【現実】

「今日はなんだか調子が悪いね、やっぱりしたくない?」

 千草がそう言うけれど、当たり前だ。人の葬儀に行った後で興奮する奴なんて人間じゃない。僕はつい先ほど、涙を流したことで自分にも人の感情がしっかりとそなわっていることを確認したばかりだから、そんな非道なことをしたくない。

「いや、そのままにしていてくれ。何も考えなくて済む」

 ただ、千草が目の前でそうしてくれていることで思考を放棄することができた。ただ、下半身に伝わってくる快楽に全身をゆだねて、惚けていることができた。結局、千草はずっと僕の元気がない男性器をしゃぶっていたけれど、それが彼女にとって幸せだったのかどうかわからない。僕を慰めようとしているなら、半分は成功だ。

 しかし、どうしても彩音の顔が思い浮かぶ。

 さすがに可愛そうだからしなかったけれど、できるなら彩音として愛したかった。

 千草の体を彩音と呼びながら、愛したかった。

「ほら、悲しいことは忘れちゃおう。どんどん飲んで」

 千草は裸のまま、台所へと向かい、ワインセラーから度数が二十パーセントを超える赤いワインを数本出してきた。どれもコルクは開けられており、いかに千草の母が適当な性格をしているかがよくわかる。部屋の中は大したものもなく、部屋自体も狭いのにそのワインセラーだけは豪華でひどく不格好に見えた。

 千草は母親に似て酒豪らしく、酔っても面倒にはならないのが理想的だ。普段がいちいちべたべたとしていて不快だと言うのはあるけれど、お酒の入った彼女はしまりがいい。それなら、僕も彩音を忘れて興奮できるかもしれない。

「じゃあ、いただきます」

 千草はグラスになみなみと注いだお酒をためらうこともなく、一気に喉の奥に流し込む。喉の付け根が大きくへこんで、胸が少しだけ上下した。深い緑色をしたボトルに入っているときには、ワインなんて黒くて美味しそうに見えないけれども、透明なグラスに注がれたその赤紫は、十分に魅力的だった。

 僕も千草に倣って、ボトルを手に取ると一気に喉へと流し込んだ。不味いアルコールの味が口から食道へ、食道から胃へ、そこから全身へと広がる。つんざくような痛みが走った。アルコールが、血管を通して体にしみわたり、体を支配していった。
 
 検査をしたわけではないけれども、僕もどうやらお酒に強いらしく気持ちが昂ることは無かった。初めてお酒を飲んだ時には興奮できたのだけど、それはおそらく未成年なのに飲酒をしているという高揚からくるものだったのだろう。慣れてしまえばどうということはない。だけど、この不味さが嫌な気持ちを塗り替えてくれる。

「美味しいね」

 千草はさらに瓶を開け、ワインをどんどんと流し込む。千草の母は、娘が飲酒をしていることに気づいているはずなのに、千草はお酒を飲むことに対して何も咎められたことがないらしい。自身が夜の仕事で生活していることを引け目に感じているようだと千草の目には見えるらしいけれども、そこはしっかりと注意をするのが正しいのか、それとも自由にやらせる方が良いのかなんて人を教育した事のない僕にはわからない。確かに言えることは、長峰千草は優等生だ。

 成績はどの教科でも学年で五本の指に入り、学校行事にも積極的に参加する。生徒会まではいかなくても、委員会などには所属してそれなりにこなす。部活動には参加していないけれども、どの先生からも評判の良い模範的な生徒だ。

 そんな人間が、僕の前ではまるで犬の様に腰を振り、ただただ僕から愛を求めて壊れていく。普段つけている優等生の仮面を外して、動物へと成り下がる。

 もしかすると僕も、彼女と性行為をするときにはこうなるのか、こうなってしまうのかと思いながらも、僕の局部はまるでワインのコルクが抜けるように精液を溢れださせた。その瞬間に、僕は彩音の笑顔を思い浮かべていたにも関わらず。

 千草はワインなんかよりもよっぽど美味しそうに、それを飲み込んだ。

「んふふ、ご馳走様」

【過去】

 その後ろ姿。白い浴衣、駆け出して小さくなっていくその背中。

 僕はそれを眺めながら呆然としていた。彩音が僕の下から去っていくような、寂しさを覚えた。それは事実としてこの場所から彼女が、僕の誘いを拒んで去ったというかそういうわけでは無くて、彼女の心が僕の元から去っていくようではあった。

「くそっ!」

 手ごろな石を掴んで、座ったまま放り投げる。だけど、そんな姿勢では狙いも定まらずに適当な木にぶつかってこつんと気の抜けたような音がした。

 ああ、僕と同じでこの木も空っぽなんだ。ただ、黒とピンクの欲望しかないんだ。

 そのことを自覚した。僕の彩音に対する信仰心は消えて、等身大の愛情だと思っていた。彼女のことを大切に思い、一緒にいたいという普通の感情だと思っていた。

 たまに放課後、他の人がする恋バナなんかをきいても、どこか先に行っているという自尊心と、ほほえましいと思う気持ち。さらに、自分が普通の人間でいうところの恋心を持っているのだと安心できた。僕と彩音を素直に重ねて描くことができた。

 でも、それは違うと思う。きっと、僕の気持ち。それに形があるのだとすればもっと汚れて曲がって歪んでいると思う。一般的な恋心を綺麗なピンクのハート形だとすれば、どこか虫食いがあるようにぼろぼろなのだ。ピンクのハートが欠けていた。

 それを、黒のインクで埋めていたのだ。水が十分に混ざっていない、どろどろの絵具。黒とピンクでハートを塗って、そこに水を撒いて表面だけをどろどろに混ぜたようなもの。だけど、その黒は失われてしまった。

 だからこそ僕は、そこを埋める方法を考えた。黒を塗らなければ、僕は壊れてしまうと思った。いずれは、彩音への愛すらも壊れてしまう気がした。

 それだけは避けたかった。僕は、彩音に一生の愛を誓ったのだから。

 そんな時に、彼女の名前がふと頭に浮かんだ。

「もしもし、長峰か」

 そのころから、長峰千草の家庭環境が荒んでいるとは知っていた。

 だからこそ、僕は千草に電話をかけながら駅へと向かった。

 彩音から、僕が千草に電話をかけている間に彼女から着信があったけれども、僕はそれに折り返すことはしなかった。何と言っていいのか、どう謝ればいいのか。無理に迫ったことか、それとも千草と会うことのどちらを謝るべきなのかも、その時の僕にはわからなかったからだった。そして、今も完璧にわかってはいない。

「急で申し訳ないんだけど。駅まで迎えに来てくれ」

 僕がそう言うと、千草が電話越しにものすごく弾んだ声を上げた。もしも音声入力ならば、音符マークが語尾についていただろう。僕はそれだけを彼女に告げると、もうほとんど人がいなくなった駅へと向かう。さっきまでは人がごった返していたのに、今は閑散としていてどこか寂しかった。駅の中の空調が体を冷やしていた。

 電車で三十分ほどかけて自宅の最寄り駅に戻ると、そこには千草が待っていた。彼女は白いワンピースに、濡れた黒く長い髪の毛。月明かりに照らされた彼女は、ひどく不格好だった。だけど、綺麗だった。初めて、彼女から背景から抜け出してきた。

 普通、黒髪の白いワンピースは夏の真昼間に向日葵畑を背景にするものだ。

 だけど、僕のためにおそらく風呂を上がった後にも関わらずにわざわざ服を着替えてきたこと。そのことが僕の征服欲というか、支配欲というかそれに近い感情を満たした。茶髪で明るい顔つきな彼女、ずっと憧れる対象で今もどこか引け目を感じるようなとは正反対だったけれど、そのときの僕にはそれが良かった。

「急にどうしたの? いきなり連絡をしてくるなんて珍しいね」

 知り合ってから一年と少し。その期間内に、僕から千草に連絡をすることは一度たりとも無かった。それは、彼女に対する申し訳ないという気持ちがあった。

 けれども、その決まりもすでに破られた後だ。一度、犯罪に手を染めた人間は、その先でもう一度犯罪を行うことに対して躊躇する心が著しく減少するように、一度でも決めたことを破ればなし崩しに壊れていく。ブレーキは、どこかに消えた。

「千草。家にいれてくれるか?」

「えっ? も、もちろん、いいけど」

 千草は顔を紅潮させて頷く。僕は、適当なところで彼女をまたせて最寄りのコンビニでコンドームとソーダを買った。それで喉を渇きを潤すけれども、やっぱり彼女の隣で飲んだラムネとは比べ物にならないほどに不味い。同じ飲み物のはずなのに。

 その事実が僕の心をわずかに引き留めたけれども、気づいた時には水気を取り戻した僕の唇が千草の唇に吸い付いていた。千草も何も言わずに、ただただ目を閉じてそれを受け入れていた。唇に張り付いた炭酸の泡がはじけた音がした。

 そのまま僕は、初めてを千草と終えた。不思議と罪悪感はわいてこなかった。