それと同時に、こんな考えも頭によぎった。

―――このまま、何もなく転校していけばこれが最後じゃないのか?

 もちろん、卒業までに時間はある。だけど、それも人生という観点で見ればほんのわずかなものでしかない。いつまでも仲良しでいたいと思っているのはお互いにだということを僕は信じているけれども、それはいつ終わりを迎えるかわからない。

―――もしも彼女が、付き合う友人を変えてしまったら?

 良太も、翼さんも忙しくしている間に、新しい友人を作って僕なんて忘れてしまうかもしれない。近くの小学校から百人近くも新しい友達候補となる人間が同じ時間を同じ場所で過ごすことになる。そんな中で転校していった友人のことなど大事にしていられるだろうか。声も、香りも、顔も忘れられてしまうんじゃないだろうか。

 それよりも嫌な可能性。

―――もしも彼氏ができてしまったら?

 それは、友達として喜ぶことなのかもしれない。彼氏、彼女ができるという事は一般的に見れば好意的に受け止めて、祝福するべきことだ。それくらいの常識はわきまえている。すでに成熟の早い何人かのクラスメイトは青臭い交際のまねごとをして休日には自転車で校区を離れて、少しばかりのアバンチュールを楽しんでいた。

 だけど、僕はそうではない。僕にとっての彼女は、友人である前に崇拝の対象であり、そして愛していた。彼女のことを自分のものにしたいと、どろどろに汚してやりたいと思ったことは数えきれない。それは、動物としての正直な欲望だった。

 それと同時に、自分が彼女を独占してはいけないという狂気にも似た感情が浮かんできた。僕はいつも妄想の中で彼女と果てるたびに、今でも深い自責や後悔の念に襲われることがある。それほどまでに、僕は彼女に恋し、愛していた。

 そんな彼女が他の男によって汚されてしまう。これは、何よりも耐え難いことだった。想像するだけでもおぞましい。猟奇殺人の映像を、両目を開いてみていた方が百倍もましだと思えるほどに。汚い、それ以外のことが考えられなかった。

―――それならば、いっそのこと僕が汚してしまおう。綺麗な彼女を僕が汚く染めて、他の男が見向きもしないようにしてやろう。自分だけのものにしてしまおう。

 そして、二人で永遠に生きていこう。

 そんな考えが頭をよぎって、次の瞬間には僕は彼女の肩を掴んで引き離す。

「え?」

 彼女は驚いていた、当たり前だ。ああ、その顔も愛おしくて、次の瞬間には僕の唇が彼女の唇に触れた。柔らかい。この世の何よりも。彼女が泣いていたせいで、彼女の唇はきっと涙と鼻水が混ざってなんだか塩辛いけれど、それでも綺麗だった。

 そんな彼女を汚したのは僕だ。

 汚された後の彼女でも、僕の気持ちは欠片も変わらなかった。

 再び、唇をくっつけたまま体を抱き留める。彼女の涙はいつの間にか止まっており、驚きで目を大きく開いていたけれども、ゆっくりと目を閉じてくれた。僕は閉じた目からはみ出した涙を、右手の指先でそっと拾う。

 唇を通じて、彼女の体には汚れが広がる。僕の中にある愛と欲が混ざりきらないままに彼女へと注ぎ込まれた。白いはずの彼女は、黒とピンクが中途半端に混ざった色にどんどんと浸食されていく。それは悲劇でもあり、幸福でもあった。

 それと同時に、彼女の純粋無垢な優しさや温かさが僕の体へと染みわたっていく感じがした。口から食道へ、食道から胃へ、その先は血管へ流れて体中に温かみが増していく。鼻血の介抱をしてくれたときや、ノースリーブから乳房がのぞいた時とは違う。あのときの黒とは違って、白い温かみが血を穏やかにたぎらせた。

 ふいに、唇が離れた。それを、もう一度。しっかりと抱きとめる。今度は彼女の方から唇を重ねてきた。そして、背中へと細くて白い腕が回っていく。僕は、この瞬間が永遠であればいいと、死ぬまでこのままでいたいと願いながら彼女を離さなかった。だけど、それが叶わないと頭の中ではわかっている。

 だからこそ、悲しい涙が出てきた。その涙は、頬を伝って僕と彼女が重ねた唇に触れる。その味が不思議だったのか、彼女が目を開いた。

 彼女は最初、僕が泣いていることに驚いていたけれども、それを受け入れて彼女も泣いてくれた。それを見ていると、僕も涙があふれる。僕の涙と彼女の涙が唇の端で交わり、味がどんどんと変化する。この瞬間だけは、世界が滅んでも僕たちはこのまま二人で生きていけると、そんな何も根拠のない確信をすることができた。

 いつの間には夜になっていた。二人は、ベンチに腰かけていた。

「しちゃったね。ファーストキス」

 それから僕たちは、何度キスをしたかわからない。夕暮れがおわり、日が落ちるまでくっついては離れて、離れてはくっついていたと思う。周りで誰かが見ていてもおかしくは無かったけれど、そんなことは全く気にならなかった。

 僕の唇は彼女を求め、彼女もまた僕を求めてくれた。二人はいつまでも離れることなく、そして離れられないことを自覚してそれを認めているかのようにお互いがお互いを激しく求めあって、その熱を交換した。熱に愛のメッセージを託して。

「急に、ごめん」

「ん?」

 彼女はいたずらっぽく、続きの言葉を促すように首を傾げた。

「どうしても、我慢ができなかった。ごめん」

 その言葉を聞けて満足したのか、彼女は嬉しそうに言った。

 そして、空を見る。やっぱり、都会の空は何も見えない。

 きっと、流れ星だってみつかりやしないだろう。それでも、僕は鮮明にあの流れ星が横切った夜空を、この何も見えない寂しげな夜空に貼り付けることができる。それなら、きっと彼女とのことも忘れずにいられるだろう。

「声なんだって」

 彼女が、空に向けてそういった。

「何が?」

 彼女がそんな風に言うのは珍しい。いつでも、理解しやすいように言葉を選んでいるような彼女が、あえて問いかけさせていると思った。

「人間が、相手を最初に忘れちゃうの」

 そんなことは、初めて聞いた。だけど、確かに数年前に亡くなった祖父の声をもう覚えていない。顔も、祖父の作ってくれたお雑煮の味も覚えているのに、僕の名前を呼ぶ声は思い出せなかった。動画ではなくて、写真で再生されている。

「そうなんだ」

 僕は単調な返事をする。それ以外に何と言っていいのかわからなかったのだ。

「忘れないでね。あの林間学校で叫んだ言葉」

 あの言葉、ずっと仲良しでいられますようにという願い。その言葉を、一瞬たりとも忘れたことはない。ずっと深く僕の胸、その最奥に刻まれている。きっと、この先も忘れることは無い。神様だって、何にだって誓う。

「もちろん、絶対に忘れないって約束するよ」

「本当に?」

 彼女はまた、いたずらっぽく笑う。えくぼが、ひどく魅力的だった。もう一度抱きしめて、このまま押し倒してしまおうかと思うほどだった。

「約束するよ。僕は、あの時の言葉と声を忘れたりしない」

 そう力強く言った。やっと、僕の理想とする強い人間になれた気がした。

「そっか、じゃあ。もう一つだけ、忘れないでいてほしい言葉があるんだけど」

「何?」

 そう言った僕の隣に、彼女は体を寄せて来る。僕はびっくりして反対方向へ避けようとしたけれど、重力よりも引力よりも強力な力で体が繋ぎ止められた。

「好きだよ」

 彼女は僕の耳元でそう言って、ほっぺたにそっと唇をくっつけた。それは勢いのあまりにぶつかったという方が正しいかもしれないけれど、二人ともなんだかロマンチックすぎて照れてしまう。夕焼けよりも赤く、そして淡く。

「じゃあね。バイバイ」

 顔を赤くしたまま、彼女は手を振って去っていった。僕は約束通りに、その言葉と声を今でも覚えている。まるで昨日の事の様に、頭の中で再現できる。