【現実】
 
 千草は僕の隣ですやすやと眠っていた。ぼんやりとワインの入っていたボトルを眺めるけれども、何も感情が湧いてこない。月明りに照らされた部屋の中で、ワインのボトル、その影だけが緑の綺麗な色をしている。それだけなら、まるでイルミネーションのように綺麗だけれども、この部屋は汚れすぎている。

 部屋自体は綺麗だ、人の汚れた欲望で塗りつぶされている。

 確かに、初めてを千草としたときには興奮したことを覚えている。千草のふくらみはじめた乳房に、なめらかな形を描いた臀部に、紅潮した頬に、僕はまるで獣の様にそれを求めて、その全てを味わおうとした。すべてを自分のものにしようとした。

 だけど、それは間違っても千草への愛情では無くて、初めてのことを済ませた高揚感とか、彼女に拒絶されたことの悲しみをごまかすために無理やり体が奮い立たせた結果だったのだろう。間違っても、千草への愛情は無かったと言い切れる。

 千草には残酷だが、それは、今に至るまでずっと。

「僕のことを捨てれば、幸せになれるのにな」

 千草は優等生で、誰に対しても優しい。顔も十分に可愛いし、スタイルも申し分ない。きっと千草が好意を伝えれば、それを断る奴は少ないだろう。

 少なくとも、僕よりは愛情をもって千草の体だけでも愛してくれるはずだ。それでも、千草は僕を選ぶ。それは、僕が体を求めても結局のところは恋心が彼女を裏切ることができなかったことと近いのだろうか。最後に僕は愛を選んだ。

 一度、しっかりと結ばれた赤い糸はもう離れない。あの時、あの瞬間に、初めてしっかりと言葉を交わした瞬間に彩音と僕は赤い糸を、綺麗じゃなくても結んだ。

「そういえば、明日の授業は小テストだって」

 千草が、目を閉じたままでぼんやりとした声で話す。

「そうか。まあ、別に今回はいいや。それより、なんだかお腹がすいた」

「そっか、ちょっと待っててね」

 もう、千草とはなんど夜を共にしたかわからない。その光景がなじんでしまって、千草が部屋の中を生まれたままの姿で歩き回ろうと特に何も感じることは無い。ピンクの色をした綺麗な体に、何も。千草は淡々と夜食の準備をしてくれる。

「それとさ、亡くなった女の子はどんな人だったの?」

 千草は台所から振り返らずに、聞いてきた。僕は表層の部分だけを取り繕って、敢えてできるだけわかりにくいように話した。その内容なんて薄っぺらいもので、きっと彩音のクラスメイトでも同じようなことを言うだろう。

 見た目がどういう風に可愛くて、こういう優しさがあって、こんなところはダメだけど。なんて、自分の物でもないくせにクラスの女子を批評家気取りで話すのだ。僕もそれに倣って、できる限りは公平な目線で彼女を判断した。

 最近の流行りにあるような、ぎりぎり校則で許されるレベルの茶髪で、目は猫みたいに鋭くて大きい。手足が細くてスタイルが良いけれども、よく言えばスレンダーで悪く言えば、貧乳。だけど、魅力的でセックスはしたい。こんなところだろうか。

 今までに恋バナを何度も強制されたことはあったけれどもそのたびに適当な女の子とその魅力を並べてごまかしてきた。そのときもきっとこんな風だったのだろう。

「じゃあさ、その人のどこが好きだったの?」

 お湯の沸く音がして、電気ケトルが保温状態になる。千草はそれをカップに注ぎながら聞いてきた。僕はそんなことを聞かれるとは思っていなかった。

 クラスメイトの前では恋愛なんてそこまで興味が無くて、それこそ適当な女の子でお茶を濁しているのに徹してきた。その中には千草の名前をあった。その裏で、僕のことを思ってくれる千草には思ってもいないけれども回りくどい愛の言葉を何度か伝えたはずだ。そのたびに、千草は涙を流して喜んでいたはずだった。

 いろいろと思考を巡らせている僕を見て、千草はあきれるように笑った。

「わかってるよ。私の事なんてこれっぽっちも好きじゃないなんてこと」

 その言葉には、抑揚もなにもなく、まるで事務連絡の様だった。

「じゃあ、どうして?」

 それがわかっているのに、ただただ僕の性欲に応えているだけなんてむなしいだけじゃないのか。それこそ、都合のいい女とか性具のように扱われるのは女性が最も嫌うようなやり方ではないのか。女性のほうが、心を大事に扱うと聞いたことがある。

 やっぱり、僕には人の心。その奥が理解できない。

「別にそれはいいでしょ。私にだって性欲はあるんだから。だけど、さっきから亡くなった子の話をする時だけ顔が違う。今までに見たことがない顔をしてる」

「顔?」

「少なくとも、私と話すときよりも楽しそうだった。デートをしてくれた時、水族館でも、映画館でも、遊園地でもそんな顔を見せてくれたことは無かった」

 そんなはずはない。亡くなってからまだ一週間も経っていない相手に関してそこまで笑顔で話すわけがないし、千草がデートの時に撮影した写真を何枚か確認してから携帯電話の容量を節約するために削除したけれど、上手く笑えていたはずだ。

「違うんだよ。そうじゃないの。別に笑顔だったかどうかが大切なんじゃなくて」

 千草はそこまで言って、黙ってうつむいた。その顔から垂直に涙が落ちて、畳に染みていく。なんなんだろういったい。普段はお酒に強いはずなのだが、今日は疲れていたとかで回りやすいのだろうか。それとも、なにか気分が落ち込むようなことがあったのだろうか。優等生な分だけ、千草は無理をしすぎるきらいがある。

「でも、その女の子と私が、光誠くんの中で全く違うことくらいはわかるよ」

 僕は、それに対して何も言えなかった。

「じゃあさ、その子。その子の写真はないの?」

 千草が僕の体に抱き着いてすがるように言った。涙が僕の腹に流れる。眠る前にシャワーを浴びるのはめんどうだから嫌いだ。千草が僕の体を抱きしめられる強さはだんだんと大きくなるけれども、それと同時に心が急速に冷めていく気がした。

「あるけど、見せたくない。それより、今日はなんだか変だよ。ほら、ゆっくり寝てから明日にしよう。明日だって授業があるんだろ?」

 僕が優しい言葉で宥めても、千草は止まることを知らない。

「ねえ、教えてよ。お願い。その人になれるように頑張るから。その人に近づけるように頑張るから。せめて、光誠くんを慰められるようになるから」

 どうやら相当、酔いが回っているらしい。言っていることが無茶苦茶だ。

 僕は携帯電話を取りだして、彼女の写真を探す。やっぱり、彼女の最も美しかった時が良いだろう。僕は卒業式で撮影された一枚の写真を表示した。千草が彩音になるとかそういうことではなく、二人は僕の中で明確に違う。

 確かに、最初は彩音の美しさに惹かれた。外見の美しさに惚れた。それは間違いない。だけれども、今となっては彩音ではないとだめなのだ。千草がどうやっても、見た目を完璧にいれかえても、代わりになることなどとてもじゃないができない。

「……そっか」

 千草は画面を見て、少し固まった後に何か納得したようだった。

 千草はさっさと自分の分だけカップラーメンをすすって、そのまま眠りについた。茶色いテーブルの上にポツンとおかれた僕の分のそれを食べる気はしなかったけれども、せっかく準備してくれたのに食べないのは申し訳ないからかきこんだ。

 僕はめんどうだけどシャワーを浴びてから、千草の隣に体を預けた。

 もう、静かな部屋には寝息しか聞こえてこなかった。

【過去】

「大好きだよ。光誠くん」

 一通りの事を終えてから、僕と千草は布団をかけて裸のままで横になっていた。いわゆる賢者タイムというのだろうか、性欲に支配されていた思考はどこかへ消え去って、ぼんやりと電気をついていない電灯を眺めていると、隣に眠っている千草が体をこすりつけてきた。右腕がその柔らかさだけ感じていた。

「ありがとう」

 僕はその思いに応えてやろうと、千草の頭を優しく撫でてやる。黒い髪はサラサラで、上手く指が触れたところからするりと抜けて千草にできるだけ近くに寄せてやろうと、そんな風に動いている。その時の僕にはまだ、優しさがあった。

「ねえ、お願いがあるの」

 今ならこんな言葉が出た時点で露骨に嫌な顔をするだろうけど、僕はそれにも快く頷いた。それを見てから千草は、少しだけ躊躇って恥ずかしそうに言う。

「好きって、愛してるって言って」

 僕はきっと、その時は千草と体で愛し合ったことへの興奮と、処女膜を半ば無理やりに自分へと捧げさせた罪悪感があった。それが混ざり合って、僕はただただ千草の要求を受け入れざるを得なかった。そのために、声を出そうとする。

 だけど、それが上手く出てこない。ビー玉が詰まっているかのように言葉が、千草に対して好きだよという言葉が、愛しているという言葉が出てこない。その代わりに、口の奥でなんだか吐瀉物のような味がした。辛くて、痛くて、つらい。

「ちょっと、大丈夫? すぐに水を取ってくるから座ってて」

 千草がすぐに水を注いだグラスを持ってくる。

 その時の僕が、千草に愛していると言えなかった理由は、今も分かっていない。