竹光侍 浪人・橋本清十郎

 越後屋を後にした清十郎は、上機嫌で長谷川町へ戻ってきた。
右手には立派な千両箱。
もっとも、中身は空である。
だが本人はまるで宝物でも手に入れたかのように嬉しそうだった。
「これは良い箱だ」
歩きながら何度も眺める。
「頑丈そうだし、傘張りの道具を入れるには丁度良い」
すれ違う町人たちは不思議そうな顔で見ていた。
 やがて甚兵衛長屋へ着く。
しかし清十郎は真っ直ぐ自宅へ帰らなかった。
向かった先は同じ長屋に住む大工、熊吉の家だった。
「おーい、熊吉!いるか?」
しばらくすると戸が開く。
「おう!竹光の先生!どうしたんでぇ?」
熊吉は威勢よく顔を出した。
その後ろから妻の妙も顔を覗かせる。
清十郎は待ってましたとばかりに千両箱を掲げた。
「用心棒の依頼の報酬としてもらったんだ」
熊吉は目を丸くした。
「な、何だって!?」
千両箱を見る。
見る。
もう一度見る。
「ちょ、ちょっと持たせてくれねえか?」
「別に構わんぞ」
「こんな大金、一生拝めそうにねえからな!せめて千両の重みってやつを味わってみてえ!」
その言葉に妙も飛び出してきた。
「千両!?」
熊吉は興奮しながら箱を受け取る。
しかし。
「あれ?」
首を傾げた。
「軽くねえか?」
箱を揺する。
音がしない。
嫌な予感がした。
熊吉は恐る恐る蓋を開ける。
中は見事なまでに空っぽだった。
「何でえ!空じゃねえか!」
清十郎は平然と答える。
「用心棒の仕事で千両ももらえるわけあるまい。報酬は箱だけだ」
一瞬の沈黙。
そして。
「ぶははははは!」
熊吉が腹を抱えて笑い出した。
「そりゃそうか!竹光の先生が用心棒で千両ももらえるわけねえわな!」
妙も大笑いしている。
「もう!びっくりさせないでよ!」
清十郎は満足そうに頷いた。
「ちゃんと金子で報酬をもらったら、近いうちに飲みにでも行こう」
「そいつは楽しみだ!」
熊吉は笑いながら手を振った。
清十郎も手を振り返し、自宅へ戻る。
 もっとも、このやり取りには別の意味もあった。
もし千両箱をそのまま家へ持ち帰れば、長屋の者たちは当然こう思うだろう。
橋本先生の家には千両がある。
そうなれば押し込み強盗を呼び込む原因になりかねない。
そこで清十郎は、あえて熊吉と妙に見せたのである。
特に妙は長屋一のおしゃべりとして有名だった。
今日の話など夕方までには長屋中へ広まる。
そして明日には近所中へ知れ渡る。
その結果、
橋本先生は千両箱を持って帰ったが中身は空。
という噂だけが残る。
実際、これまでも同じ方法で様々な噂を流してきた。
腰の刀が竹光であることもその一つである。
熊吉に見せる。
熊吉が妙へ話す。
妙が世間へ広める。
それだけで良かった。
案の定、妙は早速長屋中へ話し始めていた。
 清十郎が自宅へ戻ると、千代が出迎えた。
「おかえりなさい」
「今戻ったぞ」
千代は父の抱えている千両箱を見るなり目を見開いた。
「その千両箱、どうしたの!?まさか盗んだんじゃ……!?」
清十郎は呆れた顔になる。
「盗んだものをこんなに堂々と持って帰ってくるわけなかろう」
そして箱を床へ置く。
「そもそも俺が盗みなどするわけなかろう。これは用心棒の報酬だし、そもそも箱だけだ」
そう言って蓋を開ける。
千代は中を覗き込んだ。
「本当に空っぽ……」
「だから言っただろう」
「報酬が箱だけなの?」
「そうだ」
清十郎は満足そうに頷く。
「傘張りの道具を入れるのに前々から欲しかったのだ」
そう言うなり、早速道具を詰め始めた。
千代は半ば呆れている。
「今度の仕事はどんな仕事なの?」
「蕨の宿場から日本橋までの荷物の護衛だ」
「危なくない?」
「他に腕利きの用心棒が二十人程いるらしい。たいして難しい仕事ではない」
清十郎は気楽そうに答えた。
千代は少し安心したようだった。
「危険な仕事じゃないなら良いけど……」
そう言いながら夕飯の支度を始める。
台所から包丁の音が聞こえてくる。
清十郎は新しく手に入れた千両箱を眺めながら満足そうに頷いた。
「やはり良い箱だ」
その姿は、これから盗賊団との戦いへ向かう男には到底見えなかった。