保健室へ付き添う様に言うけれども、そのころはインフルエンザが他のクラスで広がりだして、ちょうど男子の保健委員が欠席していたのだ。
先生もそれには気がつき、次に女子の保健委員を指名する。
「お~い、鷹山さん。後藤君をお願いできる?」
間延びして彩音を呼ぶ声がしてからすぐに、彼女は僕の下に近寄ってきた。どうやら僕が思っていたよりもよっぽど派手にぶつかったらしく、別のコートで試合をしていた女子でも気が付くほどだった。僕のせいで女子側の試合も中断してこちらに注目しており、すぐに彼女が駆けつけてくれたのだ。
彼女は座り込んでいる僕の隣に膝をついて、顔を覗き込んでくる。僕はこんな情けない姿を見られたくはなかったけれど、顔を逸らそうとすれば指の合間から漏れ出た血液が周りの地面に飛んだ。彼女の視線を、その美しい目に自らの最も醜く情けない姿を晒すしかなかったのだ。流れる血は止まらず、どろどろと僕の手を温めてゆく。
「後藤君、大丈夫? とりあえず、保健室に行こうか」
彼女の言う通りに、僕は立ち上がる。
彼女は、やはり僕のことを真剣に心配してくれていた。本来なら鼻血の介抱なんて隣について背中に手を置いてくれるだけでも十分なのに、彼女は左手を僕の背中に添えて、右手は僕が鼻を抑える手を支えてくれた。いくら手足が長くてもまだ小学生だから、そうすれば必然的に体の距離が縮まる。背中から、彼女の体温を感じた。
僕は出来る限り彼女のことを考えないようにしようと、体育の後の給食で出て来るデザートを考えていたけれども、体は正直だった。
彼女が触れた場所が、熱を覚える。そこから広がるように熱が体中を巡った。血が熱でぐつぐつと煮込まれて、鼻の中を這う血液がより生き物のようにうねうねと噴き出してくる。その勢いが、僕の手だけでは収まりきらずに廊下にぽたぽたと垂れる。
「大変! ほら、手を貸して」
それを見た彼女は、僕の手の甲に手のひらを重ねて僕の指。その隙間から垂れる血をその白い手で受け止めてくれた。何も穢れがないその白い手が、自分の血液によってどんどん汚れていく。自分の手についた血液よりも赤く見えた。
彼女の手で、自分の手から離れた血液がまるで生き物のように舞うことに対して、僕はわずかな不快感と、それ以上の何かを感じた。彼女が触れた部分以外からも、自分の体が湧きたつような感覚を覚えたのだ。それは人生で初めての事だった。
白く、穢れのない彼女。それを、黒く赤く汚れた僕の血が塗り重ねてゆく。僕から生まれた血が、彼女の白い腕を流れ、折り曲げた肘から落ちて、紺色の体操ズボンに付着した。紺色がまた赤黒く染まり、そしてしみ込んでいく。
彼女のハリがある珠のような肌は、するすると血を通し、一本の赤い線が確かに彼女に描かれた。指から手へ、手から腕へと流れるその線は、僕にとっての赤い糸になった。けして綺麗ではないけれども、それでも赤い線が僕と彼女を結んだ。
「あらあら大丈夫?」
養護教諭の先生は、僕を見るとすぐに詰め物とティッシュを用意してくれた。僕がそれを受けとろうとすると、それを彼女が遮る。そして、汚れていない右手に持ったティッシュで鼻の周りを拭いて、詰め物をいれてくれた。
「うん、あとは手を洗って。ほら、どうぞ」
綺麗なままの右手で蛇口をひねり、そのまま水が血を押し流していく。先を譲られた僕の手が綺麗になり、続いて彼女の手が洗われていく。消えてしまった赤い糸、だけれどもその残像が頭に残って離れない。
「じゃあ、あとでね」
保健室まで僕を送ってくれた彼女は、保健室の先生と少しだけ話してから彼女が手を振って、去っていく。僕はその時に手を振り返しただろうか。
そこからの事は、よく覚えていない。
気が付いた時には、授業が終わって家に帰っていた。母はボールがぶつかったところを心配してくれて、夜中に暑さで再び鼻血が出た時にも鼻尖を抑えてくれたけれども、あの時に感じたものと同じものとは思えないほどに冷たかった。
きっと、この時が僕の初恋だった。そして、最後の愛になった。
