小学校の卒業ならば、たいていの人は同じ学区内にある中学校に進学するから問題はないけど、僕の場合は違う。県をまたいで、三人とは離ればなれになってしまうのだ。それは、もうどうしようもなく変わらない現実だった。
年明けにみんなで初もうでに行ったことも、地域の餅つきに参加した時も、彩音からバレンタインにハートの形をした手作りのチョコレートをもらったときも、これが最後になるのかもしれないと思うと、やっぱり悲しかった。
別に、隣の県なのだから、電車なら一時間もあれば移動できる距離ではある。だけど、高校生ならいざ知らず中学生にとって一時間をかけて電車で会いに行くというのはそう頻繁にできることでは無い。事実、卒業後は月に一度も会えればいい方で、ひどいときには半年ほど会えなかったこともある。
引っ越しは春休みの初日に決まった。卒業式が最後に会える日だと彩音に告げた。
「じゃあ、精いっぱいのおめかしをしてくるから」
卒業式を前に、僕は最後に体育館倉庫の裏に呼び出して、その悲しい事実をつとめて冷静に伝えた。彩音は泣きそうだけど必死にこらえて、精一杯の笑顔を顔に無理やり貼り付けてそういった。僕は、母が用意してくれたレンタルのスーツを着ることが決まっていたから、最後に晴れ姿で写真を撮ることができることを楽しみに、卒業までの時間を過ごした。その期間はあっという間で、ついに僕たちは卒業式を迎えた。
卒業式の日。みんな気分が高揚しているのか、いつもはぎりぎりに登校してくるクラスメイトたちも、しっかりと集合時間の十分前には教室に到着していた。みんなが好き勝手にワイワイと騒いでいるが、担任も今日だけは止めようとしない。女子の中にはすでに泣き出しそうな子も数人見かけた。僕も、あまり四人以外との関りは少なかったけれども、彼らとはもう会うこともないことを考えれば寂しかった。
廊下から、教室の内側を少し伺って、少し緊張しながらドアを開ける。かなりはりきっていたから、彩音も既に到着しているのだろう。覚悟を決める。
「おはよう」
そういいながら、僕はドアを開ける。その瞬間に、クラス全員から注目が集まったけれども、それぞれがまた各自の取っていた行動の続きを始めた。その中で、わずかに三人だけが、こちらに向かって歩み寄ってきた。そして、彩音から照れ臭そうに声をかけられた。声がした方へ視線を向けると、そこには着飾った彼女がいた。
「どうかな?」
「すごく、綺麗だ」
彩音を見て、感想を求められた時には僕の喉からするりと歯の浮くようなセリフが出てきた。キスをした日からずっと、恋人のように暮らしてきたけれども彼女の容姿について褒める言葉を伝えたことは無かったと思う。優しいとか、頭が良いと伝えるよりも照れ臭かったのだ。でも、この時だけは恥も外聞もなくクラスメイト全員の前で綺麗だと伝えることができた。あまりの美しさに、口以外は動かなかった。
「嬉しい。ありがとう」
彩音も素直にその言葉を受け取ってくれた。クラスメイトの数人がはやし立てるような声をあげたけれど、それも心地の良い背景音でしかなかった。
僕は来賓の挨拶も、校長の挨拶も、在校生の歌も全てを背景にして、卒業式の間をずっと彼女を目で追っていた気がする。その時の彼女ほど綺麗なものを、あれから五年ほど生きたけれども見たことがないし、この先の百年を生きても彼女がいないこの世でそれを見つけられる気がしない。きっと、そんなものは存在しないのだ。
そして、卒業式が終わる。卒業生は散り散りになって最後の友情を確かめる。先生との写真撮影会も白熱する中で、僕は式典の最中に彼女が送ってきたハンドサインに従って、誰もいない体育館倉庫裏へと赴いた。彼女の両親は、きっと慌てているだろうけど、この時間だけは僕の物でいてほしかった。
彼女の手が、僕の手に重なる。卒業式の日は、卒業式日和という言葉がよく似合うような雲一つない晴天で、正装には少し暑い。だけど、僕らはその暑さも気にせずに手を重ねて、体を抱きしめて、唇を重ねた。その瞬間に、彼女が泣き出した。
こらえていた堤防が決壊したかのように、ぼろぼろと涙が溢れだした。
それでも僕は、彼女を離さなかった。彼女の涙がまるでファーストキスをした時のように唇へと触れる。だけど、僕は彼女の涙もすべて味わいたくて、舌を伸ばした。
僕の唾液と彼女の唾液と、彼女の涙が交わり一つになる。頭はもうすでに真っ白で、彩音を力強く抱きしめた。彼女の着たドレスがくしゃっとゆがんだけど、それも気にせずに体を寄せる。体全体に、彼女の体温を感じる。
やがて、唇が離れると彼女は僕の胸に顔をうずめた。
「やだよ! いかないで!」
彼女は僕の胸で首をぶんぶんと振りながら叫ぶけれど、僕はそれをただ見つめていることしかできなかった。ポケットには念のためにとハンカチを入れていたけど、それを取り出すこともせずにスーツで彼女の涙をぬぐった。彼女の涙がシャツへとしみ込んでいく。だけど、それはまったく不快では無かった。
「ごめん」
僕はなんと言っていいのかわからずに、彼女にただ謝るだけだった。彼女はその言葉を、その悲しい事実を受け止めることもせず、嫌だと泣き続けた。
僕はそんな彼女を泣き止ませるために、魔法を使った。それは、いつものようにキスをするんじゃなくて、ただ抱きしめるわけでも無くて、小学生用のスーツではあるけど、そうでないと格好がつかない、魔法の言葉。
片膝をついて、彼女の手を取る。
「彩音」
この時に、僕は初めて彼女を名前で呼んだと記憶している。
彼女もそれに驚いていたようだった。
「絶対に、君のことを一瞬たりとも忘れたりはしない。ずっと好きでいる、それだけは約束する。だから彩音、僕たち、大人になったら結婚しよう」
今になって思いだしても、顔から火が噴き出しそうなほど苦しいセリフだけど、当時の僕にはそれが精一杯の愛情表現だった。何も確かなことはない、実際に僕と彼女が結婚をして一生と隣で添い遂げることは出来なくなってしまった。だけど、これが僕にできる最大の強がりだった。その時に伝えられる最大の愛の言葉だった。
彼女は、目を丸くしてキョトンとしていたけれど、やがて意味を理解すると再び大粒の涙を流してこちらへと飛び込んできた。僕は当然だけど片膝しかついていないからバランスなどとれるはずもない。地面についたほうの足が折れないようにするのが限界で、僕を下敷きにしてそのまま倒れこんでしまった。
彼女の顔が、まっすぐ近くにある。それがなんだか不思議で、おかしくて僕らは吹き出して大笑いした。結局、彼女は親の前でも泣き出して僕に向かって最後に抱き着いてきた。その時に両親の顔が見たことないほど幸せそうで、それにどこか申し訳なさそうだった。その時に来ていたスーツは汚れてしまったので、僕がためていたお年玉をはたいて購入した。思い出を買えたと思えば、苦にはならなかった。
彩音と、良太と、翼さんと僕で並んで撮った写真。彼女が泣きながら僕に抱き着いてきた写真。この二枚は、今でも写真立てに入って部屋の机に飾られている。
年明けにみんなで初もうでに行ったことも、地域の餅つきに参加した時も、彩音からバレンタインにハートの形をした手作りのチョコレートをもらったときも、これが最後になるのかもしれないと思うと、やっぱり悲しかった。
別に、隣の県なのだから、電車なら一時間もあれば移動できる距離ではある。だけど、高校生ならいざ知らず中学生にとって一時間をかけて電車で会いに行くというのはそう頻繁にできることでは無い。事実、卒業後は月に一度も会えればいい方で、ひどいときには半年ほど会えなかったこともある。
引っ越しは春休みの初日に決まった。卒業式が最後に会える日だと彩音に告げた。
「じゃあ、精いっぱいのおめかしをしてくるから」
卒業式を前に、僕は最後に体育館倉庫の裏に呼び出して、その悲しい事実をつとめて冷静に伝えた。彩音は泣きそうだけど必死にこらえて、精一杯の笑顔を顔に無理やり貼り付けてそういった。僕は、母が用意してくれたレンタルのスーツを着ることが決まっていたから、最後に晴れ姿で写真を撮ることができることを楽しみに、卒業までの時間を過ごした。その期間はあっという間で、ついに僕たちは卒業式を迎えた。
卒業式の日。みんな気分が高揚しているのか、いつもはぎりぎりに登校してくるクラスメイトたちも、しっかりと集合時間の十分前には教室に到着していた。みんなが好き勝手にワイワイと騒いでいるが、担任も今日だけは止めようとしない。女子の中にはすでに泣き出しそうな子も数人見かけた。僕も、あまり四人以外との関りは少なかったけれども、彼らとはもう会うこともないことを考えれば寂しかった。
廊下から、教室の内側を少し伺って、少し緊張しながらドアを開ける。かなりはりきっていたから、彩音も既に到着しているのだろう。覚悟を決める。
「おはよう」
そういいながら、僕はドアを開ける。その瞬間に、クラス全員から注目が集まったけれども、それぞれがまた各自の取っていた行動の続きを始めた。その中で、わずかに三人だけが、こちらに向かって歩み寄ってきた。そして、彩音から照れ臭そうに声をかけられた。声がした方へ視線を向けると、そこには着飾った彼女がいた。
「どうかな?」
「すごく、綺麗だ」
彩音を見て、感想を求められた時には僕の喉からするりと歯の浮くようなセリフが出てきた。キスをした日からずっと、恋人のように暮らしてきたけれども彼女の容姿について褒める言葉を伝えたことは無かったと思う。優しいとか、頭が良いと伝えるよりも照れ臭かったのだ。でも、この時だけは恥も外聞もなくクラスメイト全員の前で綺麗だと伝えることができた。あまりの美しさに、口以外は動かなかった。
「嬉しい。ありがとう」
彩音も素直にその言葉を受け取ってくれた。クラスメイトの数人がはやし立てるような声をあげたけれど、それも心地の良い背景音でしかなかった。
僕は来賓の挨拶も、校長の挨拶も、在校生の歌も全てを背景にして、卒業式の間をずっと彼女を目で追っていた気がする。その時の彼女ほど綺麗なものを、あれから五年ほど生きたけれども見たことがないし、この先の百年を生きても彼女がいないこの世でそれを見つけられる気がしない。きっと、そんなものは存在しないのだ。
そして、卒業式が終わる。卒業生は散り散りになって最後の友情を確かめる。先生との写真撮影会も白熱する中で、僕は式典の最中に彼女が送ってきたハンドサインに従って、誰もいない体育館倉庫裏へと赴いた。彼女の両親は、きっと慌てているだろうけど、この時間だけは僕の物でいてほしかった。
彼女の手が、僕の手に重なる。卒業式の日は、卒業式日和という言葉がよく似合うような雲一つない晴天で、正装には少し暑い。だけど、僕らはその暑さも気にせずに手を重ねて、体を抱きしめて、唇を重ねた。その瞬間に、彼女が泣き出した。
こらえていた堤防が決壊したかのように、ぼろぼろと涙が溢れだした。
それでも僕は、彼女を離さなかった。彼女の涙がまるでファーストキスをした時のように唇へと触れる。だけど、僕は彼女の涙もすべて味わいたくて、舌を伸ばした。
僕の唾液と彼女の唾液と、彼女の涙が交わり一つになる。頭はもうすでに真っ白で、彩音を力強く抱きしめた。彼女の着たドレスがくしゃっとゆがんだけど、それも気にせずに体を寄せる。体全体に、彼女の体温を感じる。
やがて、唇が離れると彼女は僕の胸に顔をうずめた。
「やだよ! いかないで!」
彼女は僕の胸で首をぶんぶんと振りながら叫ぶけれど、僕はそれをただ見つめていることしかできなかった。ポケットには念のためにとハンカチを入れていたけど、それを取り出すこともせずにスーツで彼女の涙をぬぐった。彼女の涙がシャツへとしみ込んでいく。だけど、それはまったく不快では無かった。
「ごめん」
僕はなんと言っていいのかわからずに、彼女にただ謝るだけだった。彼女はその言葉を、その悲しい事実を受け止めることもせず、嫌だと泣き続けた。
僕はそんな彼女を泣き止ませるために、魔法を使った。それは、いつものようにキスをするんじゃなくて、ただ抱きしめるわけでも無くて、小学生用のスーツではあるけど、そうでないと格好がつかない、魔法の言葉。
片膝をついて、彼女の手を取る。
「彩音」
この時に、僕は初めて彼女を名前で呼んだと記憶している。
彼女もそれに驚いていたようだった。
「絶対に、君のことを一瞬たりとも忘れたりはしない。ずっと好きでいる、それだけは約束する。だから彩音、僕たち、大人になったら結婚しよう」
今になって思いだしても、顔から火が噴き出しそうなほど苦しいセリフだけど、当時の僕にはそれが精一杯の愛情表現だった。何も確かなことはない、実際に僕と彼女が結婚をして一生と隣で添い遂げることは出来なくなってしまった。だけど、これが僕にできる最大の強がりだった。その時に伝えられる最大の愛の言葉だった。
彼女は、目を丸くしてキョトンとしていたけれど、やがて意味を理解すると再び大粒の涙を流してこちらへと飛び込んできた。僕は当然だけど片膝しかついていないからバランスなどとれるはずもない。地面についたほうの足が折れないようにするのが限界で、僕を下敷きにしてそのまま倒れこんでしまった。
彼女の顔が、まっすぐ近くにある。それがなんだか不思議で、おかしくて僕らは吹き出して大笑いした。結局、彼女は親の前でも泣き出して僕に向かって最後に抱き着いてきた。その時に両親の顔が見たことないほど幸せそうで、それにどこか申し訳なさそうだった。その時に来ていたスーツは汚れてしまったので、僕がためていたお年玉をはたいて購入した。思い出を買えたと思えば、苦にはならなかった。
彩音と、良太と、翼さんと僕で並んで撮った写真。彼女が泣きながら僕に抱き着いてきた写真。この二枚は、今でも写真立てに入って部屋の机に飾られている。
