【現実】

「ごめんね。前は良太も、気が動転してたと思うの」

 目の前で翼さんが頭を下げる。肩まで伸びた髪の毛がするすると垂れて、風になびいた。翼さんは昔から大人びていたと思っていたけれども、やはり小学生で大人びているというのは高校生にもなれば年相応で、見た目は普通の少女だ。

 短かった髪の毛は女性らしく伸びて、体にもしっかりとメリハリがついた。服の上からでもわかるほどのスタイルの良さ、目の下に入った黒い線はおそらく化粧だろうか。唇も、眉毛も、手のひらもすべてが女性らしさを増している。

 少なくとも、隣を歩いていれば周りから羨望のまなざしが飛んでくるぐらいに。

「いや、気にしていないよ。顔を上げて」

 僕がそう言えば、翼さんは顔の筋肉を緩めた。やっぱり、友達という贔屓目を無しにしても美人だ。こんな彼女を捨てたという言い方は良くないが、良太の考えはわからない。彩音がこの世に居なければ、僕は翼さんと恋に落ちていた可能性すらある。

 そんな前提があれば、そもそも今の僕自身が存在しないけれども。

 僕たち二人は、良太が絶対に来ないような店に来ていた。落ち着いた雰囲気の、古風なカフェだ。店内には二人以外に客はおらず、閑散としている。揺れる柱時計の音だけが響いていた。寂しさは感じないけれど、どこか冷たかった。

 外から、風がきつくガラスを殴りつける。

「まあ、僕も大人げなかったというか良太の気持ちを考えていなかった部分はあるから、できるなら仲直りをしたいとは思っているよ」

 その言葉を聞いた瞬間に、翼さんの顔がほころんだ。喧嘩とは言えないけれども、こういう二人に挟まれた間の翼さんが最も気を揉んでいただろう。申し訳ないことをした。目の前にいる心優しい少女は、気を使いすぎるところがある。

「良かった。それより、光誠くんは大丈夫?」

「だいじょうぶっていうのは、どういう意味?」

 様々な意味が考えられたけれども、下手に自分から言うのはやめた。きっと、ここは翼さんに任せたほうが話が上手い。もともと、僕たち二人は四人のグループにおいて対極にいたから、なかなか話すことが少なかった気がする。

 僕と翼さんは、ある意味で愛に誠実だったのだと思う。僕と彩音、翼さんと良太が交際を始めてからは、僕と翼さんだけは異性と話をすることを極端に避けていたように思う。そのせいか、お互いへと話しかけることはほとんどなかった。

【過去】

「ええっ!」

 その日は、良太が急にサッカー部の練習が入ったということで元々は四人で集まる予定だったところが僕、彼女、翼さんの三人となった。その時点で良太とは三か月ほど会えていなかったので残念だけれども、部活なら仕方がない。

 花火大会の翌日、僕と千草が初めて交わった次の日に、僕は不在着信のあった彩音に対しておりかえしの電話をして謝罪した。懇切丁寧に、勝手なことをして怖がらせたことと、電話に出ず心配させたことを詫びた。彼女は、それを快く許してくれた。

「ごめん、怖がらせたよね」

 僕が真摯に謝ると、彩音は笑って許してくれた。

「ううん、私も勝手に帰ったりしてごめんね」

 昨日、確かに会って同じ時間を過ごしたはずなのにその声をきくのが久しぶりに感じた。なんだか、遠く感じてしまった。それは、彩音に対する裏切りを働いてしまったからなのかもしれない。そんなことを考えながら、千草の黒い髪を梳く。

「来週の日曜日が空いてるなら。その日に会わない?」

「うん、わかった。楽しみにしてる」

 僕はその電話を終えた後に、千草ともう一度だけ交わってから家に帰った。

 そのおかげか、僕と彼女の関係は少しぎこちないまでも一般的な恋人のようではあった。そもそもがたまにしか会えない関係上、会えた時には人目を気にせずにかなりべたべたしたものだったから、ちょうどよいのかもしれない。僕も別に性欲を果たす必要はなくなったから、彼女に対して落ち着いて紳士的なエスコートを心掛けた。

「それで、なんで別れたの?」

 そんな僕らが聞かされたのは、小学校六年生のあの日。

 良太の出るサッカーの試合を応援しに行ってから、そこで翼さんが良太に告白して交際を始めていた二人が、急に別れたのだという事を翼さんの口から知らされた。そんなことを聞くのは初めてだったし、彩音も知らなかったそうだ。

「いや、別に喧嘩とかじゃなくて。友達に戻りたいんだって。良太が」

 そう言う翼さんは笑っていたけれども、目が笑っていなかった。やっぱり、彼女から告白しただけあって良太と翼さんの間には温度差があったのだろうか。男性から告白をするというのが世間のスタンダードなのは、きっと女性から愛を伝えても男性はそれに甘んじて誠実に答えるのが難しいからだ。ちょうど、僕と千草のように。

「そっか……」

 彩音はまるで自分のことみたいに残念な表情をする。人の痛みに共感できるようになりましょうというような歌詞があったけれど、彼女はすでにそれができる。そのことは優しさの証明である。そんな彼女が愛おしかった。

「ううん、気にしないで。私から言い出したのは間違いないけれども、ちゃんと二人にはけじめっていうか、そういうものを付ける必要があると思ったから。だから、変に慰めようとしないでね。ごめんね、せっかく二人はなかなか会えないのに」

 翼さんは必死に取り繕う。彼女としてはやはり言わなければという使命感のようなものが勝ったのだろう。まじめな彼女らしかった。僕はその時にはやはり、どこか大人になって俯瞰した状態で物事を見るようになっていた。それが千草との情事によって得た自信からなるものなのかはわからない。愛とか恋に冷めていた。
 
 とにかく、その日はカラオケで翼さんと彼女は揃って失恋の歌を中心に選んでいた。男を馬鹿だと罵る歌詞を彩音が歌うたびに、僕の心に一本ずつ棘が刺さっていく気がした。だが、それは自分のした結果なので受け入れるしかない。

 僕は、千草をその日も駅で待たせていたのだから。

【現実】

「そういえば、聞きたいんだけど」

「ん? どうしたの?」

 翼さんが運ばれてきたアイスコーヒーにストローを刺して、ガムシロップを入れたところで声をかけた。こんなことを聞くのは申し訳ないけど、どうしてもこれを聞いておく必要があると思ったからだ。あの時、自然と手を取ったことが気になった。

「今は、良太とどういう関係なの?」

 二人は友人以上であることは間違いない。小学校の頃に彼女と僕と二人が仲良くなって以降は、常にお互いを友人かそれ以上の存在であると認識してきたはずだ。

 別れたという話を聞いてからは、二人の関係について僕と彩音から踏み込むことはしなかった。翼さんにそれを聞いてあまり結果が芳しくない場合にはより傷をつけるとわかっていたからだ。二人の間にどんな会話があったのかわからない。

 だけど、翼さんは確かに良太の事を思っていた。

「難しいことをきくなあ」

 翼さんはくるくるとストローでコーヒーをかき混ぜた。コップに透明な氷がぶつかった音がする。注がれたミルクの白は溶けて、黒を薄めていく。

 翼さんは下を向いているけれども、良い顔をしていないことだけはわかった。

「まあ、気になるよね。あんまり、言いたくはないけど。気になる?」

「どうしてもっていうなら聞かない。けど、やっぱり知りたいとは思う」

 ファミレスで、良太は迷いなく翼さんの手を取った。もちろん、もう何年も付き合いがある。それこそ、男女という事を意識する前から。それならば手ぐらいは握れて当然だというかもしれないけど、やっぱりそれは不自然だと感じた。

 良太は、なんだかんだと言ってもかなり奥手なはず。

「実は、その。簡単に言うと、セフレというか」

 翼さんは、僕の耳元に口を寄せて、小さく話した。その言葉を聞いた時点で、僕はいろいろなことを想像したけれども、それを聞くことはしなかった。きっと、良太と翼さんの関係は、僕と千草によく似ている。女性だけが男性を愛し、その男性から興味を引くために自分の体を安売りする。傍から見れば悲劇だ。

 だけど、二人に共通しているだろうことは一つで。あくまで女性主体の話だ。

 そうすることでしか、愛してもらえないから。

 良太が僕ほど悪意を持って翼さんに接しているわけはないけれども、男なんて情欲の奴隷だ。僕も、あれほどまでに愛した彩音を最後は裏切ってしまった。あの時の彼女に責任が無かったとは言えない。だが、僕は彩音を汚す代わりに愛を汚した。

「その、引いたよね。あんまり、人にするような話じゃないし」

「いや、別に気にしないよ」
 
 たとえ、僕ではなくてもそういう感情に身を任せて、爛れた関係を持つなんて大人でもやっていることだ。別に恥じることはないだろう。僕は、愛情も無いのに交際をする方が失礼で、恥ずべきことだと思う。愛への、恋への裏切りだと思う。

「彩音にも、やめたほうがいいって言われたんだけどね。良太とは友達でいて、他に私の体も心も、容姿も愛してくれる人を見つけた方がいいって。それが女の子にとって幸せだからって止められてたんだけど。結局はやめられてないの」

 翼さんはうつむいて話す。

「別に無理はしなくてもいいんじゃないかな。それは、気持ちの問題だし」

 そんな言葉しかかけられなかった。うつむいた翼さんの目から一粒の雫が落ちた。

 透明だったそれは、コップの中に落ちて黒く染まってしまった。